王冠の涙

その一




 昔、昔。そのまたずっと昔。
 ある砂漠の国に大きな樹がありました。天まで届かんばかりに伸び、そのてっぺんを見た者がいないほどです。幹も太く、百人が手をつないで囲っても、まだ足りないほどでした。


 ある商人の男とその妻が、砂漠の旅で迷ってしまった日のできごとです。
 灼熱の太陽に焼かれ、喉が乾きますが、駱駝の胃袋で作った水筒にはもう一滴の水すらありません。望みはなく、あとは死を待つばかり――。
 男と妻は神さまに祈りました。神さまは何も答えませんでしたが、べつの声が聞こえました。

――私の身体に巣食う、虫を退治してくれると約束するなら、おまえたちを救ってやろう。

 男はすぐさま承諾しました。

――ならば、右の丘を越えるがよい。私が見えるはずだ。

 男と妻は意識が朦朧としながらも、必死に砂丘を越えます。駱駝の歩みがもどかしほど遅く感じました。
 突如、地平線には、天にも届きそうな高さの樹が見えます。さらに男と妻は砂漠を進み、ようやく樹の根元までたどり着いたとき、水の匂いがしました。泉に駆け寄り、無我夢中で冷たい湧き水を飲んだあと、大樹との約束を思い出します。
 樹木を食う、何匹ものカミキリムシを退治しました。幹は気が遠くなるほど太く、全部、退治するのに二日もかかりました。
 そのあいだ、樹の精は果実を落として、男と妻の飢えを満たします。それはまだら模様の楕円形をしていて、なかを割ると真っ赤な粒がぎっしり詰まっていました。塩と鉄の味がする果肉はみずみずしく、食べれば食べるほど、元気が湧いてきます。
 大樹は、神さまの御使にちがいない。
 男と妻は何度も神に感謝しました。

 しかし男と妻は思い違いをしていたのです。
 樹は天におわす神ではなく、砂漠の大地に根付く精霊でした。


 大樹に救われた男と妻は、それからオアシスを出ることはありませんでした。彼らの命を救う代わりに、樹は毎日、虫退治をさせたのです。すべて退治しても、三日もたたないうちに、新たなカミキリムシが現れました。
 初めは自由を奪われたことに憤慨する男と妻でしたが、商人だった男は旅人に宿を与える代わりに、品物を受け取ることを思いつきます。食事は樹が落とす果実でした。楕円形の果実はときおり、人の頭のようにも見えます。摩訶不思議な形と滋養が評判になり、立ち寄る旅人の数も増えました。
 やがて砂漠のオアシスは栄え、男と妻の孫たちが成長するころには、オアシスは町になり、宮殿が建ちました。
 いつのころからか、そのオアシスの大樹は、『天の御使』と呼ばれ、男と妻の子孫は末長らく、豊かな暮らしを約束されました。
 もちろん、巨大な幹に巣食う、カミキリムシを退治することを忘れませんでした。金で買った奴隷を使えばよかったのです。


◇◆◇◆◇


 それから何代もの子孫が生まれ、死に、大樹との約束の意味を忘れたころ。

 交易がぱったりと途絶えてしまい、王さまは頭を抱えていました。なんでも遠い地で戦争が勃り、武器や食料を売るため、商人たちがオアシスを通らなくなってしまったのです。
 一年経っても、二年経っても、賑わいはもどりません。三年がすぎるころには、国のひとびとが食べるものに困るほど、貧しくなってしまいました。宮殿にある食料も底をつきます。
 仕方なく、王さまとその家族たちは、『天の御使』と呼ばれる巨大な樹木の実を食べました。毎日、毎日、そればかりで飽きてしまいます。
 焼きたてのパンやバター、チーズ、こんがり焼けた羊肉、鶏肉と玉ねぎのスープ、香辛料のたっぷり入ったケーキ、黒く艷やかに熟れた葡萄……。ご馳走を食べた日々を、遠く感じるほどです。
 幹にカミキリムシがいても、奴隷を呼びませんでした。まずい果物ですが、奴隷にやってしまうと王さまたちのぶんが無くなってしまいます。それを恐れて、とうに奴隷をすべて砂漠へと追い出したのです。
 だれもカミキリムシを取ろうとしませんでしたし、むかしからの決まりごとを守るほど、彼らは感謝していませんでした。王さまの先祖の作り話にぐらいにしか思ってなかったのです。それほど、長い時間がすぎてもいました。


 遠い国で戦争が終わり、ようやく王国に活気がもどってきました。以前のように、王さまとその家族たちは、ご馳走に囲まれ、幸せな日々を送っていました。新たな奴隷も買いました。
 そんなある日、旅の占い師が王さまに謁見したいと、門番に言ってきました。年ごろの王さまの娘たちは、喜んで占い師の老女を宮殿に入れます。
 姫ぎみたちを占ったあと、老女は王さまも占います。退屈しのぎにちょうどいいと、王さまも喜んで相手をしました。
 老女は静かに言いました。
「あなたがたは、精霊との約束を守られなかったようです。やがて、罰が下るでしょう。悲しいことに、その罰から逃れることはできません」
 王さまは笑いました。
「あれはただの作り話だ。手足のない樹に何ができようか」
「むかしは今とちがい、神の指先が大地に触れることができたのです。遠いむかしの約束だろうと、精霊が見逃すことはないでしょう」
「冗談を申すでない」
「冗談などではございません。五年後、あなたさまに初孫が生まれます。待望の王子でございます。しかし、罰はその王子に下ります。精霊はもっとも清き魂の持ち主を選ぶと決まっております」
 王さまは不愉快になりました。それでは占いというより、悪い予言です。
「五年後に王子が生まれるのだな。なるほど。どのような罰を下すというのだ?」
「王子は呪われ、あなたがたに災厄をもたらすでしょう。宮殿の財宝を奪い、後宮の女も奪い、町と宮殿は瓦礫になります。王子に逆らうものは殺され、あなたがたもお命がなくなります。そして、妹姫を犯し、神を冒涜するのです。神の怒りが砂嵐を呼び、この王国は滅びてしまうでしょう」
「たわけたことを申すな。不吉な」
 王さまは怒りで顔を真っ赤にして、老女を宮殿から追い出しました。罰は与えませんでした。見せしめに処刑してやりたいぐらいでしたが、もしほんとうの予言者だったらと思うと怖かったのです。


 五年後。
 王太子夫婦に、初めての孫が生まれました。待望の王子です。
 しかし、王さまは、青ざめました。五年後を迎えるまえに孫が生まれるよう、息子の結婚を早めたのはいいのですが、妻も後宮の女たちも身ごもらず、ちょうど老女の予言から五年後の今日、王子が誕生したのです。
 王子は王妃の子でしたから、盛大な祝宴を催すはずでした。しかし、王さまは生まれたばかりの初孫をわが手に抱くこともせず、砂漠を越えた山脈へ捨てるよう奴隷に命じます。
 王妃と王太子は、ただの偶然だ、しかも大切な跡取りの王子、王女ならともかく、と引きとめようとします。それでも王さまは予言が成就するを恐れ、考えをあらためることはありませんでした。
 王さまの命令にはだれも逆らえません。泣く泣く、王妃と王太子も小さな王子を捨てることに決めました。
「父上、せめてわが息子に名前をつけてください。名無しのまま、みなし児になるのが不憫でなりません」
 王さまは許し、わが孫にイクリール・ダムアと名づけました。王冠の涙、と。
 王太子が旅立つ息子の腕に、銀の腕輪をはめてやります。奴隷に王子の名前を彫らせ、成長しても使えるよう、大きく作ってやったものでした。
 王さまに命じられた奴隷は、駱駝に乗って砂漠を越え、旅します。
 六日目の朝、奴隷は高い山々に囲まれた村に到着しました。イクリール・ダムア王子を、広場に置くと、黙って去ります。その村は、いかにも貧しそうな、あばら屋ばかりが並んでいました。
 王さまの御前にもどった奴隷は、砂漠を越えて山国へ行った証に、通行手形を差し出しました。奴隷が王子に情けをかけなかったのを、王さまは褒めてやります。もし、王子が宮殿にもどることがあれば、処刑されるのですから、奴隷が約束を守らないはずはありません。
 その後しばらく、砂漠の王国に暗雲が立ちこめることはありませんでした。
 平穏で豊かな日々が続きます。新たな孫たちが誕生し、王さまは安堵します。初孫を捨てるのは非道だったが、王国に平安をもたらしたのだから、正しい選択だったのだ、と、ときおり心のなかでつぶやくのでした。

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