ジョン・エリオットの日誌
クレオパトラは微笑まない 01


 ごくわずかに。
 かろうじてそれは彼の耳に入った。
 同時に。
 完璧なまでに保たれていた小さな世界の秩序が、崩壊の危機に直面したことも意味する。


 アンダーソン家に仕える青年執事、ジョン・エリオットの視線は、主人であるサー・リチャード・アンダーソンの手元をとらえていた。直前まで機敏に、動いていたナイフが止まったからだ。
 蜂蜜色に香ばしくローストされた鴨肉の塊。桜色の肉片のなかに、ありえない色が混じっている。主人が肉を切り分ける銀ナイフと、刃先に触れた鉛色の小さな物体。鴨肉に留まった鉛弾はさすがにごまかせる状況ではない。
 かといって、切り分ける前に皿を下げてしまえば、客人にアンダーソン家の恥を堂々とさらすことになってしまう。
 エリオットは瞬時にさとった。
 これは猟銃の鉛弾。鴨を注意深く解体せず、そのまま料理してしまったのは明らかだ。
 決してあってはならない現実が、今、彼の眼前で繰り広げられていた。
 主人の射るような水色の瞳に、エリオットはとらえられる。
――なんとかしろ。
 そう無言で命令されていた。
 非があるのは料理人だが、階下の世界の責任者は執事である。当然、この場をうまく乗り切れないと主人が判断したのだから、その任務は彼に圧しかかってくるのだ。
 エリオットは仮面のごときの無表情を努めて崩さないまま、視線だけを食卓に動かす。
 まずサー・リチャードと対の位置に座っている女主人。客人であるピーターズ氏と、当たりさわりのない世間話をしている。
 客人のピーターズ氏であるが、今まさにワイングラスが空になる直前だった。この御仁はかなりの酒好きだから、グラスを満たしておけば、主人の手元に神経が注がれることはないだろう。
 若主人であるジェイムズ・アンダーソンと、一瞬だけ視線が合った。父親の商売のお得意さまでもある客人。その娘にうんざりしていることは、使用人たちの噂どおりのようで、水色の瞳を冷笑混じりに細めていた。彼の右手に座っているキャサリンが気の毒なほどだったが、曲がりなりにも准男爵家の紳士なので、表面上は無難な世間話をしていた。
 ここが彼の自室だったら、アンダーソン一家の特徴である、明るい茶色の髪を苛立たしく掻かれたことだろう。あれでは、鉛弾のひとつやふたつ、客人に食わせてやりたいと思っているにちがいない。
 これならごまかせる。
 そう確信するまでにかかった時間は、数秒足らずであったろうか。
 エリオットが「皮です」とだけ小声で主人にささやくと、すぐに燕尾服に白いボウタイ姿の給仕がやってきた。空のワイングラスを銀盆に乗せている。
 黒い髪と瞳の従僕、マークは長く屋敷に仕えている。ごくわずかな秩序の乱れを察したようだ。同じく給仕姿のエリオットと目配せする。
 執事と従僕が互いの意思を通わせたのはこれきりで、後は淡々と給仕の続きをこなすだけだった。エリオットはワイングラスをボールに張られた水ですすぎ、デカンターから赤いポートワインを注ぐ。本来より多めに。決して褒められた行為ではないが、この非常事態なのだ。利用できるものはできるかぎり利用しなくては。
 そのあいだ、主人は銀の大皿に盛られた鴨肉の皮だけを切り分けた。メインの肉料理は晩餐の主催者である主人が振舞う形をとらなくてはならない。あらかじめ用意された五枚の陶器皿にそれぞれ盛り付ける。
 そしてマークが給仕をするのだが、テーブルに置かれた皿を見るなり、ピーターズ親子の表情がにわかに変わった。が、すぐにもとの社交的な笑みにもどる。
 不審に思われても仕方がない。皿の面積に対し、料理はわずかな鴨肉の皮。それだけなのだから。
 内心動揺しているだろう主人も、いつもの紳士的ふるまいを忘れず、にこやかにその場を進行させる。
「最近、海の向こうでは、鳥の皮をいただくメニューが流行しているそうですよ、ピーターズさん」
「それは初耳ですな」
「私もつい先日、エリオット――この執事から聞いたもので、さっそく作らせてみたのです。なかなか斬新なメニューだと興味ありましてね」
 ピーターズ氏は皮を食す。あまりにも量が少ないものだから、あっけなくすべて胃の中に入ってしまった。
 キャサリンが嬉しそうに感想を言った。
「まあ。これ、おいしいわ。歯ごたえがとても良いですもの」
 すました表情でジェイムズが答える。
「それはどうも。何しろ、限られた鴨からしか作られませんから、あなた方は運が良いですよ」
 しかし気持ちがこもってないのが、傍から聞いてわかる。棒読みにちかいセリフを口にしていた。
「ほう。貴殿の使用人はなかなかの、食通らしいですな。いやあ、ずいぶんと恵まれた待遇だそうで、私も見習わなくてはなりませんなあ」
 ここで会話が終わった。
 と、油断したらしっかり、続きがあった。
「して、どちらの郷土料理ですかな?」
「どこだったでしょうなあ……」
 主人の視線が、エリオットに移る。
――答えろ。
――滅相もない。ただの鳥皮でございます、旦那さま!
 などと答えるわけにもいかず、素早く思考回路をかけめぐらす。鳥皮といえば何かの本で読んだことがあったような気もする。あれはたしか。
 ううーん、あまりにも記憶がおぼろげでそれ以上思い出せない。
 ならば作り話で乗り切るしかない。だったら誰も知らないだろう、遠い国の料理にしてしまえばいい。適当にごたくを並べても知らないような国の話ならば、後々、追及される可能性が低くなる。
「清王朝の宮廷に仕えていたある料理人が、屋台で売り出したのが始まりだとか。なんでもその男は欲に眼がくらみ、皇帝がお召しになる酒を一甕ほど市場に売ってしまいました。後日、宦官に発覚してしまい、鞭打ちの計を食らって半死のまま、家族とともに香港に逃げたようです。傷が癒えたころ、日銭を稼ぐために元料理人は、屋台を香港の港町に出しました。元宮廷料理人ですから、腕はなかなかなもの。特に評判だった料理は、皮しか食さないもの珍しさもあいまって、やがてインドシナにも伝わり、駐屯していたあるフランス人将校が、メニューをパリに持ち帰りました。やがてドーバーを渡り、ロンドンのクラブやレストランにも伝わったのだと、わたくしめは知り合いの料理人から、聞きました次第にございます」
 ピーターズ氏が呆気にとられたように言った。
「……ずいぶんと、詳しいんだな」
「お役に立てたようで、光栄に存じます」
 皿を片付けていたマークの動きはいつもと変わらず機敏だったが、内心、笑いをこらえているにちがいない。
「あら、そうだったのね……」
 目をぱちくりさせながら、女主人が安堵したように笑みを浮かべた。
 あのメイン料理が皿に並べば、不安になるのも無理はない。


 それから晩餐は滞りなく進行し、あとはデザートを残すだけとなる。ここで執事は食堂を退室し、あとは従僕ひとりに任せることになる。
 次は使用人たちの夕食の時間だったが、裏階段を駆け降りて階下の廊下に出たエリオットが向かったのは、使用人ホールではなく、女料理人の君臨する厨房だった。
 堂々と出入する扉を開けてやる。奥の洗い場で、三人の女中たちが、忙しく皿洗いに励んでいるのが見えた。
 ここは使用人たちを仕切る執事といえども、闇雲に立ち入ることは許されない。普段は給仕の料理を受け取るとき、別の小窓を介しているほどだ。それだけ料理人は恐れられていたし、だからといって素晴らしい料理の腕を持っていると、簡単に解雇できないのが大きな理由でもあった。
 それでも今のエリオットには、「ためらい」という言葉はどこにもなかった。それだけ怒りがおさまらない。
 故意に足音を大きく立て、調理台に置かれた皿を見つけるや否や、残飯を素手でつかんだ。皮だけ剥がされた哀れな鴨肉である。
「おい、これはどういうことだ?」
 椅子に腰かけ、煙草をくわえている太った料理人、ハリスンの前に突き出す。
「ああこれね。どうかした?」
 まったく悪びれることなく、彼女は豪快に紫煙を吐き出す。そもそも館内は禁煙を徹底しているはずだが、堂々と目の前で喫煙している態度からして、大いに面白くないことがあるようだ。
「どうもこうもあるか。僕の寿命が一〇年、縮んでしまうかと思った」
 ハリスンは肩をすくめる。
「いいじゃない? エリオットさん、あたしよりずっと若いんだし。一〇年ぐらい勘定のうちに入んないよ」
「鉛弾が残ってた。そんなことも確かめられないと言いたいのか? 基本中の基本だぞ!」
 あまりにも声を荒げてしまったものだから、料理人の下で働く台所女中三人が、洗い場から青い顔をして見守っている。特にまだ一二歳のコニーはひどく怯えていた。
「あら、それはいけないねえ」
 ハリスンは人差し指を動かしながら「コニー、おいで」と、低く言った。歩いてきた少女の金髪のおさげをつかむと、平手打ちを食らわせる。二度、三度。叩きのめす音だけが厨房にこだまし、コニーの悲鳴はなかった。
「どうしてあんたは、いつまでたっても役立たずなんだろうね! 大切な鴨もまともにさばけないんじゃあ、足手まといもいいところだよ! こんな女中、あたしはいらない! さっさと出て行け!」
 そしてエリオットの手から鴨肉の塊を奪うと、思いっきり投げつける。コニーは歯を食いしばり、涙をこらえているようだった。じっと床を見つめたまま何も答えない。
「おい、ハリスン夫人」
「まだあたしに用が?」
 ひどく苦々しい思いにとらわれたまま、エリオットは答える。
「彼女たちを監督するのも、あなたの役目だろう?」
「それがどうしたっていうのさ。そんな余裕、今のあたしにあるとでも?」
「厳しいのはわかるが、それはどこも同じだ。厨房だけ優遇するわけにはいかん」
 吸殻を床に落とし、力任せに踏みつけながら、ハリスンは言った。
「なにさ。そうやってあたしに責任をなすりつけるつもり? それもこれも、ここの執事が情けないからだよ。旦那さまと交渉して、女中のひとりも増やすこともできないのかい?」
「できればそうしている」
「できないから、うんざりしているんだよ、あたしはっ!」
 さらにハリスンは詰め寄り、今までの鬱憤を晴らすように声を荒げる。
「だいたいね、どうしてこのあたしが家政婦の仕事までやんなきゃなんないのさ! 食材の注文やパンを焼くならまだしも、茶菓子やジャムまで手が回らないんだよ! なのに客はあいかわらずやってくるし、雇った新米はすぐに辞めちまう。やっと次が来たと思ったら、ガキもいいところ。面接して雇ったのはどこの誰だろうねえ?」
 ここで引き下がってしまえば、周囲に示しがつかない。当然のように言い返す。
「僕はあなたの意思を反映したまでだ。余計な入れ知恵ばかりつけた年増女中より、世間知らずの娘がいいと、一ヶ月前に言ったことをもう忘れたのか?」
「ああ、そうかい。そうだったね……」
 片方の眉尻を上げたまま、ハリスンはエリオットに背を向けた。エリオットもすぐさま厨房を出る。コニーのすすり泣く声と、さらに叱責するハリスンの声が聞こえるが、かまっている暇はない。
 しかも間の悪いことに、騒ぎを聞きつけた使用人連中が、こぞって厨房をのぞきこんでいた。が、すぐに散った。連中の行き先は使用人ホールだ。料理人と台所女中をのぞく使用人たちは、ここで簡単な夕食をすませることになっている。
 いつもはすべての晩餐が終了した後に、使用人の夕食はゆっくりと開始されるが、客のある日は階上の時間が長い。階下では席につくのも半ば駆け足だった。主人たちがゆっくりとデザートを楽しんでいる間に、あわただしくすませるのだ。
 階上でデザートを配り終えたマークがすでに、席の前で立っていた。真面目くさっているが、晩餐の出来事を話したくて、ひどく心がうずいているにちがいない。
 上座にもっとも近い席で腕を組んでいる壮年の紳士――ピーターズ氏の従者は、黙したまま周囲を観察している。いっせいに入ってきた使用人連中を、ひとりひとり確認するように目で追っていた。
 エリオットが上座につくと、大皿に盛った肉とジャガイモ料理を、彼が人数ぶんにわけていく。まず自分、次にピーターズの従者マクニール、そして侍女のナターシャ、運転手兼馬丁のヒュー、第一従僕のマーク、家女中頭のメイベル……。
 今日は苛立っているせいか、最後の三皿となったところでわずか一皿ぶんしか残らないことに気がつく。いつにない失態で、我に返るものの遅かった。
 それでも平然とさらに三つに分け、若い第二従僕のビリーに給仕させる。悪いが家女中のエレン、スー、下男のトムにはこれで我慢してもらうことにする。
 不平を言うものはひとりもいない。ここでは執事と呼ばれる男が絶対なのだから。
 祈りをすませ、いっせいに食事がはじまった。ここで余裕があればエリオットが話題を提供するのだが、とてもそんな気分にはなれず、黙々と食事が続く。しかしすぐに皿を空にしてしまうと、年少の女中が食べ終えないまま、すべての皿が下げられてしまう。前の執事がひどく早食いで、エリオットもそれに苦しめられたから、なるべく周囲にあわせるよう配慮をしていた。
 だが、間がもたない……。
 ちらり、とすぐ右手の下座のマークに目で合図をし、わずかに唇を動かした。
――いいぞ。
 ぱああっ、とマークの瞳が輝くと、エリオットは言った。
「マーク、あの鴨料理、どう思った?」
 すぐに嬉々とした調子で言葉が返ってくる。
「最高ですよ! 俺も食いたいですね! なにしろ、皮だけ食って、肝心の肉は捨ててちまうなんて! でもやっぱり、中味を食いたいです。エリオットさん、残りはどうされたんです?」
「流儀にそって捨てた」
「ええー、もったいない。だって、あれ、もともと嘘っぱちなんでしょう?」
「鉛弾のおかげで、素敵な創作料理を披露する羽目になった。まったく、冷や汗ものだ。もし弾がバレてみろ、旦那さまの面目をつぶす最悪の結果になっただろう」
「ですよね。何かあったんじゃないかと、俺も冷や冷やしてましたもん」
「忘れたくても忘れられないな」
「俺もです。さすがですよ、エリオットさん。もし俺が執事やってたら、あとで旦那さまに張り倒されてました。あんな一瞬で、中国の宮廷から香港の屋台、そしてフランス人将校って、よく思いつきますね。笑いをこらえるのに、必死でしたよ」
 予想通り、食堂は忍び笑いに包まれる。上の世界のことはしばしば階下でゴシップとなり、忙しい日々を紛らわしてくれる。
 特に今夜の出来事は後々、伝説として語り継がれていくにちがいない。忍び笑いがただの談笑に変わるのに時間は必要なかった。
 が、ひとりだけ表情を崩さない輩がいる。
 ピーターズ氏の従者、マクニールである。すでに皿は空になり、視線は痛いほどエリオットに向けられていた。無言なのが余計、不気味である。
 迂闊だったと、エリオットは思った。その場を和ませたのはよかったが、肝心のこいつが同席していたのを、すっかり失念していた。彼の口から、あれが嘘八百なのだと、ピーターズ氏に知れる可能性はかなり大きい。
 にぎやかな食堂に、ベルの音が鳴り響いた。
 すぐにフォークとナイフを置くと、エリオットは立ち上がる。ここで使用人たちの夕食は終了した。
 一階の食堂からの呼び出しである。いつもなら、こんな時間に鳴らないものだが、何か大事があったのだろうか。
 まさか、あの鴨料理が…………。
 最悪の予感を胸に秘めながら、食堂に入ると、ピーターズ氏がシェリー酒を所望しているとのことだった。
――まだ飲むのかよ、このワイン樽紳士め!
 内心そう悪態をつきながら、無表情でエリオットは答える。
「かしこまりました」


 使用人ホールは居間も兼ねている。秋が深まった田舎の夜に、暖炉の小さな炎は欠かせない。戸締りを確認する前に、ひとりここでジャスミン茶を一服する。
 エリオットは眼鏡を外し、眉間を何度も指で揉んだ。目の疲労がひどかった。
 それにしても疲れた。来客があって忙しく、睡眠不足の日々が続いている。昼の短い空き時間を使って仮眠をとりたくても、他の使用人連中があれこれききにやってくるから、心休まる時間がほとんどない。
 一年前に老齢のため、パーシー夫人が引退してからというもの、この屋敷に家政婦はいなかった。すぐにでも次を雇うつもりだったのだが、年々、家計が苦しくなっていき、そのしわ寄せが使用人の雇用まで押し寄せてきたのだ。
 だからといって、仕事が減ったとはいえず、訪ねてくる客人たちがあるたび、料理人のハリスン夫人は不機嫌をぶつけてくる。
 あの鉛弾だって、知っていてそのまま調理したのかもしれない。晩餐の席で発覚してしまえば、誰かが責任をとって解雇されるだろう。コニーが明朝、屋敷を去ることになるのは目に見えていた。
 晩餐のあと、さいわいなことに主人と若主人とピーターズ氏の談話は、すぐに切り上げられた。これで三日目だから、話題が徐々になくなっていったものとみえる。ビリヤード室で酒の給仕をしていたとき、エリオットはそう思った。
 この調子だと、客人は明日には本題を切り出しそうだ。
 ジェイムズさまはそれをどうあしらわれるのかが、使用人連中のもっぱらの噂である。
 父親である主人のサー・リチャードと長男のジェイムズは外見はともかく、中味はまったく似ておらず、どちらかといえば長男はやや神経質な母親譲りの性格だった。
 機嫌の良いときなら問題ない紳士なのだが、ひどく憂鬱な気分になると容赦なくなじられる。それをうまくかわせるのは長年世話をしているマークぐらいで、あとの使用人たちは腫れ物に触るように接していた。いつどんなささいなことがきっかけで、解雇されるかわからない。
 しかし、事情が事情だけに、主人も女主人もそれを諌めることはまったくない。
「これも頭痛の種にならなければいいんだが……」
 ぽつりと、そう言葉が口をついて出たとき、不意に人影があらわれた。慌てて眼鏡をかけ、影の人物を確認する。
「少々、お時間をいただけませんかな?」
 マクニールだった。すでに主人であるピーターズ氏は就寝しているから、ここでやっと彼の自由な時間ができたというわけだ。
「ええ、それは構いませんが。……あ、茶を淹れましょう。紅茶でよろしいですか。緑茶もございますが?」
 すぐさま制される。
「いや、わたくしももうすぐ休みますから、お気になさならずに」
 ここでマクニールは食堂を見回し、隅に片付けられていた椅子を一脚手に取ると、それを持って暖炉のそばにやってきた。ソファと微妙に距離を置いた椅子に座る。
「隣が空いてますが……」
 ひきつり笑みを浮かべながら、エリオットがそう言った。
「ひょっとすると、あなたさまには不愉快な話題かもしれませんゆえ。失礼ながら、防御策をとらせていただくこと、お許しくださいませ」
 カップを持ったまま、さらに笑みがひきつる。
「ご安心ください。僕は暴力はからきし苦手で――」
 ここまで口にして、あの鴨料理が頭に浮かんだ。血の気がたちまち引いてしまう。
「あの件は口外いたしません。ご安心を、エリオットさま。それより率直に申し上げますが、今の給金にご満足されておりますでしょうか?」
「……」
 これが呆気にとられずにいられようか。
 まさか、これが噂の、使用人の引き抜き?
 しかし誰が?
 決まっているではないか。あのワイン樽の腹をした紳士……。
 二の句が告げられない相手に構わず、マクニールは話を続ける。
「ご主人さま――ピーターズでございますが、ご出身はアレでも、懐具合は保証いたします。一〇〇でいかがでしょうか?」
「は? 一〇〇? 冗談だろ? シェフじゃあるまいし……」
「ご冗談ではございません。ピーターズはあなたさまを、とても気に入ってます。ぜひ、当方の屋敷でお仕えしていただきたいとの意向」
 驚くほど高い金額に、エリオットは生唾を飲まずにいられない。
「しかしどうして、この僕を? 自分で言うのもなんですが、もっと有能な執事はいるでしょうに……。料理人にもなめられているぐらい、僕はまだまだ未熟です。夕食前の騒動をご存知でしょう?」
「だからこそですよ」
「だからこそ?」
 マクニールはぐぐっと、顔を近づけ、さらに小声になって言った。
「屋敷の管理ではなく、従者として仕えていただけないか、と」
「でもそれでは、あなたが……」
「わたくしはピーターズの執事にございます」
「そ、そうだったのですか」
 思いがけず大先輩の同業者と顔を合わせることとなり、いささか緊張せずにいられない。自分の仕事ぶりを観察しながら、心のなかであれこれ評価しているのだろうか。
 堅い表情のままマクニールは淡々と話し続ける。
「先日、従者が突然、屋敷を逃げるように去ってしまいました。心ならず解雇となりましたが、問題は後任の従者を探すこと。しかしこのご時勢、紹介所に求人を出しても、欲に目が眩んだ男しか顔を出しません。ほとほと困っていたところに、こちらのアンダーソン家に従者として参ることになりまして、運の良いことにあなたさまがいらっしゃった……というわけでございます」
「運の良い……ねえ……」
 嫌な予感がして、この質問をぶつけてみた。
「おききいたしますが、前の従者はどれほどの期間で解雇されたのですか?」
「半月でしたかな?」
「では、さらにその前は?」
「三ヶ月でございます。こんどこそ、仕えてくれるだろう……と安心した矢先に、屋敷を逃げ出してしまいました。今でもあの逸材は惜しいと、ピーターズは悔やんでいます」
「どのへんが逸材の基準なのでしょうか?」
 ここで一度、マクニールは咳払いをし、つぶやくように答えた。
「まず、使用人として忠実で気が利くこと。これは当然でございます。そして背が高く、整った顔立ちであること。それもまた、男性使用人としての大切な条件ですし、世間の常識でございますね。そして……」
「まだあるんですか?」
「金髪であること。青い瞳ならなおさらよし。あなたさまの場合、瞳は青灰色ですし、眼鏡をおかけですが、そのぶん、お声が美しい。ぜひとも、就寝前の朗読をわたくしに代わって、お願いできたら嬉しいのでございますが」
「……」
 ここでまた呆気にとられた。
 なんという基準!
 そう言われてみれば、目の前のこの中年執事も金髪に青い瞳である。二十年も前だったら、かなりの美男子で通っていたにちがいない容姿だ。
 ここまで聞いて、答えは決まりきっていた。
「では、僕は失礼いたします。もう見回りの時間ですから!」
「ぜひともご一考を」
 視線も合わせず、汗のにじんだ手でカップとソーサーを持ったまま、食堂を出て行った。
 もしここが屋敷でなく、場末の飲み屋だったら、ぶん殴っていたところだ。
 それほど、不愉快だった。
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