身代わり令嬢の失恋 3



◇◆◇◆◇



――ああ、イアンさま……。
 屋敷の屋根裏部屋の窓から、ジョーンは愛しの青年紳士を見送っていた。窓は小さく、しかも高い位置にあったから、椅子の上に立ってようやく表が見える具合だった。
 彼の乗った馬車が庭園を抜けて門を出る。だんだん見えなくなるにつれ、失望が胸をおおった。
 ジョーンは思った。ライザは婚約したにちがいないと。
 だが、ライザはお茶会が終わったときから、ひどく不機嫌になった。夕食まえ、世話をしている侍女を、髪のすきかたが悪い、と難癖をつけて殴ったほどだ。
 階下で涙する同僚を見ていたら、プライス氏との縁談はまったくうまくいかなかったのだと察するにはじゅうぶんだった。
――きっと、お嬢さまもイアンさまに恋をされたんだ。
 ジョーンはあるじが失恋したことに、ほっとする。とてもではないが、祝福できる気分ではない。メイドとはいえ、ジョーンもひとりの女としての誇りがある。
 だがあのずる賢いお嬢さまのことだから、失恋の痛みを自分にぶつけるのも予想できる。面倒になるまえに、さっさと転職したほうがいいに決まっている。
 翌朝、ジョーンは職業紹介所へ行くために、家政婦に休暇願を出しにいった。ちょうどそのとき、配達されたばかりの電報を、従僕が家政婦室に持ってくる。
「ジョーン、あなたによ」
 家政婦から手渡された電報に目を通す。母の危篤を告げる内容だった。
「早く、実家に帰りなさい」
 心配顔の家政婦にそう告げられ、ジョーンは急いで屋根裏部屋で身支度を整える。トランクに身の回りのものを詰め終えると、階段を下りて裏口へ向かった。
「馬車が来ているぞ。ジョーン、おまえが呼んだのか?」
 執事にそう言われ、裏庭から表へ出ると、辻馬車が一台停まっていた。
「いいえ、あたしじゃありません」
「じゃあ家政婦か。用意周到で感心するな」
 分厚いマントを着込んだ御者が大声で、行き先を告げる。ジョーンの故郷の村だった。
 トランクを抱えて、ジョーンは走った。馬車のドアを開け、乗りこむ。
「おまえさんとこのおっかさんが、危篤だってな。ぶっ飛ばすぜ!」
 御者が大声でそう合図すると、せわしく車輪が回り出した。
「あら、わたしじゃないわ」
 そのとき、裏口に駆けつけてきた家政婦が執事に言った。
 馬車が動く音に混じり、ほんのわずかだったが、ジョーンの耳にはそう聞こえた。


 一頭立て馬車は街道までやってきた。十字路にさしかかると、猛スピードで東へ走り始める。
 郷里は北だ。御者にまちがいを報せるため、ジョーンは大声で告げた。だが、耳が遠いのか、マントに身をくるんだ御者はジョーンの訴えもむなしく、どんどん東へ進む。とちゅう、休憩を挟むこともないまま。
 さすがにジョーンも不安になってきた。
 ライザが失恋した翌朝の電報、だれが呼んだかわからない辻馬車、そして行き先をはっきりと告げたにもかかわらず、べつの方角へ進む旅路。
――あたし、罠にはめられたんだ!
 犯人はわかりきっていた。
 ひどい、ひどすぎる。
 好きで、身代わり令嬢をつとめたわけじゃないのに!
 だがここで泣いても、事態がよくなることはない。さいわいなことに、馬車には自分しか乗っていないし、御者さえなんとかすれば窮地を脱することができそうだ。
 ジョーンはない知恵をしぼり、馬車を停めるために叫んだ。
「お願い、停めて」
 御者は反応しない。
「じゃないと、ここでおしっこをするわよ。朝からずっと我慢してたんだから!」
 それでも御者は無言だったが、さすがに馬車が糞尿で汚されるのは我慢がならなかったのだろう。じょじょに速度を落とし、街道を外れ、ある村のなかへ入っていく。
 宿屋のまえに停まると、低い声で御者が言った。
「早くすませてこい。もし逃げたら、承知しねえぞ」
 怪しまれないよう、トランクは車内に残した。ジョーンは宿屋に入るなり、おかみに助けを求める。
「助けてください。あたし、人さらいに捕まったんです!」
「とっとと出ていきな。商売のじゃまだ」
 おかみが冷たく言い放ったが、ここであきらめるわけにはいかない。
 ジョーンは必死に訴える。
「だったらお金は払います。貯めた給金が入っている通帳も持ってます。それでも足りなかったら、またここへもどって払いにきます!」
 侮蔑のまなざしを流しながら、おかみがため息をつく。
「あんた、なんにもわかってないんだね。ここは港町が近い。荷揚げされる商品はモノだけじゃないんだよ。で、そこの船員や港の人夫がうちのお得意さまさ。商売上がったりの噂を流されちゃ、困るんだよねえ」
「……」
 たのみの綱が切れたジョーンは、呆然と立ち尽くすしかなかった。逃げようにも、この小さな村では、味方をしてくれる者などいないだろう。
 そのとき耳に、時を告げる鐘の音が入った。
 教会が近くにある。商売とは無縁なそこなら、もしかして……。
 ジョーンは宿屋を出ると、教会へ向かった。御者が背後から叫ぶ。
「おい、逃げるな!」
「あたし、売られるんでしょ? 遠くへ行くまえに、神さまにお祈りをしたいの」
「そうか。ばれちまったか。じゃあ、しっかり祈っとけ。逃げたらどこまでも追いかけて、ぶっ殺すからな」
 身を震わせながら、ジョーンは教会のなかへ入る。小さな聖堂にはだれの姿もない。そのとき、鐘の音が止んだ。急いで鐘楼へ上がってみると、狭い螺旋階段を下男が下りてくるところだった。
「なんか用?」
 まだ幼さの残る少年に、ジョーンは助けを求める。
「だったら、牧師さまに相談してみるよ」
「ありがとう!」
「でもべつの村へお出かけになっていて、帰られるのは夕方なんだ」
「ええ、そんな……」
「ぼくはかくまうつもりはないからね。連中、怖いから、いやなんだ」
 絶望感に泣き崩れるジョーンだったが、少年に背中を押されるようにして、無理やり教会を出る格好になる。
 すでに御者が待機しており、ジョーンは馬車に押しこめられ――。
 背後で鈍い殴打の音とともに、男の小さな悲鳴が聞こえる。
 ジョーンが振り返ると、御者が地面にたおれていた。
「よかった。間に合った……」
 鍬を握りしめたイアン・プライス氏がいた。急いで駆けつけたらしく、荒い息をついている。
 なぜ、彼がここに?
 そんな疑問など今はどうでもいい。
「こいつが目を覚ますまえに、馬車で逃げよう」
「ええ」
 農夫の格好をしたイアンが御者台に飛び乗ると、ジョーンもすぐさま車内に入った。
 馬の尻に鞭があてられる。馬車は速度をあげて、来た道を引き返していくのだった。


「初めは教えない、と言っておきながら、そのあと、ひまをやったとライザ嬢は答えた。おかしいな、と客間を出たあとで僕は思った。だから、帰宅したふりをして変装したあと、こっそりエルダー家の裏口にもどったのさ。きみがまだ屋敷にいることに賭けてね」
 ジョーンはイアンとともに奪った馬車でハムネット屋敷にもどった。玄関ホールに入るなり、屋敷をしっかり見張るよう、イアンが執事に命ずる。その後、着替えもそこそこに、居間で茶を飲む。
 じつはメイドだと知らないものだから、ジョーンの待遇は令嬢そのものだ。かえってこちらが気恥ずかしくなる。
 ひどく落ち着かない自分を案じたのだろう。イアンが、薔薇の咲く庭園に連れてきてくれ、ことのしだいを話し出す。
 オレンジの薔薇を見つめながら、ジョーンは相づちを打ち、微笑む。本人を眼前にすると、とても恥ずかしくてたまらない。
「あたしが裏口を使うのを、まっていてくださったんですね」
「ああ。朝、きみが青い顔をして、馬車に乗りこんだのを見た。声をかけるひまもなかったし、母親が危篤だというのもおかしいと思った。偶然にしてはできすぎているじゃないか。だから馬車のあとを追うために、屋敷の馬を失敬したというわけだ」
「プライスさん、あたしのために……。でもあたしは……」
「きみが無事でよかった。ずっと会いたかったんだ」
 背後から抱きしめられる。恋が始まった日から、求めていたぬくもりがじんわりと、身体を包みこむ。
 ジョーンはここで言わなくてはならない、と決意する。いつまでもごまかすことは、イアンに嘘をつき続けるのと同様だ。そんな罪深いことは許されない。
 たとえこの恋が終わろうとも。
「あの、じつはあたし」
 すうっと深呼吸をし、ジョーンは告白する。
「令嬢なんかじゃありません。ただのメイドなんです!」
 言った。言ってしまった。
 でも後悔はしていない。だってあたしは。
「知っていたよ」
「ええ?」
「初めて会ったとき、言ったろう? 血筋とか家柄とかそういうのに縛られたくないと」
「で、でもあたしは」
「僕が社交界に顔を出さないのはね、結婚するつもりがなかったからだ。プライス家に小さな復讐をするために」
「復讐って? ほんとうのご両親じゃないんです?」
「まあそういうところかな。僕の母親は、父の愛人だったんだ。メイドだった母と恋があったのかどうかは知らない。でも跡継ぎができないからという理由で、十二年まえ、僕はここへ連れてこられた。たくさん、母さんにお金を渡したのを見たし、今さらどうしてだ、と腹立たしかったのさ」
「そんな……」
 母親がメイドだったから、自分と話が合ったのだ。社交界よりも花を育てるのが好きな理由が今わかった。
「でも、いつまでも意地を張っていても仕方がない。きみと出会って、そう思い始めた。ずっといっしょにいてくれないかな」
 耳もとでそう囁かれ、ジョーンはまた顔が熱くなった。
「はい、プライスさん」
「イアンと呼んでくれたまえ」
「はい、イアンさま」
「じゃあ僕も――。ん? ええと、あ――!」
 腕を放したイアンが、決まり悪そうに頬をかく。
 真顔で向かい合った相手に、ジョーンは問われた。
「きみの名前は? まさかライザ・エルダーじゃないだろう」
「ああ、そういえば……」
 ふたりはどっと笑う。大切なことをすっかり忘れていたと。
 ひとしきり笑ったあと、ジョーンはあらためてあいさつをした。
「あたし、ジョーン・アダムスって言います」
「じゃあ、ジョーン。僕の妻になってくれるかい?」
「はい、イアンさま」
 期待と不安が入り交じるジョーンを守るように、イアンがそっとくちびるを重ねた。


◇◆◇◆◇



 ジョーン・アダムスはいくつもの試練を乗り越え、三年後、イアン・プライスと結婚することができた。仲睦まじい若夫婦に、初めは反対していたプライス家のひとびとも、孫の誕生を迎えるころには、すっかり丸くなった。
 ひまさえあれば、庭園だけでなく、菜園を手入れしている若夫婦の姿を、見かけることができる。社交界に縁のないふたりだったが、だれが見てもとても幸せそうだった。
 いっぽう、ライザ・エルダーも、三年後、若くてハンサムな郷士の紳士と結婚することができた。あるメイドに裏切られた――とあくまでも本人は言っているのだが、その過去が影響してしまい、つねに使用人たちを疑っていた。ささいなことで責めるものだから、使用人たちが居着かず、おべっか使いの執事とメイド数人だけが残り、ひどく居心地の悪い家庭に、夫もよりつかない。
 やがて別居をするのだが、周囲の目が冷たい。自分を悲劇のヒロインに仕立てるため、夫が暴力を振るうのが原因だと嘘を言いふらすも、裁判沙汰に発展してしまう。おまけに丸めこんだはずの執事が、真実を法廷で証言してしまい、ライザは泣く泣く離婚するしかなかった。
 身も心も疲れ果てて実家にもどるも、体裁が悪すぎると両親や親戚たちになじられる。三日もしないうちに辺鄙な寒村の修道院へ、尼僧として閉じこめられてしまった。
 こうして彼女は神の御元で孤独な一生をすごすことになる。


身代わり令嬢の失恋:おわり


※作者より。作中にて今日の感覚においては一部、考慮すべきととられる語句・文章があるかもしれませんが、あくまでも当時の時代背景らしさを表現するためです。決して意図的ではない旨をご理解願います。

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