ジョン・エリオットの日誌
忘れ去られた姉妹と確執の館 01


 夏の終わりが近づいているというのに、その日はいつになく暑い一日だった。あわただしかった社交シーズンは過ぎ去り、アンダーソン家の主人たちは思い思いに時間をつぶしていた。
 女主人のレディ・アンダーソンは侍女を話し相手に刺繍をし、若主人のジェイムズはクラブへ出かけ不在。いつもなら書類に目を通している主人のサー・リチャードも暑さのせいで冷たいレモネードを所望したきり、書斎の安楽椅子のうえで昼寝をする。
 静かな時間がオールストン邸に流れていった。
 当然のように、階下の使用人たちも暑い一日はこたえる。とくに厨房にこもりっぱなしの女料理人ハリスンは音をあげてしまい、午後から台所女中だけを残して裏庭の木陰で煙草をふかす。これさいわいにと、台所女中頭リンダはこっそりレモネードをつくって、後輩たちとつかの間の休息をとっていた。
 家女中頭メイベルは「暑い」を連呼しながら、後輩の家女中とともに階上のガラス窓を水拭きしていた。熱のこもる階下とはちがい、大きな窓が開け放たれた二階は風通しがよくいくらかすごしやすい。彼女なりの避暑対策である。
 午後の玄関当番は第二従僕であるビリーだったが、退屈に加えてひどい暑さにいらだったのだろう。玄関へ向かって五分もたたぬうちに階下へもどり、唇をとがらせながら執事室で帳簿をつけているエリオットに抗議した。
「こんな暑い日は、客人なんかだれも来やしません。だから今日一日は、玄関当番はやめませんか?」
「だめだ。油断していたときにかぎって、来客があるもんだぞ」
「でもですね、このくそ暑いときにこんな田舎屋敷まで、馬車に乗ってくる物好きなひとなんかいやしませんよ」
「それはおまえの憶測だろ。もしものときのために、待機してしておくのが僕らの役目だ」
「でもハリスン夫人は、仕事をさぼってずっと裏庭にいます。メイベルたちだって水仕事してるし、リンダも同じじゃないですか。どうして僕だけ暑い玄関先で生真面目に立っていなきゃいけないんです、エリオットさん?」
「……あのな、ビリー」
 そう言いかけ、エリオットは口を閉じた。
――この部下には何を言っても耳を貸さないだろう。
 最近ビリーはエリオットが指図しても、素直に行動しないことが多くなった。注意しても「でもですね」をくり返し、口答えするだけだ。何度か強く叱責しても、当の本人にはまるで効き目がなく、けろりとした顔で「はい」と返事をするだけ。その翌日はまた同じことのくり返しだ。
「ああ、わかった。検討しておくよ。ただし今日だけは、素直に仕事をしてくれ。僕はシーズン時期の後始末があるし、マークには半日休暇をやっている。すぐには代われない」
「玄関ベルが鳴ったときだけ、対応するんじゃだめですか?」
「言っただろう、検討しておくと。今日は無理だ」
 大きなため息をつきながら、ビリーは執事室を出て行った。明らかに不満そうな表情を残しながら。
 入れ替わるように入ってきたのは、半ズボンとシャツ姿のマークだ。いかにもこれから遊びに出かけるといった風情で、陽気な口笛まで披露された。
「よっ! こんな暑い日は水浴びにかぎる。そう思わねえか、ジョニー?」
「そうか。川へ泳ぎに行くのか。晩餐の準備までには帰ってこいよ」
 そしてペンとメモ用紙を持って、執務机から立ち上がる。ワイン貯蔵庫で足りなくなった酒を確認するためだ。シーズンを過ぎたばかりで、空瓶や空樽がたくさん顔をならべて、新入りと交換されるのをまっている。
 だが執事室を出る前に、マークに行く手をはばまれた。
「俺との約束、おぼえてないのか」
「さあ。とにかく面倒ごとはごめんだからな」
 頭の回転が早い先輩部下にあらかじめ釘を刺しておく。
「夏になったら、いっしょに泳ぎに行こうぜって」
「そんな約束したっけ?」
 首をかしげるエリオットだったが、「ビアンカ・モーガンの騒動のあと」と、マークが口にしたとたん、記憶がよみがえった。
 夏になったら昔みたいにいっしょに泳ぎに行こう、と約束したのだ。ただ軽い口約束だったし、さすがに半年以上もたっていれば友人も忘れているだろう、と踏んでいたのだが。
「だめだ、だめ。ビリーだけに屋敷を任せるわけにはいかない。もし旦那さまたちに何かあってみろ。だれが責任をとる?」
「シーズンも終わったし、こーんなくそ暑い日に、好きこのんでやってくる客なんかいねえよ。おまえだってむさ苦しい部屋でカリカリしてるより、たまには息抜きしようぜ」
「しかしビリーだけには……」
 エリオットは小声になり、マークに相談した。口答えする部下のことを。
「そっか。俺もなんとなく気にはなっていたんだ。がつん、と言っても、命令をきくような状況じゃあなさそうだしな」
「いままで僕が甘やかしたせいだ。また悩みの種がひとつ増えたよ」
「簡単じゃないか。また口答えしたら、解雇してやると脅せ」
「それができない性格だから、こうして悩んでるんじゃないか。もし、じゃあ辞めますって返されてみろ。僕はどう切り返せばいいんだ? それでなくても人手がぎりぎりだというのに……」
 頭痛がしてきて、こめかみに指先をあてた。その手をマークがとり、執事室のクローゼットへと向ける。
「だからおまえも着替えてこいよ。ぱぁっと外で発散して、悩みはあとでまた考えればいい」
「屋敷のことが」
「もし何かあれば、俺が責任とるさ。いつでも解雇上等だぜ!」
「ああ、マーク……」
 夏の日差しより熱い友情にエリオットは感激した。暑苦しい黒いスーツを脱ぎ捨て、森へとでかけることにする。


 エリオットは川に入らず、ボートの上で泳ぐマークを見守っていた。午後の空き時間は短く、余計な体力を消耗したくなかったのもある。なんだかんだいっても屋敷のことも気になるし、マークを置いて一時間ほどでもどる予定だった。
 それが面白くなかったのか、半裸になっているマークがボートの周りにくるたび、ばしゃばしゃと水しぶきをかける。
「来いよ。気持ちいいぜ」
「僕はいいよ。それにボートの上でも充分涼しい」
「やっぱり屋敷が心配なんだろ」
「ああ、まあね」
 そしてちょっとだけ苦笑してみせた。
「つくづく損な性格だな。じゃあ、華麗なる俺さまの泳ぎでも見物しておいてくれ」
 ボートから離れたマークは、魚のように川を遊泳していた。久しぶりの水泳があまりにも楽しくてたまらない、といわんばかりに。
 いっぽうのエリオットはボートに揺られ水面を見つめているうちに、まぶたが重くなってきた。森から吹く風は心地良く、まるで子守歌のような川のせせらぎ。仕事の疲れを忘れさせてくれる。
 ちょっとだけ。
 ちょっとだけなら。
 マークも近くにいることだし…………。
 眼鏡を外したエリオットは、ボートの上に背中をあずけ、目を閉じた。


◇◆◇◆◇



 ぽつりぽつり、と冷たいものが顔にあたって目が覚めた。
 さっきまで晴天を見つめていたはずなのに、あるのは夜空。
「まさか、寝過ごし――」
 血の気が引いて身体を起こす。ボートの床に置いていた眼鏡を手探りで見つけ、夜目のなか周囲を見たら愕然とした。見覚えのない森の影が広がっている。
「ここは……どこ、だ……」
 雨がエリオットの身体を容赦なく濡らしてゆく。ぴかり、と雷が鳴った。一瞬だがはっきりと、近くに館があるのがわかった。
 どしゃぶりの雨だった。風が吹き、濡れた背中を震えさせる。夏とはいえ、日が落ちたあとは肌寒い。とにかくあの小さな館に行って、ここがどこなのかたしかめなくては。電話があればオールストン邸へ一報したいのもあった。
 エリオットはオールを漕ぎ、ボートをそばの岸に寄せた。手探りで周囲を調べると、さいわいなことに楡の木も生えていて、幹にロープを巻いてボートを停めておいた。
 また雷が落ちた。一瞬の明かりをたよりに、館のある方向へと歩く。ゆるやかな丘をのぼっていると運のよいことに、窓のひとつから灯りが漏れだした。突然の嵐で住人が目を覚ましたにちがいない。
 門前に到達するが、両開きの鉄扉は壊れて片方がなくなっていた。そのまま玄関へと進み、呼び鈴を鳴らしてみる。
 すぐにドアが開かれた。寝間着のうえにショールを羽織った女が、ランプを手に言った。
「あのどちらさまで?」
「アスターフィールドの村にある屋敷の者です。ボートに乗っていたらいつの間にか眠ってしまったようで、お恥ずかしながらそのままそばの川まで流されてしまいまして」
 女はじろじろとエリオットを頭の上からつま先まで見つめていた。
「あなた、ここは初めて?」
「ええ。ここはどこなんでしょうか」
 うっすらと笑みを浮かべる女。歓迎しているのかそうでないのか判然としない。ただわかるのは、目の前にいる色の白い女性は、美しいということだ。透き通るような青い瞳と金の髪がほっそりとした肢体に似合っている。
「まあ災難でございましたわね。よろしかったら今晩、泊まっていらっしゃいませ。今、女中はいないのですけど、替えのお召し物でしたらいくらでもありますのよ」
 よかった。どうやら歓迎されているらしい。
 エリオットも笑顔をこぼさずにいられない。
「ありがとうございます。助かりました」


 案内されたのは二階の寝室だった。古い館はかび臭く、階段を上がっているさいちゅうにも鼻をつくほどである。ランプの灯りに照らされる壁紙も古く、今ではあまり見かけることのない、写実的な薔薇模様だった。
「空き部屋ですから、お好きに使ってかまいませんわ。着替えは箪笥に入ってます。それではお休みなさいませ」
 リズと名乗った女はランプに火を灯すとそう言い残し、べつの寝室に入っていった。
 狭い寝室は片付けられていたものの、つい先日までだれかが住んでいた気配がする。机の上には栞が挟まれた本があるし、その横にはパイプとマッチ箱が置かれていた。
 その本の表紙には女性が描かれ『夢の都のローラ・ロバーツ メアリ・マイヤー作』という、いかにも古風なロマンス小説といったタイトルだ。数日だけ家を開けている、リズの夫か父の部屋なのかもしれない。そう考えれば納得がいく。
 そのとき大きなくしゃみが出た。雨に濡れたままだったのを思い出し、ベッドの横に置いてあるリネンで頭を拭き、遠慮なく箪笥を開けた。なかには年代もののスーツが吊るされている。アンダーソン家の肖像写真にあるような、古いデザインのフロックコートとチョッキ、ズボン、シャツ、ネクタイ、燕尾服だけである。
「寝間着はないのか……」
 さすがに見知らぬ男のスーツを着たまま横になるわけにもいかず、箪笥を閉じると濡れたシャツとズボンのままベッドに腰をかけた。
 ふと大切なことを思い出し、エリオットはランプを手に寝室を出る。リズの部屋をノックした。
「あの……まだ起きていらっしゃいますか」
 ほどなく返事があった。
「ええ。なんでしょう」
 ドア越しにエリオットはたずねる。
「もし電話があるのでしたら、お借りできないでしょうか。部下に連絡をとりたいのです」
「デンワ、です、か? 電報のまちがいじゃあございません?」
 その返事で、この館には電話がないのだとさとる。
「夜分遅くすみませんでした」
 ため息をもらし踵を返すのだったが、思いがけずリズがドアを開けて言った。
「まだ着替えていただけないの?」
「寝間着がなかったものですから……」
「箪笥のなかにあるものは、お好きに着られても結構ですのよ。亡くなった義兄のものですし、だれも困ることはありませんの」
「そうでしたか」
「ええそうです」
 ここで静かにドアが閉じられた。
 部屋にもどったあと、仕方なく濡れたシャツとズボンを脱ぎ、下着姿のままベッドに入って目を閉じる。同時にドアがノックされた。
 リズだな、と思い、こんな格好のままではドアを開けるわけにもいかず、ドアの前でこう言った。
「すみません、ご婦人の前に出られない格好なものですから、今晩は勘弁していただけないでしょうか。お話でしたら、明日の朝、あらためていたします」
「ロジャー? 帰ってきたのね、ロジャー」
「僕はジョンですが……」
「嘘はもういいのよ。こんなに夜遅くまで、どこへ行っていたのかしら。そうよね、来週はリズのお誕生日ですもの。ロンドンへお出かけだったのよね」
 声のぬしはリズではなかった。彼女よりやや低い。
「あの、どちらさまで?」
 つい素朴な疑問を口にしたのだが、それがいけなかった。突然ドアを激しく叩かれ、わめき散らすように女は叫ぶ。
「ああ、ひどい、ひどい男! そうやっていつまでもしらばっくれるつもり? わたしはあなたの妻よ! 一〇年以上も連れ添ったのに、その仕打ちはなに? いまごろのうのうとした顔でもどってきて、ゆるされるとお思い?」
 どうやらロジャーという彼女の夫とまちがわれているらしい。
 そういえばリズは「亡くなった義兄」と言っていた。
 ということは……。
 エリオットはふたたびランプの灯りで、部屋を見回した。
 窓ガラスを激しく雨粒が叩き、ぎっしり本が並んだ棚には、一冊分の隙間。その一冊が机の上に置かれ。そして今でも亡きあるじをまっている、木製のパイプ。
 とたんに背筋が寒くなった。
「早くドアを開けなさい、ロジャー! わたし、あなたに言いたいことがたくさんあるの!」
「すみません、僕はロジャーさんじゃなくて……」
「まだ嘘をついているのね」
「ですから」
 急な雨で一夜の宿を求めた館だったが、どうやら複雑な事情があるようだ。
――ついているのかいないのか……。
「アンナ姉さん。義兄さんじゃないわ。お客さまがご迷惑だから、お部屋にもどってちょうだい」
「あんたもそうやって、わたしに嘘をつくのね」
「今夜は遅いから、明日の朝、あらためてごあいさついたしましょう。ね?」
「そのあいだに、ロジャーが逃げたらどうするの?」
「こんな嵐の夜に、どこへ逃げるというの? 鉄道だってもう走ってないわ」
「あらそう。今夜だけはだまされてあげるわ。でも逃げたら、あたくしが許しませんわよ、ロジャー」
 それからふたりの足音が遠ざかり、それぞれのドアが閉まる音がした。
 ひとまず災難が去ったことで、エリオットもベッドにもぐると、心のなかで亡くなったロジャーに部屋を貸してくれたことを感謝する。
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