「これが最後かもしれないわ。青い空を眺めるのも」
ぼくの担任教師、アデラ・マクレガーが別れ際、口にした言葉だ。大気の薄い月には空がなくって、朝も昼も夜と同じ闇の色が広がっているという。
先生は明後日の正午、月面基地ナンナへ旅立ち、しばらく地球とお別れしなければならない。
お別れのパーティは先生の希望で、小学校の屋上で開かれた。雲ひとつない空はとても青くて、天井のガラスがなければ、紫外線で火傷してもおかしくないほどに澄み切っていた。
先生はぼくらの父さんと母さんたちにも人気があった。優しくて頭が良くてきれいで、なのにまったく気取ってなかった。
いつも幸せそうに微笑んでいる先生。
だけど本当に笑っているのかはぼくにはわからない。
一年前、婚約者が皮膚がんにならなかったら、先生の名前はアデラ・ブラウアーになってたはずだ。ドームの外での作業中、遮光服がやぶれてしまってたくさんの日光を浴びてしまったのが、よくなかったんだろうって母さんたちがそっと話していたのを聞いた。
婚約者が亡くなった四ヶ月前、先生は一週間、教室に姿を現さなかったけど、それからはいつもどおりの先生で、ぼくは安心していた。
なのに……。
クラスのみんなも帰って、ぼくも帰ろうとしたけど、どうしても納得できなくてひとり屋上にもどってきたんだ。
先生は、空のグラスをもったまま、ひとりで天井を見つめていた。
空には白い月があった。先生がこれからあそこに住むなんて、ぼくには嘘のように思えてたまらない。
「エーリク? 永遠の別れじゃないのよ。そんな顔しないで、ね?」
先生はにっこりと微笑んで、ぼくの両肩を優しく叩いてくれた。
ぼくは見上げて言い返す。
「本当に? だって先生、ずっと月に行ってしまうような気がするんだもん」
「あら、どうして?」
「なんとなくだよ。月面基地滞在メンバーの補欠が出た時だって、ぼくらにだまって試験受けてたじゃないか。ずっと先生をするんじゃなかったの?」
笑顔でお別れしようね、と初めに先生が言った約束が破られてしまったけど、そんなことどうでもいい。ぼくは次から次へといろいろきいた。どうして、どうして、と。
質問攻めにあった先生は困った顔をした。
「ちょっと散歩しましょう」
持っていたグラスをテーブルに置くと、先生は屋上の庭園へ歩いていった。ぼくも黙ってついていく。
まるでジャングルのように、葉っぱがたくさん茂る温室を通り抜けて、芝生の坂を上がる。丘に似せた頂に着いたら、町の風景が一望できた。
小さなドームが並んだ家々の間を、車が走っている。
父さんが子どもだったころは、車というものは自分で運転しなくっちゃいけないって言ってたっけ。交通事故も多くて、大人にならないと一人で乗ることもできなかった。
ぼくが生まれたころには、もう車は運転してくれるものになっていた。だけどまったく事故がないわけじゃなく、自動操縦のシステムエラーで、ごくたまに暴走してしまうこともある。
そんなときは非常脱出装置で空中に浮かんで、救助車を待つんだけど、先生が補欠をすることになったメンバーの人は、その脱出装置も壊れてしまって、大怪我をしてしまった。
滅多にないことだし、ぼくらが心配することはないって聞いても、そのニュースを見てからしばらく、車に乗るのがとても怖かったっけ。
そんなこと言ってたら、学校にもヨーンの家にも遊びに行けないぞ、って父さんが言うから、我慢して乗っていたぐらいだ。
道路を走るのは車だけだ。ぼくは当たり前と思っていた。これもおじいちゃんがぼくと同じ歳のころは遮光服も着ず、昼間も人も歩くのが普通だったっていうんだから、信じられない。
ドームと道路と車とあとは岩石か砂。ぼくの住む町はこんなふうで、いとこのヨーンも同じような町に住んでいる。ほかの市も州も国もだ。
アデラ先生は学校の屋上が好きだっていつも言っていた。丘に似せたプラントには雑草も生えていて、タンポポとシロツメクサが花を咲かせている。
寝そべった先生は、タンポポの綿毛をふうっと吹いた。ぼくも真似して綿毛をとって吹いた。たくさんの綿毛が空中に飛んで、ゆっくりと地面の換気口へ吸い込まれた。
「半世紀前だったら、本当の野原へピクニックに行けるんでしょうね」
「おじいちゃんが言っていたよ。昔は公園にも天井がなかったんだって。山にだって登ったし、プールじゃない海にも泳ぎに行ったんだって」
「わたしも父母からその話は聞いたわ。でも私の母がエーリクぐらいの歳には、もう公園に天井があったそうよ。まだ人は歩いていたけどね」
「普通の服だけで?」
「ええ、そうだったようね。日焼けしないようにって、いっぱいクリームを塗ってお出かけしたって。それから日中外出禁止令が出て、人々は夜間だけ活動することになったわ」
「それもおじいちゃんから聞いたよ。夜だけの生活って、心がおかしくなるからやめたんでしょ?」
「そうね。人間って、太陽といっしょに寝起きするように神様が創られたのかもしれないわね。こうやって、日光浴するのが一番の楽しみですもの」
そして先生は笑うのだったけど、やっぱりぼくは笑えなかった。
「じゃあさ、どうして月に行くの? 青い空がないんだよ?」
「ないから行くのよ」
起き上がった先生はそばにあったクローバーの葉っぱを摘んだ。
「これをご覧なさい」
ただのクローバーだった。いつも見ている変わり映えしない草。
「意味わかんない、先生……」
「じゃあさ、これが昔、三つ葉だったって言ったら、信じてくれる?」
「え? クローバーって四つ葉だけじゃなかったの?」
「あら、その顔じゃ、エーリクのおじいちゃん、このお話はしたことなかったのね」
「初めて聞いたよ。本当に?」
「本当よ。四つ葉のクローバーはね、幸運の印なの。十万枚の三つ葉に一枚しか生えなかったから、見つけた人は幸せになれるって言われたそうよ」
先生はクローバーを唇にあてて、懐かしそうに目を細めた。
「四つ葉の幸運を欲しいって人は大勢いた。それで品種改良されてできたのが、この四つ葉だけのクローバー。その代わり、幸運の花言葉も失われてしまったの」
「どうして?」
「さあ。どうしてかしら?」
また先生は微笑んだ。答えを知りたいぼくは何度もきいたけど、先生は内緒よって言うだけ。
意地になったぼくは諦めなかった。そうしたらヒントを少しだけ教えてくれたんだ。
「幸運をなくしたクローバーのお話、ブラウアーさんから聞いたの。品種改良する前の種を月に持っていって、私と栽培するのが夢だったって……。地球で何度か試してみたけど、もう雑草すら育たないそうよ」
「ブラウアーさん? あ、先生と結婚するはずだった人?」
「ええ。このお話はもうおしまい。早く帰らないと、お母さん心配してるわよ」
先生は立ち上がるとぱんぱんと、ぼくの服についた草を払ってくれた。
それがアデラ・マクレガー先生と話した、最後の日の出来事だった。
それから二百十二日後。
月面基地ナンナに、隕石が落下したというニュースが放送された。
木っ端微塵となった基地の様子がテレビに映し出され、亡くなったメンバーたちの遺影が並ぶ。その中にアデラ先生の顔と名前もあった。
こうして人類が本格的に月へ移住する計画は、またも延期されてしまった。
ぼくはかつて月面基地ナンナがあった場所に降り立った。新生クレーター調査のためである。
クレータは規模は小さいものこそ、十九年前、人が築き上げ生活していた空間を消滅させるには充分すぎるほどの深さがあった。
太陽光が照らす崖をぼくは降りる。地球では考えられないほどの身軽さで、身体がゆっくりと下へ下へと落ちていった。
月の世界の昼は、空が黒かった。これだけの太陽光が降り注いでいるというのに、どこまでも闇だ。宇宙服を着ていても、太陽の暑さが肌に突き刺さってくる。汗もかいて換気の悪いヘルメットがさらに臭った。
不快としか言いようのないぼくだが、不思議と心は落ち着いていた。なにしろ、今、ヘルメットを通して見ているのは、蒼い惑星。
そう、数日前までぼくが立っていた地球。
アデラ先生は、どんな思いでこの光景を見ていたのだろうか。
視界の端に地球時間が刻まれる。自由時間はあと三十分と少々。のんびりと月の景色を堪能している時間はない。
ぼくは大地を蹴って、大きくジャンプした。高く飛び、軽々とクレーターの端へ移動する。
そしてわずかに残っている基地の残骸を見つけると、そこを重点的に歩き回った。
もしかしたら、もしかしたらと、淡い期待をこめながら。
ロケット発着場だった場所は跡形もなかったけど、反対側の居住モジュール一帯は全壊を免れていた。太陽光に反射する月土のコンクリートのかけらが、方々に散らばって、その下を掘ってみると生活用品がいくつも出てきた。
簡素で丈夫なコップや歯ブラシ、破損した通信機に食べかけのチョコレートチューブに、つぶれたヘルメットが宙に浮かんだ。永い眠りから目覚めたように、ぼくの周りで賑やかに踊る。
どれも生活の痕跡を偲ばせて、持ち主が健在だったころを想像させる。だけど使いかけの品々は、避難する間もなく基地が崩壊したことも教えてくれた。
その中に紅いカプセルがあった。掌ほどのそれを拾うと、スマイルタイム社製のブランドがついていた。その会社は永久保存を専門に扱うことで知られていて、死後の肉体を保存してくれるのはもちろん、毛髪や思い出の品々も長期保存してくれる。
カプセルだけ購入し、個人で長期保存するときも所有者のサインが必要だ。持ち主が亡くなったあとも、カプセルはずっとこの世に姿を留める命運を担っている。幸いにもカプセルに刻印された文字までは、破損していなかった。
ぼくは持ち主の名前を読む。十九年前、月に持っていくんだとぼくたちに見せてくれた、カプセルであるようにと祈りながら。
「アデラ・マクレガー。これだ!」
歓喜するぼくの耳に、メンバーの音声通信が入った。
『エーリク、どこにいる? 早くもどってこい。ボスがカンカンだ』
「ああ、悪かった。すぐにもどるから、ボスをなだめておいてくれ、ツトム」
『この借りは必ず返してもらうぞ。ウィスキーチューブ、一本な』
ここで通信は途切れた。
急がないとツトムだけでなく、メンバー全員に迷惑がかかってしまう。
月面基地セレーニにもどったぼくはシャワーを浴びると、小さな個室のベッドに横になる。小さな天窓に映る空はここもただの闇だった。
少し休息をとって起き上がり、ナンナ基地から持ち帰ったアデラ先生のカプセルを開けてみる。
さらに小さなカプセルが入っていて、蓋を開けると小さな種子がたくさん出てきた。
クローバーの種は、月に出発する前に調べていたとおりの姿だった。
あの日、先生は言っていた。三つ葉のクローバーを月に植えるのだと。
そして四つ葉のクローバーに幸運をもたらすようにするのだと。
その時のぼくはまだ子どもだったから、意味がよくわからなかったけど、今ならなんとなく理解できる。
十万枚に一枚の奇跡。それはもう地球では叶わない幸運だ。
すべてを四つ葉にするだけの技術があっても、自由に表を歩けない大地など、決して幸福とはいえない。
ぼくは地球の青い空を懐かしみながら、少し前の過去に思いを馳せる。
アデラ先生。
奇遇なことに、ぼくも一年前に婚約者を失ってしまいました。
ただ一つ違うのは、ぼくの婚約者はぼくのもとから自ら去ってしまったことです。
理由はわかりません。
ただ、幸せにしてやりたかったことだけは、神に誓って真実です。
彼女は一人で旅行中、不慮の事故に遭って亡くなってしまいました。
どうしてだろうと、何度も自分を責めました。
その時アデラ先生と話した、あの最後の日の出来事が思い出されたのです。
答えを見つけるため、ぼくはここまでやってきました。
そして、先生が植えるつもりだったクローバーの種を見つけました。
これを人々は幸運、と呼ぶのでしょうか。
食用ではないから、すぐには無理かもしれません。
それでも必ずこの種を植えて、いつかクローバーを芽吹かせてみせます。
十万枚に一枚の幸運を探し求めるように。