王冠の涙

その二




◇◆◇◆◇

 十九年後。
 砂漠の王国に、美しい姫ぎみがいました。ラナーと名付けられた姫は、王さまの自慢の孫娘でした。艷やかな黒髪に、神秘的な翡翠色の瞳、そして輝くばかりのオリーブ色の肌が見る者を虜にさせるほどです。
 姫はそろそろ嫁入りの支度をする歳ごろ。王さまは国にいる独身貴族を集め、花婿候補を決めます。そのなかの三人の貴公子はみな若く、美しい青年でした。
 ラナー姫を娶ろうと、貴公子たちはそれぞれ求婚しました。姫が気に入った男を花婿にするのですから、三人の候補者は趣向を凝らした品を贈ります。
 ラナー姫は迷います。淡い紅色の珊瑚の首飾りも可愛らしいし、西方から取り寄せた金の冠も素敵だし、南方の大きな白い真珠の腕輪もきれいでした。けれども、どうしても欲しい贈り物がわからず、三日後に決めましょう、と貴公子たちに告げます。
 三人の花婿候補も同じで、だれを選んでも大きな差がないように思えたのです。だから贈り物をさせたのですが、ますますわからなくなってしまいました。
 ラナー姫は気晴らしに竪琴を弾きます。少し物悲しそうな音色が、王宮に響きました。
「ああ、あたし、だれが好きなのかしら」
 恋というものを知らない姫は、ため息をつきます。王さまであるお爺さまが選んだ貴公子なのだから、彼ら以外と結婚するわけにはいきません。わがままを言えば、よその国へお嫁に行くことになります。
「遠くへ行くのはもっといや」
 また、ほう、とため息をつき、竪琴を弾きました。


 二日目の夜。
 翌朝まで、ラナー姫はだれと結婚するのかを決めなくてはなりません。しかし、迷っていました。
「いっそ、夜が明けなければいいのに」
 そう、姫がつぶやいたときです。にわかに宮殿が慌ただしくなりました。奴隷たちの声があちらこちらから聞こえ、なかには叫ぶ者もいます。兵士たちが剣を交える音も耳に入りました。
 侍女が部屋に入るなり、血相を変えて言いました。
「姫さま、大変です。盗賊団が宮殿に侵入しました。かなりの荒くれどもで、近衛隊が苦戦しています。いますぐ、お逃げくださいませ」
 ラナー姫は取るものも取りあえず、侍女といっしょに部屋を飛び出しました。後宮の地下にある秘密の抜け穴を通り、近衛兵とともに宮殿の外へ逃げます。恐ろしいことに数えきれないほどの盗賊たちが、宮殿だけでなく町を襲っていました。
 真っ赤な炎がごうごうと燃え盛り、舐めるようにして家々や商店を焼いています。熱い風が逃げるラナー姫たちを包み、とても前へ進めません。泣き叫ぶ子どもや、逃げ惑う女たちが見えます。盗賊たちの雄叫びが聞こえます。
 何度か荒くれ者が町を襲ったことがありましたが、いつも王国の警備隊に撃退されていたため、男たちはすっかり油断していました。ゆるやかに弧を描いた刀身に抵抗できないまま、盗賊たちにつぎつぎと斬られてしまいます。
 城下町を通るのは危ないからと、ラナー姫たちは宮殿へもどりました。居城の地下には、オアシスの底を通って墓場へと抜ける通路があるのです。
 庭までやってくると、後宮にいた美女たちが泣き叫びながら、逃げ惑っています。そのあとを、盗賊たちが追っています。捕まった女は犯されたあと、殺されてしまうのでした。あまりにも残酷な光景に、ラナー姫は気を失いそうになります。
 薄いベールで顔を隠し、姫たちは盗賊たちに見つからないよう、そっと居城へ入りました。幾何学模様と花模様で織られた絨毯が敷かれていたはずですが、廊下には何もありません。盗賊たちが盗んでしまったのでしょう。悲しいことに、剣で刺された奴隷たちが、絨毯の代わりに転がっていました。
 足音を忍ばせながら、地下へ続く階段を下ります。突き当りにある部屋の奥には、隠し扉があって、脱出できる通路があります。
 しかし、ラナー姫は隠し扉がある部屋で、青ざめました。そこには五人の荒くれ者がいたのです。縄で縛られた王さまもいました。さきに脱出しようとした王さまは間に合わず、盗賊たちに捕まっていたのです。
 親分らしい盗賊が言いました。
「王さま、取り引きをしよう。ラナー姫を俺の花嫁にして、宮殿を明け渡せ。そうすれば命だけは助けてやろうじゃないか」
「おまえが王になるというのか。身のほど知らずが」
「そうか。残念だったな」
 そう言い終わらないうちに、盗賊は剣を振り下ろします。王さまの首と胴体が離れ、血しぶきが部屋を真っ赤に染めます。ラナー姫は悲鳴をあげました。
「お爺さま」
 王さまがいなくなったのをいいことに、盗賊の親分はラナー姫を抱きしめます。姫はあらがいますが、逞しい男の力にはまったくかないません。
「明日の正午、俺とおまえは夫婦になるのだ。楽しみにしておけ」
「お断りします。あたしには婚約者がいるのよ」
 ラナー姫が何を言っても、盗賊の親分は聞く耳をもちません。姫は恐ろしさと絶望と不安で、泣くしかありませんでした。
 盗賊の親分の手首には幾つかの腕輪がありましたが、そのなかにひときわ黄金色に輝くものがありました。
 『イクリール・ダムア』と、名前が彫られているのが見えます。
 盗賊の名前にちがいない、とラナー姫は思いました。そして、イクリール・ダムアを呪うのです。


 盗賊の親分は、さきの戦争で戦った勇敢な戦士でしたが、戦いが終わると荒くれ者になってしまいました。あまりにも粗暴で欲深く、平和な日々を静かにすごすことができなかったのです。
 同じように行き場のない戦士たちを集め、行く先々で略奪を繰り返しました。しかしあまりにも悪行がすぎ、ある王国の軍隊に襲撃されてしまいます。相手が強大な軍隊では、さすがにかないません。
 盗賊の親分は命からがら逃げ出し、また仲間を集めると、今度は砂漠の王国に狙いを定めました。周囲が砂漠に覆われているため、敵国に攻められることがありません。だから軍隊が小さいのを、盗賊の親分は知ったのです。
 その砂漠の王国の王になってしまえば、軍隊も自分のものになると考えた盗賊の親分は、仲間たちを商人に変装させると、少しずつ町に滞在させます。そして大勢が集った日の夜、いっせいに襲撃したのでした。
 野望が果たされた盗賊の親分は上機嫌でした。生き残った奴隷たちを使って、ありったけのご馳走を作らせます。宮殿は荒くれ者たちの宴で騒がしく、後宮にいた女たちが相手をさせられました。
 そのようすがあまりにも猥雑で、ラナー姫は見るのもいやでした。
 翌日の正午、ついに盗賊の親分とラナー姫の婚礼が始まります。町の人々は盗賊を恐れて、姫の花嫁姿を見物しようともしません。美しく着飾った姫の顔は、死人のように生気がありませんでした。
 宮殿の礼拝堂で、僧侶が聖典を読みあげます。神の祝福を新郎新婦に贈るのです。
 それが終わると、聖典の上に互いの手を乗せて、夫婦になることを誓うはずですが、ラナー姫は抵抗しました。
「お爺さまの命を奪った男の花嫁などにはなれません」
「文句を言うな。わがままばかり言うと、おまえの首もはねてやるぞ」
「ええどうぞ。結婚するよりましです」
「生意気な姫め」
 盗賊の親分は強引にラナー姫の手を取ると、聖典の上に置こうとします。必死に抵抗する姫。その光景を、僧侶と奴隷と盗賊たちが、黙って見守ります。
 やがて姫が疲れてしまい、聖典の上に手を乗せられそうになったとき。
 礼拝堂の外が騒がしくなりました。蹄の音や男の悲鳴、そして勇ましい号令に、剣と剣が激しくぶつかる音。
 と、耳をつんざくような轟音がして、砂煙が礼拝堂を覆いました。弓形の天井にぽっかりと大きな穴が空き、眩しい日差しが差しこみます。砂煙を反射して、きらきら輝いています。
「ラナー姫、どこですか」
 若い男の声が聖堂にこだまします。その場にいた者がみな、振り返ります。出入口にいたのは、白い軍服姿に青いターバンを巻いた、海の王国の兵士たちでした。
 盗賊の親分は腰に帯びていた剣を抜き放ちます。ラナー姫の腕をつかみ、首筋に刃をあてました。
「ちくしょう、もう追いついたのか。俺に触れると、ラナー姫の命はないぞ」
 先頭にいる青年も剣を抜きます。盗賊の親分がさらに何か言おうとした瞬間、青年の剣が相手の首をはねていました。あまりのすばやさに、ラナー姫は信じられない思いでした。激しく胸も高鳴ります。
 そのとき、青年と目が会いました。アーモンド色をした瞳に、ラナー姫は魅せられます。
――ああ、なんて凛々しい。
「お怪我はございませんか」
 声をかけられ、われに返ったラナー姫は、ありったけの想いをこめて微笑みました。
「ないわ。おまえ、ずいぶんと強いのね。名は」
「アルドと申します」
「そう、覚えておくわ。アルド、ね」
「光栄に存じます」
 もっと話したかったのですが、アルドは矢継ぎ早に部下へ命令を下します。残りの盗賊たちを始末するためでした。
 親分が負けたことで、その場にいた盗賊たちが逃げます。海の王国の兵士たちが盗賊を捕らえます。さすがの盗賊たちも軍隊の武力にはかないません。たちまち、盗賊たちは制圧され、砂漠の王国は平和を取りもどしました。
 その軍隊のなかに、砂漠の国の王太子もいました。宮殿を命からがら逃げ出して、砂漠を渡っていたとき、運良く海の王国の軍隊と出会ったのです。事情を話すと、彼らはすぐに宮殿へ駆けつけてくれました。


◇◆◇◆◇


 海の国の王さまは、盗賊退治をしていましたが、盗賊の親分を捕まえることができませんでした。あいつはとても卑怯で小賢しいから、また血なまぐさい騒動を起こすにちがいない。追跡して捕らえるように、と王さまの命令を帯びたのが、ラナー姫を救った青年でした。
 青年の名はアルドといい、海の王国の奴隷戦士でした。彼はとても有能で、だれよりも武芸に秀でており、兵士たちの隊長でもありました。
 『イクリール・ダムア』の腕輪を持っていた盗賊の親分は、王家の墓場の隅に埋葬されました。ラナー姫の父である王太子が、そう命じたのです。なぜ砂漠に捨てなかったのか、姫は理由を知りませんでした。父にきいても、決して教えてくれません。
 しかしそれをよく思わないだれかが、盗賊の親分の墓をあばき、銀の腕輪を盗んでしまいます。逃げ出した盗賊の一味が形見に奪ったのか、欲を出した町人か旅人か、犯人はわからずじまいでしたが、王太子はそれ以上、探しだそうとしませんでした。それどころか、あのいまいましい腕輪が奪い去られてよかったと、独り言をもらすのをラナー姫は聞きました。
 そして、亡くなった王さまの葬儀が終わり、喪が明けると、王太子があらたな砂漠の国の王さまになりました。
 ラナー姫に求婚した三人の貴公子たちが、ふたたび宮殿に顔を出します。けれど姫はどの贈り物もいらない、と求婚を断りました。盗賊に壊された首飾りと冠と腕輪をそれぞれに返します。
 貴公子たちは困った顔をし、ならばどんな贈り物がよいのか、問いかけます。
「好きなひとができました。ほかのひととは、結婚する気がありませんの」
「それはどこの貴公子でしょうか」
「貴公子じゃあないわ。海の王国の奴隷戦士、アルドよ」
「奴隷戦士。お気はたしかですか」
「ええ。命の恩人ですもの。忘れるはずがありません」
 姫を救った勇敢な戦士に恋されては、とてもかないません。しばらくほとぼりが醒めるのをまったほうがよい、と貴公子たちは判断して宮殿をあとにしました。
 しかし、ラナー姫はいつまでもアルドのことが忘れられません。毎日、毎日、もう一度会いたいと、侍女を相手に話すのでした。ならばお手紙を書いてみては、と侍女が提案するも、アルドから返事はありませんでした。


 ラナー姫が海の王国の奴隷戦士アルドに恋をしたという、噂は宮殿だけでなく、城下町まで広がります。やがて旅する商人が噂をべつの都市へ広め、ついに海の王国にいるアルドの耳まで入りました。
 アルドもラナー姫をひと目見たときから、恋していました。けれど、相手が王女では身分ちがいもいいところです。だから黙って、砂漠の王国から去ったのでした。
 一度だけ、砂漠の王国から手紙が来るも、文字が読めないアルドには、何が書いてあるのかわかりません。旅の商人から内密に手渡されたこともあり、用心して隠し持っていました。
 主人への服従と、戦うことだけを学ばされたアルドは、教養がありませんでした。生まれたときから貧しい生活をしていて、物心ついたころには、親だと思っていたひとから、べつの主人へ売られてしまいました。
 その年はひどい冷害で、働き手になるまえに売ってしまうのを許してくれ、と言われました。五年前、アルドは広場に捨てられ、もう少しで鷹に食われるところだったそうです。
 新しい主人は山を越えた町の町長でした。とても悪い男で、アルドの大切な物を奪ってしまいました。それは捨てられたとき、身につけていた銀の腕輪です。まことの両親がくれたのだろう、わが宝物。売っても大した金額にならないのを知っていて、嫌がらせに奪ったのです。アルドが悲しむのを見たかったのでしょう。
 文字らしきものが彫ってありましたが、初めにアルドを拾った村人はみな貧しく、文字が読めません。新しい主人は読めたようですが、意地の悪い顔をして何も教えてくれませんでした。それきり、銀の腕輪はアルドにもどってくることはありませんでした。
 アルドは奴隷として主人の身の回りの世話をし、夜もお伴をしなくてはなりません。仲間の少年奴隷もみな同じで、主人の怒りを買えば、命を奪われます。だからどんないやなことがあっても、いつか自由になれる日をじっと待っていました。
 成長し、声変わりしたころ、アルドはまたべつの主人へ売られました。その男は旅の商人で、重い荷物を背負って山脈を何度も往復しました。以前よりもさらに過酷な生活にアルドは絶望し、奴隷の我が身を呪いました。
 なんとかしてまともな暮らしをしたい。
 耐え切れず、ある日、主人のもとから逃げ出します。そこは海の王国の港町で、たくさんの貨物船が停泊していました。そのなかの一艘に乗りこみ、隠れ、新たな主人を探し始めます。
 初めは船乗りになって航海をするつもりでしたが、ある話が耳に入り、宮殿へと向かいました。
 海の王国が奴隷戦士を集めていたのです。担当の大臣が王国の町々を旅し、有望そうな少年らを奴隷市場で買い求めていました。あるいは、広場で告知し、希望者を募ります。人数がまとまると、奴隷たちは首都へ向けて旅立ちました。
 三日三晩ほど歩き続けると、白く丸い屋根をした優美な宮殿が見えてきました。その裏手にある建物に到着したとたん、休む間もなく集合し、能力検査が実施されました。そこでまず半数の奴隷が振り落とされ、奴隷商人へ格安で売り飛ばされます。
 さらに試験が続き、最終的には集められた百人のうち一人程度の青少年が、奴隷戦士として選抜されました。アルドもそのなかに入っていました。奴隷戦士になれば、豪勢な食事と柔らかい寝床が用意されます。さらにいくらかの小遣いもいただけました。
 たいていの奴隷はそれで満足しましたが、アルドはさらに上を目指そうと、修練に励みました。戦士とはいえ、奴隷のままではいつ売り飛ばされるかわかりません。戦争になれば、命がいくつあっても足りなくなるでしょう。
 アルドは奴隷の身分から解放される、将官を目指していました。危険な前線で身をさらさなくてすみますし、家庭を持つこともできます。それにいつでも退官して、自由になれる権利も保証されます。
 ただ、奴隷の身から将官へ到達するには、かなり優秀でないと無理です。隊長までは出世できたものの、大きな壁がアルドに立ちはだかっていました。
「なんて書いてあるのだろうか」
 アルドは懐からそっと、銀の腕輪を取り出しました。だれにも見られないよう、与えられた個室で。
 砂漠の王国で盗賊の親分と対峙したとき、驚いたものです。幼いとき、二度目の主人から奪われたあの銀の腕輪を、なんと、やつが身につけていたのですから。いつどこで盗んだのか定かではありませんが、二度目の主人が、だれかに売り飛ばしたのはまちがいないでしょう。
 しかし、その場で取り返してしまえば、事情を知らないひとびとに泥棒扱いされかねません。つまらない悪評で、おのれの名声を落とすのはどうしても避けたかったのです。
 さいわい、盗賊の親分は腕輪を身につけたまま、埋葬されました。だれもいない深夜、こっそり墓を掘って、銀の腕輪を取り戻しただけですみました。もし、さきにだれかが盗んでしまえば、探し出す必要がありました。
「俺に文字が読めればなあ」
 わが掌中に返った銀の腕輪を、アルドは見つめ続けました。
 仲間の奴隷たちも読めないし、かといって宮殿の役人たちに頼むこともできません。かれらにおのれの秘密をわずかでも漏らしてしまうと、それをネタにゆすってくるに決まっているのですから。
 将官になるには、王さまの書状が読めなくてはなりませんし、報告書も書く必要があります。読み書きできないアルドには、大きな悩みでした。
 だから小遣いをたっぷり貯めて、口が堅そうな役人に読み書きを習おうと考えていました。それにはまだまだ金額が足りそうにありません。役人たちは誇り高く、しかも強欲なのです。お金のない奴隷のたのみなど、まったくきこうとしません。
 そんなある日、ラナー姫の噂が耳に入ったのです。
――ラナー姫が俺と会いたがっている。
 抑えつけていた恋心が、アルドの胸を燃やしました。どうしようもないほどに。
 いてもたってもいられなくなり、売り飛ばされるのを覚悟で、上官へ休暇を申請します。初めは拒否されるも、貯めた小遣いをかき集めて手渡すと、十日だけの自由が与えられました。
 すっかり懐が寂しくなりましたが、ラナー姫に会えると思うだけで、胸がいっぱいになりました。


 砂漠の王国への旅は四日かかります。帰りの日数を考えると、たった二日しか滞在できません。アルドははやる気持ちとともに、駱駝を急かしました。
 天まで届きそうな大樹が、遠くに見えます。その下には冷たい水が湧くオアシスがあって、周辺は緑に覆われています。ずっと昔から、砂漠の王国は交易都市として発展してきました。
 だけどアルドは『天の御使』と呼ばれるその木が、好きでありません。なぜかわかりませんが、初めてその大樹が目に入ったときから、妙な胸騒ぎを感じるのです。神というより、不毛な大地に根付いた毒のような何かでした。
 砂嵐と遭遇しないようにという、祈りが通じたのか、砂漠の王国の城下町へ到着したのは、三日目の夜でした。月明かりが砂壁を、青々と照らします。静寂が町を覆い、ときおり聞こえるのは乾いた風と砂の音だけでした。
 ラナー姫がいるだろう後宮を目指します。以前、ここへ来たときに宮殿で二日ほど過ごしたので、どの建物がどこにあるのかを覚えてました。宮殿の裏手に回り、見張りの門番がいるのをたしかめます。
 交代の時間まで建物の陰で待ち続け、だれもいなくなったわずかな時間を狙って、なかへ入りました。ありったけの力を出して走ります。もし、ここで捕らえられてしまえば、何もかも終わってしまうでしょう。
 後宮のなかへは入らず、露台が見える中庭のあずまやに隠れました。ラナー姫が毎夜、竪琴を弾くのを知っていたからです。以前、滞在していたとき、悲しげな音色にそっと耳を傾けたものでした。
 しばし待たないうちに、透き通った弦の音が流れてきます。
――ラナー姫だ。
 アルドは確信し、足音を立てないよう注意しながら、そっと露台の下まで走ります。足元にあった小石を、露台の手すりに向かって投げました。
 弦の音がやみ、ラナー姫ではなく、侍女の顔が見えました。アルドと目が合うなり、侍女は驚き、そして微笑みました。
 すぐにラナー姫も顔をのぞかせます。翡翠色の瞳がきらきらと輝いてます。
「アルドさま」
 小さな声でしたが、はっきりと聞き取れました。
 露台にいたラナー姫が背を向け、露台から姿を消します。しばらくすると、侍女とともに姫がやってきました。
「ラナー姫」
 たったそれだけの言葉でしたが、ふたりには充分でした。たがいの手を握りしめ、裏門から砂漠へ出ます。朝焼けの光が見えるまで、月明かりの逢瀬を仲睦まじく過ごすのでした。


 早朝、アルドは宿をとりました。夜、ラナー姫と逢瀬をするためです。二度目は、夜明けとともに砂漠の王国を旅立つつもりでした。アルドは用心し、太陽が沈む時間まで宿から出ないようにしました。
 けれども、すでに国を越えて噂になっていたラナー姫の恋。宿屋の主人がアルドのことを近所に話すと、たちまち市井に広まります。だれもかれも、ラナー姫とアルドの逢瀬を噂し、夕刻には王さまの耳に入ってしまいました。
 昼のあいだ眠り、後宮へ出かけるために宿を出たアルドを待っていたのは、たくさんの近衛兵たちでした。縄をかけられ、王さまの御前へ連れて行かれます。
 王さまは言いました。
「海の王国の奴隷戦士、アルドよ。わが娘、ラナーに恋したのだな」
「御意に」
「いつもならば身のほど知らずめ、と首を落としてやるのだが、おまえはわが娘を救った勇敢な戦士。しかるべき機会を与えてやろう、と余は考えるのだ」
 王さまは顎ひげに手をやり、目を細めます。その顔は慈悲に満ちたものではなく、蔑みのまなざしでした。
「今宵、わが奴隷たちと戦い、勝利したならば、ラナーを娶らせようぞ」
「御意に」
 アルドの答えは決まっていました。もし拒めば、その場で首を落とされるのがわかっていたからです。


 月が高く昇り、青々と宮殿を照らすころ。
 王さまとお妃さま、ラナー姫とその弟妹、後宮の美女王さま、仕える奴隷たちだけでなく、町のひとびとがこぞって、アルドの決闘を見物しました。王さまは奴隷たちのなかから剣術にすぐれた者を九人選び、闘技場へ立たせます。
 ラナー姫は生きた心地がしませんでした。たった一晩だけだったとはいえ、アルドと逢瀬してしまったのを激しく後悔します。あのとき、すぐに砂漠の国を出るよう、拒絶すればこんなことにならなかったのに、と。
 王さまである父親に、ラナー姫も逆らえません。もしアルドを救ってくれるよう懇願すれば、決闘をする前に殺されていたでしょう。それだけ、奴隷と姫の恋は許されないのです。
 いくら勇敢なアルドとはいえ、九人もの奴隷を相手に戦うのは無理です。王さまはそれをわかっていて、決闘をさせたのです。
――アルドさま、どうか勝ってください。
 ラナー姫は祈るような思いで、命を賭けた試合を見ました。とても目を開けていられず、ひとびとがわっと歓声をあげたときだけ、競技場を見ます。一人目、二人目、三人目、王さまの奴隷が倒れます。
 そして奇跡的に、アルドは九人目の奴隷と闘うことになりました。しかし、とても疲れていたのか、アルドの動きが鈍くなります。最後のひとりだというのに、なかなか決着がつきませんでした。
 そしてついに奴隷の剣が、アルドの脇腹を刺します。ひとびとの叫びが闘技場に響き渡り、ラナー姫はぎゅっと目を閉じました。
 もうだめだ、とラナー姫は思ったのですが、高らかに勝者告げる審判の声は、アルドの名でした。
 脇腹を刺したはずの剣が地面に落ち、奴隷の胸の真ん中を、アルドの剣が貫いていたのです。

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