帰らずの坂




 藤原惟尹《これただ》の少将は几帳越しにいる陰陽頭へ、もういちど訴えた。
「おたのみ申す。帰らずの坂の鬼を退治してくだされ。あやつらは幾人もの旅人を脅かしておるのだ。口惜しいが、武人の弓矢ではたちうちできぬ」
 すぐさま冷たい返事があった。
「それはかなわぬ、惟尹の少将。なんども申し上げるが、陰陽師を遣るほどの大事ではない。そなたの智恵――いや豪腕で解決できようぞ。左大臣にも申し上げておるではないか」
 稀代の陰陽師として知られている安倍晴明であったが、陰陽寮の頭に昇格したころから、ある噂が立っていた。
「やはり儲けにならんから」
 そう言いかけ、惟尹は周囲を見た。陰陽頭のほかに人の気配はしないが、だれがどこで聞き耳を立てているやら。
「悪いが関与できぬ。お引取りなされ」
 そのとき乾いた風が、寝殿造りの室内を駆け抜けていった。白い生絹が揺れ、几帳の向こうにいる男の直衣が見える。遠文の薄い藍色の単は、男が老年であることをおしえてくれた。しかし声の主はまだまだ若い響きをふくんでいる。
 とたん惟尹はうなだれ、扇子で座したおのれの膝をたたかずにいられない。
 やはり噂はまことであったか、と。

 たのみの陰陽頭に冷たくあしらわれてしまった惟尹は、落胆しながら大内裏をあとにした。美福門を出、京の都をあてどもなく歩く。燕が低く飛んで目の前を横切ったが、青空にはまだ黒き雷雲は湧いてなかった。
 夏の終わりの風はいくらか涼をふくみ心地好い。だが、これから鬼と相対することを考えるだけで身震いが止まらない。
 あまりにも青い顔をしていたのだろう、従兄の藤原宗敬の佑と朱雀大路で出くわすなり、こう言われた。
「ついに帰らずの坂の鬼につかれたのか」
 扇子で宗敬の烏帽子を軽くたたく。
「馬鹿をいうな。鬼退治はこれからだ。しかし困ったことよ」
「陰陽師をつれていけばよかろうに」
「それができんから、困っておるのだ。あの陰陽頭め。噂どおり面倒な仕事は、ことごとく断るらしい」
 惟尹がため息をもらすと、心中を察したかのように宗敬が言った。
「ああ安倍晴明殿のことか。若い時分は道長公に仕えて、たいそうなはたらきをみせたそうじゃないか。あの悪漢、芦屋道満を術で負かせた逸話は有名だろう。そんな傑物が帰らずの坂の鬼退治なんぞ、馬鹿らしくてやってられんのじゃないか」
「けっきょく傑物も、出世してしまえばただの俗物よ。しかし帝のおぼえめでたき御仁には、だれも逆らえん。都の鬼や魍魎退治より、公卿のご機嫌取りにお忙しいのだろう。おれと接見した男も、若い陰陽師だった。代理を使ってことごとく依頼を断っているのだろうよ」
 ここまで話した惟尹はやりきれなくなり、地面の小石を蹴った。
 昔は陰陽師安倍晴明といえば、都の鬼という鬼を退治し、あるじである道長公にかけられた呪術を返したことでも知られている。呪詛返しを食らった陰陽師は、瞬時にして魂を鬼に抜かれたという。それだけ晴明の術が長けていたのである。
 だがそんな稀代の陰陽師も、年月にはかなわなかったようだ。陰陽寮の頭になるころには、ごく親しい者の前にしか姿をあらわさず、もっぱら怠惰にすごしているという噂だ。
「部下も遣ってくれぬ、とおっしゃったのか」
 宗敬の問いに力なくうなづく。
「ああ。わが陰陽師を遣るほどの大事ではないと、な」
「これはまた難儀なことだな。だがな惟尹、あてがないわけでない。大きな声では申せぬのだが」
 そして大路のすみで惟尹は従兄に耳打ちされる。
 闇の陰陽師の存在を。



 狩衣を着た惟尹は帰らずの坂にいた。弓矢をたずさえ、宗敬をつうじてやとった陰陽師ともに。
 空は鬱蒼と茂る木々に隠れ、一羽の燕が惟尹たちの周りを飛んでいる。あとは蝉の鳴き声すらしない、不気味なまでに静かな山道だった。
 都から四里ほど離れたこの道は、城州へとつながる街道として知られている。だが、檜が生い茂る山を登る道中、鬼が邪魔をして旅人らを寄せ付けない。
 命からがら逃げてきた者達が言うには、影のごとき大きな身を揺らしながら、鬼が覆いかぶさって慟哭するという。ならばと鬼退治に向かった僧侶らも、経を唱えてみるものの、まったく鬼にはきかず、黒い巨体に恐れをなして逃げ出す始末。
 そんな噂が都に広まり、やがてその山道は『帰らずの坂』と呼ばれるようになる。都へ向かう旅人はもちろん、地方からもどる旅人も帰ることができないからだ。腰を抜かしたあと、震えながら旅人らは山を大きく迂回して、長い帰路につかなければならなかった。そんなおり、左大臣じきじきから惟尹は鬼退治を命じられた。
「だがのう、おれは武人。鬼退治の仕事は陰陽師こそふさわしい。左大臣みずから例の陰陽頭に頼んだそうだが、話にならんかったそうだ」
 帰らずの坂を上りながら、惟尹はことのいきさつを闇の陰陽師壱丸に話してやった。まだ十歳そこそこの童子だったが、宗敬が推してくれただけあり聡明だ。言葉の受け答えが心強さを感じさせる。
「さようでございましたか。しかしご安心ください。この私が鬼を退治してみせましょう。これでも曽祖父は賀茂家の傍流の出にございます。ただ参内かなわぬ境遇にございまして、こうして闇の稼業として生業を立てております」
「ほう。その境遇とやらは」
「祖父は諌言で摂政の怒りをかってしまいました。おかげで家は没落。しかし代々受け継いだこの血が変わることはございませぬ」
「さようか。今も昔も宮仕えは、いろいろとむずかしいものだよなあ」
 そんな話をしていると、うめき声が聞こえた。道端に一人の翁が倒れている。惟尹は駆け寄った。
「大丈夫か、じいさん」
「腹が減って、動けぬ」
「なんだそんなことか」
 苦笑いしながら腰の巾着から、竹皮につつまれた握り飯を差し出してやる。うばうようにして翁はそれを取り、がつがつと二つとも平らげた。地方から都へ流れ着こうとした乞食だろう。着ているものは襤褸そのものだった。
 米粒のついた指を舐めながら、翁は言った。
「ありがとよ、若造。してそこの坊主。おぬしはくれんのか」
 壱丸は眉をひそめ、冷たく言い放つ。
「あっちへ行け、乞食じじいめ。わが陰陽師の仕事を邪魔する気か」
「陰陽師だと。おまえのような高飛車な小僧が」
 皺だらけの顔をゆがめて笑う翁。
「なにがおかしい乞食じじい」
「これが笑わずにいられようか。高飛車でも許される陰陽師といえば、晴明しかおらん。あとは屑のごときじゃ」
 惟尹は目を丸くせずにいられない。
「じいさん、安倍晴明を知っておるのか」
「おうよ。若い時分、何度か会うてなあ。鼻持ちならんぐらいすました若造だったのう。だがの、あやつの術を見ておったら、それもいたしかたないわい。忠行のやつがせがれよりかわいがったのもうなづけるわ」
「かなり昔の話だな。今は陰陽頭になっておる。翁と呼ばれてもおかしくない歳だ」
「おぬし、面識があるのか」
「あるもなにも、帰らずの坂の鬼退治をたのんで、断られたばかりだ。それだけならまだしも、当人のふりをした青二才を出すとは。少将であるこのおれをなんだと思うておるのか」
 ここまで話して、また腹立たしさがこみ上げてきた。たしかに翁の言うとおり高慢な男である。歳を食ってさらに増長したとしか思えない。
 それが顔に出たのだろう。また翁は皺だらけの顔で笑った。
「なるほどのう。それもいたしかたあるまい。なんせやつは信田の狐の化身から生まれた男。人様の前に出たくても出れん道理があるんじゃろうて」
「どういう意味だ」
 しかし翁は答えず、愉快千万といわんばかりに笑い続ける。
「憐れなことよのう。死ぬまでこそこそ几帳の影に隠れておるのか。それに比べ、このわしのなんと気楽な生き様よ」
 狂ったように笑う翁が不気味になり、惟尹は怪訝な顔をした壱丸とともに先を急いだ。つられるように草むらから立ち上がった翁は、ともに帰らずの坂を上りだした。
「だめだじいさん。鬼が出るぞ」
「そんなもん、道端の石ころみたいなもんじゃわい。わしが蹴飛ばしてくれようぞ」
 と、高笑いする。傍若無人な乞食め、と思いながら、惟尹は行く手をはばんだ。
「いかん、いかん。腰を抜かして逝ってしもうたら、後味が悪いでないか。せっかくおれが握り飯をやったというのに」
「おうおう。見かけによらず、いい若造じゃい。わしが嫗じゃったら、年甲斐もなく惚れておろうなあ」
 口達者な翁め――そう惟尹が言おうとしたとき、檜生い茂る坂道の向こうから、ゆらりゆらりと大きな影が出てきた。
 あれだ。あれにちがいない。噂の鬼――。
 惟尹はぎりぎりと弓を引き、矢をつがえて身構える。その隣で壱丸が手で印を組み、呪を唱えた。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前」
 力強い童子の声が辺りに響き渡るとともに、黒い影がゆらゆらと揺れながら唸り声を上げた。うおううおうとまるで野犬のように。
「黄泉へ帰れ、邪悪なる鬼どもめ」
 その声に応えるように、黒い影はぱっと炎を上げて燃えた。あとは灰が風に舞って散るだけ。
 あっけないほどに鬼を調伏した童子に、惟尹は感嘆せずにいられない。
「闇とはいえ、さすが賀茂の血を引く陰陽師。すばらしいことよ」
 壱丸は微笑む。
「ならば左大臣様に私どものはたらきをお伝えください」
「もちろんだとも。じきに褒美を遣わされるはず」
「宗敬様の機知ということも忘れずに。絶対にですよ」
 いやに念を押す壱丸の目は、まるで獲物を狙う猫のように鋭い。抜け目のない宗敬のことだ、山のような褒美があるのだと壱丸に耳打ちしているはず。
「うつけ者め。そのどこが陰陽道じゃ」
 二人の後でようすをうかがっていた翁が、そう言うなりなにやらぶつくさと唱え始めた。
「何をしている、じいさん」
 惟尹の問いも耳に入らないようで、懐から折りたたまれた紙を取り出すと、ふうっと息を吹きかける。
 濃い真っ白な煙が湧いた。つい瞼を閉じた惟尹だったが、次に見たのは童子ほどの大きな蝦蟇蛙《がまがえる》だった。大きく高く跳ねると坂の上の草むらへと消えた。
 次に悲鳴が聞こえた。おぼえのある男たちの声だ。
 げえこげえこと地響きを立てるように、化け物蛙が鳴いた。坂を駆け上がった惟尹が見たものは、案の定、腰を抜かした従兄の宗敬とそのお供の青年だった。
「今、お助け申すぞ」
 反射的に手にしていた弓で矢を射るものの、大きな暗緑色の背中から血が噴出すことはなかった。それどころか突き抜けた矢が、地面に刺さる音が聞こえる。
 おかしい。手ごたえがあったはずだが。
 まるで煙に矢を射ったようだ。
 まさかこれも呪術か。
 惟尹は大声で壱丸を呼ぶ。しかし返事どころか、肩越しに振り返ると一目散に坂を駆け降りている。
「おい、なぜ逃げる」
 狙いすましたように大蛙が跳んだ。巨体が惟尹の上を越え、翁をも越え、壱丸を押し潰しながら鈍い音をたて着地した。
 童子の悲鳴が帰らずの坂に響き渡る。弓矢を地面に捨てた惟尹は、壱丸を助けるために坂を飛び降りるように下った。腰の短剣を抜き放ち、蝦蟇めがけて突き刺す。
 だがここでもまるで手ごたえはない。
「た、助けて、ください」
 力なくそう言われるが、矢も剣もまるで歯が立たない。ならば化け物を作った翁を懲らしめればいいと思ったのだが、肝心の呪術者の姿はどこにもみあたらなかった。
 地響きのごとき轟声で鳴きながら、巨大蛙は容赦なく壱丸を圧していた。
「おうおう。陰陽道のなんたるかを知らずに、九字を切ったから罰があたったのじゃ。小気味よいことよのう」
 翁の声が聞こえた。頭を上げると檜の枝の上で、冷笑しながら高みの見物をしている。
「おい、じいさん。あの蝦蟇をなんとかしてくれんか」
「ごめんこうむるわい」
「まだ童子ではないか。それよりおまえこそ、陰陽師なのか」
「さよう。これも握り飯の恩返し。だからきさまの鬼退治を手伝どうてやったまで。ほれ、これが鬼の正体じゃ」
 翁が口笛を吹く。竜巻がおこり、四つん這いで遠ざかろうとしてる宗敬が巻き込まれた。あっと声を上げる間もないまま蝦蟇の前に落とされ、真っ赤な長い舌に、宗敬は簀巻きのごとく捕らえられる。
「た、助けてくれえ、惟尹」
 壱丸と同じように従兄は情けない声で救いを求めてきた。だがやはり剣を突き立てようが、蝦蟇はぴくりともしない。金色の目でぎろり、と惟尹を睨みつけるだけ。
 宗敬の絶叫が響き渡る。骨がいまにも折れそうなほど、胴がみしみしと音をたてた。
「鬼退治に参ったのじゃろ。情けをやってどうする」
「そうだ。おれが成敗にきたのは、鬼だ。従兄でも童子でもない」
「こやつらはどのみち性根が鬼じゃ。ほれ、げんにきさまを騙したではないか。その甘さが身を滅ぼすぞ」
 また悲鳴が聞こえた。このままでは蝦蟇の化け物に呪殺されてしまう。しかしどうすることもかなわず。
 そのとき一羽の燕が、すうっと弧を描いて惟尹のもとに舞い降りた。ぱっと煙が湧き、つぎの刹那、燕は大きな鷹に変化していた。
 鷹の爪が容赦なく蝦蟇をつかまえ、たちまち空高く飛び去ってしまった。
 またたく間のことにさすがの惟尹も腰を抜かしてしまう。やがて二枚の紙切れがひらひらと落ちてきた。
 震える手でそれを拾うと、一枚には晴明桔梗の五茫星、もう一枚には縦棒四本横棒五本の九字が書かれていた。
「まさしく式神」
 宗敬と壱丸は気絶していたが、木の陰に隠れていた従者の青年は無事だった。翁はどこにもいない。宗敬の従者に牛車を呼びに行かせると、惟尹は力なく座り込んだまま、ことの次第を考えた。



 藤原惟尹の少将は几帳越しにいる陰陽頭へ、頭を下げたまま言った。
「此度は感謝してもしきれませぬ。あの鷹になった燕が、あなた様の式神だったとは。おかげで得体の知れん、陰陽師の翁から逃れることができ申した」
 涼しい声で陰陽頭は答える。
「私の算段ちがいだったのだ。そもそも帰らずの坂の鬼、あやつらの正体はとうに見抜いておった。だから武人である惟尹の少将を成敗に参らせるよう、左大臣に進言したのだ。だが、まさかあやつがいるとはのう」
 愉快そうに晴明は笑う。あまりにも小気味良い声なので、惟尹もつられて笑ったほどだ。
 従兄の宗敬はいまだ昇殿かなわず、一日でも早く功を上げてやんごとなき人々にお仕えしたかったらしい。帰らずの坂の鬼をでっち上げ、おのずから退治するつもりだった。
 だが同行して証人となるはずの陰陽師は、ひとりも派遣されず、代わりに抜擢されたのが従弟で出世した惟尹の少将。そこで作戦を変え、宗敬は貧しいが賢そうな童子を捕まえると、たんまりと飯を奢ってやった。その後、朱雀大路でたまたま出くわしたふりをし、闇の陰陽師壱丸を紹介する。目的どおり壱丸扮した少年を、惟尹と同行させたのだった。
 ちなみに鬼の正体は、竹に糸で吊るした人型の薄絹と、従者の青年が真似た犬の遠吠えだ。旅人が坂を登ってくると、墨で染めた薄絹を頂上で揺らし、従者が不気味な声を出した。遠目で鬼とかんちがいした旅人たちが逃げて都にもどり、二人、三人と続くと、帰らずの坂の鬼の噂話がたちまち広がったのである。
「それよりおぬしにききたいことあるのだが」
 小声になった陰陽頭。あらためて人払いをすると、几帳の影からゆっくりと出てきた。
 惟尹は若い男の姿につい見惚れてしまう。
 遠文の薄い藍色の直衣を身にまとった陰陽頭は、光源氏の君を彷彿とさせるほどの色男ぶりだ。しかしその瞳は惟尹の父よりも精彩がなく、まるで世間を知りつくし好奇心を失った翁のようだとも思った。
「なんでござろう」
「あやつ、道満は達者だったのか」
 おぼえのない名に、惟尹は首をかしげる。
「蝦蟇の式神を出した陰陽師だ。私がまだ一介の陰陽師だったころ、箱の中の蜜柑を鼠に変えて、悪漢の鼻を明かしてやったのだが。島流しになって幾年かのち、行方不明になったままなのだ」
「ということは、まさか、芦屋道満」
 昔、晴明との術比べに負けた話には聞いていたものの、あの握り飯を喜んで食った翁が。
「そんな顔をせんでくれ。たしかにあやつは悪漢じゃが、根は気のいい男だ。どちらか黄泉に行く前に、密かにまた術比べをしたくてのう」
 惟尹はどう答えていいのかわからない。
 陰陽頭安倍晴明は童子のように瞳を輝かせ、笑みをこぼし、扇子を仰いだ。
「もちろん、勝つのは私だがな」



帰らずの坂〜おわり〜2009.08
覆面作家企画4:参加作品

◇参考サイト様:官制大観黒猫月 ◇参考書籍:陰陽道の本―日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜

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