―番外編〜青嵐―




 ユーリーは待ちぼうけを食らっていた。約束の時刻なってもまだ友は姿を現さない。
 薬屋の前で買ったばかりの菓子缶が入った包みを抱えたまま、目の前を通り過ぎていく人々を見つめる。
「まったく、いつも、いつも、オレグのやつ。今日、買出しに行こうと言ったのは、君だろう? 勝手に決めて勝手に行動するんだから、呆れてしまう」
 ため息混じりにそんな言葉が口をついて出てきた。
 明日から夏期休暇である。帝国陸軍士官学校の学生たちは、帰郷するための手土産を買出しに帝都に繰り出す。講義も訓練も昨日ですべて終了し、秋からは回生が一つ上がる。
 ユーリーたちは二回生だったから、秋からそれぞれの専門分野に特化した科へと分かれ、職業軍人としての修練に励むのだ。そして四回生は今日が卒業式だった。
 午前中、卒業生たちは下士官の軍服姿で、競技場で式典に臨み、午後からは新調した礼装用軍服姿で帝都を行進する予定になっている。
 帝都名物になっている陸軍士官学校の卒業行進を一目見ようと、帝都の大通り前にある商店街はたくさんの人々で賑わっていた。
 そんなこんなで卒業生たちは大忙しだったのだが、在学生たちは式典が終了すると暇な身分になる。その時間で土産を買い込み、夕方、寮で荷造りをする学生がほとんどだった。
 薬屋の前に立っていると、同じ軍服を着た学生たちとすれ違う。出入りするたび、ちらりとこちらを見た。場所が場所だから、目立ってしまうのだろう。
 同科の学生が店から出てきた。声をかけられる。
「おまえさっきからずっとここにいるが? ひょっとしてリマンスキーを待っているのか?」
 オレグとは別科だったが、彼は誰よりも優秀な反面、気難しくてしかも怖がられているから、自分以外、親しくする者はいなかった。そのせいだろう、唯一の友人である自分も有名になってしまったらしい。
 単独行動していると、お決まりのように「あいつはどうした?」とからわれてしまうこともあった。
「そうだけど。オレグがどうしたって?」
 詮索されるのもうんざりだったから、いつものように素っ気無く答える。
「バリャコフと派手に言い争っていたぞ。ケーキ屋の裏だ」
 ユーリーはがっくりと肩を落とさずにいられない。
 オレグのやつ、また揉め事かよ……。
 しかもあの傲慢な伯爵令息バリャコフ。
 君はあの出来事で、散々に懲りたんじゃなかったのかい?
 報せてくれた礼を告げると、ユーリーはケーキ屋に向かった。薬屋から歩いて一分ほどの距離だったが、ひとつ角を入った場所にあるから、気がつかなかったのだ。
 店の前に彼らの姿はなかったが、路地の奥から声が聞こえてくる。
「……しろ! いいか、この私に逆らうとは言語道断。最後のひとつをよこせ」
 バリャコフの声だ。予期したとおり不機嫌丸出しである。
「もう遅い。これは私が並んで買い占めたものだ。早く走らない貴様が悪い」
 オレグの声である。相変わらず不遜な物言いが、相手を怒らせてしまう。
「先に駆け出したのはこの私だぞ! 後から駆けつけたのは貴様ではないか!」
「日ごろから鍛えていない貴様が悪い。それでも士官候補生とは笑わせる」
「くうう……! 下賎の輩のくせに生意気な。だいたい、どうしてあれだけ菓子を食っても、貴様は太らない? それこそ、大いなる不遜だっ!」
「人様の体質まで不遜と決められて、己の言動がお恥ずかしくないですか。伯爵令息様」
「次々と嫌味を……この……」
「いいかげんにしてくれ、二人とも!」
 辟易しながらもユーリーは、険悪な雰囲気の両者に割って入った。すぐさま小太りの令息と、鳶色の髪の友人ににらまれる。
「おい、リマンスキーの犬。余計な手出しはするな。ここで痛い目に遭わせないと、また生意気な下賎が助長するからな」
 バリャコフにつづいてオレグが厳しい口調で言った。
「そうだ。これは男の闘いだ。ここでしっかり反論しておかないと、またつまらんことでぐちぐち令息が言いがかりをつけてくるからな」
 ユーリーはさらに呆れてしまう。
「なにが男の闘いだよ。ケーキ片手に言うセリフじゃあないだろ……」
 バリャコフににらみつけられる。
「貴様、数量限定発売の杏ジャムケーキを知らないのか? 一口食べれば、たちまち虜になり、それから三日三晩、夢にでてくるほどだ!」
「そんなこと言われも。甘い菓子は……」
 オレグが補足するように言った。
「それはかわいそうなことだ。人生の悦びをひとつ知らないことになるのだからな」
「人生かけてまで食べたいとは……」
「それだけの尊い価値あるものなのだ!」
 とバリャコフ。
「たとえ女どもに睨まれようが、駆け込んで買うだけの意義がある!」
 オレグは力強く拳を握り、そう力説した。
 さっきまでいがみ合っていたはずの二人だったが、ここで力強く互いの手を叩いた。
「おおっ! 初めて意見が一致したな!」
 バリャコフの言葉にオレグがうなづく。
「ああ。真剣に共感してくれる輩は貴様だけだ!」
 いつもはどうしようもないほどの犬猿の仲なのに、菓子に関してはべつらしい。
 案外、この二人、似たもの同士なんじゃ……。
 ユーリーは口にできない感想を心の中でもらしていた。
 笑い声が聞こえてきた。店から出てきた年頃の娘たちが、こちらを見て指差している。
 無理もないだろう。凛々しい軍服姿の男たちが、ケーキの包みを間に挟んで神妙な表情でにらみ合っているのだから。
 さすがに恥ずかしくなってしまったようで、バリャコフは「今日はここまでだな」と口にした。
 すぐさまオレグも同意し、大通りに出ると別れのあいさつもないまま、バリャコフと距離を置いた。


「いいかげんにしてくれよ。どれだけ僕が待ったと思っている? しかも行ってみれば、つまらない口喧嘩。呆れてそれ以上、言葉が出てこない……」
 大通りから少し外れた雑貨屋の前で、ユーリーは大きくため息をつく。
「悪かった。つい、あいつの顔を見たらムキになって……」
 眉根を寄せたオレグに謝られたが、それでも気が晴れない。
 いつも、いつも、つまらない意地を張るから、余計な騒動に巻き込まれるのだと、どうして学習できないのだろうか?
「そのわりには、意見が一致してたじゃないか。その気になれば、友人になれるかもしれないよ?」
「よしてくれっ! あの大馬鹿令息と一緒にするな!」
「ほうら。そうやって、子供みたいにムキになるところが、似てるって僕は言っているんだ」
「それはだな……」
 いつもなら言い負かされてしまうユーリーだが、言葉が相手の痛いところを突いてしまったらしい。それからオレグが反論してくることはなかった。
 それでも腹立たしさが消えず、決まりの悪そうな表情の友を残したまま、足早に雑貨屋の前を離れて行った。大通りを歩いて、そのまま寮にもどるつもりだった。こんな気分のまま、晴れやかな卒業生たちの行進を見物する気になれない。
 すぐにオレグが追いかけてくる。声をかけられても、無視した。
 通りには大勢の人々でごった返していた。庶民たちだけでなく、上流階級の者たちの姿も見受けられる。さらにその奥にある狭い路地には、貧しい身なりの者もいた。普段は表通りには出てこようとしない、貧民街に住む人々だ。
 青天の空から、夏の乾いた風が吹いてくる。
 平素は厳格な身分制度で住み分けされている人々だったが、この日ばかりは身分も貧しさも老若男女も関係なく、華やかな行進を見届けることが許されるのだ。
「ユーリー、まってくれ!」
 早歩きで距離を置こうとしたものの、押し合うようにひしめきあった人ごみが、行く手を阻む。背後から腕をつかまれてしまった。
「すまなかった。だから……」
 振り返り、素っ気無い言葉を放つ。
「だから?」
「これで許してくれっ!」
 相手の力強い腕に引き寄せられたかと思うと、口に何かを突っ込まれる。
 あまりにも突然のことだったから、拒否することができなかった。
 己の舌が、甘い杏のジャムの味を感じ取っていた。
「……」
 話そうにも口いっぱいにケーキが詰まってしまい、視線で訴えることしかできない。
「どうだ? うまいだろう?」
 さっきまで謝っていたはずのオレグの表情が、余裕の笑みに変わっていた。
 悔しいが彼の言うとおりだった。
 バリャコフが三日三晩夢に見るのもわかる。
 オレグが女どもに睨まれながらも、駆け込んで買い占めるのもわかる。
 それだけこの数量限定発売ケーキは美味だった。
「貴重な最後の一個を分けてやったんだ。友情に感謝しろ」
 噛んだのを飲み込み、うなづくしかない。
 力強く輝く、灰色の瞳を見て思った。
――なんだかんだ言っても、オレグにはかなわないんだよな……。
 ユーリーは苦笑するしかなかった。
 軽快な太鼓の音と、高らかに鳴り響くラッパの音が近づいてきた。軍楽隊と卒業生たちの行進がやってきたのだ。
 人々が我先にと通りを見つめる。後ろにいる者たちは爪先立ちになりながら、音のする方向を凝視していた。
 ユーリーも爪先立ちになるが、すぐ前にいる労働者たちは皆、自分よりひとまわり身体が大きく背も高い。これでは前が見えない。オレグの視線は人々と同じ方向を見つめていた。長身の彼は余裕で見物できるようだ。
「来たぞ! グリエフが先頭だ。……相変わらずいけ好かない笑みだな」
「そう。よかったね。僕のぶんまでしっかり見てくれ」
「見てくれって?」
 オレグが自分を見た。そして小さくうなづいた。
「そうか。なら――」
 その場にしゃがみ込み、彼は己の肩を指で叩く。
「オレグ?」
「私が背負ってやる。それなら見えるだろう?」
「ええっ!」
 そんな子供みたいな恥ずかしい真似できるわけない。すぐに断りを入れる。
「遠慮するな」
「そういう問題じゃ……」
「早くしろ。通り過ぎてしまうぞ」
 今、まさに隊列の行進の足音が目の前に来る直前。楽隊の演奏が賑やかさを増す。人々の歓声が一段と大きくなった。
 見たい、でも恥ずかしい。
 恥ずかしいけど、見たい。
 見たいんだ!
 ユーリーが友の肩に腕を回すと、視界がたちまち高くなった。
 長身だと、こんなに見晴らしがいいのか!
 初めて味わうオレグの目線の高さに、ユーリーは感動した。彼にとってはこれが普通なのだと思うと、少々悔しくもあったが。
「どうだ?」
「気持ちがいいぐらいだ」
「おまえと一緒に行進を見物するのは、おそらくこれが最初で最後だ。しっかり、目に焼き付けておこう。な?」
 ユーリーは驚かずにいられない。最初はともかく、最後って?
「君、退学騒動はもう終わったはずだろう?」
「退学するつもりはさらさらないさ。詳しいことは後で話す。それより、見てみろ。学生服の何倍も格好いいな! 私も早く着てみたい!」
 珍しく無邪気な口調の相手につられるように、自分も大きな声で同意した。
「うん、そうだね!」
 昨年の今ごろは、まだオレグとは知り合っていなかった。一年前は同科の学生たちの後ろをついていくように、行進を見物したのを思い出す。あのときもなかなか前方が見えず、気分はいまひとつだった。
 背負われる姿は情けないが、それを上回る友の優しさがどこまでも嬉しかった。
 ユーリーたちの目の前を、真新しい礼装用軍服姿の卒業生が行進してゆく。最前列で在校生代表が軍旗と国旗を掲げ、前方に吹奏楽隊、その後に指揮杖を手にした卒業生、さらにつづいて華麗に騎乗した教官たち。
 軍人らしくどの顔も表情が硬く、眉一つ動かしていなかったが、きっと心の中はあの青天のように澄み切っていることだろう。秋から彼らは新しい社会に羽ばたいてゆくのだから。
 戦争が多かった昔とはちがい、領土を拡張しきった帝国は、体制を維持するだけで手一杯の状態である。他国が侵略してこないかぎり、戦争が勃発する可能性はきわめて低い。内戦もとうの昔からないし、職業軍人は安定した職場として知られている。
 これが百年、二百年前だったらどうだろうか。卒業生たちはこんな晴れやかな顔で行進などしていなかったろう。
 白や桃色の薔薇の花びらが風に舞う。行進を祝う帝都の人々が、子供たちを使って撒かせるのが恒例となっている。
 花びらを集めるのは主に商店の人々で、行進の行事があるたびに、地方からもたくさん来客するから、その返礼として始まったといわれている。戦争があったころは、やがて戦地に向かうだろう卒業生たちを鼓舞させるため、今以上に華美で盛大な行進行事だった。花びらを撒くのはその名残もあろう。
 隊列が通り過ぎ、徐々に楽隊の音色が小さくなっていった。石畳に落ちた花びらだけが、名残惜しそうに風に吹かれては、くるくると動き回る。見物していた人々も、その場から離れだした。
「ありがとう」
 ユーリーが礼を告げ、身体を地面に下ろしてもらおうとしたそのとき。
「あれを見ろ、おまえらっ!」
 バリャコフの意地の悪い声が耳に入った。
 知り合いに見られたくない場面なのに、最悪な人物に目撃されてしまうとは!
 バリャコフは取り巻き三人とともに、ユーリーたちのそばに近づいてきた。愉快そうに笑いをもらしている。
「うわっはっはっ! こりゃ、傑作だな、貴様ら! リマンスキーが父親で、金髪の子犬が子供か? 絵になるなあ!」
 恥ずかしさのあまり、顔が紅潮するのが自分でもはっきりとわかった。
 それでもオレグはそのままの体勢で、相手を怖い顔でにらみつけるだけだ。
 早く下ろしてくれよ!
 そんなユーリーの心の叫びも空しく、彼は平然と言葉を返す。
「そうだ。羨ましいだろう? 貴様の周りにいるのは、羽目を外すことも許されん、つまらん友人ばかりだからな」
 ユーリーは落胆する。
 素直に解放してくれればいいものを……。
 負けず嫌いの性格が、こうしてややっこしい事態を招くのに……。
 案の定、バリャコフはムキになって吼える。
「貴様らのどこが友人だ! それでは親子だ、親子!」
 ふん、と冷え切った視線を投げかけながら、オレグが反論する。
「じゃあ貴様は調教師だな。そこにいる三匹はなんだ? ご主人様が命令しないと動けない、番犬にしか懐かれんくせに」
「……言わせておけば、いい気になりやがって。この、下賎の輩が」
「ああ、それで結構です。まったく取り柄のない高貴な血筋のお方より、何倍もマシでございますよ」
 今にもつかみかかりそうな勢いだったが、取り巻きの三人がバリャコフをなだめる。
 以前、オレグと大騒動を起こしたから、もし彼から挑みかかってしまえば、オレグだけでなくバリャコフ自身も、罰せられる。退学や休学まではいかないだろうが、何度も騒ぎを起こすと身上書にその旨を記されてしまい、その後の進路に影響してしまう可能性があるのだと説いていた。
「なかなか聡い番犬を調教してよかったな、バリャコフ」
 オレグはそう捨て台詞を残し、ユーリーを背負ったままその場を去っていった。
 後ろを振り返ると、悔しそうに歯軋りするバリャコフが見える。しかしよく見ると、彼はどこか寂しそうでもあった。恨めしそうに自分たちを見つめているのがわかる。
 歩きつづける友に言った。
「もういいだろう? 君が疲れてしまう」
「いや、もう少しこのままで行こう」
「ええ?」
 困惑するユーリーだったが、オレグは楽しそうだ。
「普通、親子でもこんなことしないというのに。あいつ、よほど羨ましいんだろうな」
「そうかな……」
 オレグのやつ、父親に背負ってもらったことがないのだろうか?
 実家の話――特に家族の話をほとんどしないから、ユーリーはそれが気にかかる。
 しかし今、そんなことを口しても仕方ない。明日にはお互い帰郷する身。家族の暖かい笑顔と家庭料理が楽しみなのだ。込み入った話は、夏期休暇が終わってからでいい。
 ふと、自分たちが手ぶらなのに気がついた。
「あ、そういえば、僕らの荷物は? 君も土産を買っただろう?」
 オレグの歩みが止まる。
「しまった……。おまえを背負うとき、地面に置いたままにしていた」
 二人は顔を見合わせる。
 地面に降りたユーリーは、オレグとともに全速力で来た道を引き返した。
 どうか、誰にも盗られていませんように!
 必死になって駆けていく下士官の二人を、通りを行き交う人々が不思議な目で見つめていた。

青嵐〜おわり
※読みきり用に仕上げたため、本編と若干設定が異なります。(深く読み込まないとわからない程度だと思いますが……)

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