ある貴公子と二度目の許されざる恋

第一章 初恋 04



 昼食のあと、気晴らしに乗馬をした。マーガレットも誘いたかったが、例のゴシップ記事が頭をよぎり、ひとり、馬を駆る。
 領地の森を見渡せる丘までやってくると、馬を降りてひと息つく。手持ちぶたさになった鞭で、乱暴に地面を叩いた。ぴしゃり、と跳ね返るたび、青い雑草の葉が散る。
 どうにもこうにも腹立たしかった。
 まるで、世間に自分の想いを見透かされたような錯覚もあり、気恥ずかしくなってくる。許されない淡い初恋など、妹が嫁いでしまえばあっけなく終わるというのに。
 二歳下の妹が社交界デビューしたときは、まさかこんなに長引くとは、アーサー自身も予想していなかった。器量は良いし、機知もある。淑女としてのたしなみはもちろん、何より物怖じしない明るさが社交界に向いていた。
 だがそれがかえってマーガレットの誇りを高くしてしまったのだろう。自身が納得できるような貴公子でないと、いっしょになる気は毛頭ないらしい。
――なんだか、お兄さまが先にご結婚されそうな雰囲気よね。
 以前、冗談まじりにマーガレットは苦笑したのだが、今は、軽く受け流せる気分になれない。もし、あとから社交界に出た自分が婚約してしまうと、ほんとうに妹は行き遅れの老嬢になってしまう。
 だからどうしても父は、マーガレットを結婚させたい。
 父だって、まさか、これほどまでに娘が頑固だとは知らなかったはず。いったい何が、彼女をここまで、結婚を忌避させるのか、と。
「父上もずいぶん、変わったよな。まるでお祖父さまみたいだ」
 憂鬱な吐息をつき、どっと草むらの上に寝転んだ。青い空に、薄く広がった雲がゆっくりと流れていく。
 少し前まで父は自分たちに厳しい態度はとらなかったし、特にマーガレットには甘かった。ささいなことで血相を変えないのはもちろん、召使連中にも情を配るほどの温厚さであった。
 しかし、娘の結婚問題が深刻になるにつれ、じょじょに眉間に皺を寄せるようになった。ついには父と仲の良い執事モーガンにまで、八つ当たりする姿を目撃したことがある。初め見たときは、あの父が、とひどく衝撃的だった。
――おまえは強引なところがあるから、もう少し、他者に気を配るように。立場の弱いものほど、真意は口にしないものだ。
 少年時代、何度か、父にそう忠告されたのだが、そっくりその言葉を返してやりたい。
「あれだと、かえって意固地になるよな、メグ……」
 負けん気が強い妹のことだから、素直に結婚相手を見つけるとも思えなかった。
 昔から、仲が良かった兄妹だが、あんな記事が出回ってしまえば、距離を置いたほうがいいだろう。ボーウェンに揶揄されるぐらい親しく見えるのだし。
 そう考えると、たったふたりきりの兄妹なのに、と、またも腹立たしくなった。


 生暖かい感触が頬を襲った。生臭い吐息とともに。
「うわっ!」
 驚き、飛び起きる。
 目を開けると、乳牛の顔が目の前にあった。大きな舌で舐められたようだ。
「ごめんなさい。まさかこんなところで眠ってらっしゃるとは、思いませんでしたから」
 牛のそばにいたのは、マーシャだった。天秤桶を肩にかついで、小さな椅子を持っている。
 ふと、馬が気になって、視線を丘の向こうにやる。呑気に草を食んでいるのが小さく見えた。あいさつもそこそこに、丘を下る。主人に気がついているはずだが、馬は一向にこちらへ向かってくる気配はない。
 馬のそばまでやってきたときは、息が切れていた。呼吸が整うと、馬にまたがって帰路へと着くことにする。
 やがて牛舎が見えた。美しい歌声が聞こえる。そっと近づいた。
 そのなかの一頭の乳を絞っているのは、ボンネットをかぶったマーシャだ。懸命に牛の乳房を握り、軽快に乳を桶に出している。叔父の牧場で働いていただけあって、手馴れたものである。歌いながら一心不乱に作業をこなす彼女は、メイドとはいえ美しかった。
 同時にこんな思いもわいてきた。
――あの赤いくちびるに触れたら……。
 よこしまな欲求だったが、夢の世界と感覚が重なり、馬を下りて名前を呼んだ。
「ミルドレッド」
「え?」
 跪き、振り向いた女に軽い口づけする。酸っぱい汗と甘い乳の匂いが、官能的なまでに神経をたかぶらせた。
「や、やめてください! それにあたしは、マーシャですっ!」
 はっと、われに返る。あわてて距離を置き、謝るしかなかった。
「すまない。つい、その。このことはだれにも言うんじゃない」
 真っ赤に頬を染めたマーシャはうつむく。
「ええ、もちろんです。若旦那さま」
 アーサーはふたたび馬上のひととなると、逃げるように去った。夢のなかの恋人と、現実のメイドとの区別がつかなくなった、おのれを責めながら。


◇◆◇◆◇


 不愉快な兄妹のスキャンダルの件以来、マーガレットは父に命じられるまま、社交界へ出ていた。あれほど結婚したくないと言い張っていた妹令嬢はもうおらず、おとなしく紳士連中たちと交流をしているという。
 伝聞なのは、アーサー自身もスキャンダルが気になってしまい、噂が流れないよう、別行動をとっていたからだ。もちろん、夜会や舞踏会でマーガレットと連れ立つことはしなかったし、今年のシーズンは顔を出すのをあきらめた。
 マーガレットと話をするのは、一家で食卓を囲むときだけ。父から遠回しにそう忠告されていたのもある。来客がないとはいえ、使用人連中の目までは覆うことができない。ゴシップ雑誌が出回ったことで、彼らにも好奇心の種が植えつけられたのを、両親は懸念している。
 そうなると自然、屋敷で退屈を持てあます羽目になった。マーガレットがいれば馬に乗って、近くの町や村へ遊びに出かけていたものだ。カードゲームをして、ひまをつぶすこともたびたびだった。
――だからといって、読書もなあ……。
 昔から、身体を動かすことが好きだったアーサーにとって、本と長時間向き合うのは趣味ではない。先祖代々自慢の、図書室だって自分にはただのもの寂しい部屋にすぎなかった。
――ボーウェンのやつでも屋敷に招待するか。
 退屈しのぎにちょうどいい。森で狩猟か、川で釣りでもしよう。何せマーガレットに惚れているのだから、素直に応じるはず。
 さっそくモーガンを呼び、ボーウェン宛に電報を打つよう命じた。
 が、それも無駄骨に終わった。社交に忙しいから、という返事だった。どうしてきみこそ顔を出さないのだ、と付け加えて。
「出せないから招待してやったんだぞ。と、察してくれよな。友人甲斐のないやつめ」
 ぶつくさとそんなことをつぶやきながら、ボーウェンの電報を丸めてくずかごへ投げ捨てた。
 従僕を呼んで着替えをすませ、屋敷を出て馬に乗る。憂鬱な気分を吹き飛ばすように、白馬銀星号を疾駆させた。心地良い夏の風と、緑の匂いが気分をほぐしてくれる。
 領地の森を周り、つぎは丘を目指す。草原の草を食む牛たちに混じって、メイドのマーシャが見張り番をしていた。
 馬を彼女のいる方向へ向け、ゆっくりと近づいていった。
「あ、若旦那さま」
 さっとマーシャの表情が固くなった。以前のような人なつこさはどこにもなく、怯えた瞳でアーサーを見つめる。すぐにそらされた。
 苦い思いをしながら、笑みを返してやる。
「あのときのことは謝る。きみが知り合いに似てるものでね。つい、無意識にというか」
 探るような目で、再び見つめられる。
「ミルドレッドってひとのことですか?」
「ああ。乳搾りをしている女だ。バターやチーズも作っている」
「あたしに似ているそのひとって、もしかして……」
 これにはアーサーも驚きを隠せない。馬から飛び降り、視線をマーシャの高さに合わせる。
「きみ、知っているのか、ミルドレッドを?」
「ええ、あたしの伯母です」
「伯母? ずいぶんと歳が近いのだな」
「若いときに怪我をして亡くなったそうです。父の若いときの写真に、伯母が写っていて、あたしにとても似ていて。父が言うには、髪の色も瞳の色も、声も、背丈も」
「ならば、僕がたびたび会っている女は、きみの伯母上だというのか?」
「さあ、あたしには何も。ただ若旦那さまがご存知だとおっしゃるから、名前も同じだし、もしかしてと思って、その、えっと…………」
 ためらったように、マーシャは言葉を濁す。
「しかしこんな偶然ってあるのか? 亡くなったきみの伯母が、あのミルドレッドだとは」
「すみません。そうですよね、偶然ですよね。若旦那さまが、あの不品行な伯母と知り合いなわけないですよね」
「不品行? 若くして亡くなったのは、それが原因なのか?」
「奉公先で子どもを身ごもって、実家にもどったそうです。父親はだれなのか、祖父は問いただしたけど、最期まで言いませんでした」
「どこで奉公していた?」
「……」
 マーシャは口を閉ざしてしまった。だがその沈黙が、雄弁に語ってくれる。
――わが家に奉公していたのか。
 祖父が家政婦と知り合いだというし、充分にありうる。職業紹介所を使わない限り、使用人たちが縁故で奉公してくるのは、どの屋敷でも当り前だった。
 しかし、どうして、おのれの夢に?
 そんな疑問が浮かぶも、毎夜、悩ませる悪夢の正体に一歩近づいたのはたしかだ。
「あの、もしかして、伯母の幽霊を見ているのですか?」
「幽霊なのかな。たびたび夢に出てくるんだ」
「ああ、申しわけないです。死んでも若旦那さまを苦しめるなんて。フィンチ家の恥です……」
 マーシャがどっと涙を流し、両手で顔を覆った。何度もすまなさそうに謝る姿を見るうちに、ミルドレッドという女は、一族から好ましく思われていなかったのだと察する。
「泣くな。ミルドレッドとはそう悪い関係ではないんだ。それより、彼女の墓はどこにある?」
「フィンチ牧場の近くの村です。そこの教会の墓地で眠ってます」
「そうか。よかったら、今から案内してくれないか」
 マーシャは目を丸くする。
「今からです? 歩いて半日かかるんですよ」
「なあに。僕の銀星号を使えばそうかかるまい」
「あたしもいっしょに?」
「無論だとも。道案内が必要だ」
 真っ赤になるマーシャを馬に乗せ、自分も鞍にまたがると、尻に鞭を当てた。
「しっかり僕につかまるんだ。いいな」
「はい!」
 周囲の景色が変わり、じょじょに丘が小さくなる。新たな丘を越え、またつぎの丘を越え、さらに南の街道を延々と駆けていくうちに、目的の村が見えてきた。


 村の教会は小さかった。そばの柵に馬の手綱をつなぎ、裏手に回って墓地へ入る。マーシャが案内してくれたミルドレッドの墓は粗末だった。小さな墓標に、名前と生歿年が刻まれている。
「花でも持ってくればよかったな」
「若旦那さまがこうしてお参りしてくださるだけで、伯母は喜んでいると思います。昔、奉公していた屋敷の若旦那さまですし」
――そうだといいのだがな。
 心でそう答えながら、墓に向かって話しかける。
「若くして亡くなったとお聞きした。さぞかし無念だったろう。おまえは僕の屋敷で昔、奉公していたそうだな。何か言いたいことでもあるのか?」
 乾いた風が吹き抜け、周囲の木々をざわめかせた。
「愛していた男の代わりが僕だというのか? 教えてくれ」
「おお、マーシャじゃないか。墓参りとは感心する」
 肩越しに振り返ると、ひとりの老牧師が立っていた。にこやかに笑みを浮かべ、アーサーに向かって手をさし出す。
「私はこの教会の牧師、ジョン・エンダースと申します」
 あらためて対面するよう向き合い、アーサは握手する。
「突然、おじゃまして申しわけない。僕はアーサー・ヒューバート・オルダー・レイノルズ子爵と申します。カートライトとお呼びくださらないでしょうか」
 伯爵の長男は父親の第二敬称で呼ばれるのが慣例だ。自己紹介をするたびに、「カートライトと呼んでくれ」と付け加える必要があった。
「つまり……ファリントン伯爵のご長男でしょうか」
「ええ、そうです」
 エンダース氏の目が大きく見開かれる。
「どうして伯爵家の若さまが、フィンチ家の墓参りにいらっしゃるのですか。失礼ながら、ここは貴族さまに用向きがあるとは、とても思えないのですが……」
 明らかに不思議そうな目で見つめるものだから、居心地が悪くなる。
「幽霊退治ですよ。ミルドレッドという名のね」
「まさか……」
「では、ごきげんよう、エンダース氏」
 背を向け、墓地を去ろうとするアーサーだったが。
「お待ちください、カートライト卿。貴殿の伯父上のことでお話が」
「伯父?」
「ええ、貴殿と同じ名前の」
「僕の亡くなった伯父を知っているのですか? なぜ?」
「ここではゆっくりお話しできません。よろしければ、牧師館にお越しください」
 アーサーは承諾し、教会の隣にある小さな屋敷へ、マーシャとともに入っていった。
 エンダース家の牧師館は質素だったが、掃除と手入れが行き届いていて快適だった。マーシャは席を外してもらい、老牧師と客間で話をする。
 メイドが持ってきた紅茶を飲みながら、エンダース氏はアーサー伯父について語り出した。ただどこまで話していいのか決めかねているようで、慎重に言葉を選んでいるのが伝わってきた。
「当時、私は亡くなった伯父から教会と牧師館を継いだばかりでした。長いこと他地方で暮らしていたこともあり、牧場や伯爵家のあれこれについては、ほとんど無知でもありました。亡くなった娘の墓にどうしてフィンチ家の者が来ず、身なりの良い青年紳士だけなのか。毎夜、顔を出しては、長いこと立って泣いているものですから、自然と気がかりになりましてね。事情をきいてみたのです。残念なことに貴殿の伯父上は、何もお話ししてくださりませんでした。つらそうに首を横に振るだけです。その代わり、私にフィンチ家にいるだろう赤ん坊のことを知っているかと、おたずねになりました。名前をフィリップというはずだとも。洗礼の儀式を受けていれば、教区の台帳に名前が書かれていると思いまして、すぐにめくってみましたが、それらしき名前はありませんでした」
「体裁の悪い赤ん坊だったから、洗礼を受けさせなかったということか?」
「ええ、おそらく。すると、貴殿の伯父上は、そのフィリップという赤ん坊を、自分が引き取りたいから、牧師である私に仲介役をかってほしいと頼まれるのです。どうしてですか、とたずねましても答えてくださいません。理由はだれにも言えないし、私にも話せないと謝罪されました。……しかしですね、ここまで事情がわかれば、なんとなく察せられるじゃないですか。亡くなった娘と親しかったのだろうと、ね」
「それで、フィリップはどうなりました?」
「フィンチ家にいませんでした。悩みがないか、定期的に家々を訪問しているのですが、私が赤ん坊のことをそれとなくたずねても、知らないの一点張りです。よそさまの事情ですし、それ以上、私も深く立ち入ることができませんでした。ただ、牛小屋に顔を出したとき、臨時雇いの女がこっそり言うには、数日前、おかみがどこかの商売人に赤ん坊をやっていたのを目撃したと。ちなみにその商売人は人買いですから、売られてしまえば行方知れずです。私はそのことを話すかどうか迷ったのですが、貴殿の伯父上の切羽詰まった顔を見ていたら、話したほうがよかろうと思いまして……」
「アーサー伯父上は、フィリップを取りもどしたのでしょうか?」
「いいえ。その前に亡くなられました。すでに肺を病んでらしたみたいで、墓前でもひどい咳を……。フィリップに過酷な運命を背負わせたことを、それはもう悔やまれておられました。その三ヶ月後、伯爵家で大きな葬式があって、私も参列しました。そのとき初めて、あの青年紳士がファリントン伯爵のご長男だと知ったしだいです。カートライト卿とあまりにも似ておられましたから、失礼ながら一瞬、幽霊かと錯覚してしまいました」
 そこでエンダース氏はすまなそうに失笑した。
「申し訳ございません、初めてお会いしたのに、このようなお話をして。ですが、そのまま胸に秘めておくのも、良心が痛みましてね。もうずいぶん前のできごとですし、伯爵家のどなたかにお話しておきたかったのもあります。フィリップという赤ん坊がどうしているのか、気にかけてくだされば神も喜ぶでしょう」
 数秒思案したアーサーが出した結論は、そっけなかった。
「恥だな。わが家の」
「フィリップに罪はございません。どうかそのことだけでも、御心にお留め置きください」
「罪、ね…………」
 まだ若く、わが子どころか、恋愛経験すらないアーサーには実感のない話だった。

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