俺の妻の手作り弁当がまずいわけがない



 昼休憩のオフィスのデスク。俺はいつものように妻がつくってくれた弁当を食べる。
 ところだった。
「うよ〜。先輩、また奥さんの手作り弁当っすか?」
 山田が弁当をのぞきこむ。
 うらやましいだろ。おまえもさっさと嫁さんみつけて、毎日つくってもらえよな。
 箸を持った俺はそう言ってやろうとしたのだが、どうも山田の顔がおかしい。微妙に首をかしげて、剃りあとが青くなった細い眉をよせている。
「でも新婚さんっすよね? なんかあったんすか?」
「なんかあったの、なんかって?」
「だって先輩の弁当、いっつも真っ黒じゃないっすか。ふつー新婚さんの弁当って、もっとはあとふるっつうか、玉子焼きとか唐揚げとかいかにも野郎がすきそうなのにしません?」
 山田に指摘されて、俺はあらためて箸をつける直前の、曲げわっぱ弁当箱を見た。
 楕円形の左半分をしめるのは、濃い紫色の飯である。そのうえにべったりと黒海苔がおおい、さらに黒さを強調している。海苔をめくると、真四角にきられた紫蘇昆布が、こんにちはの挨拶をした。
 右半分のスペースには、黒いおかずの定番ひじきの煮付けが堂々と鎮座し、その隣のアルミカップには黒いパスタが渦をまく。がんばって素朴な存在感をアピールするように、こんにゃくの小さな塊が4つ。さらに椎茸と茄子の煮びたしが黒光りし、あさりの時雨煮が山椒の香りをふりまく。
 付属の小さいタッパには、つややかな葡萄の房と、中華な黒ごま団子たちが仲良く頭をそろえていた。
 たしかに黒い。偶然だとしても、ここまで黒に統一する必要性があるのだろうか。
 ちなみに俺は好き嫌いがまったくない。ガキの時分、叔父がタイ旅行の土産にくれたドリアンを完食した日から、親戚連中に絶賛されたほどだ。将来食糧危機になって、昆虫食になっても俺だけは生きのこるはずだと、保証もされて。
 だから唐揚げだとか玉子焼きだとかウィンナーだとか、妻にリクエストしようという思いつきすらなかった。
「山田」
「なんすか?」
「もしおまえが嫁さんをもらって、毎日、黒い弁当をつくってくれたらどう思う?」
「どうって、そのまんまっすよ。なんか悪いことしたかなって。だって黒ってあんま、いいイメージがないっしょ?」
 ちゃらちゃらした外見の後輩だが、中味はいたって平凡なサラリーマンだ。もしかしたら今までまったく疑問にしなかった、俺がずれているのだろうか。
「そういうもんなのか」
「だったらそこの佐藤さんにも、この弁当みてもらったいいっすよ」
 俺の許可も得ず、山田はななめ向かいの女性社員に声をかける。佐藤さんは主婦歴15年のパート社員で、ボーナスカットされた旦那や、勉強ぎらいな子供らの愚痴を、よく給湯室でこぼしている。
 そんな佐藤さんが俺の妻の手作り弁当を見たら、さっと顔色がかわった。
「まあ、真っ黒。とても怒ってるのね、奥様」
「うーん。俺、なんかしたかな?」
 不安がたちこめてきた俺に、さらに佐藤さんは主婦の直感という名の追いうちをかけてくる。
「その自覚のないのが、いらいらするのよね。もう! あ、あら。九條さんのことじゃなくて、私のバカ旦那のことよ」
 不自然な高笑いをのこして、彼女は自席にもどった。
「奥さんにあやまったほうがいいっすよ。このまえ、社宅の奥さん連中が話してたのを、鈴木さんが聞いてたそうなんっすけど、先輩の奥さん、あいさつしても無表情って言ってましたぜ。こけし人形みたいでにこりともしないって。社宅ぐらしがきついんじゃないっす?」
「そうなのかな。まったくそんなこと、あいつ言ってなかったしな」
「察してほしいのが、女心っすよ。なーんちって」
 山田は逃げるようにして社食へ行き、俺はひとり解せないまま黙々と、妻の怒りがこもっているのだろう暗黒弁当を食べた。

 夜、仕事が終わって帰宅した俺。
 帰りの通勤電車の中でどうきりだそうか悩んだのだが、あの妻のことだから、遠まわしに言ってもつうじない。ならばずばり直球をなげたほうが、のちのちの展開を考えるとことが大きくならないはずだ。
 すでに食卓には今晩のおかずが湯気をたててならんでいる。煮物に焼き魚、酢の物、味噌汁、旬の野菜をつかったぬか漬け。とくにうまいのは手作りのぬか漬けで、俺は毎晩これを食べながらビールの飲むのが至福なのだ。
 だが今夜のビールはうまくなかった。これから例の暗黒弁当のことをきりだそうとしたら、心臓がばくばくする。
「な、なあ。その」
「折りいった話があるのか、俊介殿」
「不満とかない?」
 妻の表情はぴくりともかわらなかった。おかっぱの日本人形そのままの顔で、答える。
「突然どうしたのだ。不満があればとうに言っておる」
「ほんとにない?」
「ないというものはない。それより、俊介殿こそ不満があるのか?」
「俺は全然ないよ。でもさ、毎日、真っ黒な弁当だから、なんか俺に言いたいことがあったんじゃないかって」
「弁当が黒いのが不満なのか?」
 小柄な妻が眉間をくもらせた。滅多に表情をかえない、俺の妻が。
 状況的にやばくなった俺は、ビールをぐいっと飲んで、昼休みのことを説明した。
「俺の同僚が言うには、妙子さんがなにか言いたいことがあって、でも俺には言いにくいから、弁当を黒くしてるんじゃないかって、言うから、その」
 俺はだんだんとしどろもどろになった。それだけ妻の視線がきつく感じられたからだ。
 ぱちんと箸をおいた妻。両手を膝におき、真顔で俺に向きあう。
「そうなのか。なぜ弁当が黒いのかを、俊介殿は知りたかったのか。よろしい。では、解説しよう」
「解説ですか」
「無論、黒に統一したのは私の気まぐれなどではない。揺るぎ無い根拠があってのことだ。ここはまず、押さえておいてくれ」
「は、はい」
 妻が語りだすと反射的に俺は敬語になってしまう。付き合う以前からだった。
「そうだな。黒米から始めよう。黒米は別名古代米とも呼ばれて。背丈が高く、収穫量はかなり少ないのだが、そのぶん栄養価に優れている。中国でも昔から滋養強壮の薬膳料理として重宝され、歴代の皇帝にも献上していたというほどなのだ。白米とは比較にならないほどビタミンが豊富で、血行も良くなり、髪が黒く艶やかに若返るとも言われている。これが私が黒米を選んだ理由だ」
「黒い米はただの米ではなかったんですね」
「そうだ。そして、次は海苔。俊介殿は、海苔にビタミンCやタンパク質が豊富なのを知っているのか」
「いえ、知りませんでした」
「宜しい。無知を自覚することから、賢者への道は始まるのだ。話がそれたが、代表的な栄養素はやはりヨウ素であろう。その食品よりも多く含有されるそれは、基礎代謝を盛んにしてくれる効能があるのだ。これが私が海苔を選んだ理由だ。その下に隠された昆布の佃煮も同じ効能があると思ってくれればよい」
「へえ。それはすばらしいですね」
「そしてひじき。これも海苔と似ていると思われがちだが、なんといってもカルシウムが豊富なのだ。牛乳の12倍だぞ。あと鉄分は鶏レバーの5倍で、食物繊維はごぼうの7倍もある。素材としては地味な印象だが、何の料理にでも合うという優れた無個性さを発揮するのだ。まるで愛しの俊介殿みたいであろう。これが私がひじきを選んだ理由だ」
 妻は俺の感心をよそに、残りの食材についても語る。
「イカ墨は意外であったろうが、それにも無論、根拠がある」
「あの黒いのはイカ墨だったんですか」
「食べられるようになったのは1990年代からで、食材の歴史としては浅い。新しいものが苦手な私がなぜ選んだのか。それはイカ墨に多く含まれているムコ多糖のためだ。俊介殿は知らないだろうが、ムコ多糖には生理活性物質の働きを良くする。血行促進、新陳代謝を活発にして、身体の抵抗力を高めるのだ。すでに春とはいえ、体調を崩して風邪をひいたら大変だからな。これが私がイカスミを選んだ理由だ」
 イカスミにそんな成分があったとは。俺は感激した。弁当の食材にするために、妻は産地直送のイカを、手配したにちがいない。
「あと、こんにゃく。97%が水分のこんにゃくそのものには栄養価があまり含まれていないのだが、注目すべきは食物繊維だ。便秘予防に効果的で、癌になりにくい身体を作る。そしてダイエット食品として幅広く知られている。これが私がこんにゃくを選んだ理由だ」
「では茄子と椎茸は?」
「茄子の紫色の色素はアントシアニンで、ポリフェノールをたくさん含んでいる。赤ワインやカカオにも豊富にあることでも知られているそれは、動脈硬化予防もだが、とくに注目されているのが発癌性物質を抑制することだ。あと干し椎茸は、生のものより栄養価が高く、旨みもある。もちろんレンチナンとエリタデニンもきのこゆえ含まれているのだが、なんといっても干し椎茸はビタミンDが豊富なのだぞ。カルシウムの吸収を促進し、骨粗鬆層を防ぐことで知られている。私が食材に利用しない手はなかろう」
「ごもっともです」
「最後のおかず、あさりの時雨煮だが、あさりには鉄分、ビタミン、カルシウムが豊富だ。とくに貧血に効果があるとされ、佃煮にすると生の状態の3倍もあるのだぞ。これが私があさりの時雨煮を選択した理由だ」
 ついにラストの菓子にやってきた。世間の感覚だとスイーツと呼ぶべきなのだろうが、俺の妻は決して軽々しい流行語を口にすることはしない。
「黒ごま団子だが、注目すべきは黒ごまだな。インドから日本に伝わってきた奈良時代、ごまは薬膳として使われてきた。それだけ栄養価が高いのだ。必須アミノ酸はもちろん、抗酸化物質が多くふくまれ、ビタミンEとの相乗効果で若がえり効果があるとされている。ついでにこしあんの材料の小豆だが、利尿効果や解毒効果があり、体内のアルコールがすみやかに排出される。二日酔い防止にももってこいの食物だ。これが私が黒ごま団子を選んだ理由だ」
 立ちあがった妻が腰に手をやる。誇らしげに。
「そして葡萄は、世界中でもっとも生産されている果物だ。欧州では畑のミルクと呼ばれているほどに、栄養価が高い。代表的なのがポリフェノールで、茄子の色素の説明と同じなので割愛する。これが私が葡萄を選んだ理由だ」
 ようやく終わりのはずだが、妻の解説はとまらない。
「最後に弁当箱。杉が材料の曲げわっぱのことだが、まず木の香りが良いし、ご飯を詰めても通気性があるため、蒸れずにほど良い具合になる。和風の食材にも良く合う。プラスチックを使う気にはなれんな。これが私が曲げわっぱを選んだ理由だ」
 ぐぐっと妻が顔を寄せてくる。俺の視界が妙子さんでいっぱいになった。
「それでも俊介殿は、私の黒い弁当が嫌だったのか?」
 俺はにっこり笑顔で答える。
「とんでもない。明日もよろしくお願いします、妙子さん」
 妻は再び箸を手にすると、夕飯を再開した。ぬるくなった味噌汁を俺はすすったが、なんとなく妻の顔がほころんでいる。
 ような気がした。いつも無表情だから、俺が察知するしかないのだ。

 翌日の昼休憩。俺はいつものように弁当の蓋をあけたのだが、真っ黒ではなかった。黒米のご飯のうえに、菜の花のおひたしと焼きタラコをほぐしたものが散らされている。いつになくはなやかな色がくわわった黒さだった。
「先輩、仲直りしたんすね。うらやましいっす!」
 弁当をのぞきこんだおせっかいな山田。こいつが余計なことを言うから、昨日は意味もなくはらはらしたのを思いだす。だからちょっとだけ仕返しをしてやった。
「どうして妻が黒米を選んだのか、理由を知りたいか?」
「ええ? 喧嘩の原因を教えてくれるんっすか?」
 下世話な好奇心いっぱいの後輩に、俺は滔々と古代米が中国の歴代皇帝に献上されたことを語ってやり、つぎにひじき、こんにゃくと続いた。もちろん山田の昼飯タイムがどんどんなくなっていき、俺が語りおえるころになると、残りの休憩時間は15分をきったところだった。
 イラついた顔のまま山田がダッシュする。行き先は南ビルの食堂にちがいない。
「面白い奥様なのね。昨日は早とちりしてごめんなさい」
 佐藤さんはそう言って、ひいひい笑っている。
 やれやれ、どうして俺の妻の話をすると、いつも周囲は笑うのだろうか。面白おかしく話しているわけじゃないんだが。

俺の妻の手作り弁当がまずいわけがない〜おわり〜2011.09
覆面作家企画5:参加作品

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