旦那さまはお嬢さま

奥さまは紳士…サンプル版



 准男爵ハートレー家の領地を管理しているマリガン夫妻。ふたりに子供はなく、四十歳すぎてからの初婚同士だった。結婚三年目の新婚である。
 そんな夫妻にはつい最近、娘ができた。正確に言えば、両親のいない令嬢の親代わりとして、結婚式に招待された。
 その招待状を受け取ったのが五日前。同時に、執事マリガンは衝撃の真実を知った。
「ま、ま、まさか――。そ、そ、そんな――。わ、わ、わたくしは、旦那さまでなく、お嬢さまにお仕えしていた……というのです、か」
 書斎に呼ばれたマリガンは目を白黒させ、信じられないとばかりに硬直する。
「退屈すぎて、つい、悪い冗談を。そ、そうですよね、旦那さま?」
「まだ信じられない?」
「信じるも何も、ありえません……」
「そう。これでも?」
 仕方なく、ダークグレーのモーニングコートと臙脂色のチョッキを脱ぎ、ネクタイを外す。シャツのボタンも外した。帯布で抑えつけた胸を見せてやる。
「ああ、神よ……」
 それからしばらくマリガンは、口をぱくぱくさせるだけだった。会話にならない。
 サー・ウィルフレッドこと、令嬢サンドラはマリガンの生真面目さを再認識せずにいられない。一度ぐらい、「怪しい」といぶかしんだことすらなかったのだろうか。
 一度、休憩をしようと言い、服を着たサンドラは呼び鈴を鳴らす。従僕ハンクがやってきて、マリガン夫人を呼ぶよう言いつけた。
 領地管理人の住まいは屋敷の離れにある、小さな一軒家だ。マリガン夫人が屋敷の書斎にやってくるまで、サンドラは紅茶を飲みながら、マリガンへ事情を話した。
 驚きが静まったあとは、中年の男泣きが始まる。
「うおおっ! 幼い弟さまと大奥さまのためにっ! ああ、美しい心意気、さすが敬愛するわが旦那さま――、いや、お嬢さまだけあります。不肖マリガン、どこまでも忠実な使用人としてお仕えする所存です!」
 サンドラは引きつった笑みを浮かべずにいられない。
「……あはは。ランバート夫人になったら、べつのメイドを雇うよ。これからは、よき友として相談相手になって欲しい」
「もちろんです。なんなりとご相談ください」
「なら手始めに、身辺整理をおまえに手伝ってもらう。私が領地を去れば、つぎに管理するのはゴードンだからな。あいつが采配をしなくても、領地を維持できるよう段取りをすませておきたい」
「かしこまりました。わが妻とともに、ハートレー家をお守りしてみせます」
「心強いな、マリガン。ありがとう」
 サンドラはそう言いながら、頬が緩むのが自分でもわかった。秘密を背負っていた重荷から、ようやく解放されそうだ。まさしく安堵の笑みだった。


 今後の領地管理の話し合いをするかたわら、サンドラはようやく完成したウェディングドレスを試着する。三ヶ月かけてこつこつと自分で裁縫をした代物だ。結婚することはマリガン夫妻以外には秘密だったので、領地管理人用の住まいを借りる。狭い屋根裏部屋が令嬢サンドラ用の私室だった。
 秘密の部屋にはドレスだけでなく、下着、化粧品、リネン、裁縫道具といった花嫁道具をそろえている。十二歳から男としてすごしてきたサンドラには、婦人小物の良し悪しがわからなかったのもあり、マリガン夫人に一任していた。
 コルセットを締めてドレスを着る。くるり、と一回転しておのれの格好を点検した。姿鏡に映るのは、どこからどう見てもひとりの花嫁だ。
「よし。これで髪が長ければ、完璧だな」
 お手製のウェディングドレスを自画自賛するが、マリガン夫人は厳しかった。背中のボタンに触れながら、ダメ出しをする。
「お嬢さま。ボタン留めの作りが甘いですわ。これでは本番の日、ボタンが外れてしまいかねません。あと、袖口のフリル。糸がほつれて出ております。粗悪品を買ってしまわれましたわね。それにずいぶんと流行遅れですわ。すぐに新しいのを手配して、付け直しましょう」
「……そうか」
――われながら上出来と思ったのに……。
 母と侍女の部屋にあったのを適当に見繕ったのだが、流行など二の次だった。前の屋敷で家政婦をしていたマリガン夫人だから、彼女の言うとおりにすべきだろう。
 サンドラはドレスを脱ぐとマリガン夫人に手渡す。さっそくボタン留めを縫い直すため、夫人が屋根裏部屋を出た。ひとりになったサンドラは、ふと、おのれの姿を鏡で見つめ直す。
――もう、ウィルフレッドはいない。
 コルセットは苦しいが、アレックスの妻になるのだから、耐えることができた。それどころか、その窮屈さが快感に変わる。
――私、女にもどるんだ。
 まだ実感がない。けれど、コルセットの上からそっと乳房に手を触れると、夫を欲しているのがわかった。
――ああ、早く結婚したい。
 以前、あれほど結婚を忌み嫌ってた自分はどこにもなかった。毎夜、熱く抱擁して欲しい。そして、肉体の悦びを味わいたい。
――アレックスのバカ。あれから、ほとんど会ってないじゃないか。

 ようやく興奮が冷め、服を着替えたサンドラは、ウィルフレッドになって屋敷にもどった。家政婦だったバード夫人の紹介状を書かなくてはいけないのを思い出したからだ。
 おっとりとしたマリガン夫人に対し、バード夫人は神経質な面があった。そのふたりが同じ屋根の下で働いて一ヶ月もしないうちに、揉め事が多発した。立場としては家政を仕切っているバード夫人が上なのだが、マリガン夫人は執事の妻だ。女ボスがふたりいたら、対立するのは仕方なかった。
 だからサンドラがあいだに入り、マリガン夫人は領地管理の仕事だけをするよう言いつけたのだが、つぎは執事マリガンとバード夫人の仲が険悪になる。「女房の悪口を言わんでくれ!」と、マリガンが激高したのがきっかけで、バード夫人は転職を決めたようだ。翌日にはロンドンへ出かけ、職業紹介所へ登録したという。
 だから今、家政婦はマリガン夫人だ。執事の仕事は従僕ハンクが半分こなし、マリガンは領地管理をしている。これで落ち着いたものの、後味が悪かった。


 バード夫人に職業紹介状――俗に言う人物証明書を郵送した一週間後。
 サンドラに来客があった。従兄のゴードンだ。
 本家になんの用事があるのか知らないが、ギャンブルで作った借金を肩代わりしてくれ、とでもたのむつもりだろう。会っても話すことはない。
 サンドラはある計画を立てていた。自分が本当はウィルフレッドの姉である、という真実を伏せたまま、アレックスと結婚する。その前にウィルフレッドとしていったん、屋敷を出ていき、遠い海外の旅先で病死させることにしていた。ゴードンと直接話しても、逆上するのは目に見えている。長年、親族をだまして准男爵としてすごしていたのだから。
 そして死体がないまま、ウィルフレッドはいなくなり、ゴードンが新たな准男爵になる。領地管理はマリガン夫妻に任せればいい。
 ゴードンはひとりでやってきた。
「ごきげんいかがかな、サー・ウィルフレッド」
 やつはにたにた笑っていた。愛想笑いとはちがう、相手を見下すそれだった。
 いつものことなので、無表情で答えてやる。
「で、なんの用?」
「おまえに会いたい、と、バード夫人もいっしょに来た」
「ええ?」
 サンドラは驚く。まさかゴードンとバード夫人が、親しい間柄とは思えなかったからだ。
 応接間に入ってきたバード夫人は、いつも以上に地味な格好をしている。その表情はひどく神妙だった。
「紹介状に不満が?」
 そう、サンドラがたずねるが、バード夫人は首を振った。
「明日から新しいお屋敷で働けますわ。ありがとうございます」
「そう、よかった」
「ただ、どうしてもはっきりさせておきたいことがありましたの。旦那さまはよくしてくださいましたわ。けれど……」
「けれど?」
「泥棒はよくありません。いくら欲しくても、道徳に反しております」
「バード夫人? まさか……」
 おのれが偽の当主だと知っていた?
 サンドラは血の気がさっと引く。懐に手を入れたが、威嚇しようにも拳銃は持っていない。叔父が亡くなり、ゴードンはおとなしくなったから、必要ないと油断していた。
 ゴードンが襲いかかってきた。サンドラは抵抗する。しかし力は圧倒的にやつが上だ。バード夫人は助けるどころか、応接間のドアを閉めてしまう。
「よ、よせっ!」
「よくも僕をだましたな!」
 びりびりとシャツを破られ、胸の帯布まで外された。上半身があらわになったサンドラは、乳房を鷲づかみされる。屈辱と痛みから逃れようとするも、むだなあがきだった。
「きさま、弟のふりをした姉だったとは。ちくしょう、よくも今日の今日まで、僕をバカにしやがって――許さん!」
 叫んでマリガンを呼ぼうとするが、口を塞がれる。もがくおのれの脚をバード夫人が抑えつけた。
「何が病弱だ。男のふりをした女だったからじゃないか。バード夫人が教えてくれなければ、僕は准男爵の従兄のままだった」
 顔を真っ赤にしたゴードンは、怒りの塊そのものだった。
 淡々とした口調でバード夫人が言った。
「ごめんなさい。だけど、どうしても納得できなかったのよ。わたし、大奥さまにドレスと宝石をお貸ししたままなの。それを返してもらおうと、お部屋を探してもなかったから、療養先の病院までお伺いしたわ」
 それは初めて聞いた。知っていたら処分しなかったのに。母が借り物もすべて自分のものだと思いこんでいた。バード夫人が気がつく前に、すべて売ってしまった。
「旦那さまにないしょで、大奥さまが療養先へ持っていかれた、と思ったの。だけど、大奥さまはお貸ししたこともお忘れになられたみたい。そのとき大奥さまは、本当は息子でなく娘なのに、どうして価値がわからないのかしら、ってわたしに泣きつかれたの」
――ああ、それで発覚したのか……。
 母親なら事情を知っている。スイスの病院へやっているから、見舞いに訪れる者はいない、と踏んでいたのが計算外だった。バード夫人はスイスへ出かけてまで、母の借り物を取りもどすつもりだった。それだけ夫人にとっては、大切なドレスと宝石だったようだ。
 なぜ自分を通して事情を言わなかったのか、とサンドラは心のなかで問うた。それに答えるように夫人は言葉を続ける。
「マリガン夫人の味方をされたもの。信用できませんわ。まあ、マリガンさんの妻だから、わたしが身を引くしかなかったのだけれど」
 どちらかの味方をしたつもりはなかったのだが、結果的にバード夫人は裏切られた、と受け取ってしまったようだ。仕方がない、と夫人は納得していたと思っていたのが、そもそも甘かった。後悔しても遅かった。
「というわけだ。おまえはハートレー家の恥さらし。生かしておくのも腹立たしい。本来は、僕が准男爵であり、当主なのだからな。さあ、どうお仕置きをしてやろう」
「……」
「一生、精神病院に閉じこめてやるか。それとも、イースト・エンドの娼婦になるか? いや、それじゃ生ぬるい。ならばいっそ……」
 幼いウィルフレッドが死んだときから、サンドラが常に恐れていたことが現実になりそうだった。姉と知れた以上、何をどう弁解しても許されない。
 あと少しでウィルフレッドは死んでしまう予定だ。
 だけど本当に、ウィルフレッドは死んでいたのが知られてしまった。
――どうしよう、アレックス……。
 今すぐにでもアレックスの妻になりたいが、このままゴードンが素直に解放してくれるとは思えなかった。


***


 アレックスは困り果てていた。師匠であるモンティーニ氏の愛人たちが、旅先でかち合ってしまい、派手なケンカをしてしまった。大都市パリには数え切れないほどの人がいたが、まさかモンマルトの郊外でばったり、顔を合わせるとは予想外もいいところだった。
 その肝心の騒動の元はいない。秘書、アレックスに全てを託し――いや、放り投げ、行方をくらましてしまったからだ。
 過去の愛人だった女が、ホテルのロビーでアレックスをなじる。
「先生はどこ? あなた秘書なんだから、知らないはずはないわ!」
「本当に僕は知らないんです。通りであなたたちが口論を初めたとたん、全速力で去ってしまわれましたから」
「じゃあ、帰るまで待つわね」
 どっかりとソファに座りこんだ金髪の女を、アレックスはなだめる。
「いつになるかわかりませんよ。モンティーニ氏は自由気ままです」
「それでもかまわないわ。養育費をもらわないといけないもの」
「まさか、それって、子供が…………」
 最悪の展開にアレックスは頭を抱えずにいられない。
「そうよ。そのまさかよ。先生に似て、目と髪が黒い女の子。一歳になったわ」

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