高慢すぎる英国貴公子、世界旅行をするも友に逃げられ、その顛末

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一 だれもこない


「遅いな。待ち合わせは今日のはず――だったよな、イアンソン」
 わが従者はさっと懐からメモ帳を取り出し、すばやくめくった。
「さようでございます、若旦那さま。お手紙だけでなく、念のために昨日、電報を打ちましたから、ご存じないはずはありません」
 オスカーはステッキを握りしめ、その先端をニューヨーク行きの時刻表に向ける。そして懐中時計を見た。貼りだされた出航時間まであと一時間を切ったところだ。早く乗船しないと、グレート・アイリーン号が旅立ってしまう。
 国際港の待合室をぐるりと眺める。知らない老若男女の乗客と、荷物運びのポーターが見えるが、知り合いはひとりもいない――と思ったら、大きな声で自分を呼ぶ者がいる。
「ウォリック子爵はいらっしゃいますか!」
 まだ少年の域を抜けない従業員のボーイを、イアンソンが呼び止める。
「ここだ、ここ。ウォリック卿にどのようなご用が?」
「今しがた届いた、電報を持ってまいりました。二通ほど」
 イアンソンが受け取ったのを、オスカーは奪い目を通す。
「なになに。グレイのやつは急病で、フォックスは伯父が危篤か」
「おふたりともご旅行をキャンセルされたのですか?」
「らしいな。とんだ偶然だ」
「では、ご旅行は中止ですね」
「……」
 オスカーは見た。イアンソンのやつが、ほんの少し笑みを浮かべたのを。
――おまえも旅行に行きたくなかったのか。
 どいつもこいつもあいつもそいつも!
 肝心なときに、彼らは適当な理由をつけて逃げる。一度や二度ではない。寄宿学校で集団生活を始めた少年時代からよくあることだった。
 旅行かばんとトランクをポーターから引き取ったイアンソン。ロンドン行きの汽車に乗りましょう、と聞いたとたん、オスカーは言いようのない屈辱を感じた。
「旅行は決行するぞ! 荷物を船内に運ばせろ」
 イアンソンは目を丸くする。
「ええ? おひとりで旅をされるのですか?」
「おまえがいるだろう」
「わたくしはただの従者でございます。若旦那さまを楽しませるような機智はございません」
「いないよりましだ。とにかく、手ぶらで帰ればいい笑いものだ」
「ご事情があるのですから、だれもお笑いになられませんよ」
「いいや、腹のなかを見せないだけだ。せめてニューヨークぐらい行かないと、話題のひとつもないだろうが」
「はあ、さようでございますか……」
 明らかにイアンソンは不服そうだったが、それ以上、反対しなかった。
 サウサンプトンの埠頭にはフロックコート姿の紳士と、同伴する黒いドレス姿の淑女がいたが、だいたいは貧しい身なりの庶民だった。
 荷物を預かったポーターがタグボートに運び、いくつもの郵便袋といっしょにオスカーは乗った。海上には大きな客船――グレート・アイリーン号の優美な姿が見える。黒い船体の上にクリーム色の三階建ての部屋が乗り、その上を三本の巨大な煙突が立つ。黒い煙を豪快に吐いていた。
 その大型客船は最新の機械で動いており、蒸気の力で巨大なふたつのスクリューを回す。万が一片方が故障しても、もうひとつのスクリューがある。荒波の大西洋を横断するにふさわしい力強さを備えていた。
 客船の下までタグボートが到着すると、タラップが下りてきた。それを上がって、グレート・アイリーン号の甲板に足を踏み入れる。どっと潮風が吹き、オスカーの全身を洗うようにすぎていった。
――いよいよ、旅立ちか。
 大した喜びはなかった。それどころか、ニューヨークまで十日近くかかる船旅に気が滅入る。
 そもそも旅行そのものが好きでなかった。目的地までの移動が退屈で耐えられないからだ。いつもの自分だったら、友人ふたりがキャンセルした時点で、旅行を中止したはず。
 だが、今回はみやげ話がないまま、帰るわけにはいかない。
――あの偽善野郎だけには笑われたくない!
 偽善野郎とは六歳年下の妹と結婚した義弟、ブランドン・リスターのことだ。彼は貿易商会の御曹司で、莫大な富を使って伯爵令嬢クレアを娶った。要するに政略結婚だ。リスター家はわがスプリング伯爵家と親戚になったことで、念願の爵位授与を狙っている。
 だが、リスター家が新興貴族の仲間入りをするのはむずかしいだろう。会長であるリスター氏はやり手の商売人として有名だ。富を得るために、あらゆる手を使ってライバル商会をいくつも潰し、南西地方の貿易を独占したのだから。心良く思っていないブルジョワや上流階級の人間が大勢いるはず。
 その会長の息子であるブランドンは、女性に好かれた。背が高くハンサムで甘い声、そして決定的なのが優しい物腰。穏やかで社交的で非の打ちどころがないほどだ。
 そのぶん、裏の顔は計算高い。損得勘定を常に考え、妹令嬢クレアと婚約したにも関わらず、べつの令嬢と交際していた。愛人にするつもりだったようだが、弱味を握っている今、やつが愚かな選択をすることはないはず。
 いや、そもそも、義弟の恋人を令嬢と言っていいのかどうか。
 准男爵家の当主として性別を偽っている、あの女。ありえないほど非常識だ。もし世間に正体を知られたら、かつてないほどの一大スキャンダルになりかねない。
 たしかに声といい背格好といい、男性らしくないと思っていたが、まさかという気持ちが強かった。オスカーは性別を疑わなかった。病弱のためだと信じていたのだ。
 だから彼女が、紳士だけが集う女子禁制のクラブに入りたい、と手紙を書いたとき、快諾した。すぐに会員たちに根回しして、全員一致の投票で入会させた。その自分の親切を、彼女が裏切ったのが許せなかった。
 オスカーはデッキに肘を乗せ、だんだん小さくなっていく大ブリテン島を見つめた。白色の岸壁を青灰色の波が洗う。空は薄曇りで、夏の乾いた風が心地よい。
「くそう。なぜ、この私が傷心にひたらなくてはならない?」
 あの日から脳裏に浮かぶのは、ひどく自分を恐れるあの女の顔――。
 腹立たしいあまり、男の格好をした彼女を殴ってしまったのだが、あとで後悔した。自分でもなぜ、悔やんでしまうのかわからない。
 しかしあのとき選択した行動が、決定的に彼女を遠ざけたし、自分もそのつもりだった。
――ご婦人は苦手だったはずなのに。
 今までたくさんの令嬢と社交界で知り合ったが、だれひとり心を動かせなかった。それどころかつまらない世間話のせいで、いっしょにいるだけで不快になる。男友だちといっしょにいるほうが、はるかに気楽だ。もちろん、結婚なんてごめんだ。
 でも…………。
 初めて感じる戸惑いに、オスカーはいらだつ。
 懐からシガレットケースを取り出し、マッチで紙煙草に火をつけた。


 初日は晴天に恵まれ、波も穏やかだったが、二日目は天候がひどく荒れた。昼間だというのに空は黒く、雷鳴が轟く。氷混じりの雨が甲板を叩きつけた。
 波が高くうねるたび、船内の一等船室にいるオスカーの身体が上下に揺れた。あまりにも激しく、まともに立っていれない。ベッドの柵につかまり、無事に到着するのをひたすら神に祈った。
――やっぱり旅行は中止すべきだった!
 従者のイアンソンは船室の壁についている真鍮の手すりにしがみつき、げえげえ吐いていた。洗面器を置こうにも、揺れがひどいあまり、ひっくり返って床をすべっていく。
 三日目も嵐はおさまらない。まるで地獄の底へ旅立っているような錯覚におちいる。船酔いで頭痛と吐き気と倦怠感と胃のむかつきが同時に襲い、生きた心地がしなかった。
 少し何かを食べれば船酔いがおさまるかもしれない、と思ったオスカーは手すりにつかまり、這うようにして一階の食堂へ向かった。イアンソンは自分以上に弱っているから、部屋にそのまま放置しておく。船内の従業員や水夫たちは慣れているらしく、ひどい揺れのなかを右往左往していた。
 ふらつきながら食堂に入る。すでに昼食をとっている客たちがいて、こぼれながら揺れるスープを慣れた手つきで飲んでいた。隣のテーブルで楽しそうに談笑している。
 三人組の中年紳士の会話が聞こえる。
「今日も良い天気ですな」
「ははは! 最高の航海ですよ。三年前の大西洋横断に比べたら、かわいいもんです」
「そうですね。なにせスクリューがふたつある大型外洋船ですから。片方がぶっ壊れても、無事たどりつける保証があります」
「安心感がちがう。昔の旅行は大変だったな。今の若者がうらやましい。軟弱でも旅ができるのだから」
 と、彼らの視線が、テーブルでうつ伏せになったオスカーをとらえた。忍び笑いが聞こえる。どうやら旅慣れた連中らしい。
――嫌味か、あいつら?
 面白くない。しかし皮肉を言い返す気力がなかった。
「お客さん。スープとパンでいいですか?」
 少年の声が頭上からした。
「それで」
「かしこまりました」
 三分もしないうちに、ボーイがもどってきた。オニオンスープとロールパン、紅茶をテーブルに置く。バナナやリンゴもついていた。
 オスカーは顔を上げ、スプーンを握り、吐き気をこらえながらスープを口にした。昨日から何も食べてない。空腹のはずなのに、身体が受け付けない。
――だめだ!
 立ち上がり、胃の中のものを出すため、甲板へ出ることにした。しかし、ボーイに腕をつかまれる。
「お客さん、よしな。外は嵐ですよ」
「……どけ」
「おれが洗面器を持ってくるから。無理しないでください」
「みっともないだろうが」
「波に呑まれて、海に落ちてしまいます」
「……」
「かっこつけないほうがいいよ」
「ガキが指図をするな。私をだれだと思っている?」
 ボーイは笑みを返した。
「何がおかしい?」
「おれに憎まれ口を叩くぐらいなら、だいじょうぶですね。もう少ししたら、船酔いに慣れます」
「そうなのか?」
「はい。たくさんのお客さんを見てきました。おれが保証します」
 その言葉にオスカーは安堵した。果てしなく続く船酔いに気が滅入ってたまらなかったのだ。
 同時に食欲がわいた。一気にスープを流しこむ。パンをかじり、紅茶を飲み、バナナとリンゴを平らげた。不思議なことに船酔いが消えた。
 おのれの腕をつかんだあのボーイは、ほかの客の給仕に忙しそうだった。ひと言礼を告げたかったが、呼び止めるのに気が引けた。
 そして違和感を拭い去れない。
 くすんだ金髪に青い瞳の少年。そばかすだらけの頬が印象的だ。どこにでもいそうなアメリカ英語訛りの労働者だが。
 なぜだかわからないが、オスカーはボーイの姿を目で追いかけずにいられない。
――内股になる歩き方。燕尾服に包まれた身体のライン。肩幅。柔らかい顔の輪郭。それに澄んだ声……。
 既視感があった。
 そうだ。雰囲気が似ている。性別を偽り、准男爵としてすごしているあの女に。
 黒髪の彼女のような美しさはなかったが、男装令嬢の存在を知っている今、同類を見抜く自信はあった。


 航海、四日目。
 ようやく穏やかな海がもどった。昨夜までの揺れが嘘のようにおさまる。聞こえてくるのは嵐でなはく、規則的なスクリューのエンジン音だった。
「よし、甲板で散歩をするぞ!」
 久々の快晴にオスカーは心躍るのだが、従者イアンソンは真っ青な顔をしていた。
「……若旦那さま。申しわけございませんが、わたくしは本日も動けません」
 そして二段ベッドの上で、ぐったりと横になった。声をかけても返事がない。まだ船酔いが続いているらしい。
「まったく、役立たずの男だな……」
 呆れながら甲板に出て、思いっきり背伸びをした。自分と同じように、一等船室の紳士淑女が甲板に出て、どこまでも続く青い海を見つめている。たくさんのカモメが鳴きながら、頭上を過ぎ去っていった。
 夏とはいえ、大西洋の澄んだ空気は肌寒かった。北寄りの航路をとっているため、北極海が近い。
 気分が晴れたオスカーは、適当な紳士連中を見つけ、声をかけた。なぜ旅をしているのかをたずねる。旅行はもちろん、親戚や友人に会うため、仕事の行き帰りなど理由はさまざまだったが、自分が目的を告げると、だれもが「うらやましいですな」と答える。
「世界一周を旅しているんですよ」
「へえ! とんだ贅沢ですね。上流階級の御仁ですか」
「父はスプリング伯爵です。みな、私のことをウォリック卿と呼んでおります」
「おお、貴族の方でしたか! どうりで身なりが洗練されているはずだ」
 とくに驚くのはアメリカ人だった。かの国に身分制度はなく、貴族は存在しない。こうして話す機会など、富豪でないかぎりめったにないのだ。
――でも、その資金は義弟のブランドンからなんだけどな……。
 性別を偽って准男爵になっているあの女。義弟は彼女の秘密を知っていた。その件の口止め料だった。それでも、アメリカ人たちが素直に驚くのが愉快でたまらなかった。
 昼食の時間になった。
 寝たきりのイアンソンを部屋に置いて、食堂に入る。波が穏やかになったため、たくさんの客人たちがテーブルにいた。そのなかに世間話をした紳士たちがいて、こちらを見るなり丁寧にあいさつをしてくる。昨日、船酔いした自分を笑った三人組も、にこやかにあいさつをした。
 昨日とはまるでちがう態度に、辟易せずにいられない。
 だから言ってやった。
「きみたち。ずいぶん旅慣れているようだね。私はこのとおり、世間知らずでね。船酔いして困っている旅人を、あざ笑う作法すら知らなかったよ」
 強烈な皮肉に、三人組は苦い笑みを返す。謝罪こそなかったものの、中年らしいお世辞を言った。
 それを聞き流しながら、さらに追撃する。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私はオスカー・ジョン・ローレンソン。父はスプリング伯爵で、私はウォリック子爵だ。きみたちは?」
 しぶしぶ三人組は自己紹介するのだが、縁もゆかりもない中流階級の紳士だった。どこかでつながりがありそうならば、社交界で仕返しをするところだ。
「残念だなあ。もし知り合いの知り合いだったら、夜会に招待してやったのに。うん、と歓待してやるぞ。たっぷりとね。まあ、同じイギリス人なんだ。ロンドンで会うこともあるさ」
 とんだ相手をからかったものだ、と三人組は目を合わせて卑屈な笑みを浮かべていた。あのようすだと、あとで盛大な陰口を叩くにちがいない。
 いつものことなので痛くもかゆくもないはずだったが、意外な人物が口を挟んだ。
「お客さん。せっかくの食事がまずくなります。つまらないことで、威張り散らさないでください」
 そばかす顔のあのボーイだった。不愉快そうに眉根を寄せている。
「きみには関係ないだろうに」
「あります。ここは楽しくお食事をする場。長い船旅のゆいいつの楽しみでもあるんです。空気を悪くするような態度はお控えください」
 ただのボーイ――いや、女ごときに命令されるとは。
 あまりの不遜さに、オスカーはむっとした。
「私をだれだと思っている?」
「オスカー・ジョン・ローレンソン。伯爵令息ウォリック卿」
「正解。身のほどをわきまえろ」
「だからそういう態度が、その場にふさわしくないとおれは言いたいんです」
 まったく動じない相手にいらだち、テーブルを叩いた。
「きさま女のくせに。生意気だぞ」
「……」
 図星だったのだろう。ボーイの顔がたちまち青ざめた。
「おれは女なんかじゃありません!」
 それだけ言い残し、ボーイは食堂を去った。オスカーが食事を終えるまで、彼――いや、彼女は姿を現さなかった。


 五日目。従者イアンソンはいくぶんか回復したものの、奉公勤めをするには体力が落ちていた。仕方なくオスカーは彼に軽い食事を与えたが、げえげえ吐いてしまう。二段ベッドで休むよう言いつけるしかなかった。
「お役に立てず申しわけございません」
「いいさ。船旅は船酔いがつきものだ」
 そう言ってやるが、内心はべつだった。
――旅行が終わったら父上に言いつけて解雇してやる。
 あまりにも使えない召使を選んでしまった、おのれが腹立たしい。若者だから体力があると判断したのだが。
 甲板に出て煙草を吸う。今日はだれにも話しかけなかった。昨日の昼食時、男装したあの女給仕の忠告がこたえていたのだ。
――私がいれば空気が悪くなる、か……。
 周囲がかしこまるのは当然だと思っていたが、他人から率直に注意をされたのは初めてだ。少年時代から自分の身分を明かすと、だれもがへりくだるのが日常だった。
――ニューヨーク見物をすませたら、とっとと帰国するか。
 従者は使えないし、旅の道連れはいないし、すっかり予定がくるってしまった。まだ屋敷でのんびりしていたほうが気楽だ。まったく面白くない。
 ひとり旅の今、ほかにすることがなかった。オスカーはぶらぶらと甲板を歩き、船内にもどる。一階にある遊技場へ足を踏み入れる。そのなかにはカジノもあったが、金を使うのはやめた。ニューヨークでたくさんおみやげを買って自慢したかった。
 踊り子が舞う劇場の開演は夜だし、図書室で読書をするには揺れがじゃまだ。
 結局、ひまつぶしすら見つけられず、ぼんやりと海を見つめるしかなかった。
 甲板の手すりにもたれかかっていると、子供たちのにぎやかな声が耳に入る。下から聞こえる。食堂や船室の廊下ではほとんど子供を見かけなかったのだが。
 気になり上体を折り曲げてのぞきこんだら、信じられない光景があった。船倉の窓という窓から、大勢の子どもたちが身を乗り出してはしゃいでいたのだ。どこにそんな数の乗客がいたのだろうか、と驚くほどたくさんの手や顔が見える。
 共通しているのはどの子供たちの顔も薄汚れ、身なりは貧しい庶民のそれだった。
――へえ。あれが三等船室の乗客か!
 日ごろの生活では、身なりを調えた使用人以外の庶民を見ることはまずなかった。
――どんな具合なのか見物してみようか。
 退屈さのあまり、いつもの自分らしくない好奇心に突き動かされ、オスカーは階段を下りていった。一等と二等船室のある廊下からは行けないため、いったん従業員用の通用口に入り、機関室の前を通る。熱気があった。かなりの高温だ。
 もうもうと黒い煙がこもり、硫黄の臭いが鼻をついた。粉塵が大量に舞い、咳が出る。ハンカチで鼻と口をおさえないと通れないほどだ。
 そこは膨大な石炭を燃やす炉があり、大型客船の蒸気動力を担っていた。蒸気船が巨大になればなるほど、膨大な量の石炭を燃焼させなくてはならない。かなりの重労働である。機関室から出てきた火夫の顔は、だれもが見事に煤けていた。服も炭色だ。どの顔も疲れて切って、汗くさかった。
 火夫はオスカーと目が合うなり、無表情でそらす。あいさつはなかった。彼らは甲板へ出て新鮮な空気を吸うため、階段を上がっていく。
 機関室に驚いたが、目的地はさらに下の三等船室だ。
 オスカーはさらに階段を下り、薄暗い船倉に入る。そっとなかをうかがうと、さらに想像以上の光景が待ちかまえていた。
 狭い部屋には老若男女が詰めこまれている。ベッドはない。床の上で雑魚寝をしているのだ。小さな台所には吐瀉物が散らばり、酸っぱい腐臭を放っていた。丸い窓にはさきほど甲板から顔を出していた子供たちが群がる。元気な子供とは対照的に、大人たちは疲れた顔で世間話やトランプをして時間を潰していた。
 べつの三等船室を覗いても、変わらなかった。一等船室とは雲泥の差である。彼らが上階の食堂を利用したり、甲板に出て散歩をするのは禁じられていた。あまりの格差に無理はないと思った。
――こんな狭苦しいところで、一週間以上も暮らすのか……。
 自分だったら耐えられない。
 見ないほうがよかったとため息をつくと、銅鑼の音が鳴った。わっと人々が台所へ集まる。
「みなさん。お食事の時間です。順番にお並びください」
 大きなブリキのバケツとお玉を持ったボーイがやってくる。オスカーはドアの裏に身を隠した。ボーイは皿を手にした客たちに、一杯のスープと固い一切れのパン、そして茹でたジャガイモを配った。
 あの生意気な女給仕だった。
 彼女は子供たちの番になると微笑むのだが、ふと気配を感じたのだろう。ふと後ろを向く。三等船室の出入り口の隅にいた自分と目が合った。
 それは一瞬だった。何ごともなかったかのように、彼女はおのれの職務を遂行した。
 オスカーが一階に上がり、昼食を終えて、甲板で海を見つめていたら、背後から声をかける者がいた。
「お客さん。冷やかしに三等船室へ入らないでください。もし気の立った荒くれ者がいたら、殴られていたかもしれませんよ」
 ふり返ったオスカーは手すりに背をあずける。
「そうか。二度とするつもりはないから安心したまえ」
 生意気な女給仕をにらみつけてやる。ことあるごとに注意してくるのが気に食わなかった
「わかってくださればいいんです。もし、お客さんに何かあれば大変ですから」
「私の身を案じているのか?」
「もちろんですとも。すべてのお客さまが無事、気持よく船旅を終えられるようにするのが、おれたちの使命です」
「三等船室の連中がお客さまねえ……。あまりにも待遇が悪いじゃないか」
「ええ。格安の船賃ですから無理はありません」
「ずいぶんと割りきった発言だな」
「仕方がないでしょう。ほかにどう答えればいいんです?」
「……」
 燕尾服姿の彼女は挑発的な視線をよこす。
 が、すぐに無表情にもどると、さっと背中を向けた。
「おい、まて」
 なぜだかわからないが、手を伸ばしたオスカーは女給仕の腕をつかんだ。
「お客さん?」
 不審いっぱいのまなざしが返る。
「いや、その。なぜきみはボーイとして働いている?」
「おれの勝手です。関知しないでください」
「私は知りたい。友人だった男が、そのえっと。ご婦人だったんだ」
「え?」
「それが許せなくて絶交したのだが、ずっと心にひっかかっていてな。だからきみなりの理由を知りたい」
 しばし沈黙が流れる。
 たがいの目を見て、彼女は判断したようだ。返事があった。
「いいよ。今は忙しいから、空き時間になったらあなたの部屋へお伺いします」
 そして足早に甲板を去っていった。


 彼女がオスカーの船室をノックしたのは、午後十時をすぎたころだった。なかへ入るなり、彼女は言った。
「連れの方がいらしたのです?」
「私の従者だ」
「ずいぶん具合が悪そうですね」
「船酔いが治まらなくてな」
 ロビンソンはまともに食べないまま、まだベッドで伏せていた。声をかけるが返事はない。
「まったく。役立たずめ」
 うんざりするオスカーだったが、彼女はちがった。
「医者を呼びましょう。このままでは危ないかもしれない」
「たかが船酔いだろう」
「まれに船酔いがひどいお客がいるんです。放っておくと衰弱死してしまうかもしれません」
「まさか。まだ二十歳の若者なのに」
「年齢は関係ないです。従者だからと思って、放置しておいてはだめですよ」
「また注意か」
「不満はあとでたくさん言ってください。この船から死人を出すわけにはいかないんだ」
 そう言い終わらないうちに彼女は船室を出、船医を連れてもどってきた。すぐに診察が始まり、極度の脱水症状だと言われた。船に乗ってまる五日間、飲まず食わずだったのだから当然だった。
 注射をされたイアンソンはようやく吐き気が落ち着いたのか、紅茶を飲んでふたたび眠った。さきほどまでの苦しみは顔になかった。
「よかった。これでニューヨークまで無事に行けるよ」
「ああ……」
 オスカーは安堵する反面、この女がいつも正しいことが不愉快だった。
――女のくせに、なかなかやるな。
 長いこと客船で仕事をしていたのだろう。見かけによらずたくましい。嵐の日だって、平気な顔をして働いていた。
 ふたりでひと気のない甲板に出ると、さっそくたずねる。
「きみはいつから客船のボーイとして働いている?」
「六年前だったかな」
「なかなか長いな。そのあいだ、ずっと男として?」
「うん。そのほうが好都合だからね。女だと給金が男の半分しかないんだ。男以上に働いても、メイドや女工だと生活できない」
「結婚をして主婦になればいいだろうに」
 彼女は苦い笑みを浮かべる。満天の星空の明かりでも、はっきりとわかるほどの。
「……そうだね。それができればいいんだろうけどね」
「何か事情が?」
「結婚なんてしたくないんだよ。男の言いなりになるのはごめんだ」
「言いなりになるほうがらくじゃないのか」
「らくなものか。あれをすると思うだけで、身震いする」
「あれ?」
 彼女はそれ以上、答えなかった。オスカーが問いかけても、固く口を閉ざす。
「おい、女」
「女じゃない」
「しかし男ではなかろうが」
「ジャックでいいよ。みな、そう呼んでる」
「ジャックか。本当の名は?」
「ジャクリーンだよ。ジャクリーン・ケンブル」
「では、ジャック。きみがボーイでいるのは、結婚したくないからだね。なかなか興味深い回答をありがとう」
――准男爵をかたっているあの女と変わらないな。
 黒髪の彼女は、女子だと相続できない財産を守るためだった。相続権のある親戚に嫌われているのだから、母と娘だけになると屋敷を追い出され無一文の生活がまっている。事情はわからないではない。
――しかし私の知っている令嬢たちは、だれもが眼の色を変えて夫探しをしているのになあ。
 不可解な存在の彼女に、オスカーは紙煙草を一本手渡してみる。
「おれに? ありがとう」
「吸うのか?」
「前はね。みんなそうしていたから、吸わないと不自然だろう?」
「客船で働く前の話か」
「ああ。あそこはライバルばかりだったから。おれは女みたいだからって、初めはバカにされたもんだよ」
――女みたいって、女じゃないか……。
 呆れるオスカーだったが、ジャックはうまそうに煙草を吸った。吐いた煙が夜の闇に溶けて消える。
「前はどんな仕事をしていたんだ?」
「男ばかりの職場さ。お客さん――いや、ウォリック卿が煙草をくれたから、特別に教えてやる」
 ジャックは白い歯を見せ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「競馬の騎手。女はできないからね。男のふりをして、友だちといっしょにテストに挑んだのさ。見事、合格。けれど、結局ばれてしまって、クビ。バカらしいだろう。あはは!」
「……」
 まさかの職業だった。
 性別を偽って准男爵になっているあの女にも驚いたが、目の前のこの女も大胆すぎる。
「その顔。やっぱりびっくりしたか。でもね、ウォリック卿。おれ――いや、あたしらはただの無力な女として生きたくない。オーストリアで軍医をしている女友だちがいるんだ。客船で寄港したとき、偶然、知り合った。男の服を着ていてもね、目が合ったら同類だってすぐにわかったよ」
「女が軍医? まさか」
「そのまさかさ。男の格好をしないと、あたしらは認められない。結婚すればいいってあなたたちは言うが、望み通りにできるものじゃない。あたしみたいな男勝りが妻だったら、夫も困るだろう?」
「それもそうだが……」
「卿が言っていた、友人だったご婦人も同じ理由じゃない?」
「ああ、たしかに」
「貴族の友人ならその人も貴族かな。女だと相続権がないからとか」
「まあそんなところだ」
「でも、あなたはそれが許せなかった。なぜ?」
「なぜって、女が男のふりをするなど、非常識もいいところだろうが」
「じゃあ、あたしも非常識すぎる存在だね」
「男の権利を、きみたちは世間をあざむいてものにしているんだ。嫌悪感を覚えないほうがどうかしている」
「……そうやって、いつもあなたたちはあたしを異端扱いする。事情などどうでもいいくせに。同情するふりをして、説教したいだけだろう?」
 吸い殻を海に投げ捨てたジャックは、冷めた視線を残して甲板を去った。
――くそ生意気な女だな。
 不思議にいやな気分じゃなかった。いつも周囲にいた連中の、あの取りつくろうような笑みがない。相手が貴族だろうが、ずばずばと本音をぶつけてきた。
――しかし、なかなか面白い。
 オスカーはちょうどよい退屈しのぎができたと、うれしくなった。


 航海六日目。
 ようやく元気を取りもどしたイアンソンに、オスカーは命じた。
「おまえ、ボーイのジャックと食堂の給仕を交代しろ。そして彼を私の部屋へ連れて来い」
「若旦那さま、なぜです?」
「おまえはつまらん。船酔いを治してやったんだ。感謝しろ」
 まるでお役御免と言わんばかり――実際はそのとおりなのだが――のセリフに、イアンソンは傷ついたようだ。がっくりと肩を落とし、とぼとぼと船室を出る。
 二十分経って、本命が顔を出した。
「……ウォリック卿。おれにご用ってなんでしょうか?」
 怪訝そうに眉根をひそめるジャック。
「きみはオーストリアへも行ったそうだな。ということは、世界中を旅しているのか?」
「ええ、はい。半年前まで、太平洋とインド洋を航行する大型客船で働いていました。船が老朽化して解体することになったんで、今の大西洋横断ルートの客船に移ったんです」
「なるほど。さぞかしたっぷりとみやげ話を持っているのだろう。楽しみだ」
「でも、仕事が……」
「イアンソンをきみの代わりにやっただろう。ニューヨークに到着するまで、私のお伴をするがいい」
「でも――!」
 困ったように彼女は首をふる。
「ウォリック卿。あ、あたしは殿がたと密室で、ふたりきりになるつもりはありません」
「忘れてた。きみはご婦人だった」
 ジャックは不服と言わんばかりに頬をふくらませる。
「見かけによらず、スケベなんですねっ!」
「はあ……?」
 一瞬、「スケベ」と言われた意味がわからなかったが、彼女は事情を知らないのだと気がついた。苦笑せずにいられない。
「それに関しては心配ご無用。私はご婦人に興味がないのでね」
「ええ?」
 目を丸くするジャック。
「そ、それってつまり……」
「そう、きみの想像どおりだ。もちろん、きみだから告白した。決して他言はするなよ」
「もちろんです。でも本当に?」
 オスカーはフロックコートの襟をただし、あらためて背筋を伸ばした。
「ということで、私の従者になれ。謝礼は相場の二倍出す」
 唖然としている彼女を見ていると、笑いがこみあげてきた。やられっぱなしの自分だったが、ついに小気味よく反撃できたのだ。
 その日は一日中、ジャックの話を聞いた。途中、何度か紅茶を飲みながら休憩し、就寝する時間がすぎてもまだ物足りなかった。
 七日目、八日目も同じようにすごした。ジャックは世界の都市に寄港しただけあり、さまざまな文化や土地の風習、食べ物を知っている。話を聞いているうちに、オスカーもかの地へ行きたい衝動にかられる。
 九日目。商業都市ニューヨークの摩天楼が海の向こうに見えた。松明を掲げた自由の女神が視界に入ると、あまりの巨大さにオスカーは感嘆せずにいられない。
「ついに来たぞ、ニューヨークに!」
 甲板の手すりに身を乗り出すのはオスカーだけでなかった。乗客たちはわれもわれもと、水平線に広がった果てしないアメリカの大地に歓喜する。
「じゃあお別れだね、ウォリック卿」
 船室で約束の報酬を払うとき、ジャックは微笑みながらそう言った。
「ああ。楽しかった」
「お役に立てて何よりです」
 と、彼女は背を向けたのだが。
 オスカーは反射的に腕をつかむ。
「まだ用事が?」
「いや。その……」
 数秒思案した挙句、決意した。
「きみ、私にニューヨークを案内しろ。そのあとはアメリカ大陸横断、つぎはヨコハマ、ホンコン。そしてシンガポールにコロンボに」
 困惑したように、ジャックは肩をすくめる。
「イアンソンさんがいるじゃないですか」
「あいつは役に立たない。気が利かないし、見かけによらず体力がない。しかしきみはちがう。私以上にタフだ」
「それだけですか」
「旅慣れているじゃないか。それが一番大きい。私は旅行そのものに興味がなかったタイプでね。でもきみと話をしているうちに、どうしても世界を見たくなった」
「そうですか。でもあなたは良くても、おれにはメリットがありません。旅の初心者、しかも英国貴族さまをお連れするなんて、荷が重いです」
「報酬は二倍――いや、三倍だそう。ちなみに今、きみの週給は?」
 ジャックが口にした金額が予想より少なかったので、四倍出すと告げると、たちまち目を輝かせる。
「ええ、そんなにっ! ならばお受けします。三ヶ月あれば一年分だ!」
 そんなわけであっさり交渉が成立した。女だと給金が少ないため、男装をしてまで働いているのだ。お金が一番効果的だと読んだのが当たった。
 速度を落とした客船はゆっくりと停止する。タラップを下りて、待機していたタグボートに乗り換え、波止場に到着した。オスカーの後ろを、イアンソンとポーターが荷物を抱えてついてくる。
 さらにその後ろを、トランクを持ったジャックが歩いた。彼女は労働者が好んで着るような、丈の短い上着と幅のあるズボン、山高帽を被っている。どこからどう見ても、労働者階級の一少年だった。黒髪のあの女のような、ほのかな色気などまったくない。
 税関を抜け、ロビーに出る。そこでロビンソンに言い渡した。
「おまえはそのまま帰国しろ。私はジャックと旅の続きをする、と父上に伝えておけ」
「かしこまりました」
 狼狽すると予想したが、船旅の疲れで気力すら残っていないようだ。黙って礼をすると、元従者は自分の荷物だけ持って踵を返した。


二 ああ、不覚


 ニューヨークの都市は何もかもが大きかった。ロンドンとは比べものにならないほど、レンガやコンクリートのビルが高く、往来する人や馬車の数は半端ない。何より道幅が広い。雑多に詰めこまれたロンドンとは大ちがいだ。
 夜は五番街ホテルに泊まり、ブロードウェイやマディソン・スクウェアを見て回った。ウォール・ストリートの近くには荘厳なトリニティ教会、そして感嘆したのが竣工したばかりのブルックリン橋だ。マンハッタン島とブルックリンを結ぶその吊橋は、あまりにも長く大きく、島国暮らしのオスカーには想像を超えるスケールだった。
「おのぼりさんそのものだね」
 案内するジャックにそう言われ、われに返る。
「きみは見慣れているようだな」
「帰港するたび、新しいビルが建っているんだよ。おれが初めてニューヨークを見たころには、高層ビルはまだ少なかったのに」
「そうか。発展著しい大都会か」
 世界有数の商業都市だけあり、スーツ姿のビジネスマンが早歩きをしている。数えきれないほどの人々の姿はみなせわしい。ロンドンの金融街――シティのように、時間の流れが早かった。
 そして商業街には大きなガラス張りの店舗が、いくつも並んでいた。最新流行の服はもちろん、小物や装飾品、おもちゃ、菓子、書籍、雑貨……と、ウィンドウショッピングをしているだけで、一日が終わってしまいそうだ。
 さっそく家族にみやげを買おうとするオスカーだったが、ジャックに制される。
「まだ早いよ。旅はこれからなんだ」
「少しぐらいいいだろう。船便で贈ればいい」
「ロンドンでも買えるものばかりだ。それより、日本や清国のおみやげがめずらしくて喜ばれるよ」
 たしかにそうだ。初めてのニューヨークに浮かれてしまい、衝動買いをするところだった。
 翌日はグランドセントラル駅から大陸横断鉄道に乗った。まず向かうのはシカゴだ。ニューヨークでの興奮はたちまち冷めてしまい、つぎに待っていたのは単調すぎる車窓の眺めだった。
「ずっと草原か荒野だな。どこまでもどこまでも、ああ、どこまでも……」
 がたごと列車に揺られながら、愚痴をこぼす。向い合って座るジャックが肩をすくめた。
 新大陸アメリカは果てしなく広かった。丸一日あれば、国中を旅できる島国イギリスとちがい、ここは横断するだけで一週間はかかる。船旅以上に、気が遠くなった。
「シカゴに着いたら、美味しいものが食べられるよ。都会だから演劇も見られる」
「ああ、それだけが楽しみだな。あと三日か…………」
「ウォリック卿って、ほんとに旅がお好きでないんだね。道中、いつも退屈そうにされているから」
「バカ騒ぎする連れがいればなあ」
「それってお友だち?」
「一応な。グレート・アイリーン号で待ち合わせをしたつもりだが、ふたりとも急用で出発直前にキャンセルした。とんだ偶然だろう?」
 思いっきり最後のフレーズを強調して言った。
「……とんだ偶然だね。でもまあ、あなたなら仕方がないか。おれは報酬があるから、いっしょに旅ができるけどさあ」
「ずいぶんと率直な答えだな」
 臆することなく、ジャックは告げる。
「だって、ウォリック卿ってつまらないんだもん。イアンソンさんにも言ってたけどさ、あなたもそうじゃないか。あなたがつまらないから、イアンソンさんもつまらないんだ。おたがい気が利かないってこと」
「……」
 急所を突かれたオスカーは、胸にぐっさり、ずぶずぶ矢が刺さった。痛い、あまりにも痛すぎる。
「あ、ごめんなさい。言いすぎた。おれも人のこと言えないけどね。女と思われたくないから、いつも単独行動していたら、同じように言われていたよ。面白みのないやつって」
「それはなぐさめか?」
「楽しい旅行はあきらめて、のんびりすごそうよ。ねえ?」
「ああ……」
――やっぱりくそ生意気な女だっ!
 しかし彼女がいないと旅ができない。だからぐっとこらえ、車窓を眺めた。


 その日は仮装パーティが催され、数日前から準備に追われていた。
 オスカーは中世の騎士らしく、甲冑姿に扮してパーティに参加する。注目されるよう、入念に準備し、本物の騎士が装着したようなブリキの甲冑を作った。自分ひとりでは工作できないから週末に帰郷して、屋敷中の従僕を集めて徹夜作業させた。
 ぴかぴかに輝く銀色の甲冑に、わが家の宝物庫にあった壮麗な槍。そして真っ赤なマント。
 それを寄宿学校の寮に運ばせ、当日の朝、だれもいない体育用具の物置小屋で着替えた。正体を明かさず、同級生や先輩たちを驚かせたかったのだ。
 頭からすっぽり兜を被る。手鏡を見たら完璧だった。視界と呼吸を確保するための穴以外、ブリキで覆われている。しゃべらない限りだれだかわからないはず。
 意気揚々とパーティ会場である大広間へ入る。すでに同級生たちが集まってはしゃいでいた。ルームメイトたちは妖精や道化師、動物に変装していたが、すぐに見分けがついた。顔をほとんど隠していないのだから当然だった。
 オスカーはそっと近づく。
 そして彼らが甲冑の存在に気がつくまで、じっと待った。
――どんな顔をするかな、あいつら。
 しかし連中はある話題に夢中らしく、完璧な変装をしたルームメイトを気にかける者はいなかった。笑い声とともに、話し声が聞こえる。
「……だろ。つまらないんだよな、あいつ」
「ああ、それ言えてる! ローレンソンってさ、僕らが話しかけないと何も言わないんだ。いつも待ってるばかりで、自分から行動しないし」
「だってあいつはスプリング伯爵の嫡男だろ。赤ちゃんのころから銀の匙をくわえていたから、身分のない僕たちが世話して当然だと思ってるんだぜ」
「そうだよな。勉強もあまりできないから、僕が課題を教えてやってるんだ。でも謝礼のひとつすらない」
「スポーツだっていつも補欠だ。伯爵令息じゃなかったら、完璧に落第生だな」
「特技は絵描きだけ。女々しくてつまんないやつ!」
「ローレンソン、来ないじゃないか。今日は僕たちだけで楽しもうよ」
「あいつがいても気を使うだけだし、変装に気がつかないふりをしようぜ」
「大賛成!」
 その場にいた全員が挙手し、彼らはどっと笑う。
 そばにいたオスカーは涙が止まらない。声を殺して泣く。
――そ、そんな。僕は彼らとうまくやっていると思っていたのに!
 結局、その日は兜を脱がないまま、大広間の隅に座った。先輩が「きみはだれ?」と話しかけてきたが、答える気力がなく無言を貫くしかなかった。
 十四歳だった自分の、とてつもなく苦い思い出だ。
 それからは同級生たちに命ずることにした。受け身だとバカにされたのだから、こき使ってやった。そして陰口を叩かれようが、意に介さない。なぜなら身分のある自分の立場が、絶対に上なのだから。
――ふん。しょせん、きみたちは哀れな中流階級なのだよ。
 そうおのれに言い聞かせながら、学生生活を送った。
 そんなある日、ベルリンへ遊びに行った叔父からみやげをもらった。粋な十八金万年筆だ。ぱっと見ると羽ペンを模したそれは、懐古的でおしゃれだった。寄宿学校で見せびらかしたら、たちまちオスカーの周囲に輪ができる。だれもが欲しそうな顔をして、褒めた。
――そうか。おしゃれな小物があれば、人気者になれるのか!
 それまでファッションに関心はなかったのだが、大学生になると自由を得たのをきっかけに、ダンディー――伊達な紳士たちの社交に顔を出す。そして熱心に研究をした。どうすれば、社交界で注目されるのかを。
 試行錯誤し、出た結論は。
「まだだれも持っていない衣装や小物を手にすることだ。そうすれば、奇抜なデザインだろうが自慢できるからな。何ごとも一番手が注目される。しかし二番手になると、ただの猿真似にすぎない。価値はないに等しい」
 列車はシカゴに停まり、オスカーとジャックはホテルで一泊する。その翌朝、ふたたび車窓の人となり、西へ西へ向かった。草原が消え、険しい山並みのあいだを列車は進む。
 やはり退屈なので、自然と昔あったできごとを話す。聞き手のジャックは旅行限定の従者だ。どうせ帰国したら別れるのだから、だれにも言えなかった愚痴を話しても平気だった。
「へえ、そうなんだ。おれも思ったよ。おしゃれな紳士さんだなって。そのチョッキ、見たことがない色と模様だ。懐中時計も。そのシガレットケースだって」
 褒められ気分が良くなる。が、すぐに崖っぷちへ突き落とされる。
「だけど旅で目立つのは良くないよ。いかにもお金持ちですって格好をしてたら、詐欺や泥棒に目をつけられやすい」
「…………それもそうだな」
 ジャックにかかれば、自分はただのマヌケな旅人だった。
「サンフランシスコのホテルに着いたら、地味なスーツに着替えたほうがいい。既成品だったらすぐに買えるよ」
「既成品か。みっともない。紳士はオーダーメイドを着るのが流儀だぞ。それだけは譲れない」
「そう。平凡な格好をしたほうがいいと、おれは忠告したからね。あとは、ウォリック卿が決めることだけど」
 それからしばらく会話はなかった。山道を登ったり下りたりするたび、列車がひどく揺れ、のんびり話せる状況ではなかった。座席にしがみつく。
 ジャックには話さなかったが、オスカーには寄宿学校――パブリック・スクール時代、ひとりだけ親しい友人がいた。同級生だったホルバインだ。彼はヒッチン侯爵家の嫡男で、ニヒルティック――虚無的な学生として知られていた。
 ホルバインはいつもひとりですごし、ほかの学生たちと交わろうとしない。ただ彼なりの明確な基準があって、察するに上級貴族の子弟としか親しくならなかった。
 ルームメイトたちの本音を偶然聞いてしまった仮装パーティから、オスカーもホルバイン同様、身分のない連中と遠く距離を置いた。信用できないからだ。
 寮こそちがうものの、そんな自分たちが親しくなるのに時間はかからなかった。
 ほかに友人がいないのもあって、オスカーは打ち解けたのだが、相手の態度が尋常ではないことをじょじょに感じ取った。
――もしかして友人以上の関係を求めている?
 ホルバインは両親や姉たちの社交界の話題に触れるたび、令嬢や令夫人を嫌悪するようなことを口走った。そして、決まって最後「女は愚かで信用できない」と締めくくる。
――たしかにそうだ。僕もご婦人のあのつまらないおしゃべりが苦手だ。
 同意こそするが、口にはしなかった。彼の価値観にどっぷりつかってしまうのが怖かったからだ。
 やがて究極の選択を迫られる。
――このままひとりで学生時代をすごすか、それとも神の教えに背くか……。
 さんざん悩んだ挙句、オスカーは後者を選択した。


 大陸横断鉄道の列車はオハマ、オグデンを経由し、ついに西の果てサンフランシスコに到着した。ニューヨークを出発して八日目だった。
 初めて見る太平洋はどこまでも青く、波が高かった。日差しがまぶしい。そして、西部の果ての大都会は、話で聞いた以上に異国情緒たっぷりだ。宿泊するホテルは白い壁に青白のストライプ模様のひさしがあざやかで、道の左右には椰子の木が植えてある。周囲の高級住宅地は白い木造の邸宅が多く、薔薇の花が庭を飾っていた。
 ホテルに荷物を置くと冒険者気分で馬車に乗り、郊外へ出てみた。空気は乾き、白い荒れ地にサボテンが群生している。行き交う男たちの風貌はまるで荒々しい狩人だ。つばの大きな帽子が目立つ――ジャックが言うには彼らはカウボーイだという。
 そういえば列車で大陸を横断しているとき、バッファローの群れを見た。何もない荒野や砂漠にときおり出現する開拓村や原住民の集落に驚いた。あんな僻地に人々が暮らしているのか、と。
 小さな町に到着した。両開きのドアをのぞき、酒場――バーを観察したら、屈強な男たちがバーボンを飲んでいた。四人組がポーカーをしている。家庭的なイギリスのパブとはちがい、よこす視線が排他的だ。だからなかに入るのはやめた。
「それが賢明だよ。ときどきギャングが来店することがあって、保安官とやりあうことがあるって聞くから」
「銃撃戦が?」
「ギャングはたいてい斧を振り回してる。拳銃は高価だからね」
「斧、か…………」
 頭をかち割られた男の姿を想像したら、寒気がした。
 かつてわいたゴールドラッシュによって、労働者だけでなく、無法者も大勢やってきたのだ。景観はニューヨークやシカゴとちがって、粗末で荒々しさが残る。地震があるからビルも低い。
 好奇心のおもむくままサンフランシスコを出たが、それ以上、見るものはなさそうだ。おとなしくホテルにもどり、近くの海岸を散歩する。道行く旅行者同士、気軽にあいさつを交わす。温暖な気候が人々を陽気にさせた。
 海の波は穏やかで、雄大だ。世界を包むこむような大らかさがある。荒波の大西洋が男神なら、こちらは女神だった。水平線に吸いこまれるような錯覚におちいりながら、オスカーは心地よい潮風に吹かれた。
「同じ海でも、母国のとはまったくちがう。まさしく世界の果てだ」
「そう、案内した甲斐があったね」
「つぎは日本だ。楽しみになってきたぞ」
「じゅうぶん期待しておいて。見たこと聞いたことないものばかりだから」
「ああ」
 夜はパレスホテルのレストランでたくさん食べた。狭くて質素な車内食堂に飽き飽きしていたから、海鮮料理を思う存分堪能する。カキや亀料理だけでなく、久しぶりに羊料理も食べた。故郷の味に似て美味しかった。
 従者ジャックは滅多に食べられないごちそうに鼻息を荒くし、オスカーが呆れるほど飲み食いした。パレスホテルは一流だから、労働者が宿泊することはまずない。レストランで食事などもってのほかだ。
「うまいか?」
「おいひいれす!」
 ラムチョップをくわえたまま、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「……ゆっくり食べるんだ。私ときみしかいないのだから、あせることはない」
「ふぁい」
――そうだよな。本来は、あいつらと旅行をするつもりだったのに。
 出発の直前、キャンセルした友人は喜劇役者と劇作家だった。ふたりともあまり売れていないが、社交界では人気者だ。面白おかしく会話をし、だれもを楽しませることができた。
 だからオスカーは退屈しないと判断し、旅行代金を受け持ったのだ。裕福でない彼らは素直に喜んだ、と思ったのだが……。
 男装した従者の女と旅行をするなど、あのときの自分は夢にも思わなかった。
――どうせなら、ぱあっと金を使ってやる!
 義弟ブランドンは四人分の路銀と三人分の小遣いを用意した。イアンソンは従者だから小遣いが必要なかったため、まるまる二人分の路銀と多額の小遣いが余ることになる。その恩恵がジャックの食事にまわってきたのだ。


 翌々日、横浜経由香港行きのチケットを購入したオスカーとジャックは、大型蒸気船パシフィック号に乗った。タグボートを乗り継いで大型船のタラップを上がり、甲板に出る。
 オスカーはわが目を疑った。グレート・アイリーン号では見られなかった種類の乗客たちが大勢いたからだ。
「ひょっとしてあれは中国人?」
 漆黒の髪に黒い目をした人々が、甲板の上で思い思いにすごしていた。どの顔も目がアーモンドのように細く、背丈が低い。話す言葉は音程が上下する即興音楽のようだった。
 黒い詰め襟の服を来た彼らは、髪型も変わっている。頭頂部を剃り、下を伸ばして三つ編みにしていた。辮髪だ。ロンドンの阿片窟にいた中国人を思い出した。ちがうのは、労働で鍛えぬかれた黄金色の肌である。
 出航前だというのに、中国人たちはわが家のように甲板でくつろぎ、座りこんで昼寝や麻雀をしていた。持参した弁当を食う者までいる。その集団からほのかにアヘンの甘ったるい香りがした。
「そうだよ。初めて見た?」
 平然と言い放つジャックは、中国人たちの隙間をひょいひょい歩き、上甲板へ続く階段を上がる。
「一度だけ。イーストエンドの中国人街で。それにしても、サンフランシスコにはたくさんいるのだな」
「大陸横断鉄道で大勢、働いたからね。開通したら西部に仕事を求めてやってきたんだ。御者にボーイに洗濯夫に料理人に炭鉱夫に……。彼らはお金を貯めて、母国に帰るところさ」
「行き先が香港だから同乗したのか」
 三等船室は中国人でぎっしりと埋まっていることだろう。大西洋を横断する客船で、こっそり見たときのように。吐瀉物の臭いを思い出し、想像するだけで胸がむかむかした。
 蒸気船は出航した。パシフィック号はやや古く、巨大な煙突が一本と、帆があった。蒸気機関では足りない動力を風で補う。二週間以上も乗船するのだから、石炭の消費を少しでも抑えるためだ。
 太平洋は大西洋以上に青かった。そして何日も乗っていると、まったく変わらない景色に気がおかしくなる。いつ見ても海と空。そして大型客船についてきたカモメの群れ。それ以外はない。蒸気船という孤島に迷いこんだような錯覚におちいる。
――本当に日本へ向かっているのか?
 オスカーは疑ってしまい、一日に二度三度、昇降口に貼りだされた海図を見た。たしかに船は進んでいる。それしか進展を確認するすべはなかった。
 一等客船には裕福なアメリカ人の一行がいた。友人、夫婦、親戚、家族という具合で、一人旅をしている者はいない。オスカーがイギリスから来た貴族だと話すと、だれもが興味深く話を聞きたがった。船旅は退屈すぎるから、自然とアメリカ人たちと親しくなった。
 ともに食事をし、トランプゲームに興じる。そのなかにジャックはいなかった。彼女は労働者だから、富裕層とは話が合わない。
 何をしているのかと、あるとき不意に気になった。上甲板での歓談を中座し、歩きまわる。ジャックらしき姿はない。もしかしたら、と下甲板へ行ったら、中国人たちが歌を口ずさみ、麻雀をしていた。ジャックはやはりいない。
 娯楽室かな、と思って顔を出すが、いるのはご婦人とその子供たち。
――昼寝でもしているのか?
 ジャックと寝起きしている一等船室に入る。二段ベッドの上にいなかったが、備え付けの小さなシャワールームから鼻歌が聞こえる。
――なんだ。ここにいたのか……。
 自分が不在のときを狙って、入浴していたらしい。そういえば、着替えをしている姿を見たことがなかった。いつも起きたら外出着だったし、寝るときもそうだった。
 そっと船室を出ようと思ったとき、さっとシャワールームのカーテンが開いた。
 まともに眼と眼が合った。
 そして何も身に着けていない従者の裸を見てしまう。
「きみ、胸が小さいな」
「……」
 反射的にそう口にする。黒髪のあの女より、ずっと小ぶりだったからだ。が、その直後、拳が顔面を襲う。
「あいてっ!」
「で、出て行けっ! スケベ貴公子っ!」
「おい。私はただ……」
「のぞき見していたくせに! 最低!」
「ち、ちがう!」
 あまりの剣幕にオスカーは退散した。殴られた頬がひりひりする。
 数分しないうちにドアが開き、着替えたジャックが廊下に飛び出して、詰問される。
「ウォリック卿。ご婦人に興味がないっておっしゃるから、同行したんだ。それなのに…………。ああ、もう、信じたあたしがバカだった!」
 耳まで真っ赤になり涙まで浮かべられてしまうと、偶然とはいえ罪悪感でいっぱいになる。ご婦人をのぞき見するなど、紳士として破廉恥すぎるからだ。
 が、しかし。
 言いようのないもやもや感がこみあげてきた。
「ジャック。きみこそ、男装をするぐらいだから、女としての自覚が薄いのかと思っていた。今のは単なる事故だ。きみがあまりにも姿を見せないから、どうしているのか少し心配になってね」
「ほんとに?」
「ああ。嘘をついていたら、とうに手を出していたはずだろう。ずっと同じ部屋で眠っていたんだ」
「胸が小さいからじゃないよね?」
 オスカーは呆れる。見かけによらず、上目づかいをするジャックは女性らしい。准男爵を偽っているあの女ほど、中味が男らしくなかった。
「大きいとか小さいとか、私にはどうでもいい。旅のガイドとしてうまくやってくれれば、それで充分だ」
「そうか。気にしないんだ」
 にこっと笑みを浮かべるジャックに、安堵する。つまらないことで仲たがいしたくなかったからだ。まだまだ旅程は長い。
「おれがどこにいるのか知りたいんだろう。案内するよ」
 オスカーはジャックに引っ張られるようにして、船倉へ移動する。船室が並ぶ前を通りすぎ、奥の仕切りに入った。薄暗いそこは中国人の団体ではなく、聞き覚えのある声がした。馬の鼻息だ。
 十頭以上の競争馬が、それぞれ区切られた狭い柵のなかに入れられ、飼葉を食んでいた。サンフランシスコから香港の買主へ売りだした商品たちだ。斑模様をした一頭の首を撫でながら、ジャックは言った。
「よしよし。あと七日だからね。それまでの辛抱だよ」
「そういえば、競馬の騎手をしたと言っていたな。馬が好きなのか?」
「うん。初めは友だちに連れられてなんとなくだったけど、馬たちを世話しているうちに大好きになったんだ。お金を貯めて、いつか牧場で馬を育てるのが夢さ」
「そうか。だから少しでも給金が多いほうがいいのか」
「ウォリック卿が破格の報酬を約束してくれて、おれはうれしいよ」
「なるほどね。きみが目の色を変えたはずだ。で、その友人は騎手なのか?」
 一瞬だが、ジャックは瞳を曇らせる。すぐにいつもの笑顔にもどり、言った。
「ニューヨークで活躍している。ボブはだれよりもうまかったからな」
「ボブはご婦人じゃないのか」
「おれ、小さいときから男の子といっしょだったから、友だちに女の子はいなかったんだ。孤児院にいたときもね、男の子と遊んでばかりだったから、シスターによく注意されたよ。女の子らしくしなさいって」
「親は生きているのか?」
「さあ。母さんが迎えに来るって言って、それっきりだったよ。七歳のときから会っていない。父さんが死ぬまでは農場で暮らしていたんだ。十二歳のとき孤児院を脱走して、母さんに会いに行ったけど、その家には知らない家族が住んでいた。そのあとは孤児院にもどらずに、ボブたちといっしょにニューヨークの工場や船着場で働いたよ。もちろん、男のふりをした。友だちと別れるのがいやだったんだ」
「ボブも孤児なのか?」
「そうだよ。いっしょに脱走した仲間さ。もういい歳だから、あの娘と結婚して子供もいるんだろうな」
 遠い目をしたジャックは癒やしを求めるように、馬を撫でた。すると彼女の気持を汲んだのか、顔をすり寄せる。まるで飼い犬のように心を寄せる馬の姿に、オスカーは感心する。
「きみは馬の扱いがうまいんだな」
「調教も騎手の仕事だったんだ。馬は繊細だけど優しいよ。人間のように嘘をつかないから、信頼できる」
「それは言えてるな」
 馬に興味はなかったが、ジャックがあまりにも楽しそうに触れ合っていたので、馬の鼻面にそっと手をさし出してみた。
 つん、とそっぽを向かれた。
「かわいげのない馬め」
「馬にむきにならないでよ」
「人間だけでなく、馬にも好かれない、か……」
 オスカーはため息をつく。バカらしくなって、ひとり船倉を出た。ジャックはついてこなかった。


 大型客船パシフィック号を台風が直撃した。船は揺れに揺れ、マストは折れ、乗客だけでなく乗員たちも生きた心地がしなかった。船内に閉じこもり、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ。
 船室にいるオスカーはジャックを抱きしめながら、二段ベッドの下にいた。腕を緩めると、今にも船倉へ走り去ってしまいそうだ。
 天地がひっくり返るかと思うほどの揺れが、船酔いを引き起こす。オスカーはバケツにげえげえ吐きながら、ドアに向かって叫ぶジャックをなだめる。
「馬が――!」
「あれはきみの馬ではない。心配するだけむだだ」
「だけどあのままだと、死んでしまう!」
「行くな。きみに何かあったらどうする。私の従者だろう?」
「だけど……」
 馬を心配するあまり泣き出してしまう。
――まるで馬の母親だな。
 内心、苦笑しながらまたこみあげてくるものを、バケツに吐いた。そして大きな揺れ。中味がぶちまけられる。臭い、気持ち悪い。だが、どうでもいい。
――ああ、神よ、われらを守りたまえ!
 命が助かるのをひたすら祈るしかなかった。
 嘘のように嵐が止んだその翌朝。
 海の向こうにうっすらと灰色の陸地が見えた。乗客たちはこぞって甲板に駆け寄り、歓喜する。
「日本だ!」
 オスカーも柵から身を乗り出し、神秘の国、日本を見つめる。
 じょじょに岸壁に客船が近づく。深緑色の山並みが美しい。やわらかい朝の光が、松林をあざやかに照らし出した。
「ついに東洋の果てにたどりついたのか……」
 童話で聞いていた日本は、オスカーの想像を掻き立てる。黄金に塗られた木の家が建ち、温泉には大輪の蓮の花や牡丹が咲き乱れ、ひとびとはいつも微笑みながら虹色の着物を着ている。
 しかし現地に着いたとたん、あれはただのお伽話だったのだと知った。二階建ての木造家は質素で屋根は黒いし、草花はあっても蓮や牡丹は見当たらない。道行く人々は地味な色の着物姿だった。
 横浜港には大型蒸気船が幾艘も停泊していた。黒い商船や白い軍艦、灰色の客船、そしてピンク色の郵便船は、アメリカだけでなくイギリス、フランス、ドイツとヨーロッパの国々からはるばる旅をしてきたのだ。
 パシフィック号は三日後、香港へ向けて出航する。それまでの自由時間を、観光に費やすことにした。
「そういえば中国人らは? 姿が見えないが」
 オスカーの素朴な疑問にジャックが答える。
「検疫があるから彼らは上陸を許可されない。そのまま船内ですごすんだ」
「では私らは特別待遇か」
「そういうことだね」
 ジャックに元気がなかった。彼女が懸念していたとおり、十一頭のうち五頭もの馬が船酔いと興奮で死んでしまったからだ。
 下船したのはオスカーだけでなく、一等船室にいたアメリカ人たちもいた。そのなかでとくに親しくなった二人組の男が、陽気に声をかけてくる。
「よお、貴族さん。今夜、カブキを見ようじゃないか。日本の伝統演芸だ。さぞかしエキゾチックだという話だぞ」
 実業家のムーディ兄弟だった。彼らは父親の代からベーコン店を営んでおり、五年前から工業化して大量生産を始めた。それが大当たりし、今では裕福な人々の仲間入りだ。
 兄はおとなしかったが、弟は社交好きだ。何かにつけて、気さくに話しかけてきた。
「ああ、それはいいな。ぜひ、同行しよう」
「では午後五時にグランドホテルのロビーで落ち合おう」
 狭い船室に泊まるのはうんざりしていたから、オスカーは出航までの二泊をヨーロッパ街のホテルですごすことにしてた。人力車に乗り、目的地へ出発する。めまぐるしく横浜の風景が流れていった。
「へえ。ホテルだけでなく、銀行や逓信局、レストランやカジノまである。ここに住んでも不自由しなさそうだ」
 オスカーのつぶやきに、ジャックが答える。
「開国してから横浜が外国の玄関になったからね。昔は水田や畑ばかりの漁村だったそうだよ」
「わずか十五年でこれだけ発展したのか」
「短いけれど、東京までの鉄道も開通してる」
「ヨーロッパからあれだけ離れているのに、予想以上の近代化だな」
 グランドホテルに到着し、荷物をフロントにあずけると、いよいよ念願のショッピングだ。横浜には外国人専用の区画があり、英語がわかる日本人たちがみやげ物を売っていた。まず目についたのが、扇子屋だった。ジャックを伴い、さっそく品定めをする。
「おお、美しい! それにエレガント! まるでダマスカスの花模様――いや、色使いがありえないほど斬新だ! 自慢できるぞ!」
 感動したオスカーは、格子柄や花柄、日の丸が描かれた扇子を何本か買う。そして会計をしようとしたら、ジャックが初老の男店員に言った。
「それ、相場の三倍はしている。安くしてよ」
 オスカーは驚いた。かなり安価だと思ったのだが。
「そうなのか? 人柄は良さそうだが」
「おじさん、にこにこしてないでまけてよ。さあ」
 店員は笑顔のまま数字を言い換えた。ジャックが言ったとおり、三分の一に変わった。
――彼女を従者にしてよかった!
 ジャックの容赦無い値切り交渉に、オスカーは胸がすく思いだった。
 扇子屋のつぎは、反物屋、そしてお茶屋に、瀬戸物屋。やはり同じように高値をふっかけられるが、ジャックが交渉して安く購入する。彼女は何度も横浜に来たことがあるため、実際の価格をよく知っていた。
 オスカーが不可思議だったのは、どの店員も絶えず微笑していたことだ。だから機嫌が良いのかと思ったら、そうではないらしい。ジャックが値切りをした瞬間、ほんのわずかだが笑顔が消えた。しかし、すぐに謎のスマイルにもどる。ロンドンの店員は慇懃だが、意味のない笑顔はなかった。
――何を考えているのかわからないな……。
 神秘の国に住む人々ならではである。
 小物屋では、櫛やかんざし、巾着、手鏡といった女性向けの商品が陳列されていた。母と妹のためにいくつか買うと、ここでもジャックは値切り交渉をした。言い値が三割ほど下がったから、ほかの店よりかなり良心的だ。
 だからもう少し買ってやろうと思い、ジャックに言った。
「きみ、欲しいものはあるかい?」
「え? おれに? なんで?」
 きょとんとする従者の肩を叩いてやる。
「元気がないからな。せいぜい、私にしてやれるのはこれぐらいだ。主人として、受け取って欲しい」
「ウォリック卿……」
 ジャックはうなずく。ためらわず手を伸ばしてある櫛を取った。歯が両端までない半円形のべっ甲櫛である。薄紅色の桜模様が描かれていた。
「これ、前から欲しかったんだ。まだあってよかった。少し高いけどいいかな?」
「もちろん」
「ありがとう!」
 ようやく元気を取りもどしたようで、つい安堵の笑みがこぼれてしまった。
 夕方、約束どおりグランドホテルのロビーにいると、ムーディ兄弟がやってきた。ラウンジスーツ姿の彼らは、ラフな格好のまま観光をするようだ。小柄な弟が山高帽を取り、言った。
「よう、貴族さん! たっぷりみやげは買ったかい?」
「ああ。故郷へ郵送をすませたところだ。美しい小物ばかりでどれにするか迷ったよ」
「だろうな。俺たちも女房へのみやげを選んだところだ。見栄っ張りな女房だから、真珠のネックレスがいいってよ」
「真珠もあるのか?」
「俺の知り合いが仕事で横浜に滞在していてね。そのまた知り合いから、相場より安く売ってもらっているのさ。伊勢湾の最高級品だ」
「おお、私にも紹介してくれ。ネックレスだけでなくカフスや指輪もあるかい?」
「もちろんだとも」
 オスカーはさらに自慢の小物が増えると、うれしくなった。日本の真珠製品を持っている者は、イギリスの知り合いにいない。
「かなり高価だが、いいか?」
「生涯に一度あるかないかの日本旅行なんだ。借金をしてでも、買いたい物があれば買うさ」
「羽振りが良くていいなあ、貴族さんは。じゃあ、明日、案内するぜ。その前にカブキ見物だ」
 ムーディ兄弟は笑う。からからと快活に。彼らがさきに人力車に乗り、そのあとをオスカーとジャックがもう一台の人力車で続いた。
 夕涼みをする浴衣姿の男女が、通りに見える。銭湯もあった。開放的に生活する人々の姿も新鮮だった。のどかな空気が流れている。
 車中、不安そうにジャックが言った。
「あまりむだづかいされないほうが……」
「言っただろう。せっかくの機会なのだからと」
「その、おれ、言おうか迷ったんだけど。あのミスター・ムーディ。好きになれないんだ。いかにもにわか成金っていうか、態度がならず者っぽいっていうか」
「どうせ香港までの付き合いだ。適当に利用したら、さよならだ」
「そっか。おれの気にしすぎじゃなきゃいいけど」
 馬が死んだ悲しみで、神経質になっているようだ。だからオスカーはそれ以上、ムーディ兄弟の件は口にしなかった。
 庶民たちが暮らす町の通りに、芝居小屋はあった。薄暗いなかに入り、前中央にある一段高い台座に案内される。上客――外国人用の貴賓席だった。清酒と弁当が出され、慣れない畳に座って食べる。まずくはないが、味付けされていない米に違和感があった。
 ジャックは何でもおいしいらしく、喜んで食べていた。見ているだけで幸せそうなのが伝わってくる。
――孤児だったというしな。
 男友だちと脱走した、と言ったぐらいだ。耐えられないほど貧しくて窮屈な生活だったのだろう。
 定式幕――黒緑茶の縦縞模様の幕が開いた。演目は女装した盗人小僧と、彼の正体が暴かれ、間一髪切り抜けるという内容だ。何を言っているのかタイトルすらわからなかったものの、女形の優美な仕草や立ち回り、そして豪快に見得を切る仕草があまりにも奇抜すぎて、オスカーは目を丸くした。
――これが日本の芸術か! 写真に撮っておきたい!
 よく観察すると、自分たちより低い席には普段着の人々が拍手喝采していた。どうやら貧しい庶民の娯楽場でもあるらしい。家族や友だち、恋人らしき男女が仲良くしているのが薄明かりで見えた。オペラのような、高尚な芸術ではないらしい。

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高慢すぎる英国貴公子、世界旅行をするも友に逃げられ、その顛末
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