ある貴公子と二度目の許されざる恋

第一章 初恋 03



◇◆◇◆◇

「まあ、玉子がお好きなのね!」
 鶏小舎に入るなり、ミルドレッドはからからと笑った。
「ああ、大好きなんだ。待ちきれなくて、取りに来たよ。ほら」
 と、アーサーは階下から失敬した籐編のかごをさし出す。
「ええ、今朝はたくさん産んでますわ。お屋敷のぶんが余ったら、あとでパンケーキを作ろうって思ってたの。あと、玉子のたっぷりはいった、サンドウィッチも」
「ピクニックに行くのかい?」
「いけません?」
「よろこんで招待をお受けしよう。いいかな、僕の姫ぎみ?」
「まあ、お姫さまはパンケーキなんか焼きませんわ。あたしみたいに」
「言ったろう。僕の、って」
「アーサーさま……」
 かごに玉子を入れたままのミルドレッドを、背後から抱きしめた。そっとつむじにくちびるを落とす。
 彼女と知り合って、三ヶ月経った。乗馬をしているとき、茂みから悲鳴が聞こえ、駆けつけると若い女が男に襲われていた。アーサーは脇目もふらず、馬を飛び下りて男を殴りつけ、助けたのがミルドレッドとの出会いである。
 男を叩きのめしたあと、アーサーは泰然と言ってやった。
「きさま、二度と下衆な真似をするんじゃない。もし、またやってみろ。この僕が許さないからな」
「なんだよ、おまえ。偉そうだな。俺をだれだと思ってる?」
「知るか。だが、これだけは覚えておけ。僕は――」
 と、フルネームを名乗ってやったら、男はひどく狼狽し、必死な顔で謝罪してその場から逃げ出す。
 そのときの彼女は、わが家へ奉公に来てまだ三日目だった。屋敷の階下やその周辺の事情もよく知らず、村へ使いにでかけた帰りだったらしい。その男は目を付けた娘たちを草葉の陰で襲う卑劣漢で有名だった。しかも農場の長男でもあったため、だれもが見て見ぬふりをしている。
 美しいミルドレッドはさっそく、男に気に入られ、帰り道のあとをつけられてしまった。
 恐縮する彼女を馬に乗せ、家まで送るのだったが、それがわが家の階下だったものだから、ふたりの仲は自然に発展していく。会おうと思えば、いつでも会えるからだ。アーサーの気が向けば。
「きみの作ったパンケーキ、大好物なんだ。楽しみだな」
「まあ、アーサーさまったら。まるであたしがお母さんみたい」
「だって、僕のためだけにだろう。メイドが義務で作ったやつじゃないんだ」
「お母さんの味を知らないのね」
「僕の住んでいる世界はそういうものだよ」
「あたしとはぜんぜんちがう」
「ちがうからこそ、新鮮な驚きもたくさんあるじゃないか」
 ふたりは口づけを交わすのだが、なんの味もしなかった。
 くちびるを離すと、光景が一転する。
 雷が大地に轟き、ピクニックを楽しんでいたアーサーとミルドレッドを、雨が滝のように襲う。とてもではないがやりすごせないと判断して、急いで帰り支度をすると、馬に乗った。アーサーの黒い愛馬は勢いよく駆けるのだったが、泥濘に脚をとられてしまい、転倒しかける。
「きゃあっ!」
 アーサーの背中にしがみついていたミルドレッドが振り落とされ、どっと地面に叩きつけられた。
「大丈夫か!」
 すぐさま馬を降り、泥まみれの恋人を抱きしめ、案じる。さいわい、怪我はほとんどないようだったが、身体を打ち付けてしまったこともあり、雨が止むまで近くの農家の馬小屋を借りることにした。
 藁山の上に彼女を寝かせ、痛いところがないか再度、たずねる。
「肩が少し。あとはないわ」
「あとから痛みが出てくるかもしれない。屋敷にもどったら、湿布させよう」
「お願い、家政婦さんには言わないで。じゃないと、あたし何をしていたのか疑われてしまうわ。実家に用事があるってことにしているから」
「そうか。窮屈な思いをさせて悪い」
「謝らないでください。あたし、幸せなんです。こうしてお話ししてるだけでも」
 そのとき悪寒ともに盛大なくしゃみが出た。つられるようにミルドレッドもくしゃみをし、肩を震わせる。雨で身体がすっかり濡れてしまった。夏とはいえ肌寒い気候が体温を容赦なく奪う。
「このままだと風邪を引く。服を脱いで、温め合おう」
「で、でも……」
「もし肺炎にでもなったらどうする。それこそ大変だ」
 ためらうミルドレッドの服を脱がせると、自分も服を脱ぎ捨て、藁の上で抱きしめあった。雨は止まず、空気は冷たかったが、じょじょに肌に温もりがもどってくる。
 肌の震えがおさまるころ、べつの震えが身体の奥から走ってきた。
 ふたりは口づけをしながら肌を愛撫する。馬の鼻息を聞きながら、本能の命じるままに身体を重ねる。清い恋が燃える恋に変貌したのは、この瞬間だった。
「ミルドレッド!」
 さっきまで抱いていた女が血まみれになって、おのれの腕のなかで眠っている。
 そうだった。彼女は拳銃で心臓を撃たれて即死したのだ。
 あまりにも残酷な恋の結末に、気がくるいそうになる。何度も叫び、後悔する自分を、父は屋敷の奥に閉じこめてしまった。いや、すでにくるっていたのかもしれない。
 なぜ、自分は泣き叫んでいるのか、わからなくなってきたからだ。


 アーサーは目を覚ます。
 ぐっしょりと身体が寝汗で濡れていた。昨日と同じように濡らしたリネンで身体を拭き、午前用の服に着替える。とてもではないが、眠るのは恐ろしい。
 ネクタイを締めるため、ふと鏡を見ると、目の下のクマができているのがわかった。
「困ったな。ちくしょう」
 あんなひどい夢を見たのだ。顔がやつれるのも無理がなかった。
 昨夜は遅くまで踊ったり、話したりしていたというのに、ほとんど睡眠がとれていない。だるい身体で屋敷を出た。昨夜の舞踏会での泊まり客が大勢おり、車停めにはいくつもの馬車が待機していた。
 薄っすらと朝日が雲の切れ間からこぼれ、淡紅色の光に誘われるように森を散策する。やがて牛舎が見え、そばの大樹の下にデイリー・ハウスはあった。昨日の朝と変わらぬ歌声で、メイドがバター作りに精を出していた。
 ガラス窓をのぞく。今朝は客人が多いためだろう、大量のバターを攪拌機から取り出し、塩で練っているところだった。こめかみにはうっすらと汗がにじんでいる。それでもたったひとりで女は、歌を口ずさみながら労働にいそしんでいた。
 ぴたりと歌声がやむ。女の深い緑色の瞳が、窓ガラス越しにアーサーをとらえた。
「おはよう」
「おはようございます、若旦那さま」
「僕を知っているのかい?」
「昨夜の舞踏会、こっそりのぞき見したんです。そうしたらあなたさまが、カートライト卿だってすぐにわかりました」
「なんだ。せっかく、驚かせてやろうと思ったのに」
「まあ、意地悪な御方」
 くすくすと女が笑う。貴婦人とちがう、邪気のない笑顔にアーサーの心が温まる。
「いつからここに?」
「先週の水曜日からです」
「きみ、ずいぶんと手なれているようだね。以前はべつの屋敷で奉公を?」
「いいえ、こちらが初めてです。それまでは祖父の牧場で働いてました。たまたまこちらに空きができて、祖父を通して家政婦さんから紹介していただいたんです」
「バターやチーズを作っていたのか。なるほど」
「ええ、これだけは自信を持っています」
「あの歌は牧場で覚えたのかい?」
「はい。従姉妹や伯母さんたちと、いっしょに歌いながらバターを作るんです。町に卸してましたから、とってもたくさん」
 あどけない笑みの女は、初めの印象より若かった。まだ少女の域を出ていない。そして夢のなかで見たあの女――ミルドレッドに姿形が似ているな、と、あらためて感じた。声もよく似ている。
「あの、よかったら、できたてのバターを召しあがってみませんか。今が一番、おいしいときなんです」
 メイドの申し出を快く受け入れ、小屋のドアを開けた。言われるまま、木の匙に乗ったクリーム色の塊を口にふくんだ。ふわりと甘みが広がり、濃厚な味が寝不足の疲れを癒してくれた。
「うん、うまいよ。食卓に出てくるのよりもずっと」
「喜んでくださって、光栄ですわ」
 そのとき柱時計が鳴った。午前六時を知らせる音だ。
「いけない! 早く家政婦さんのところに持っていかなきゃ!」
「むだ話をさせてしまったな。すまない」
「いえ、いいんです」
 小屋を出るまぎわ、アーサーは女にたずねた。
「きみ、名前は?」
「マーシャです。マーシャ・フィンチ」
「では、マーシャ」
 友人と別れるように軽く手を振ってやる。しかし相手の顔を見ることはしなかった。


 昨夜の舞踏会の疲れと、客人たちの帰宅もあり、この日、ファリントン伯爵一家が顔をそろえたのは、昼食の時間だった。すでに食卓には父と母がついており、アーサーが入る。そして五分遅れて、マーガレットがやってきた。
「遅いぞ、マーガレット。時間厳守だと何度言ったらわかるのか」
 渋い顔をして父、セオドアが小言をぶつける。
「お父さま。支度に手間取ったの」
「では侍女を変えろ。近ごろ、だらしがなさすぎて見ておれん」
「ええ、気をつけてはいます」
「まったく、大事なときだというのに。これではいつまでたっても、嫁のもらい手がないままだな」
 父が大きなため息をつくと、母、ローズがあいだを取り持つように言った。
「昨日は遅かったですもの。無理もないわ。それより、いいお相手はいたの、マーガレット?」
 従僕がカップに紅茶を注ぎ終わったのを合図に、昼食が始まる。マーガレットが答える。
「残念だけど、いらっしゃらなかったわ。せっかくわたしのために、舞踏会を開いていただいたのに、ごめんなさい」
「そうやって、またつまらない言いわけで、私をごまかそうというのか?」
「そんな、お父さま……」
「四度目のシーズンなのだぞ。しかも私が方々手を尽くして、知り合いという知り合いを集めた舞踏会だった。これでまだ高望みをするとは言わせない」
「……」
 マーガレットは無言のまま、スープを口に運ぶ。平然とした娘の態度に業を煮やしたのか、父が指でテーブルを小刻みに叩く。
「それとも、ほかに好きな男がいるのか?」
「いいえ、いませんわ」
「では、なぜ、縁談を片っ端から断る?」
「結婚したいほど好きな殿方が現れないんですもの。仕方ないですわ」
「それを絵空事のわがままだと私は言いたいのだ。つまらんロマンス小説なんぞに影響されおって」
「そんなものわたしは読んでおりません。お父さまもご存知でしょう。図書室に一冊だってないのを」
「こっそり、好き合っている男から借りたのだろう。身分賤しい男からな」
 さすがにこれにはアーサーも黙っていられず、口を挟む。
「父上。それは言いすぎではありませんか。メグは理想が高いだけなんです。僕からもしっかり現実を見るよう、諭してはいます。だからあまり責めないでください」
 母も加勢する。
「そうよ、あなた。わたしたちだって、結婚する前はたくさんの反対があったのを、覚えてらっしゃらないの? それでも結婚できたのは、あなたのことをほんとうに好きだったからよ」
 しばし沈黙し、父は言葉を絞り出すようにして口を開く。
「…………私だって、苦言などしたくないよ。だがな、このままでは醜聞まみれになるのも時間の問題だ。せっかく先代たちが守ってきたわが家の名を、こんなことで落としたくないのだ。なあ、わかってくれ」
 アーサーは驚く。醜聞なんて、初耳だったからだ。
「何があったのですか、父上?」
 父は執事モーガンを呼び、小声で指示を出す。居間を出、ふたたびやってきた初老の執事は、銀盆に一冊の雑誌を乗せていた。
「読んでみろ、アーサー」
 言われるまま雑誌を手に取り、広げてみる。大衆向けの週刊誌で、なかには残忍な事件、珍奇な騒動、上流階級のゴシップと、どれも眉唾な内容だった。
 そして、ある写真が目に止まる。見出しはどの記事よりも鳥肌が立つものだった。
「…………なんですか、これは。まるで僕とメグが、倒錯した関係になっていると匂わせているばかりじゃないですか。呆れる。父上はこんな三文雑誌を信じるのですか?」
 先月、某男爵家の舞踏会で、自分と妹がダンスを披露している写真だった。ほかの招待客も写っていたにも関わらず、ファリントン伯爵家の長男と長女の姿だけ切り抜かれている。『暴かれた兄妹の禁断の恋』という煽りそのものの見出しといい、悪意丸出しだった。
「なんですって!」
 青ざめて立ちあがったマーガレットが、アーサーの手から大衆紙を奪う。令嬢とは思えないほど乱暴に広げ、悲鳴をあげた。
 母はすでに知っていたのか、悲しそうな視線をよこすだけだ。
「そうことだ。たまたま階下の者が見つけて、モーガンを通して私に報せてくれた。おそらくつれないマーガレットを恨んだ御仁が、記者に提供したネタだ。兄のおまえもダシに使われた、というわけだ」
「だれですか、それは」
「私がこの記事を書いた記者を探して、白状させた。名刺を渡したら、すぐに教えてくれたよ」
「ですから、だれが」
「某侯爵家の令息だ。あえて、名前は出さん。おまえたちが揉め事を起こしてくれたら、ますますわが家は恥をさらすだろう」
 父は名前を伏せたが、アーサーには覚えがあった。先月、マーガレットに求婚するために、わが家を訪問してきたあの侯爵令息だ。誠実とはほど遠い人柄に、アーサーは苦い思いがした。マーガレットがきっぱりと断って、胸がすいたほどだった。
「しかし、いい笑い者じゃないですか」
「そのような下品な記事など、信じる者はいやしない。少なくとも私たちの階級では。そう祈るしかない」
「なんてことだ……」
 アーサーは腸が煮えくり返る思いだった。だからといって、騒ぎを大きくしてしまうと、醜聞に尾ひれが付きかねない。悔しいが、ここは父の言うとおり、知らないふりを決めこむしかなさそうだ。
「というわけだ、マーガレット。必ず、今シーズンで結婚相手を見つけてくれ」
「……」
「返事は?」
「……」
「答えなさい」
「ええ、はい、お父さま」
「その言葉、忘れないからな」
 父が席を立つ。味気ない昼食が終わった。

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