―早春(幕間) 01―




 それはそれはとても美しい娘でした。
 娘が歌をうたえば青い小鳥たちがよろこびの歌をうたい、
 娘が泉の水をすくえば白い水鳥たちが翼をひろげておどり、
 娘が大地に頬をよせれば草木がいっせいに花を咲かしました。
 そんな美しい娘に恋するものがひとりいます。
 かなわぬ恋と知りながら、
 天から毎日娘をみつめています。
 もうすぐすれば娘の手をとることができるのですが、
 それは悲しいことでもありました。
 なぜならその男は死神だったからです。
 天の神様が娘の命を決めているのだから、
 逆らうことはできません。
 それでも日に日に死神の心は娘への恋でいっぱいになってしまいます。
 とても苦しくて涙をながすこともあったほどです。
 そんな死神をあわれにおもった天の神様は、
 一度だけ地上に降りることをゆるしてくださいました。
 人間として娘といっしょにすごしなさいとおっしゃるのです。
 人間になってしまえば自由に天にもどることはできません。
 人間になってしまえば千年の命をうしなってしまいます。
 それでも死神は天の神様のいうことをとてもよろこびました。
 そして人間の男となって地上に降りていったのです。
 最後に天の神様はこうつけくわえられました。
 おまえの一番欲しいものは永遠に手に入らないだろう。
 これが人間にしてやったわたしからの代償なのだ、と。


「ねえ、それからどうなったの?」
 アリサは物語のつづきをせがむのだが、無情にもここで本は閉じられてしまった。
「だめだ。早く行かないと、フォマーに怒られてしまう」
 そう言って、隣に座っていたオレグは立ち上がる。持っていた本をアリサに手渡し、ズボンについた草を払い落とした。
「だめよ。これオレグ様のものでしょ?」
「いいんだ。俺はこういうの趣味じゃないし」
「でも……」
 アリサは悲しくなってしまう。本を読みたくても、字が読めない。せめて絵がついていればいいのだが、あいにくこれは文字しかない。
「持っていけよ。今度、俺が字を教えてやるから」
「でも……」
 これでこの約束は三度目だ。
 けれども一度もそれは守られることがなかった。
 なぜなら。
 申し訳なさそうな声が、洗濯干し場に聞こえてきた。白いシーツをかきわけながら、アリサの母が二人の前に駆け寄ってくる。
「めっそうもございません、坊ちゃま! そのような恐れ多いこと、この娘にはもったいのうございます!」
 アリサの母親は商会の下働きを長年していた。父親の借金がもとで、ずっと給金のない生活を強いられている。同じく商会で下働きをしている男と結婚し、もうけられたのがアリサだった。
 そしてオレグは坊ちゃまと呼ばれる、この商会の後継ぎ息子であった。
「またか……。なんでアリサに字を教えちゃいけないんだ? 俺なんて五歳からしっかりフォマーに教えられてたんだぞ」
 面白くない、といった顔で母親を見つめるオレグだが、彼女は頑なに首を横にふるだけである。
「いけません。ご主人様にもきつく止められておりますゆえ」
「俺がいいと言っても?」
「アリサは下働きの女として生まれました。学は必要ないのです。余計なことを知れば、かえって不幸になってしまいます」
「だからどうしてそれが不幸なんだよ?」
「坊ちゃまがもう少し大きくなられたら、自然とわかります。どうか、この娘をかまうのはおよしください。お願いします」
「……つまんねえの」
 アリサが抱きかかえるようにして持っていた本を奪うと、オレグは小走りに洗濯干し場を去ってしまった。どっと風が吹き、シーツまでも彼を追い立てるように大きくはためく。
 そして残されたアリサはいつものように母親に張り手を食らう。長い小麦色の髪が宙を舞った。
「もうこの娘は! あれほど言ったのに、どうして坊ちゃまに近づくの!」
 痛む左頬をさすりながら、アリサは涙を必死にこらえる。ここで泣いてしまえば、またうるさいと張り手がまっているからだ。
「オレグ様が……オレグ様があたしに近づいて……」
「嘘おっしゃい!」
「嘘じゃない……」
「……」
 鬼のように厳しい顔をしていた母親だったが、ゆっくり屈むとアリサを抱きしめる。優しくなだめるように。
「ごめんね、アリサ。おまえの気持ちはわかるわ。でもあたしたちは坊ちゃまたちとはちがうの。仲良くしてはいけないの」
 まだ八歳になったばかりのアリサには、よくわからない。
 どうして仲良くてはいけないの?
 どうして……。


「フォマーから聞いたよ。おまえ、またあの娘と親しくしてたそうじゃない」
「それがどうした。悪いことじゃないだろ」
「いいえ。おまえはウチの後継ぎなの。そんな卑しい娘ともしなにかあってごらん。ただごとじゃすまされないのだからね」
「何がウチの後継ぎだよ。俺はそんな気さらさらないからな。だいたい金貸屋なんて、誰が好きこのんでなるものか。どうしてもやりたいやつに継がせりゃいいんだ」
「口ばかり達者になって。母さん、本当に毎日、不愉快だ。どうしてもっと素直になれないのかい」
「母親ヅラしてるのはそっちだろ。言っておくが、俺はおまえのこと母親と認めていないからな」
 ぴしゃり、と頬を打つ音が聞こえた。
 食事の支度が整ったと、女主人であるオレグの母親に伝えにいったのだが、ちょうど親子喧嘩の真っ最中だったから、扉の前でアリサは小さくなっているしかなかった。
 いつもそうだが、彼は絶対に謝らない。いつも自分は悪くないと言い張る。
 だから余計、母親は激昂し、説教はきつくなるばかりだ。
「ここまで世話になっておいて、その口のきき方は何? やっぱりあの女の血が流れているだけあるわ。憎たらしいったりゃありゃしない!」
「うるさい! 俺だって好きでおまえの息子になったわけじゃない!」
 またここで張り手の音がアリサを震えさせた。
「今夜の食事は抜きだからね!」
「ああいいさ!」
 オレグと母親の親子喧嘩は商会で知らないものはいないほど、激しくたびたび起こっていた。口汚く罵る母親に負けず嫌いの息子。まだ十歳だというのに、彼の発する言葉はすでに大人のそれに近かったほどだ。それだけ大人の世界を知っているともいえる。
 それでも商会の主人である父親は何も言わず、罵りあう母子を傍観していた。余計な口出しをすると、逆に二人から激しく言い返されるからである。それだけ母子の相性は悪かった。
 そんなオレグだったが、彼は稀にみるほどの器用さも持ち合わせていた。家庭教師であるフォマーも舌を巻くぐらい記憶力はいいし、与えられた課題もあっという間にこなしてしまう。自分ひとりでは教えることが限られてしまうから、ぜひ帝都の中等学校に進学させてはどうかと父親にすすめるほどである。幸い商会は儲かっているし、莫大な寄付金を捻出するのは造作ないともつけくわえて。
 中等学校へ進めば大学への進学も可能になり、成績がさほど優秀でなくとも官吏職や士官としての道も容易に開ける。富裕層の平民たちがエリートになるために、もっとも確実な進路としても知られていた。ただし入学するためには難関な筆記試験を通過しなくてはならない。貴族でないものたちにとってその門は狭くもあった。
 にもかかわらずフォマーはしきりにすすめるから、それだけ彼の能力は秀でていたといえる。
 しかし父親は承諾しなかった。将来、あとを継がせるのだからわざわざ帝都くんだりまで、行かせる必要はないと。しかもいくら商会の息子とはいえ、所詮は平民。あのオレグが貴族の息子たちと仲良くやっていけるとは、とうてい思われなかったのもあるだろう。


 商会で働くものたちの夕食は遅い。先に主人たちがすませ、後片付けをすませてから自分たちのぶんを大量につくらなくてはならないから、アリサも毎晩手伝っていた。
 大きな鍋に野菜と塩漬けの魚を入れ煮込んだ簡単なものである。あとは固い黒パンとごくわずかなチーズかバターのみだった。
 それでも彼らはまだまだ恵まれているほうで、儲けの少ない商会だと夕飯すらないと聞いたこともある。
 あと金貸屋には別棟があり、そこには取立男と呼ばれる屈強の男たちが住み込みで働いていた。彼らは借金を返済できないものたちに取立てに行き、強引に財産を奪ったり、それすらないときは女房や娘、幼い息子たちを人買いに売り払ってしまう。
 借金主がまだ若くて体力のある男だったら、遠洋船員として働かせることもあった。ただ、船乗りの仕事は非常に過酷で、生きて帰れる率が半分だといわれている。だから、給金の半分を前借させ、それを借金のカタにあてていた。
 そのため金貸屋は誰からも恐れられ、恨まれ、忌み嫌われていた。オレグが町の初等学校に通えないのも、これが原因である。悲しいことに護衛の男たちがいないと、金貸屋の主人一家はいつ命が狙われても不思議ではない。だから当然のように、彼には友達と呼べる同年代の子供はいなかった。
 台所に屈強な男がひとりやってきた。いつものように大鍋を持つと、別棟へと消えていく。彼らの夕食も下働き同様、質素だった。恐れられている取立男たちも、もとをただせば借金で身を崩した男である。たまたま、腕力に秀でたために雇われているにすぎない。
 それが終わってやっとアリサの食事が始まった。台所の片隅で、固いパンをちぎり、スープにひたして口に入れる。これが一日のなかで一番、嬉しい瞬間だった。
 ふと、オレグのことが気になる。
――今夜の夕食は抜きだからね!
 せっかく温かくておいしくて贅沢な夕食があるのに、どうしてあんなに嫌がるのだろう。
 母親と一緒にいたくないのだろうか。
 でもお腹は空くはず。
 アリサは皆が食事を終わるのを見計らって、鍋にわずかに残っていたスープを自分の器に入れ、残りのパンをエプロンのポケットに入れた。
 後片付けであわただしいなかをそっと抜け去り、オレグの部屋へと移動する。途中、一家の誰かに気づかれないよう足音を忍ばせ、慎重に館を歩いていった。
 扉を叩くとすぐに返事はあった。
「俺は悪くない!」
「……あの、オレグ様」
「え?」
 わずかに扉が開き、暗い灰色の目がこちらをのぞく。
「アリサ? どうして?」
「お腹が空いてるんじゃないかと思ったの。これ……」
 冷え切った野菜のスープと硬いパンを差し出す。
「俺に?」
 大きくうなづく。すると、扉がさらに開き、ありったけの笑顔がかえってきた。
「ありがとう」
 アリサも嬉しくなって、笑顔をつくった。
 が、誰かがこちらにやってくる足音を聞いてしまい、慌ててその場を離れた。
 なんとかその場をやりすごし、とがめられることもなく台所にもどる。
 よかった。また怒られなくて……。
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