身代わり令嬢の失恋 1



 エルダー家に奉公するハウスメイド、ジョーン・アダムスの朝は早い。
 彼女は六時に起床すると午前用の仕事着である、サーモンピンクのプリントドレスを着て、丈夫な麻地のエプロンの紐を結ぶ。石炭運びや暖炉掃除で汚れてもかまわないように。
 裏階段を下りて地下の石炭置き場に行くと、シャベルでバケツに黒い塊を入れた。両手で持って、ふたたび同じ階段を上がる。
 二階に到着すると、ずらりと部屋が並んでいた。あるドアをそっと開ける。ここはエルダー家の次女の部屋で、ジョーンの担当のひとつだ。だから用があればいつも駆けつけるし、掃除もまかされている。
 ゴム底靴の足音を立てないようにそっと入室し、細心の注意を払って暖炉の火をおこす。マッチを擦って藁に点火し、小粒の石炭を燃やす。そして大きな石炭に早く燃えうつるようふいごで風を送った。ぽうっと炎が大きくなり、石炭が赤々と熱を帯びた。
 のんきに温まっているひまはない。ほかの部屋も回って火をおこさないと。
 ジョーンは入ってきたときと同じように、足音をしのばせて部屋を出ようとしたのだが。
「おまちなさい、ジョーン。おまえに大切なお話がありますの」
 驚き振り返ると、白い寝間着姿のお嬢さま、ライザが立っていた。長い三つ編みを垂らし、冷ややかな目でこちらを見つめている。
――あたし、なにかまずいことをした?
 ジョーンの心臓が激しく鼓動する。
 失態を犯した覚えはないが、自分が気がつかないうちに、あるじの不興を招いてしまったのかもしれない。白い糸くずがベッドの上に落ちていたのをお嬢さまに責められ、解雇されたメイドの話を聞いたことがある。ジョーンがエルダー家に奉公する少しまえのできごとだ。
「なんでございましょう、お嬢さま」
 ごくりとつばを飲みこみ、ドレスの裾を広げ、かしこまったジョーンは返事をした。
「おまえ、手は汚れてないでしょうね?」
「はい」
「ねえ、これを着て欲しいの。あと、その頭のキャップも外してくれないかしら」
 そう言いながらライザがクローゼットを開け、淡いピンクのドレスを放り投げた。ふわりと裾が広がり、ジョーンの腕のなかへ落ちてゆく。
「あ、あの、どうしてあたしがお嬢さまのドレスを?」
「いいから、早く試着なさい。サイズが合えば、計画を実行できますわ」
「ですから、どうして……」
「口答えせず、言うとおりになさい!」
 あるじであるライザの言いつけにそむくことはできない。もし、してしまえば、解雇という最悪の道がまっている。
 ジョーンは白いレースキャップとエプロンを外し、仕事着のプリントドレスを脱ぐと、おそるおそるライザのドレスに袖を通す。
 背中のボタンをライザの手で留められ、三面鏡のまえに連れていかれた。
「ああ、思ったとおりね。おまえ、わたしに似てますわ。茶色の瞳と髪、それに背丈も。歳はいくつなの?」
「十八です」
「まあ、奇遇。歳もいっしょですわね。これなら、問題ありませんわ」
 得心したように、ライザは満悦の笑みを浮かべていた。
 しかしジョーンは納得できない。
――あたし、なにをさせられるの?
 心臓がばくばくして、その日の奉公のあいだ、ずっと気が気でなかった。


◇◆◇◆◇



 ジョーンはライザ令嬢の侍女として、ハムネット・パークへ同行していた。目的地を目指す馬車のなかで、お嬢さまと向かい合って座る。
 がたがたと揺れる車内から、薄曇りの空が広がり、羊たちが草を食む光景が見える。のんびりとした典型的な田舎の風景だ。
 牧歌的な風景を眺めるも、ジョーンはちっとも落ち着かなかった。さっきから緊張のあまり、喉がかわいてたまらない。だんだんと見たことがない森や村に入っていくうち、鼓動の音がライザに聞こえてしまうかと思うほど早くなった。
 ハムネット・パークといえば、プライス准男爵一家の住まう屋敷である。郷士であるエルダー家よりも広い領地を持ち、農場も大きい。ただ歴史は浅い家系で、十九世紀初頭に爵位を買い取ったことでも知られている。
 そのプライス准男爵にはひとりの息子と四人の娘がいて、娘たちみな結婚して屋敷を出ている。そして跡継ぎである長男は大学を卒業して三年目。そろそろ縁談があってもおかしくない歳だ。
「その縁談というのが、メアリお姉さまのはずだったのに、一足先に男爵さまと婚約されたの。男爵さまは貴族でしょう。それに比べて、プライス家は准男爵とはいえ平民。お父さまもお母さまも、もちろん大喜びですわ。もちろん、男爵さまと婚約のほうですわよ。社交界でうまく立ち回られていたお姉さまらしいですわ」
 ブルーグレイの落ち着いたドレスを着たライザが、ほう、と青いため息をつきながら、馬車で話してくれた身代わり事情だった。
 侍女として同行しているジョーンは、先週試着した淡いピンクのドレス姿である。ふつうならば、侍女が地味な衣装を選ぶのだが、「これはジョーンにやったのよ。型が古くて着られやしないわ」と、強引にライザが押し通して着せた結果だった。もちろん、エルダー家では身代わり作戦であることはふせている。怪しむ者もいなかった。
「だから今度は、妹のわたしに縁談が回ってきたのよ。でもね、プライス家って成り上がり一家でしょう。それだけならまだしも、イアン・プライス氏ってあまりいい噂をお聞きしないのよね」
「あの、もしかして遊び人とかでしょうか……」
 ジョーンの率直な問いに、ライザは眉をしかめる。
「それならまだいいですわ。ひどい内気で社交界に出られないし、お母さまであるレディ・プライスがそれはもう強くて、言いなり状態だそうよ。肖像写真を送ってくださらないほど、お姿が期待できないのも非常に不安ね。でも次期准男爵ですもの、お父さまったらこんないい縁談はないっておっしゃるのよ。最悪!」
 最悪、のところでライザは思いっきり、馬車の床を足で踏んだ。車内が大きく揺れた。
 あるじのあまりの怒りっぷりに、ジョーンは震え上がる。
「だから、おまえにたのみたいの。イアン・プライス氏とふたりきりになったとき、思いっきり下品なことを言ってくださらない? 百年の恋も冷めるようなのを。残念ながら、わたし、農村も下町も知らないでしょう。氏にきらわれるようなふるまいができる自信がございませんの」
――ええ? もし身代わりってことがばれたら、最悪どころじゃない展開になるんじゃ……。
 ジョーンはそう言いたかったが、相手があるじなのでぐっとのみこんだ。
「なあにそのお顔? ふふ……別人だと知られるのが怖い、と思っているの?」
 心のうちを言いあてられ、赤面せずにいられない。
「だいじょうぶですわ。最悪な印象を残して、二度とお会いしなければよろしいんですもの。氏は社交界に出られないし、もちろんわが家にいらっしゃったこともないんですもの。これからも、きっと、ね」
 希望をこめた物言いが、ジョーンを不安にさせる。いくら相手が屋敷にこもっているとはいえ、大芝居を打つような真似をしてもいいのだろうか、と。
――ああ、どうか、無事丸く縁談が壊れますように!
 震える指で、ジョーンは祈るしかなかった。
 いっぽうのライザは涼しい顔をしたまま、窓の景色を見つめている。
 ジョーンの不安をよそに、だんだんとハムネット・パークの屋根が見えてきた。

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