令嬢カトリーヌと禁断なる恋の日々

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き 【01】




 一九世紀なかばのパリに住む、あるブルジョワ一家、ラボー氏にはいたくかわいがっている飼い犬がいた。パメラという名のブルドッグである。
 彼女――パメラがもっともなついているのが、屋敷の主人であるラボー氏。その次がひとり娘のカトリーヌ。三番目が妻のラボー夫人。四番目は――ない。
 パメラにとってはラボー一家以外はただの下僕。とくに階下に住んでいる使用人たちなんぞ、一家に頭のあがらない種類。だからいくら吠えてやってもいいし、噛み付いても叱られることもない。餌が少なけりゃ、文句がわりの鳴き声を披露さえすればいいのだ。すぐに下僕のだれかが、追加の肉を皿に乗せてくれる。
 だから本日も「がうがう」と、目の前にいた中年の女中頭に吠えてやる。
「ちょっと、まだ足りないっていうのかい?」
「がるるるる……」
「あんまり怖がらせないでちょうだい。すぐピエールに言って、持ってくるから」
「がうん!」
「ぎゃっ!」
 飛びついてやるそぶりを見せたら、半泣きになりながら女中頭は書斎を出て行った。向かうのは階下の厨房である。
 肉のおかわりが来るまで、パメラは主人が座っている安楽椅子の下へ移動した。ここは安全でひと眠りするには最適な場所だ。ただいつもとちがうのは、主人はお出かけで不在。葉巻煙草の匂いがないのが、少しだけ物足りなかった。
 やがて足音がして、焼いたばかりの肉の匂いが嗅覚を刺激する。興奮のあまり尻尾をちぎれんばかりに振って、ドアの前で喜びをあらわしてやった。
「はいよ、おかわり。…………それにしても、よく食うわね、あんた。あたしらよりイイもん食ってりゃ、世話ないね」
 この女中頭はきらいだ。前の女中頭は上品でそんな言葉づかいをしなかった。自分を犬だと思って、好き放題だ。だからまた吠えてやった。
「ぎゃあああ! ちょ、ちょっと、もう肉をやったじゃないか!」
 驚いた女中頭は大きく跳んで、パメラと距離を置く。しかし狭い書斎内。彼女が古い本棚にぶつかると、ばらばらと書籍が数冊落下した。あわてて女中頭は落ちた本を拾い、もとの位置へと収める。
「いやだね! あたしったらドジふんじまった」
「がうんん」
「なんだい、そのうれしそうな声は。かわいげのない犬だね、まったく。……それより、その分厚いの、ここでよかったけ? ああ、もう、旦那さまに見つかって叱られなきゃいいけど。あと、なに、この汚い小箱。これも本棚に置いてあったっけ?」
 うんうん頭を悩ませながら女中頭は、なんとか失態をとりつくろう。おそらく合っているだろう、と自分自身にいいきかせつつ、汚い小箱をぽん、と下の棚に置いた。ふだんから目に入っていなかったから、一番下だろうと予想したのだ。
 ようやく騒がしかった女中頭が、パメラの皿を下げて書斎を出て行った。
 ふたたび退屈な時間がやってくると、パメラは好奇心いっぱいになって書斎の棚にちかづいた。例の小箱が気になって仕方ない。いつも一番上にあったのに、今日はすぐそばの高さ。
 これはチャンス、とばかりにくわえて、蓋をあけてもらおうと書斎を出て行った。行き先はラボー氏のつぎにえらいカトリーヌ嬢の部屋である。


◇◆◇◆◇



 経営している銀行の視察をした主人。午前、その従者をしたフレデリックだったが、屋敷の階下にもどるなり耳を両手でふさいだ。
「ねえ、フレデリックさん。いいかげん、あの猛犬――じゃなかった、パメラのこと、旦那さまに言ってちょうだい。わがまますぎて手に負えないって! あたしなんて今日も吠えられたんだよ! 使用人よりいい肉を食ってるくせに、態度は傲慢ときた。世話なんてやってられると思う?」
 ああ、今日もまたうるさい女中頭マリオンの愚痴か。前の女中頭はもっと歳を食っていたが、おしゃべりじゃなかった。ひまさえあれば縫い物や編み物をしている姿をよく見かけていた。
 まともに相手をするのも面倒なので、視線をそらしたまま従僕ポールが運んできた遅い昼食をとっていた。使用人ホールにはきんきんと甲高い声が、伴奏の代わりとなって響きわたる。
「でさ、肉を持っていったのに、また吠えるんだよ。飛びついてあたしをかみ殺そうとするんだから、もう怖くて怖くて。なんとかよけたらあの犬、盛大に本棚にぶつかっちまった。運の悪いことに、旦那さまの大切な書物が落ちちゃってねえ。今日はもう、さんざんだよ!」
 いつまでたっても終わらない愚痴に、ついにフレデリックの堪忍袋の緒が切れた。
「そんなことか。たかが犬畜生一匹だろ、ほうっておけ」
 低く冷たい口調でそう言った。すぐにマリオンは口を閉ざした。だが負けずぎらいの彼女、嫌味を残して使用人ホールを去る。
「あいかわらず冷たい男ね。ふん、だ。いつまでもそうやって、お高くとまってればいいんだわ。そんなだからだれも仲良くしてこないのよ。これで旦那さまのお気に入りじゃなかったら、口もきいてやらないんだから」
 あいかわらず嫌味がたっぷりと満載された中年女である。こちらこそ虫の居所が悪くなる同僚だ。
――とっとと転職でもしやがれ。
 彼女がやってきた一年と三ヶ月前から、いつも心のなかでつぶやいてる呪文だ。
 かといっていびってまで追い出すつもりもない。性格はああでも、長年使用人をしてきただけあり、仕事の手際はとてもよかった。
 昼食を片付け終わったころ、呼び鈴がなる。どこからだろう、とベルを見たらカトリーヌお嬢さまの部屋からだった。すぐに若いメイドのミミが三階へと移動したのだが、数分後、息を切らしながら階下に姿を見せる。
「フレデリックさん、お嬢さまがお呼びです」
「ああ、ありがとう」
 面倒だな、という顔をしながら裏階段を使って上がる。
 内心はちがっていたが。


 部屋に入ると、まずカトリーヌとあいさつ代わりのキスをした。今日、初めてふたりきりになった儀式だ。
 彼女はくちびるをはなすと、古くて朽ちかけた小箱をフレデリックに見せ、蓋を開けた。なかには緑青色に錆びた鍵がおさめられている。とても古くて彫られた紋章が見えにくい。
「これ、パメラちゃんがくわえてわたしにくれたの。どこの鍵か見おぼえある?」
「さあ……。だいたいこの小箱こそ、どこにあったのです?」
「わたしには見おぼえないの。だとしたらパパンかママン?」
「パメラが持ってきたのなら、旦那さまでは? 書斎によくいらっしゃいますし」
 と、ここまで言って、女中頭マリオンの愚痴がよみがえった。
――運の悪いことに、旦那さまの大切な書物が落ちちゃってねえ。
「ああ、おそらくそれですよ。失礼ながら、マリオンが粗相をいたしましてね。そのとき本棚にあったものが落下したようでございます」
「じゃあやっぱりパパンの鍵?」
「断定はできかねますが、可能性は高いです」
「それにしても、どこのお部屋の鍵なのかしら……」
 カトリーヌは白い手袋を外すと、素手で鍵を取り出す。指先で紋章のある部分をこすり始めた。
「いけません。お手が汚れてしまいます」
 さっと鍵を奪うと、黒い上着を脱いだ。シャツの袖でこすり、緑青をふき取る。あらわれたのは、見おぼえのある図形だった。
「一重の薔薇……。知っているはずです。何度か、わたくしは目にしているのですから」
「そうなの? わたしは見たことないわ」
 それはそうだろう、とフレデリックはちょっとだけ笑顔を浮かべ、片目を閉じた。
「階下ですよ。それも執事室の壁にかかっている絨毯の裏に、同じ紋章のついた鉄扉があるんです。初めて絨毯をめくったときは、気になって合鍵を探してみたのですが見つかりませんでした。先任も同様だったらしく、鍵穴をこじ開けようとしたあともありました。それでも頑丈な鉄扉にはかなわなかったようです」
「そんなところにパパンが隠し部屋?」
「さあ。なかを見てみないことにはなんとも……」
 カトリーヌは鳶色の瞳を輝かせ、フレデリックの白いシャツの袖をひっぱる。
「ねえ、開けてみましょう。パパンのことだから、面白いものでも隠してるんじゃない?」
 フレデリックは躊躇する。
「しかしですね、お嬢さま。見られたくないから旦那さまは、鍵を隠していらっしゃるのでは?」
「じゃ、ないしょで見ちゃいましょうよ。あんなところに、あかずの間があったなんて、とてもわくわくしない?」
「うーん…………。いいのか……」
「お願い」
 ここで背伸びしたカトリーヌにくちびるを奪われる。
 真面目なフレデリックだったが、さすがに恋人のお願いを却下するほど、冷たくはなれなかった。


 深夜、屋敷のだれもが寝静まったころ、約束どおりランプを手にしたカトリーヌがやってきた。執事室のドアを開けて出迎え、そっとなかに案内する。
「初めて入ったけど――」
 ぐるりと周囲を見渡し、彼女は言葉を続ける。
「ずいぶん狭い部屋なのね。まるで物置みたい」
「こんなものですよ。個室があるだけでありがたいです。ここに来る前は、同僚と雑魚寝でしたから」
「そうなの。うちの屋敷なのに、知らないことも多いのね。あ、机にたくさん本があるわ。読書家だなんて、これも初めて知ったわ」
 興味深げに書籍のページをめくるカトリーヌだったが、むずかしい顔をした。
「小説じゃないの?」
「経営学と金融学と地理です。いつか独立したとき、ぜひ挑戦してみたいとつねづね思っていましてね」
「へえ、すごいじゃない。あなたならうまくいくと思うわよ。パパンよりも」
 苦笑しながら、部屋の壁にかかっている絨毯をめくる。錆びで赤茶けた鉄扉が姿をあらわした。
「その前に元手になる財産も貯金もありません。せいぜい、雑貨屋か場末酒場の店主ですよ。……それより、例の鍵を持ってこられましたよね?」
「ええ、もちろん。はい」
 カトリーヌに手渡された鍵を穴へ差し込み、ゆっくりと回してみた。ぎ、ぎ、ぎ、と金具がきしむような音がし、開錠される感触が手のひらに伝わった。
「開いたの?」
「ええ、そのようです」
 好奇心いっぱいに扉を押そうとする彼女を制する。
「おまちください。何があるかわかりません。まずはわたくしが調べてみましょう」
 重い鉄扉を開けた。隙間から朽ちた紙切れがひらひらと床に落ちる。手に取ってみると、古代文字のような模様が描かれていた。
 汚らしい紙切れを丸め、床に捨てる。フレデリックはランプを手に、慎重に歩を進めていった。
 窓のない小さな部屋だった。灯りを反射するのは冷え冷えとした石のタイルと、小さくみすぼらしい寝台に毛布、そして糞尿用の壷がひとつ。それだけである。
 階下にたまった湿気が薄気味悪さを増長させているようだ。かびの臭気がやたらと鼻につく。
「……なんだか、背筋が寒くなるようだな。本当に旦那さまの隠し部屋なのか?」
 そんな疑問が口をついて出た。鉄扉の前でまっていたカトリーヌも、恐る恐る入ってくる。
「やだ、なんにもないじゃない。まるで囚人部屋……」
「そうか、そういうことか。お嬢さま、あなたのおっしゃるとおりかもしれません。昔、言うことをきかない奉公人や盗みを働いた者を、閉じこめて罰したのでしょう。そう考えれば納得できます」
「でもそれじゃ、パパンが鍵を大切に保管していた意味がないじゃない?」
「そこを指摘されると、わたくしも痛いのですが」
「何かあるのよ、きっと。伊達に大航海時代から商人をしていたラボー家じゃないもの」
 カトリーヌはフレデリックが止めるのもかまわず、あかずの間を調べだした。ただの囚人部屋という結論に彼女は納得できないのだ。ラボー家としてのプライドがそうさせるのだろう。
 壷を持ち上げ、なかをのぞき見るお嬢さまに、フレデリックは青くなる。あわてて奪った。
「危険――いや、汚いです! わたくしが」
「いいのよ。こんなことぐらい、平気。いつもあなたばかりに、危険なことをさせてるんだもの。たまにはいいでしょ?」
「いいえ、それがわたくしの役目にございます」
「前はそれでもよかったけど、今はちがうわ。恋人なんだもの」
「お嬢さま……」
 ふたりは見つめ合う。糞尿用の壷をあいだにして。
 そんな自分たちがこっけいで、フレデリックは失笑してしまった。
「もう、真面目に言ったのよ」
「だったらあとで、たっぷりと見つめあいましょう。今はこの部屋を調べることが先決です。長居したくない」
「それもそうね」
 つぎにカトリーヌはベッドの毛布をめくる。……黒い染みがあるだけで、とくにめぼしいものはなかった。
「おかしいわね。やっぱりただの囚人部屋?」
「ええ、そのようですね。さ、さ、もどりましょう。鍵も旦那さまにお返しして、ここを開けたこともないしょにしておきましょう。パメラがくわえて持ってきた、とだけ告げればいいのですから」
 フレデリックはとにかくここから出たかった。なんだか知らないが、さっきから背筋が寒くてたまらないのだ。
「残念ね……」
 意気消沈のようすでカトリーヌが、部屋から出ようとしたのだが。
「あれ? この扉、閉まっていたかしら? おかしいわね。わたし、入るとき閉めたおぼえはないんだけど」
「引いてみてください。わたくしは押して開けました」
「…………引いても、びくともしないのよ。もちろん押してもだめ」
「ということは」
「まさか」
 ふたりは顔を見合わせ、眉をしかめて視線を交わす。
「錆びついて動かないだけです。今度はわたくしが!」
 フレデリックは渾身の力をこめて、扉を引いた。しかしまったく動かない。
 カトリーヌもいっしょに取っ手を握って、引っぱるのだが開かない。何度かそれを繰り返したあと、最悪の結論を出さざるえなかった。
「わたしたち、閉じこめられたんだわ」
「そのようですね、お嬢さま」

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