鹿神様の宝物




 杜瑛季《とえいき》は悩んでいた。
 鹿神様《ししかみさま》から宝箱をいただいたのは宜しいが、さて。
「ううむ。これが鹿神様の気まぐれやらと申すものか」
 裁縫箱ほどの大きさのあるそれは、艶やかな光沢のある黒い色をしていた。紐を解き、蓋を開け、『恩返しのご褒美』とやらに期待したのは、わずかなこと。
 肝心の宝らしき物は入っていなかった。
 見落としたのかと思い、箱を隅から隅まで指でなぞった。砂埃が指についただけで、宝とよべる物は愚か、砂金の粒すら見当たらない。
 逆さにして何度も叩くが、やはりただの空箱。
 次に蓋の裏も凝視した。妻が、そんなに蓋がお好きなのですか、とからかったほど日没まで手にしていたのである。
 やはり、これも同じくただの蓋にすぎないようだった。


 杜瑛季は飛国開州新澎県に住まうある役所の下級官吏である。
 十年前妻と結婚し、新澎県に転居したのはよいが、未だ子宝に恵まれないのが悩みの種でもあった。
 官吏としては実直で呑気な性分が出世という道を妨げこそしたものの、邑の官舎生活は性に合っていたようだ。お役所仕事もほどほどに、暇をみつけては河での釣りや山菜取りを楽しんでいた。
 呑気さは妻も夫に負けず、都を懐かしむ姿は十年前に一度見せたきりで、あとは炊事と庭の花いじりに精を出していた。
 まるで隠遁暮らしだと邑人たちにからかわれたはしたものの、それも親しみあってゆえのこそ。杜瑛季とその妻は、静かで穏やかな日々に満足していた。
 そんなある日、いつものように山菜を採りに菘山へ出かけた杜瑛季。
 つい一刻前まで晴天だったが、にわかに空が曇ったことを悟り、帰途へと急いだ。ぱらり、ぱらりと雨粒が木葉を叩いたのが焦りを生んだのか、通いなれた道を誤って進んでしまったようだ。
 いつもと異なる木々の並びの向こうに、見慣れない竹林が姿をあらわした。
 ますます雨足は強くなり。
 杜瑛季は迷うことなく、竹林で雨をやりすごすことにした。水の玉が笹の葉に当たり、青竹の匂いを濃く漂わせる。
 さらに霧がたちこめ、まるで早雲のただ中に突っ立っているごときの有様になってきた。
 杜瑛季の心に不安が頭をもたげてきた。
 このまま夜を迎えてしまうのではなかろうか、と。
 竹林が大きくざわめいた。何者かが紛れ込んだらしく、足音が聞こえてきた。
「おおい!」
 誰何の声を上げるも空しく、獣の蹄が落ちた笹を踏む音が返ってくる。
 虎ではなかろうが、大きな猪では分が悪いと、杜瑛季は慌てて竹林を立ち去らんと背を向けた。
 その刹那、鞭がしなるような音とともに、金物がぶつかる音もあたりに響き渡った。獣の声が混じり、悲痛そうな雄叫びは甲高い。
 さては罠にかかったな、と、獲物のもとへ行ってみれば、見事なまでの大きな牡鹿があった。案の定、後左足を罠に挟まれ、身動きがとれず、苦しみもがいている。
「ほう、これはすごい」
 思わず感嘆してしまうほど、その牡鹿の毛は白かった。瞳は深い青色で、己を見つめる視線に心奪われる。
 これからこの牡鹿が、どこかの猟師の鍋になってしまうと思うといたたまれなくなってきた。
 普段は人気のない竹林。いつも迷うことなどなかったはずの山道。
 そして生まれて初めて目にした、白い牡鹿。
 杜瑛季はこれも何かの縁だと感じ、迷うことなく罠を外してやった。
 するとみるみる霧が晴れ、雨も止み、赤い夕日が笹の隙間から差し込んでくる。
《我は鹿神の使い。下界での失態から救った褒美をとらせようぞ》
 と聞き終わるや否や、すとんと天から宝箱が落下した。
 それを拾い顔を上げると、もはや牡鹿の姿はいずこへと消え去ったあとであった。


「あらまあ。肝心のご褒美をお忘れになるなんて、鹿神様の使いもそそっかしいんですわね」
 夕飯がすんでからも、空っぽの箱を振ったり叩いたりする夫を、妻はおかしそうに見守っていた。杜瑛季の前に茶を注いだ碗をそっと置く。
「鹿神様がお気づきになれば、箱の中身を進呈していただけるのだろうか」
「まあ、よいではありませんか。あなたがご無事に下山されただけでも、あたしはうれしゅうございます。今度からは、あまり奥までお入りにならずに、山菜を採ってくださいましね」
「それもそうだがなあ。せっかく褒美をいただいたのなら、簪《かんざし》の一本ぐらい入っておればよさそうなものを。おまえが喜んだ顔を見たかったのだよ」
 妻はご冗談を、と言いながらも嬉しそうな笑みを見せてくれた。
 鹿神の使いを竹林で救ったあとに気がついたのだが、罠には呪符らしき紙が何枚も貼られていた。雨宿りした竹林の存在も、他の邑人にきいてみても知らないと答えるだけだ。
 ただ菘山はずっと昔から、神々が天峰山へ昇られる前に休息をなさるという言い伝えが残っており、鹿神の使いが立ち寄ってもあながち不思議ではないという。罠を張ったのも妖怪の仕業かもしれない。そう邑の長老が教えてくれたが、さすがに空の宝箱の意味までは聞き知ったことがないとも付け加えられた。
 ここで宝箱のことは後回しにし、昼の疲れもあって杜瑛季は早めに就寝した。


 翌朝、役所へ赴く杜瑛季は、中身の詰まった宝箱に驚いた。否、絶句したといったほうが正しいかもしれない。
「おまえ、これは?」
 屈託のない笑顔で妻は答えた。
「せっかくいただいたんですもの。お弁当箱にいたしましたわ」
「し、しかしな。これは鹿神様の使いが……」
「お部屋の隅で埃をかぶっているより、ずっとよろしいんじゃあございません? それではいってらっしゃいませ、あなた」
 妻に見送られ、本当にいいのだろうか、と心配になりながら弁当を持って行った杜瑛季。その不安は的中し、昼飯は散々たるものであった。
「そなたはいつからカビを食う趣味に走ったのだ。随分とうまそうなことだのう」
 たっぷりと黒髭をたくわえた上官にからかわれるほど、見事なカビが饅頭に生えていた。黒、青、赤、白の毛がびっしりと鹿神様の黒い宝箱に詰まっている。
 天罰が下るのでは、とそら恐ろしくなった杜瑛季は、昼飯も食わず役所の庭の隅にカビ饅頭を埋め、井戸で何度も宝箱を丁寧に洗った。
 帰宅後、妻にその話をすると、さすがに大らかな妻も怖くなったのだろう。もちろん二度と弁当箱に使おうとすることはなかったし、宝箱は納屋の奥深くに収められたまま月日が流れる。


 ある夏の日のこと。杜瑛季に中央から辞令が下り、夫妻は住み慣れた邑の官舎を離れなくてはならなくなった。
 次に配属されるのは鋼陸県というかなり山高い地方で、気候も厳しいことで知られていた。さすがに呑気な杜瑛季も、この辞令には肩を落としてしまった。
 こんなことになるのなら、戸部尚書《こぶしょうしょ》に賄賂のひとつでも贈っておればよかったと、後悔するも遅し。ただ救いなのは、出世しないどころか左遷される夫への文句も言わず、淡々と引越し支度をする妻の姿である。
「あなたのそんな性分が、あたしは好きなんですわ」
 そうにっこりと微笑する妻だったが、内心では寂しくあったのだろう。丹精に育てた庭の花々の一輪一輪に、名残惜しそうに別れを告げていた。
 荷物をまとめた杜夫妻は雇った人夫と驢馬に車を牽かせ、旅路へと出発した。
 その道は想像以上に険しい。
 なだらかな坂道が続き、青い山々の峰が見えてきた頃、道が徐々に狭くなる。そのうち荷台馬車が、やっと通れるだけの幅にまで迫ってきた。片は岩だらけの山肌、もう片は見下ろせば身震いするほどの崖。
 蹴られた小石が音もなく、奈落の底に落ちていくたび、杜夫妻は身を震わせた。人夫たちも嫌な顔をして幾度も休憩をとろうとする。驢馬の歩みも尻を叩かないと進まないほどだった。


 話に聞いていたとおり、鋼陸県は豊かとはいえない寒々とした大地に囲まれていた。青く高い山脈を見上げるように、邑はあった。すぐ近くに谷があり、水にこそ困らないものの、杜夫妻が住む官舎は日当たりが悪い。
 庭に出てみたがぴゅうぴゅうと山風が吹きぬけるばかりで、肌寒いほどだった。庭木もほとんどなく、白いむき出しの岩があちらこちらで頭をのぞかせている。あとは申しわけなさそうに雑草が幾ばくか生えているだけであった。
「これではお花は難しいかもしれませんわね」
 ぽつりとそうこぼした妻の背中に、なんと声をかけてよいかわからない。
 杜瑛季は黙したまま庭をあとにし、邑へ出てみた。
 長く伸びる山の影に隠れるようにして、あばら家が並んでいた。午時だというのにどの家の煙突からも煙が出ていない。作物も育たない大地の住人は、山の岩塩を採取して生計をたてているという。
 だがその岩塩も官吏たちに二束三文で取り立てられ、邑人はそのわずかな賃金で野菜や肉を買っている。そうなれども、邑人が自由に岩塩を採取することは禁じられている。塩は貴重な国の財源なのだ。
 広場に出てみたら、邑の子ども達が遊んでいた。が、杜瑛季の姿を見るや否や、逃げるように家に帰ってしまった。それだけこの邑では、塩を取りたてる官吏は恐れられ、忌み嫌われている。
 これが左遷というものか。
 情けない我が身を呪うが、なんとか良い成績を収め、一日でも早く豊かな地方へ赴任しなくてはならない。それが今、杜瑛季に課せられた仕事であった。


 落胆しながら帰宅すると、妻の驚きの声に出迎えられる。
「あなた! 大変よ! 花が、花が……!」
 ああ。そうか。やはり花が植えられないのを、悲しんでいるのか。
「すまないな、おまえ」
 そう口にした杜瑛季が目にしたのは、大輪の紅牡丹たちだった。居間は都で見たような花園と化し、芳香に包まれた紅と緑の中央で、唖然とした妻が立っていた。
「どうした、これは?」
「鹿神様の宝箱を開けたら……」
「あの空っぽの箱が?」
「あたし、引越の時、牡丹の種を箱に入れたんですの。どうせ持っていっても、次の赴任先はお花も咲かない所と聞いてましたでしょ? かといって捨てるには忍びないですし、この箱に入れておけばカビが生えて、諦めがつくと思いましたの」
「種が花に、か?」
「なにがなんだか、あたし頭が混乱してますわ」
「そうか、そうだったのか!」
 杜瑛季は妻のもとへ駆け寄り、鹿神様の宝箱を手に取る。そして花をかき分け台所へ向かうと、小豆の粒を入れて蓋を閉じた。


 貧しい邑へ左遷された杜瑛季であったが、その生活は満ち足りたものであった。
 なにせ、大豆も麦も米も野菜も果物も、杜瑛季の手にかかれば数日で収穫されるのである。鶏卵ですらたちまち親鳥に成長する。肥料もないというのに、人々が感嘆するほど実りは豊かで、やがて官舎だけでなく、邑の家々からも毎日笑い声が聞こえてくるようになった。
 花など咲いたことのない庭には、大輪の牡丹があでやかに優美な姿を披露し、季節がめぐらないうちに、次は菊、梅、桃と妻が世話に励んでいる。
 そして一番の収穫は、夫妻が子宝に恵まれたことだ。
 ただこればかりは、鹿神様の宝箱にお願いしてできた恵みでないことは、云うまでもなかろう。


完 2007.08
修正 2007.10
覆面作家企画3(夏)参加作品
※言い回しや語句をいくつか誤ってましたので、修正しています。修正前の作品は、覆面作家企画3にそのまま残っております。

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