アーミン・プレストン卿の奇妙なる日常

アーミン・プレストン卿と鏡の国のビクスビー




◇◆◇◆◇

 執事Aとわたくしは、相談の結果、お屋敷の鏡という鏡に覆い布をかけることにいたしました。幽霊が鏡に映った、という嘘の噂を階下に流し、旦那さまの耳にお入れしたのです。怖がりの旦那さまは、幽霊を見たくないとおっしゃったことで、簡単にごまかせました。
 それから、わたくしは悠々自適な使用人暮らしです。
 本来の半分の仕事でいいのですから、空いた時間は昼寝をしたり、読書をしたり、散歩をしたり、ときには隣町まで出かけ、パブで同業者と飲みあかしました。旦那さまの言いつけにお応えできるよう、常時、お屋敷で待機しているわたくしにとって、いつにない贅沢な日々でした。
 ですが、いつまでも物事は順調に進まないもの。
 ついに部下のベンがわたくしがふたりいることを察知し、ある日、散歩にでかけたわたくしを尾行しました。お屋敷のだれにも見つからないよう、細心の注意を払っていたつもりですが、何度も成功していたため、すっかり気が緩んでいたようでございます。
「ビクスビーさん、午後の茶の給仕の時間のはずですが」
 くるり、と踵を返し、わたくしは持っていた杖で、ベンの頭を小突いてやりました。
「おまえこそ、さぼってどうした?」
「どうしたって、俺、ビクスビーさんに言われたんですよ。オズボーン氏用の煙草を切らしたから、雑貨屋で買ってこいって。そうしたら、表にビクスビーさんがいるじゃないですか。あれ、どうして、と思ってあとをつけました」
「Aのど阿呆め!」
 予定外の用事を、わたくしに黙って言いつけた失態です。しかし、わたくしがわたくしを責めるのも妙な気分でございます。わたくしがたまにやってしまう失態が、わたくしらしくて、わたくしはトンマなわたくしを殴ってやりたいほどです。
 が、無意識にベンの頭を、杖でぽかぽかと叩いておりました。何か失態があったら、こやつのマヌケさが遠からずの要因と決まっているのです。
「ああ、ビクスビーさん! やっぱりおかしくなってる!」
 頭を抱えながら、ベンは走り去ってしまいました。


 その夜、観念したわたくしは、ベンに執事Aを紹介しました。ベンは驚き、絶句し、しばらく目を大きく開けたまま、無言でわたくしたちを見比べます。
「俺は見世物じゃないぞ」
 Aが吐いていたスリッパを脱ぎ、ベンの頭をぴしゃり、と叩きました。わたくしも、阿呆面をさらしている部下を連打してやります。もちろん、スリッパです。Aも負けじと、応酬しました。わたくしたちは負けず嫌いなのでございます。
「なんで、俺が二倍叩かれなきゃならないんですか!」
 怒りをあらわにしたベンは、苦々しく言葉を続けました。
「だいたいですね、ビクスビーさん。せっかくふたりに増えたのに、なんで休暇を取るんです? 俺たち部下は忙しいままだし、意味がなさすぎです」
「俺はそれだけ歳をとったのだ。これぐらいでちょうどいい」
 わたくしがそう言うと、Aもうなずきます。
「そうだ。四十年以上、俺はプレストン家にお仕えしている。もういいかげん引退したいのだが、旦那さまが心配で老体に鞭打っているのだ」
「ビクスビーさんが引退? じゃあ、後継者は俺?」
 ベンが一瞬ですが、にやりと笑みをこぼしました。出世欲丸出しの部下にむっとしたわたくしは、またスリッパで叩いてやりました。無論、Aもです。
「痛てて! だから、どーして俺が二倍叩かれなきゃ……!」


 翌朝、わたくしはベンの言うことも一理あると思い直しました。
 ご結婚が迫ったプレストン家では、ひっきりなしに訪問者がやって参ります。顔なじみのお客ならよろしいのですが、相手は商人や職人たち。新婚家庭に必要な調度品や、部屋を改装するため、左官職人も出入りいたします。
 その応対をわたくしはAとともにこなしました。
「注文された壁紙持って来ましたぜ――って、あれ? 向こうの部屋にもうひとり?」
「仕事続きで、お疲れなのでございましょう。お茶の支度をいたしました。さあどうぞ」
「……やっぱ、疲れてるのかな?」
 ときおり、左官職人が変な顔をするのでございますが、何くわぬ顔で接すると相手も気のせいだ、と思うのでしょう。追及されることはございませんでした。
 旦那さまも、新しい花柄の壁紙を素直に喜ばれました。居間は一番長く、奥さまがお過ごしになられるお部屋です。花嫁が快適に暮らせるよう、旦那さまは精力的にお屋敷を改装されます。
 そんなある日、いつものように退屈を持て余した旦那さまのご友人、ウィリアム・オズボーン氏が訪問されました。
「いやあ、来るたびに新婚家庭らしくなってくるな。よそ者の僕も照れるぐらいだ」
 そうおっしゃりながら、興味深そうに調度品の三面鏡に触れられます。居間を明るくするために、旦那さまがご注文したのマホガニー製の家具。今朝、配達されたばかりでございます。
 うっかりを装いながら、悪戯ばかりする、独身貴公子。若いころはご令嬢からひっきりなしに、好意を持たれた氏ですが、近ごろはそんな話題も減ってしまわれました。ご年齢のためなのか、まだ理想の女性に出会われないのか、氏の心中は定かではございません。
 めでたい品に指紋をべたべたつけられるのを恐れたわたくしは、すばやくオズボーン氏のもとへ参りました。
「失礼ですがオズボーンさま。旦那さまの許可無く、触れられないようお願いいたします。花嫁さまの持ち物なのでございますゆえ」
「なんだよ、ちょっとぐらいいいだろ。僕はだな、親友として気心がしれてる仲なんだ。もちろん、パトリシア嬢ともだ」
「それとこれとはべつでございます」
 図々しい氏に、わたくしは辟易いたします。
 長年、独身仲間だったご友人が、ついに結婚するのです。密かな嫉妬も混じっておられるのでしょう。旦那さまとパトリシア嬢があまりにもお歳が離れていらっしゃるものですから、そのうち破談になると、オズボーン氏は勝手に予想されていたのです。
 たしかに情けない旦那さまですが、心根はだれよりもお優しいのです。パトリシア嬢のご選択はまちがっておりません――と、わたくしが断言するのは、主人贔屓すぎるでしょうか。
「ちぇ。堅苦しい執事め。そろそろ引退し――ぎゃああああ!」
 突如、氏が悲鳴をあげられました。
「どうされましたか!」
 玄関ホールにいたAが、青い顔をして居間へ入ってきます。
「ビ、ビクスビーの姿が……ない――って、うぎゃああああ!」
 オズボーン氏はそのまま絨毯の床に倒れてしまわれました。


「まるで夢を見ているようだ…………」
 あんぐりと口を開けた旦那さまが、居間にいるわたくしとAを見比べます。
「というか、プレストン卿。今の今まで気がつかなかったのか?」
 引きつった顔でオズボーン氏がおっしゃいます。
「うん。鏡を見てなかったからな」
「底抜けに呑気な男め……」
「あの、わたくしも、昨夜知って、腰を抜かしました。それでも働き手がひとり増えたものですから、つい……」
 いつになくベンがもごもごと弁明します。
「おまえは余計な口を挟むな」
 わたくしはスリッパ――と言いたいところですが、今は階上。靴を脱ぐわけにはいかず、平手で部下の頭を叩きました。同じくAも小気味よい音を立てて、叩きます。
「……結局、俺が二倍叩かれるだけじゃないですか」
 不満を口に出すベンを強引に下がらせ、わたくしたちは咳払いします。
「こほん。あらためて紹介いたします。鏡の国から参りましたもうひとりのわたくしでございます」
 Aもぴん、と背筋を伸ばしました。
「初めまして――ではございませんね。鏡の国の女王さまの命令を受けて、こちらのお屋敷で奉公いたしております」
 旦那さまは引きつった笑みを浮かべました。
「あはは……。どっちがどっちだかわからないな。名前も同じだし。鏡に布をかけた事情がそれだったは。すごい、すごい」
 オズボーン氏は呆れ顔です。
「まったく。驚いて死ぬかと思ったよ。ビクスビーが鏡に映らない、と肝を冷やしたら、今度はドッペルゲンガーだ。僕はあの世に行ったのかと錯覚したほどさ」
「そうか。ふたりか。それもいいかもしれないぞ。ビクスビーがふたりなら、まだまだ奉公してくれる。そろそろ引退するんじゃないかって、僕は心配していたんだ」
 どうやら旦那さまも、わたくしが年老いて以前のように奉公できないことを、案じておられたようです。
 あるじの情に感激したわたくしですが、努めて顔に出さないようにいたしました。使用人というものは、感情を表に出してはならない仕事なのでございます。
 旦那さまが立ち上がります。
「そういえば、僕はしばらく鏡を見てないんだった」
 三面鏡のまえに立ったとたん、旦那さまは叫ばれました。
「僕が浮浪者みたいになってる!」
 無理もございません。鏡の国のプレストン卿はAが不在のため、だれも身なりを整えていなかったのですから。髪はぼさぼさ、ひげも伸び放題、パジャマはしわだれけでシミがついてます。ハエらしきものも周囲に飛んでおりました……。
 Aがすまなそうに言いました。
「旦那さま。そろそろわたくしはこちらの世界をお暇いたします。鏡の向こうの旦那さまが不憫でたまりませんゆえ」
「うん、それがいいな。今すぐ、帰ったほうがいい」
「失礼いたします」
 Aは鏡のなかへ入っていきました。わたくしは無言で見送ります。さよならをしようにも、鏡に映ったわたくしなのですから、別れなど必要ございません。
 そのとき、オズボーン氏が、ぽん、と手を叩かれました。
「そうだ。ビクスビーを三面鏡のまえに立たせてみよう。働き手が三倍にも四倍にもなるかもしれないぞ」
 眉をしかめる旦那さま。
「どういう意味だい?」
「だから、もう一枚、鏡を持って――ほら」
 オズボーン氏はメイドに手鏡を持ってこさせ、わたくしに三面鏡のまえに立つよう促されました。
 気の進まぬまま、わたくしは鏡に向き合います。背後からオズボーン氏が手鏡を向け、合わせ鏡にされました。
 わたくしが何人も数えきれないほど映しだされます。
 …………。
 ………………。
 ……………………!!!
 わらわらと、わたくしが鏡から出て参ります。その数、何百――いや、何千でしょうか。たちまちお屋敷はわたくしで埋め尽くされてしまいます。
 どのわたくしも「ベンはどこだ!」と、怒鳴っています。そうです、困ったときはとりあえず、ベンを叱咤して憂さを晴らすのがいつものわたくし。どのわたくしも考えることは同じようでございます。
「帰れ! 鏡の国に帰るんだ!」
 旦那さまの悲痛な叫びが、響き渡ります。
「無限増殖するやつがあるか!」
 いたずらをした張本人がそうおっしゃっても、時すでに遅し。
 わたくしはわたくしたちを鏡の国に帰すため、ベンを探しました。ひとまず、一発ずつスリッパで叩かせてやれば、わたくしたちは冷静になるのです。
 案の定、ベンはトイレにこもっておりました。何かあるたび、裏庭のそこに逃げこむのをわたくしは知っておりましたから。わらわらと増殖したわたくしたちも同じ考えだったようでして、それぞれスリッパを持って、ぱこん、ぱこん、と叩きます。
「旦那さまが『帰れ』とおっしゃっている」
 冷静になったわたくしたちは、屋内へ踵を返し、居間の鏡のなかへもどっていきます。
 わたくしはベンをひっぱって、居間へ連れて行きました。それで鏡の国のわたくしたちが、トイレを往復する時間を省けます。
「もういやです、こんな生活!」
「俺だってうんざりだよ……」
 泣きべそをかく部下を叱咤しながら、わたくしは奇想天外な日常にため息をつかずにいられませんでした。
 さすがに今回はベンが気の毒なあまり、厨房から丈夫な銅鍋を持ってこさせ、頭に被せます。スリッパと鍋のぶつかる音が、夜が更けるまで続きました。


◇◆◇◆◇

 六月某日。
 アーミン・プレストン卿とパトリシア・クック嬢はご結婚されました。
 国中から旦那さまのご親戚と知人が集合され、盛大な披露宴が催されます。とくにわたくしが参りましたのは、旦那さまの従弟さまでございまして、お化けの格好をしてお客さまたちを驚かせようとなされました。
 ですが、旦那さまはまったく平気なお顔をし、パトリシア嬢――奥さまは笑うだけです。つい先日、わたくしの無限増殖事故で、怖がりだった旦那さまはどこかへ去ってしまわれました。
「あれ〜。昔はぴいぴい、泣いたじゃないか。つまんねえの」
 不満いっぱいの従弟さまに、旦那さまは余裕の笑顔を返されます。
「お互い、いい歳なんだ。つまらない悪戯は卒業するんだな」
 ぎゃくに従弟さまがお客さまに笑われるかたちで、披露宴は幕を閉じたのでございます。
 その夜から、旦那さまは奥さまと仲睦まじくお過ごしになられます。
 退屈だとおっしゃって、夜もたびたびあるじの話し相手をしていた日々が、ずっと遠くに感じられるようになりました。
 そろそろお告げしてもよいころでしょう。
 朝、いつものように旦那さまのご予定をおききする時間、引退する旨を告げました。
 しばらく、無言で視線を落とした旦那さま。
「…………そうか。長いあいだ、僕と父と祖父に仕えてくれて、ありがとう。うん、と年金は出すから、のんびり余生を過ごしてくれたまえ」
「恐縮でございます、旦那さま」
 わたくしたちは目を合わすことができませんでした。
 涙がにじんでいるのがわかります。おそらく、旦那さまもです。
 その日からわたくしは、引退するための準備を始めました。部下のベンへ、執事の仕事だけでなく心得も仕込み、村の外れに借りた小さな家へ私物を運びます。そこでのんびりと園芸をしながら、余生を過ごすつもりでした。


 引退する前日の朝。
 いつものようにわたくしは執事室のベッドで目を覚まします。
 今日で奉公も最後かと思うと、感慨深いものがこみあげてきました。少年時代からずっとプレストン邸で過ごしたのですから、愛着がないはずがございません。
「ん? 身体が軽い。しかも力がみなぎってくる」
 奉公生活から離れるという現実が、わたくしに活力を与えているのでしょうか。
 わたくしを起こしに、ベンがやってきます。ひと目、見るなり、叫びました。
「お、お、お、おまえはだれだ!」
「どうしたベン? 俺が引退するから、最後にからかっているのか?」
「ええ? ビクスビーさん? なんか、すごく若くなってますけど。これは夢?」
「はあ?」
 何を寝ぼけたことを、とわたくしは辟易しながら、鏡をのぞきこみます。
 な、な、な、なんということでしょう!
「三十年前の俺じゃないか!」
 わたくしはぱちぱちと、わたくしの頬を叩きました。夢ではなさそうです。
 また鏡の国のAの悪戯かと思い、鏡に向かって叫ぶのでしたが、返ってきたのはまったく同じ動作をするわたくしです。
「信じられん。まだ俺がふたりいるほうが、現実味がある」
「とりあえず、旦那さまにおしらせします。大変だ!」
 ベンがどたばたと去っていき、唖然とするわたくしですが、すぐに旦那さまに呼ばれました。
 居間に入ると、旦那さまは驚くどころか、両手を組んで感激されるごようす。
「ああ、本当に願いが叶うとは! おまえが言っていた白ウサギに、昨夜、会ったんだ」
「まさか……」
「例の野良猫を、屋敷の裏庭で待ちぶせしていてね。ようやく現れて、ほうきを持って退治してやった」
「旦那さまはわたくしを若返らせるために?」
「もっちろん! ビクスビーを僕と同い歳にしてくれって、たのんだ。これで、ずっと奉公できるな」
 無邪気に親指を立てる旦那さまが愛らしくもあり、憎らしくもありました。
 たしかに引退するのは寂しいのですが、穏やかな余生を楽しみにしていたのでございます。奇妙な日常は疲れることも多々ありますゆえ。
 愛猫チャーリーを抱っこされた奥さまが、かわいい微笑みとともにおっしゃいました。
「わたしもビクスビーが好きよ。ほかの執事さんなんて、考えられないわ。だから、白ウサギさんにお願いしてみれば、ってわたしが提案してみたの」
「……」
「願いが叶ってよかった。これからもよろしくお願いね」
「かしこまりました、奥さま」
 プレストン卿夫妻にお仕えする日々は、まだまだ終わりそうにございません。


 同じころ、懐中時計を持った白いウサギをオズボーン氏が探されたのですが、二度と姿を現すことはございませんでした。
 それから十数年後、オズボーン氏がおっしゃるには、ウサギが見つからなくてよかったそうです。そんな氏は、美しい未亡人とご結婚されたばかり。亡くなった夫の喪がようやく明けたのだと、わがあるじプレストン卿は、わたくしにそっと教えて下さいました。

おわり

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