ジョン・エリオットの日誌
雨の日とビスケットの味は憂鬱 01


 夏の終わりの小雨は肌を震わせるほどに冷えていた。
 この気候だと秋の気配はすぐそこまで迫っている。どこまでもまぶしい夏の日差しにしばらく会えないと思うと、ジョン・エリオットはかすかにため息をつかずにいられない。暖炉の火を管理するという、面倒な日々の仕事がひとつ増えるからだ。
 曇天の広がる窓の外をながめた後、執事室で今日の予定を組み、にらめっこする。
 なんとかうまくスケジュールを進めていけないだろうか。
 今朝までの予定では、午後からマークとトム、エレンが半日休暇で、ハリスン夫人も休暇をいただけることになっている。若主人のジェイムズも今週は不在だし、次男のヘンリーは昨日、寄宿学校にもどってしまったし、朝と夕刻の勤め以外は少ない人数で充分やっていけるはずだった。
 厨房を管理するハリスン夫人の機嫌があまりよろしくない。女中連中に八つ当たりされたら、その女中たちが不機嫌になり、最悪、客人に影響をおよぼしかねない。
 屋敷の使用人たちがもっとも嫌うもの。
 それは。
「手紙のひとつもよこさず、電話一本で訪問だぜ。礼儀のなってない客だ。適当にもてなしても文句はでねえよな」
 ノックもなしにエリオットのいる執事室に入ってきたのは、黒い髪をした第一従僕のマークである。遠慮なしに予定表をのぞきこみ、すぐに放った言葉がそれだった。
「急な来客ほど、落ち着かないものはないよ」
 青灰色の瞳を細め、エリオットはそう言った。人差し指を眉間にやり、わずかに眼鏡を押し上げる。ずっと凝視していたせいか、眼窩が疲れているのを感じずにいられない。
 ここでマークがひそひそ話をするように、客人の情報をエリオットに伝える。ひととおり話したあと、真面目な顔をして彼は言った。
「休暇は返上か?」
 マークの黒い瞳に見つめられる。今日の休暇で村での買い物をすませるのだと、昨日言っていたのを思い出す。彼のことだからほんとうの目的はべつにあって、たまの半日休暇をずいぶん前から楽しみにしていたにちがいない。
「いいや。幸い、客人はお茶をご一緒するだけで、泊まりではないようだ。僕とビリーでじゅうぶんに間に合う」
「ほんとに?」
 ぐぐっと、マークの顔がちかづいてくる。まっすぐにエリオットを見つめ、真剣なまなざしになった。太い眉と豊かな睫は黒く、薄い小麦色をした肌はきめ細かく、精悍な体つきの彼にはさぞかしスペイン王カルロス一世が身にまとっていたような、中世の黒い甲冑が似合うだろうな、でも髭がないと貫禄が足りなさそうだな……、などと漠然と思っていたら、凛々しい眉がさらに寄った。
「おい、正気か?」
 その言葉で我に返り、エリオットは頬が熱くなる。
 昔から夢想するくせがあって、ひまなときはもちろん、忙しい時間でもときどき意識が別世界に飛んでしまうのだ。これも読書のしすぎだと従僕時代、何度マークにからかわれたことだろうか。
 視線をそらし、エリオットは答える。
「大丈夫だから、予定通り休暇を」
「そうか。じゃ、遠慮なしにいただくぜ」
 といい終わらないうちに、マークの大きな手のひらがエリオットのくすんだ金髪に乗せられ、くしゃりと頭髪を乱された。反射的にその手をつかみ、強引に離す。
「なにをする?」
 マークは悪びれる様子も見せることなく、ちょっとだけ目尻を緩めた。
「おまえ変らないなあ。そういうところがかわいくてたまらないんだな、って」
 からかわれていると知っても、エリオットは何も言えなかった。こういうときはどう切り返しても、余計にからかわれてしまうのが、常だったからである。
 ふとマークの声の調子が落ちた。からかい好きの笑った目が消え、優しい微笑に変わる。
「ベティーの親父の知り合いがよ、歳でそろそろ宿屋の経営を引退したいんだそうだ。でもその老夫婦には子供がいないし、跡を継いでくれる親戚もいない」
「まさか。ベティとおまえがその宿屋を譲り受けて……」
「ああ。一ヶ月前に話があって、今日、返事をする約束をしている」
「そうか……」
 マークはついにこの屋敷を出て、新たな人生を歩むことを決めていたのだ。来年で三〇歳になるのだから、明日、結婚してもまったくおかしくない。この歳まで独身でいたのが不思議なほど彼は村の娘に人気があったし、何度かベティ以外の娘たちと遊んでいたのも見かけたことがある。
 最近は浮いた話がないと思っていたら、彼女とは本気だったようだ。
 そうならそうと、もっと早く僕に。
 …………。
 なんともいえない感情が、エリオットの胸に去来した。
 鼓動が高鳴る。
 祝福しなくてはならないはずなのに、なんだろうこの寂寥感は。
 無口になった自分を気遣うように、マークに肩を叩かれる。
「返事は今日でも、譲り受けるのは来年の春だ。まだ先の話さ」
「あ、ああ。まだ夏だものな」
 自分でもなんて間抜けな受け答えだろうと思ったが、それ以上言葉がでてこなかった。それだけ動揺がひどいともいえる。
 ぱたん、と執事室のドアが閉まり、ひとりになってもエリオットは、しばらくその場で固まっているだけだった。


 客人は四名だった。ロンドンの法律事務所で事務弁護士をしているバンクス氏と、その妻、息子、娘である。主人であるサー・リチャードの父親と、氏の伯父に交流が何度かあったようで、それが縁となって知り合ったそうだ。さぞかし親しいのかと思ったら、バンクス氏の勤めている事務所でサー・リチャードが一度お世話になっただけで、最近の個人的な交流はたまの手紙程度だという。
 電話でバンクス氏が言うには、一家そろってバースで保養をすることにしていたのだが、宿泊先の手違いで三泊の予定が急遽、二泊になってしまったらしい。おわびをかねて、宿泊費は半額にしてもらえたものの、そのまままっすぐ帰途につくのも味気ないので、たまたまそう遠くない村に屋敷があるアンダーソン家のことを思い出したのだった。
 世間話をしながらのお茶だから、たいしたもてなしも必要なさそうである。一家が宿泊しないのも、主人とあまり親しくない間柄なのだと教えてくれる。親しみより遠慮が上回る仲なのだろう。
 ……と、バンクス氏の電話をとったマークが経緯を説明してくれた。
 使用人として幾度もさまざまな客人を見てきたエリオットとマークは、直接会話を耳にしなくても、その前の主人とのやりとりでだいたいの関係を把握できた。その深さいかんで、どれだけ丁寧にもてなすのかを決めるのも、主人と執事の暗黙の了解の仕事なのだ。
 今回は、マークの言うとおり、適当で大丈夫のようだ。菓子も作り置きの焼いたもので充分である。
 そう結論付けるエリオットだったが、同時に苦い記憶もよみがえってくる。
――たとえ盗んでなくても、疑われるようなことをしていたおまえが悪いんだ。
 冷たくそう言い渡され、雨の降るなか旅行鞄を抱えて小さな屋敷を飛び出したことが、まるで昨日のことのように目に浮かぶ。
 たった一ヶ月だったが、前の主人、ジョージ・バンクス氏と九年後に再会するとは。
 なんという奇遇。
 こんなめぐり合わせがあるというのだろうか。
 動揺するエリオットだったが、いくらか心が落ち着くと冷静になる。
 主人であるサー・リチャードとバンクス氏は親しいまでとはいえないが、知り合いであることには変わりない。なんらかのきっかけがあれば、顔を合わせる機会もあるだろう。そもそも九年間もまったく、氏が屋敷を訪れなかったことが奇跡である。
 緊張する反面、かつての主人は自分のことなど覚えてないだろう。それだけ使用人は物みたいなものだし、ひどいときは主人が勝手に名前を決めてしまう。女中だったら誰がやってきても「メアリ」と呼び、下男だったら代々「ジャック」というふうに。
 気にすることではない。
 気にするような……。
 しかし、食器保管室でひとり、客人のための銀器を磨くエリオットの思いは、九年前のそれと変わらない。
 今朝、マークが言っていたことも重なり、雨の湿度も加わって、ひどく憂鬱になる。
 そして。
 どうしようもないぐらいに。
 悔しい。


◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇



「ねえ、頼んでくれないかしら、ジョージ。この子の面倒をみるようにと、兄さんの遺言書にあったんだから、無下に放り出すわけにはいかないでしょう?」
 三日前から降り続く雨で、屋敷のかび臭さが増したようだ。いやに鼻につくが、葬儀の疲れで気に留める者はいない。
 色褪せた赤薔薇の壁紙は結露し、エリオットがこの古い屋敷に仕える前から、わずかに端がめくれてしまっていたほどである。張り替えようにもベッドから起き上がれない独居老御大のみではさほど意味もなく、さりとて費用もないから何年も放置してきた結果である。壁紙をめくれば、真っ黒いカビに覆われてるだろうことは、容易に想像できた。
 教区の墓地に埋葬されたばかりの主の代わりに、火のない暖炉を囲み、茶を口にする親族たち。そんな彼らを前に、二度、三度と、喪服姿の老嬢ミス・バンクスは亡き兄、グレゴリー卿の遺言書を読みあげる。老眼鏡を片手に、もう片手には湿っぽい便箋を。
 そして今にもため息をつきそうなジョージ・バンクスとその妻。バンクス氏の従兄弟一家たちは葬儀が終わると多忙を理由に、後始末を伯母のミス・バンクスに託し涙をひとつ見せることなく帰宅してしまった。
 この屋敷にいる唯一の他人は、亡き主の使用人であるジョン・エリオットのみ。卿の遺言書に自分の名がしたためられていたことに驚愕していたが、つとめて感情を出さず、銀のポットを手に給仕をこなす。
 着慣れない喪服もかび臭く、いつ葬儀があってもいいようにとあらかじめ使用人のために用意されていたものだ。エリオットがこの館に来る前から箪笥のなかに吊るされていたもので、明らかに丈が足りなかった。前かその前の従僕の身長をもとにして作られたものなのだろう。着心地の悪さからして安価な既製品かもしれない。ここでの勤めは長続きしないことで知られているのだと、かつての同僚、老女中メアリから聞いたのを思い出す。
 と、視線を合わそうともしなかったバンクスに、見つめられる。温かいそれではなく、明らかに値踏みする様子だ。それも数秒足らず。ふい、と視線をそらされ、不服そうなバンクスの声がエリオットの耳に入る。
「それは伯母さんに託したものだろう? どうして僕が引き取らなきゃならない」
 老齢だが若き甥のジョージ・バンクスよりずっと力強い声で、ミス・バンクスは毅然と言い返す。
「今しがた、素直で若い使用人はいないか、って相談してきたのはおまえだろうに」
「ああたしかにそうさ。しかし三日前にクビにしたのは女中だ」
「若い使用人でしょう。まだ一八になったばかりだそうよ」
「そうは言うが、いくら若くても従僕は――」
 ここでエリオットが淹れた茶を「ぬるい」と言い、いかにもまずそうに飲むバンクス。
 これはいけないと、すぐさま侘びを入れて替えの差し湯をとりに居間を出る。階下の台所を占拠している黒い大きなオーブンにかけられている鍋の蓋を取り、ポットに熱湯を入れた。少しでもバンクス氏に居心地よく過ごしてほしいから、いつも以上に駆け足で一階の居間へ移動した。
 不機嫌なままの氏の声が聞こえる。
「伯母さんもやつらの評判、知っているだろう? プライドばかり高くて金はかかるし、家事もできん役立たずなどお断りだね。そもそもあれは大邸宅の給仕が仕事だ。お飾りを養えるほど、僕の生活は優雅じゃあない」
 自分がその場にいない今、亡くなった主の親族は遠慮なしに本音を口にしていた。ひょっとすると茶がぬるいと言ったのは、暗に居間を出て行けという指示だったのかもしれない。
 エリオットは身を隠すようにして、居間の出入り口で聞き耳を立てるしかなかった。
 この会話の流れいかんで、今後の自分の行き先が決まる。
 あのバンクス氏は下男や従僕ではなく、雑役女中を求めている。ならば氏に雇われる可能性は限りなく低いだろう。そうなるとあとは実家にいったんもどり、ふたたび職業紹介所に登録して新たな雇い主を探すことになりそうだ。
 しかし気分はどこまでも重い。
 自分は母の連れ子だから、実家にいる父に好かれたことはなかった。あるとすれば、母と結婚する前の時期である。典型的な貧しい労働者階級の父は酒飲みで、酔うたびささいな言いがかりをつけられ、殴られた日々がよみがえってくる。
 できれば実家にもどることなく、次の仕事を探したい。狭いアパートには幼い弟妹が二人いるし、寝る場所を確保するだけで大変だ。あの血の繋がっていない父親にまで頭を下げる生活はうんざりしている。それでなくても、階下の仕事は主人にひたすら頭を下げなくてはならないというのに。
 そしてもっとも避けたいのは、今までこつこつと貯めた給金を奪われることだった。実家に帰るたび、あれやこれやと理由をつけては小遣いをせびられ、父の飲み代に消えてしまうのはたまらない。
 老嬢のため息が聞こえた。
「そうね、ジョージ。おまえの言うことはもっともだわ。でもね、この子はあの兄さんが好いた子なの。あの気難しい兄さんが、よ?」
「だから優秀な使用人だって言いたいのかい? 芝居にうつつをぬかして、女優にだまされ、財産のほとんどを意味なく浪費した伯父、グレゴリー卿だぞ。だったらあの従僕も媚態のかたまりの可能性が高いんじゃないのか?」
 そう言いながらバンクスはスコーンを手にし、皿にもどし、鼻で笑う。
「どうして、おまえは物事を悪いほうにしかとらないんだろう」
「それが僕の仕事だからだよ。相手の言い分をすべて信じていたら、裁判制度なんてものは存在しないさ」
「屁理屈だけは一人前ね」
 ここで会話は途切れた。しばらく待ってみたが次の話に転じる気配はない。
 ポット片手にエリオットは、さっそうと居間に入っていった。ふたりの視線がこちらに向いたがすぐにそらされ、なにごともなかったかのように会話が再開される。
「もう一度言うわ、ジョージ。この子の面倒をみてくれないかしら? ほんとうだったらわたしがみてやりたかったのだけれど、独り身の財産じゃあ、女中ひとりがせいぜい。残りの人生もそう永くないでしょうし、若いおまえのほうが将来もあるわ」
「僕の将来? 弁護士になりそこねたこの僕に?」
「だからよ。芸術的な趣味こそないけれど、おまえは若いころの兄さんに性格がよく似ている。気のあう召使ほど、素晴らしい家宝はないと言われるでしょう?」
 ずっと不機嫌一直線だった表情が、小さな驚きのそれに変わった。目を見開き、バンクスは沈黙を通し続けた妻と顔を見合わせる。
 静寂が居間を支配した。聞こえるのは、ぬるい紅茶の入ったカップとソーサーを片付け、新たなカップに濃い紅茶を注ぐ音だけだ。
 そんなエリオットの手がわずかに震えていたことに、バンクスは気がついていただろうか。
 気まずい空気をまぎらわすように、「こんなもの食えるか」とバンクスにスコーンを投げつけられる。意味もわからず反射的にわびを告げて菓子皿をトレーに乗せ、代わりの菓子を用意するために階下へ降りていった。
 薄暗い台所の貯蔵庫を開けたら、幸いなことにビスケット缶があった。既製品だが代わりのものが何もないよりはるかにマシだろう。
 エリオットはすぐさま缶の蓋を開けたが、これはいつ購入したものだったのか気になった。卿が亡くなる少し前に屋敷を去ったメアリが貯蔵庫を管理していたため、まったくわからないし、知らない。
 目を凝らしてビスケットを見たが、特に変わったところはなかった。上着の懐に隠しておいた眼鏡を取り出してかけ、また見つめる。
 ためしに一枚だけ齧ってみた。湿気もさほど気にならない。大丈夫だ。
 ビスケットと入れかえるため、皿に乗せられているスコーンを手づかみで調理台に置く。うまかろうがまずかろうが、客が要らないと言ったものはゴミ同然である。一昨日、卿が亡くなった日、急な来客があるだろうからと隣家の女中がわけてくれたものだった。葬儀の手配で忙しく、とてもではないが食事はもちろん、菓子を焼く暇などなかったから素直にありがたくいただいた。
 駆けつけたミス・バンクスが葬儀の手配や、参列者へのもてなしを近隣の女中たちに指揮してくれたため、滞りなく卿への別れの儀式をすませることができたのである。
 最後のスコーンを手に取る。裸眼では見えなかったあるものが、眼鏡をかけたエリオットの視界に入る。
「ええ? まさか……」
 ごくり、と唾を飲む。
 いやな予感がして乱暴に置いたスコーンたちを観察した。
 いくつか形が欠けていた。ごくわずかだったから、鼠に齧られたのを見落とし、そのまま客人に出してしまったのだ。
 どうりで誰も手をつけていないはずだ……。
 眩暈がし、心臓が激しく鼓動する。
 使用人として犯してはならない失態である。主人ならまだしも、客人にこんな菓子を平然と出す行為は、使用人を解雇されても不思議ではない。もしここが以前仕えた子爵家の田舎屋敷だったらと思うと、背筋が凍りつく。
 バンクス氏が投げつけるのも無理なかった。これでは確実に自分を使用人として雇うことはないだろう。
 落胆するような安堵するような、奇妙な脱力感に襲われる。
――いっそ、ミス・バンクスが僕を雇ってくれたらいいのに。
 エリオットはぶざまなスコーンを見つめながら、そう祈らずにいられない。
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