―初夏 01―




 一年ぶりにもどった我が家は変わっていなかった。町のはずれにある小さな屋敷は古く、手入れをする召使や庭師すらとうの昔に解雇されたままだった。
 それでも庭には花が咲いている。黄金の花弁を広げた大輪のひまわりたちが。
「母さん、今年もがんばったみたいだな」
 だが手入れが行き届いておらず、無秩序に庭に生えていた。枯れた花も摘み取ることなく、そのまま放置されている。
 ひょっとして母さん、忙しいのかな?
 夏の間、義姉さんは出稼ぎに行っていると聞いているし。
 ユーリーは大きな鞄を手に、門をくぐり前庭を歩く。雑草が伸び放題だから、明日から早速、草むしりをしようと思った。
 玄関の鈴を鳴らす。誰も出てこない。扉を叩く。やはり出迎えはなかった。
 今日、自分が帰郷することは知っているはずだ。
 やはり何かあったのだろうか。
 不安になりながら、扉を開ける。鍵はかけられてない。
「ただいま!」
 返事はなかった。静まり返った我が家の空気が、どことなく冷たく感じる。
 これが昨年なら、まず母親が顔を出し、奥にいる父親が自分の名を呼んだ。それが今年はない。
 心なしか不安を覚えながら、居間へと進んだ。掃除も行き届いておらず、歩くたび埃が舞う。天井を見ると隅に蜘蛛の巣まで張っている。召使がいないとしても、母親がいるはずだ。
 居間に入ると、窓際で安楽椅子に腰掛けている父の姿があった。いくらか白髪が増えているものの、威厳あるその風貌は変わりない。
 父が希望している科に進めなかったから、雷を落としてしまうにちがいない。緊張を覚えながら、ユーリーは居間の入口でにこやかにあいさつをした。
「ただいま、父さん」
「……ああ、おかえり」
 こちらを見る父の目は元気がなかった。声も小さく、いつも手にしていた煙管が見当たらない。
「その、報告なんだけれど。補給科にしたよ。僕にはそこが向いてるって、担当教官に薦められたんだ」
「そうか。おまえがそう思うのなら、好きにするがいい」
「え……?」
 ユーリーは怪訝な思いで、父の元へ歩み寄った。遠くからでは気がつかなかったが、小さな皺が目元を覆い、血色が悪い。視線も精気を感じられない。これではまるで病人ではないか。
「父さん? もしかしてどこか悪いの?」
 父はうなづいた。
「肺をやられてな。動き回ると息ができん。医者は治るというが……」
 諦めにも似たその表情が、病が重いことを教えてくれる。
 知らなかった。
 まったくそんなこと、自分には教えてくれなかった。
 ユーリーは鞄をその場に置くと、父の両手を握り締める。手も老人のように乾いていた。
「なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ?」
「ミハイルが……よせと」
「兄さんが? どうしてさ?」
「おまえのことだから、学業そっちのけで帰郷するだろうと」
「だからといって、僕は家族だよ」
「すまん……」
 ここで父は激しい咳をした。
「父さん!」
 ユーリーは背中をさすろうとしたが、拒否された。
「あ、あまり、私に……近寄るな。うつるぞ」
 蚊の鳴くような声でそう訴える父に、ユーリーは愕然とする。
 これがあの父?
 去年までは自分を見るなり、勇ましいまでの声で近況を聞いてきたあの父?
 今年だって進路の報告で、すぐさま説教が待っていると思っていたのに。
 嘘だろう?
 足音がした。振り返ると、母が甥姪とともに廊下を歩いていた。こちらに気づくなり、母はユーリーの頬に接吻する。ユーリーも母、幼い甥、姪にとただいまの接吻をした。
「おかえりなさい、ユーリー」
「ただいま、母さん」
 五歳の甥、エミーリが無邪気に鞄を指差す。
「ユーリーおじさん、おみやげあるの?」
 すぐさま母が軽くたしなめる。
「いけません。一年ぶりに会ったのだから、まずはごあいさつでしょう?」
「ごめんなさい。おかえりユーリーおじさん」
 つづけて四歳の姪マリヤがかしこまってあいさつをする。スカートの裾を少し広げた。
「おかえりなさい、ユーリーおじちゃん」
 苦笑せずにいられない。たしかに叔父だが、おじさん呼ばわりされてしまうような歳ではないからだ。せめて、卒業した後からにして欲しい。
「ユーリーでいいよ。ちゃんとお土産はあるからね」
 甥と姪は無邪気に喜んだ。
 しかし再会した喜びはわいてこない。あるのは戸惑いばかりだ。
 母は茶の用意をはじめた。台所に消えていったのを見送ると、早速、鞄を開けた。きらびやかな焼き菓子の入った缶を一つずつ手渡し、開けてごらんと付け加えた。
 エミーリとマリヤは争うようにして椅子に上がり、居間のテーブルに缶を置いた。そして嬉々として缶の蓋を外す。また歓声が上がって、甘いリンゴの香りがする菓子を頬張る。
 そんな二人の様子を見つめていると、さっきまでの戸惑いもいくらか和らぎ、母が紅茶を運んでくるころには冷静な気持ちで話すことができた。その間、父はまったく口を開かず、静かに見守っているだけだった。
 ユーリーが帰宅したとき、母はちょうど街へ買出しに出かけており、子守も任されているという。なんでも父の陸軍の恩給だけでは生活が苦しく、代わりに兄嫁が働きに出てしまった。ここから離れた地方都市の大きな商会で、家庭教師を務めている。
 兄は兄で准佐に昇格したばかりで勤務が忙しく、なかなか家庭をかえりみることが難しい。給金はあるものの、父の薬代が予想以上に高くついてしまい、生活費を圧迫していた。
 そんな話を母が教えてくれ、紅茶を飲みながら、ユーリーは複雑な思いにとらわれる。エミーリとマリヤは昼寝をするために、子供部屋に移動していった。
「その、休学してもいいよ。働くから」
 母はきっばりと否定した。
「いいえ、いけません。今、学んでおかないといつ卒業するの? それにあなたは他に仕事があるとでも思っているの?」
「それは……」
「ほらごらんなさい。ミハイルならともかく、あなたは不器用なんだから……。ごめんなさい、母さんもこんなこと言いたくないのだけれど」
「いいよ。それは僕も実感している。留年しないだけでも、よくやってるなって自分でも思うぐらいだし」
「ユーリー。あなたはとても優しいのね。いつまでも」
「う、うん。少しは変わるかな、と思ってたけど、なかなか……ね」
 そう言いながら、苦笑するしかなかった。
 母の表情がなんだか悲しいものに変わってしまう。
 父が元気なころは物静かな人で、いつも微笑をたたえる穏やかな人だった。ユーリーもそんな母が大好きだった。
 しかし、今、家庭を仕切るのは母だ。その使命感が母をたくましくさせていた。
「それでいいんだ……、ユーリー……」
 突然、沈黙していたはずの父が小さな声でそう言った。
「父さん?」
「私が元気なころは腹立たしくもあったが、おまえの優しさは本物だ……。そ、それに比べて…………」
 ここで激しく咳き込む。母がすぐに水と薬を用意し、それを父に飲ませた。
 しばらくすると咳も止み、穏やかな寝息をたてて目を閉じる。ユーリーはいくらか安堵し、長旅の疲れが出てくるのを感じて、自室で休むことにした。


 目覚めるとすでに夕方だった。少しの休息のはずが、長い間、眠りこけてしまったようだ。
 父のことが気になって居間へ移動する。そこに父の姿はなく、代わりにいたのは帰宅したばかりの兄だった。
 軍服姿の兄はとても凛々しい。自分と似ているのは髪と口元だけで、あとは別人のようだった。周囲もそう言うぐらいだから、決して誇張ではない。
 難しい顔をして一枚の紙切れを眺めている――が、ユーリーに気づくなりそれを素早く折りたたみ、胸ポケットに収めた。
「おかえり、ユーリー」
「ただいま、ミハイル兄さん」
 母や甥姪のように接吻のあいさつはもちろん、抱擁もない。昔から、あまりうまが合わず、自然と距離を置いてしまう。八歳も離れていれば、普通、かわいがってもらえるのだけれど、とこれも周囲から不思議がられている。
 椅子に腰掛け、兄弟は一年ぶりの再会を喜んだ――というより、単なる近況報告である。これも昨年と変わらなかったが、唯一異なるのは、父の件だった。
「ねえ、兄さん? どうして僕に父さんのことを、教えてくれなかったんだよ?」
 涼しい顔で兄は答える。
「おまえのことだから、士官学校を休学するんじゃないかって。そんなことをされたら、かえって心配かけてしまうだろう?」
「でもこれとそれは別の話だ。父さんは僕の父さんだよ。こんな大切なことを黙っているなんて、ひどすぎる。僕を何だと思っているんだい?」
「おまえのためを思ってこそだ。聞いたぞ、いわくつきの学生と仲が良いそうじゃないか。なんでも特別枠の学生で、上級貴族とやり合ったらしいな。……なんというか、僕が在学していたころでは考えられん話だ」
 オレグのことだ。どうして兄にまでそんな話が?
「どこでそんな話を聞いたんだよ?」
「今所属している駐屯大隊に、つい最近、教官上がりの大佐が異動してきてな。……で、僕の名前を告げたら、弟はいるのかと聞いてきた。あとは想像通りだ」
「なんてことだよ。兄さんにまで……。まさか、その学生の出自は?」
 兄は肩をすくめた。
「さあな。それ以上は知らん。でも特別枠なら、平民だろう? 悪いことは言わんから、あまり親しくしないほうがいい」
「オレグのことを知りもしないのに、そんなこと言わなくてもいいじゃないか!」
 つい語気を荒げてしまう。それだけ一方的な物言いが腹立たしかった。
「ほう、その学生、オレグなんとかっていうんだな? これでますます、親しいことが判明した。姓で呼び合うのが軍の慣習なのに、おまえらよほど仲がいいんだな」
 薄く笑みを浮かべる兄はやはり好きになれない。
 昔からそうなのだ。おまえのため、おまえのため、と言いながら、結局、自分の思うようにさせたいだけである。幼いころはそれが兄と仲良くするためなのかもしれないと、がんばって合わせてきたが、さすがに今となっては反発を覚えずにいられない。
 それでもせっかく久々に再会したのだから、不毛な言い争いはしたくなかった。
「それより、どうして特別枠の学生と親しくしちゃいけないんだ? 僕らよりずっと優秀なんだから、差別する必要はないじゃないか」
「だからこそだ。なぜ士官学校が、特別枠というものを設けているのか、考えたことはあるのか?」
「あくまでも建前だけれど、平等に教育を受ける機会を」
 兄は涼しい顔にもどると、諭すように言った。
「甘いな。それは本当に建前だ。彼らは平民だ。そして僕らは貴族だ。金はなかろうと、身分は上だ。そして万が一、戦争が始まってみろ。激戦地に派遣される優先順位は?」
「まさか、そんな……」
 ユーリーは血の気が引くのを感じずにはいられなかった。
 兄の言うとおりだとすると、平民であるオレグたちが、真っ先にその激戦地に派遣される。その次が名ばかりの貧乏貴族。兄と自分だ。さらに次が地位はなくとも財産のある貴族で、最後が上級貴族たち。
 そういえばバリャコフが言っていた。平民上がりの士官は尉官どまりで、植民地に飛ばされてしまうのだと。あれはオレグを貶めるための作り話かと思っていたが、兄の話が本当だとするとまんざら嘘でもない。
「相変わらず、おまえは優しいな。そんなことも考えようとしないから、いわくつきの学生と親しくできるのか……。めでたい我が弟君だ」
 ユーリーはそれ以上、兄と話す気になれなかった。
 話せば話すほど気が滅入る。昔から苦手だったが、今日はいつも以上に刺々しい。それでも優秀だから、父にまず一目置かれるのは兄だった。
 が、父は言っていた。
――それに比べて……。
 兄のことなのだ。父の件だって、真っ先に弟である自分に報せるのが普通なのに、勝手に休学しては困るからと、故意に黙っていた。そんなこと、話し合えばすむ問題なのに、どこまでも馬鹿にしている。


 翌日からは家の手伝いに忙殺された。母ももう若くない。家事と買出しと孫たちの世話をするには、体力が足りなかった。
 ユーリーはエミーリとマリヤの面倒を見ながら、庭の草むしりに精を出す。遊び盛りのやんちゃな二人にたびたび声をかけ、視線を走らせながら、雑草をバケツに放り込んだ。長い間、庭の手入れをしていなかったから、自分の腰ほどもある草たちと格闘する。
 マリヤが鬼になり、エミーリが雑草の茂みに身を隠す。かくれんぼだ。
 しかしユーリーがどんどん草を抜いていくから、作業が終わるころには隠れる場所もなくなって自分のそばをまとわりつくようになった。
「ユーリー、お腹空いた!」
「おばあちゃんが帰ってくるまで待ちなさい」
「やだやだっ!」
 そう叫ぶのはマリヤだ。年齢のわりにはしっかりしていて、何かと自分のすることに興味を示しては、何かと話しかけてくる。そしてちょっぴりわがままだった。兄譲りの性格かもしれない。
「ねえ、お花も捨てるの? かわいそうだよ、ユーリー」
 そう言って、雑草がいっぱいになったバケツをエミーリが指差す。
「かわいそう? 花が?」
「うん。せっかく咲いたのに」
「そうか……」
 つい笑みがこぼれた。なんだか、昔の自分を思い出したからだ。
「わかったよ。これはおじいちゃんのところにもっていこう」
 ユーリーはバケツのなかから、何本か草花を取り出すと、それを手に家に入った。後から幼い二人もついてきて、たちまち居間がにぎやかになる。
 花瓶を探すため、居間を見回した。ここにはなさそうだ。台所かと思い、そちらへ移動する。すぐに適当な花瓶が見つかって、水を入れて花をさした。
 ふと使いかけの小麦粉が目に止まる。
 マリヤは腹を空かせているようだし、何か作ってやれるかもしれない。昔、母の手伝いをよくしたから、なんとかなるだろう。
 玉子と黒砂糖を見つけ、小麦粉と混ぜて練った。昨日、夕食で食べた残りの果物も混ぜる。かまどに火を入れて、フライパンで焼いてみたら、たちまち香ばしい匂いに包まれた。
「よし、順調、順調……」
 祈るような気持ちで生地をひっくり返し、また少し焼く。頃合いを見計らって皿に取り出し、ナイフで切り分けた。
 花瓶とともにそれを居間に運ぶと、マリヤの歓声が響き渡った。
「うわーっ! パンケーキ!」
 つづけてエミーリが手を伸ばす。
「すごいねユーリー! なんでもできるんだ!」
 ここでも苦笑せずにいられない。
「あはは……。草むしりとこれぐらいだよ、できるのは。僕より、おまえたちのお父さんのほうが、ずっとすごいんだから」
 マリヤがさっそく頬張りながら言った。
「おいしー! お父さんこんなことしないもん! ユーリーすごい!」
「お母さんは?」
 答えてくれたのはエミーリだ。マリヤは食べることに必死で、それどころではないようである。
「お母さんも。いつもおばあちゃんが作ってくれるんだ。今、遠いところでお仕事してるっていうけど、その前からいつもお仕事」
「なんだって?」
 ユーリーは安楽椅子に腰掛けている父を見た。
「どういうことだよ、父さん? 義姉さんまで働き詰めだなんて。夏の間だけじゃなかったのかい?」
 父は首を静かに横に振った。
「借金だ……。ミハイルのやつ、賭博に手を出していた……らしい。私も知ったのは、つい最近だ。催促状が届いてな」
「嘘だろう?」
 そう口にするものの、病床の父が偽りを言うとはとても思えない。
 家が貧しいのは承知していたが、ここまで家族が働き詰めなのは、借金が理由だったとは!
 知らなかった。気がつかなかった。
 中等学校時代から今まで、夏にしか帰郷していなかったから、家の事情を察することができなかった。
 表情のないオレグの顔が思い浮かぶ。
――金貸屋だけの世話にはならないほうがいい。地獄を見る。
 後継ぎとして育てられたのだから、彼の言葉は真実だ。
「まさか、その借金って、金貸屋じゃ……」
「ちがう。知り合いから、だ」
 一気に力が抜け、安堵のため息がもれた。
「よかった。あそこだけは世話にならないほうがいいって、僕の友人が――」
 と、慌てて口をつぐむ。
 これでは友人が金貸屋と関わりがあると言っているようなものではないか。
 父は怒るかと思ったが、返ってきた言葉は穏やかなものだった。
「いいんだ。おまえが選んだ友人なら、きっと誠実な人なのだろう……。人を見る目があるからな。……それに比べて、ミハイルは……」
「兄さんがどうかしたのかい?」
「……その借金、上官が原因らしい。断りきれず、賭博好きなその将校に付き合ったとか。金が絡むとロクなことがないと、常々、私が言っていたにもかかわらず……。己の身を過信しているのだろう。……しかしそう育ててしまったのは、この私だ。情けない」
「父さん……」
 やりきれない気持ちになってしまい、花瓶を出窓に置いた。話題を変えたかった。
「見てよ、これ。エミーリが父さんにって。草花だけれど、きれいだからって」
 父の顔にわずかな笑みが浮かぶ。苦しそうだが、その目は慈しみにあふれている――とユーリーは思った。
「それでも私は幸せなのかもしれない……。おまえという存在があるのだから。今まで、すまなかったな、ユーリー……」
「謝るなんて、父さんらしくないよ」
「すまなかったな……」
「もうないのー!」
 マリヤのおねだりがユーリーを我に返らせた。
 すぐさま空になった皿を受け取り、飲み物を飲ませて、昼寝をするよう言いつける。幼い二人は素直に子供部屋へと消えていった。
 台所で皿を洗いながら、涙がにじんでくるのをこらえる。
――父さんはもう永くないかもしれない。
 そんな予感がしてならなかった。
前頁へもどる◇◇◇次頁へつづく
Home>>Title
Copyright(C)2005 ChinatsuHayase All Rights Reserved.