ミルドレッドは喜びで胸をいっぱいにしながら、恋人が待っている森へと駆けていった。
――ああ、あたしのおまじないが通じたんだわ!
フィンチ農場からファリントン伯爵家の領地の森まで、歩いて半日はかかる。それでも早く会いたい一心で、ミルドレッドは息をきらしながら街道を走る。途中、荷馬車に乗った知り合いの農婦とすれちがったが、あいさつも忘れ、手紙にあった約束の場所へ向かっていた。
荒い息をつきながら、森のなかにある鶏小舎の裏までやってくる。そこは秘密の恋人と何度も逢引をしたなつかしい場所でもあった。かつてファリントン伯爵家に奉公していたとき、鶏の世話をしながらあの人と愛を語らったものだ。
――アーサーさまはまだなの?
ブリキの粗末なトランクを片手に、夕闇迫る森のなかでミルドレッドはひとり、不安を抱き始める。
――まさか、気が変わったのかしら?
恋人のアーサーは、三ヶ月前、ある男爵令嬢と婚約した。その数日前、彼はミルドレッドに別れを切り出した。そもそも、ふたりは身分ちがいもいいところで、決してうまくいないのは承知していた。
だから、当初の約束どおり、それきり会うことはなかったし、子どもを身ごもったことで奉公も辞めた。子どもの将来のためにと、恋人から渡された紙幣の束とともに。
一度は、おのれを納得させたのだが、日が過ぎるにつれて想いがさらに募ってしまう。しかしどうあがいても、アーサーと自分ではあまりにも不釣合だ。周囲に反対されるどころか、最悪、領主に命を奪われかねない。
くるおしい日々を過ごすミルドレッドは、かつての同僚であるメイドに手紙に書いた。相手はだれかを伏せたまま。ロンドンの某町屋敷で働いていた友人は、いたく同情してくれ、ミルドレッドにある魔女を紹介する。
ミルドレッドは迷路のようなイースト・エンドの小路を歩いた。腐臭放つドブ川の側道へ入り、ようやく見つけたのは群がるように建つ小屋の群れ。一軒の小さな雑貨屋で老女は店番をしていた。魔女といっても、見かけはどこにでもいるような貧しい身なりの庶民だ。
なんでも恋の成就が専門で、夜の商売をしている女たちが、かなわぬ恋に涙しながら、魔女のもとを訪れるらしい。しかし忌み嫌われる存在でもあったので、魔女のことは公然の秘密だった。女たちだけのくだらぬ噂話として、ひっそりと息づいているのである。
ミルドレッドと視線を合わすなり、魔女は言った。
――どうしてもいっしょになりたいのかい?
――ええ。
――すぐには無理だよ。あるじの匙加減によっては、遥か先かもしれない。一年、二年と甘いものじゃあない。
――それでもいいわ。いっしょになれるのなら、我慢できる。
――もしうまい具合にいっしょになれても、次は幸福とはいえない人生が待っているよ。あたしらのあるじは願いを叶える代わりに、苦しみもあたえる。
――どうして?
――神さまが定めた運命をくるわせるからだよ。まじないをするだけで願いが叶うのなら、この世のなか、みんな幸せじゃないか。でも現実はちがうだろ?
――それはそうだけど。
――じゃあ、あきらめな。おまえの想い人とはそれきりの運命だってことさ。
――いいえ、それでもいっしょになりたいの! あの人がいないと、あたし、生きていけない。それぐらい愛しているの。不幸だって、いっしょに乗り越えてみせるわ。
――そうかい。覚悟はできているみたいだね。だったらこれからあたしの言うとおりにおし。まず、ここに血判を。そう、あるじとの契約書だよ。
ミルドレッドは家に帰った。その夜、さっそく魔女から教えられたとおり、もらった五芒陣の紙の上に生贄を捧げ、蝋燭の灯りに向かって祈った。だれもいない屋根裏部屋の隅で、果物、カエルやネズミ、ときには屠殺した鶏の頭とともに夜をすごす。そして六十六日後、ついにアーサーから手紙が来たのだ。
あれから考えたのだが、きみといっしょにやり直したい。
ともにアメリカへ渡ろう。
いつもの場所で待っていてくれ。迎えに来る。
と。
「アーサーさま……気が変わったの?」
ぎゅっとくちびるをかみしめ、トランクを地面に置く。夜風が吹いて、手が冷たくなってきた。手袋をしているというのに、指先がかじかむ。秋が深まり、今夜は寒くなりそうだ。
実家に置いてきた、生まれたばかりのわが子が気になる。アメリカへ渡航するにはまだ早すぎると思って、置き手紙だけを残して家を出た。新天地で生活が順調になったころ、息子を迎えに行く予定だった。
しかし相手が姿を現さないのなら、何もかも――。
「アーサーさま?」
ミルドレッドは見た。フロックコートを着た恋人が森の影から姿を表すのを。
無我夢中で駈け出し、飛びついた。
「ああ、よかった。あたしたちずっといっしょね!」
「悪いが、きみ。兄のことはあきらめて欲しい。できれば実家を離れて、遠くへ行ってくれたまえ」
「え?」
冷たくそう言い放つのはアーサーではなかった。まったく同じ姿をしているというのに。
「まさか。あなたは……」
「弟のセオドアだ」
「じゃあ手紙を書いたのも?」
「すまない。筆跡も兄とよく似ているから、利用した」
「そんな、どうして!」
ミルドレッドは恋人の姿をした別人を突き放そうとする。が、相手に腕をつかまれてしまい、その場から逃れることができなかった。
「いや、放してっ!」
「僕の言うことをきいてくれたら、放す」
「遠くへ行けって、アーサーさまにお会いできないじゃない!」
「二度と会わないと約束したはずだろう。兄もそのつもりだ」
「じゃあ、どうしてあたしをここへ呼んだの?」
「それは言えない」
「言ったら、あたしがあきらめないから?」
「……」
セオドアは黙ってしまった。どうやら図星らしい。
「アーサーさま、まだあたしのこと、愛してらっしゃるのね? そうなのよね?」
眉間を寄せ、セオドアは首を横に振る。嘘をつけない性格らしく、ミルドレッドにはたやすいほどに相手の真意がわかった。
「だったら、あたし、行かせてもらいます。放してください」
「だめだ。おとなしく言うことを聞いてくれ。さもないと……」
樹木の陰からひとりの紳士が出てきた。
ミルドレッドは息をのむ。なぜなら、その中年紳士はファリントン伯爵であり、手には拳銃を握っているからだ。
小さな銃口が冷たく銀の光を放ち、ミルドレッドの胸元をとらえた。
「わが息子をたぶらかす、悪女め。死ね」
「父上、いけませんっ!」
セオドアの叫びと同時に、銃口が火を吹いた。
為すすべもまま、ミルドレッドは銃弾を撃ちこまれる。どっと鮮血を吐き、自分は死ぬのだと瞬時に悟った。
恐怖以上に強烈な恨みが意識を覆う。が、無情に視界が闇に覆われていった。
「許さない、許さないんだ……か――――」
ファリントン伯爵、そしてセオドア爵子へ恨みを抱いたまま、ミルドレッドは天に召された。
アーサーへの激しい思慕を残したまま。
◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇
「ミルドレッド!」
アーサーはおのれの腕のなかで、息絶える恋人に向かって何度も呼びかけた。父が撃った弾丸が彼女の心臓を貫き、とめどめもなく鮮血が吹き出す。
ミルドレッドの緑の瞳に輝きがもどることはなかった。くるおしいまでに愛した女の最期は、あまりにも残酷だった。
「ああ、なんてことを、父上…………」
拳銃を懐にしまった伯爵が冷たく言い放つ。
「おまえアーサーだったのか。セオドアのふりをして、何を企んでいる?」
「セオドアがミルドレッドを脅そうとしていたのを、僕が察知したんです。どうして、こんなむごいことを!」
「そのような悪女、とっとと忘れろ。後始末は私がどうとでもする」
「彼女を物みたいに扱わないでください!」
「いい加減、目を覚ませ! おまえはわが家の後継ぎなのだ。そんな女に惚れるほうがどうかしている。さあ、屋敷にもどれ」
「いやです。できません!」
そのとき、後頭部に強い衝撃があった。目の前が暗くなる。
「おお、モーガン。今回は許す。アーサーを連れて帰れ。あと女は――」
父の言葉が小さくなっていき、意識が遠くなった。
そして、アーサーは目を覚ます。
「…………夢、か」
ナイトテーブルに置いている懐中時計を開くと、午前五時を回ったところだった。
「ああ、ちくしょう。もう悪夢はたくさんだ……」
アーサーは頭を抱える。汗でまとわりついた寝間着が肌にからみつき、それがさらに腹立たしくて乱暴にベッドから出た。
反射的に呼び鈴を鳴らそうとしたが、やめた。時間が早すぎる。
以前、明け方にわが家の老執事モーガンを呼んだら、あとで伯爵である父に叱られた。こんな時間に起きている物好きはいやしないのだと。彼らは夜遅いのだから、もう少し気を利かせてやれとも。
父はそう言ったのだが、あの主従は三十年以上、仲が良い。不機嫌になったモーガンの肩を、父が持ったとしか考えられなかった。
仕方なく自分の手でリネンを洗面器で濡らし、それで身体を拭いた。クローゼットから下着とシャツ、ラウンジ・スーツを乱暴に取り出すと、すばやく着替えて早朝の散歩に出る。
とてもではないが、二度寝する気になれなかった。悪夢を見るのが怖い。
部屋を出て廊下を歩き、階段を下りる。静まり返った屋敷は不気味なほどに冷たい。春とはいえ、夜はまだまだ肌寒い季節でもある。
ホールを通って正面玄関の扉を開けると、どっと朝露に濡れた空気が肺を満たす。草木の匂いと薔薇色の空が、悪い夢の残像を吹き飛ばしてくれた。
――まるで生まれ変わったようだ。
悪夢を見たあと気晴らしで散歩をするたび、アーサーはそう感じた。
しかしどうして、いつも同じような夢を見るのだろう?
ミルドレッド、ミルドレッド、ミルドレッド……。
夢のなかの恋人の名前だ。彼女はわが家のメイドで、牛の乳を絞ってバターを作ったり、鶏小舎で家畜の世話をしている。しかし、現実に彼女は存在しない。
そしてセオドア。自分と同じ顔をしたあいつは、若かりしころの父――現ファリントン伯爵なのだろうか。だとしたら、自分はアーサー伯父になった夢をみていることになる。若くして結核で病死した、あの。
しかし、どうして、あんな夢を?
柳枝が垂れ下がる東洋風庭園を歩きながら、アーサーはおのれの両腕をさすった。何度も自問するのだが、答えはいっこうに出てこない。
少年のころからミルドレッドの夢を見ることは稀にあったものの、一年ぐらい前から、頻繁に彼女が出てくるようになった。悪夢のときもあれば、恋人同士らしく語らい、肌を合わせることもある。口にするのがどうにも恥ずかしくて、夢の内容はだれにも話していなかった。もちろん、父にも。
――そんな話をしたら、すぐにどこかの由々しき令嬢と結婚させられるしな。
昔から、欲求不満を解消しようとしたら、若い妻を持つことが一番だとだれもが言っているではないか。まだ所帯を持つ気になれないし、結婚相手は自分で選びたいのもある。
さらに日が高くなると、夢の世界がじょじょに遠くなっていき、いくぶん気持ちが静まった。森を散策しながら、明日、催される舞踏会のことに考えをめぐらせる。
ファリントン伯爵家の長男であるアーサーには、まだ将来を誓った令嬢はいない。大学を卒業した今年から社交界に出入りするようになったのだが、どの令嬢を見ても心が揺れない。
そして、目を閉じるたび浮かぶのは、夢の女。ミルドレッド。
アーサーは柳の下でまた頭を抱えてしまった。
夢なのに、あの女しか思い浮かばないのが情けない……。
庭園を抜け、小屋の前を通ったら、歌が聞こえてきた。若い女の声である。何度も早朝、通りすぎたのだが、初めて聴く声と歌だった。
ふと興味がわいた。悪い夢を忘れさせてくれるほど、女の澄んだ声が美しかった。
そっと窓をのぞくと、娘が大きな攪拌機のレバーを回していた。歌が終わるとなかの分離した水を捨て、水道水を注ぎ入れる。さらに攪拌機を回し、また水を捨てるを繰り返し、ついにできた大きな塊を塩で練る。バターのできあがりだ。
慣れた手つきで作業をしている娘の横顔から目を離せない。キャップからのぞく髪は濃い茶色で、瞳は深い緑。幼い顔つきだが、身体の線は成熟した女そのものだ。
まるで……。
夢のなかでいつも出会う、あの非業の死を遂げた恋人と重なった。
あまりにも凝視してしまったためだろう。気配を察知したメイドが窓に顔を向けた。ふたりの視線がまともにぶつかる。
「だ、だれ?」
明らかに警戒をふくんだ問いかけだった。
「僕は――」
名前を言いかけて、やめた。ここで正体を明かせば、娘が心を開いてくれないと思ったからだ。しかし、どう返答していいのかわからない。
「散歩をしていたら、きみの歌声が聞こえて。とても良かったから、つい。名乗るほどの者じゃない」
アーサーはデイリー・ハウスを去った。初対面だというのに、ひどく赤面しているのが自分でもわかった。
午後、アーサーは妹令嬢マーガレットとともに、乗馬を楽しんでいた。領地の丘をふたりで周り、草を食む牛や羊を景色に草原を駆けぬける。さわやかな夏の空気が心地良い。
空はどこまでも広く、近隣の村のそばに広がる小麦畑が、海の波のように風で揺れていった。このまま天候が順調であれば、今年の収穫はかなり見込めそうだ。最近は安い海外の穀物が多く輸入されていることもあり、先代ほど領地の収入がないのでありがたい。
白馬銀星号はアーサーのお気に入りの愛馬で、昨年、父が選んでくれた。体力がすこぶるあり、遠駆けでもへこたれることを知らない。その代わり、アーサーと屋敷の馬丁ぐらいにしかなつかなかった。
マーガレットが乗っている栗毛の馬は、気性が優しくて従順だ。これも父が選んでくれた馬で、人なつこいし、ふだんから馬をかわいがらないマーガレットでも喜んで乗せる。
兄妹は村をあとにし、小高い丘に到達する。そこはファリントン伯爵家が昔、居住していた古城の跡地で、十九世紀末の現在でも崩れかけた壁や柱が残っている。先祖が城を捨てて三百年以上、経過していた。今、アーサーたちが住んでいるのは、チューダー朝時代に建てられ、二度改築された石造りの城屋敷である。暮らしやすいよう、つねに最新の設備を整えている。
初代ファリントン伯爵はノルマン朝時代の騎士であり、数々の戦功をたてて王から爵位を叙せられた。それ以来、一族は城を建てて現在にいたるまで領地を支配してきた。
甲冑の幽霊が出るという噂の廃墟は、子どもたちの格好の遊び場になっている。アーサーとマーガレットも子どものころ、ピクニックを楽しんだ思い出の場所でもある。武勲を飾った初代が城を建てただけあり、見晴らしがいい。古い城というものは、いつ敵が攻めてきても察知できるように、小高い丘に建てられた。
アーサーとマーガレットは馬を下り、倒れた石柱の上に腰掛ける。村で買ったビール瓶の栓を抜き、喉の渇きを癒した。
「最高だな!」
アーサーは額に手をかざし、遠くの景色を眺めた。
「そうね。お兄さまといっしょにここへ来たの、久しぶりですもの」
マーガレットは残り半分のビールを飲みながら、微笑んだ。子どものときのように、一本の飲み物をふたりでわけ合ったのも久しぶりだ。
「これからはいつでもおまえと来れるぞ。窮屈な寮生活は、もうこりごりだ」
と、ここまで口にして、失言したことに気がついた。
「いや、その、メグ。おまえが結婚して欲しくないわけじゃ……」
紅い上着に白い大きくふくらんだズボン――乗馬服姿の妹は微笑んだまま、言った。
「お兄さまがそうおっしゃっるのなら、うれしいわ。お父さまったら、わたしの顔を見るたびに『結婚、結婚』ばかりですもの。うふふ」
「早くいい人が見つかればいいな」
「ええ」
マーガレットが立ちあがり、崩れかけた城のなかへと入っていく。アーサーもあとをついていく。嫁入り前の妹を傷つけるようなことがあってはならない。明日の夜は大切な舞踏会も控えている。
「もどろう、メグ。瓦礫が崩れ落ちたらどうするんだ?」
「そうなればいいかしらって、ふと思ったの」
「そんな気まぐれを言うんじゃないよ」
「……」
マーガレットの青い目が遠くなる。視点が定まらないように、ぼんやりとした顔で崩れかけた古城を見つめていた。
「屋敷に帰りたくないの」
「メグ?」
「お兄さまはいいわよね。結婚されてもずっと屋敷にいられるんですもの」
「……おまえ、言っていることが矛盾していないか?」
いつになくようすがおかしいマーガレット。そのとき、からからと音を立てて、小石が落ちた。アーサーは反射的に妹の身体を抱きしめ、かばう。
胸の感触があった。コルセットで締め付けられているそれは、男の官能を刺激するには充分すぎるほどの大きさがある。
――メグと結婚したやつのものになるんだよな……。
と、あってはならない嫉妬が湧いた。
いけない、とおのれに言い聞かせ、「大丈夫か」と声をかけながら抱きしめた妹を解放する。
「ええ。大げさね、お兄さまったら」
「大げさじゃないだろ。何かあったらそれこそ大変だ。そろそろ、もどろう。茶の時間に間に合わない」
ふたりは馬に乗ると、もと来た道を引き返した。