ある貴公子と二度目の許されざる恋

第一章 初恋 02



◇◆◇◆◇

 翌日の屋敷は、今宵開かれる舞踏会のために慌ただしかった。使用人たちが執事モーガンを筆頭に、あれやこれやと駆け回っている。食事はもちろんだが、遠方から来る客人のために、宿泊の用意もしなくてはならない。
 舞踏会が開かれる大広間には、ワルツやカドリールの演奏が流れていた。早めに到着した楽団が、本番前の練習をしているのである。それをいいことに、アーサーはマーガレットを誘って、ダンスの練習をする。
 普段着のまま手を取り合って、大広間を回る。気を利かせてくれた楽団の指揮者が、本番さながらにカドリールを演奏してくれた。軽やかな足どりで、兄妹は踊り続ける。
 マーガレットはダンスがうまい。だから舞踏会ではいつも大勢の貴公子連中から、パートナーに誘われる。
 ……なのに、まったくだれとも婚約しないのは、不思議としか言いようがなかった。アーサーは父から、なぜ娘が結婚を厭うのかそれとなくきいてくれ、とたのまれている。
――結婚できないような、好きな男がいるんだろうか。
 しかし率直にきいても、かたくなな妹のことだから答えてはくれないだろう。
 ダンスをしながら考え、アーサーはこう問いかけた。
「おまえ、もしかすると屋敷を出たくないのか?」
「どういう意味かしら、お兄さま」
「そのままだよ。それだけここが居心地いいのかな、と思って」
「それもあるわね」
 数秒思案し、アーサーは言った。
「……ならば、長い里帰りを許してくれる貴公子を選べばいいじゃないか。ほら、僕が言うのもなんだが、おまえは器量がいいし、それぐらいの条件のんでくれる男なら、たくさんいる」
「いるのかしら」
「もし言いにくいのなら、僕が相手にきいてこようか?」
「世間知らずの娘みたいで、みっともないわ。それに、まだ婚約したいような殿方もいらっしゃらないのよ。失礼ね!」
「そう、怒るなって。父上も心配しているんだ。そろそろ決めなければ、世間体も悪くなる」
「世間体って、お兄さままでそうおっしゃるのね」
「メグのために言ってるんだ。もちろん僕だって、おまえがいなくなるのは寂しい。ふたりきりの兄妹だものな。でも、いつまでも子どもじゃないんだ。たがいに家庭を作って、独立しないといけない。ちがうかい?」
「お兄さま。だけど……」
 詰問しているようで、気まずくなってきた。つまらないことで喧嘩したくない。
「すまない。言いすぎた」
 演奏の曲調が変わり、ふたりはワルツを踊る。身体を密着させ、パートナーであるマーガレットの腰に手をやる。
 白いうなじから漂う、香水の匂い。甘い薔薇だった。
 熱く鼓動が高鳴る。
 アーサーは美しい妹令嬢に心のときめきを感じてしまった。
 十二歳のとき寄宿学校であるパブリック・スクールに入り、卒業したのちは、大学で寮生活である。九年ものあいだ家族とあまりすごせなかった。一方のマーガレットは屋敷から出ることなく、淑女としての教育を女家庭教師から受けていた。
 長期休暇に顔を合わせるのだが、アーサーは帰郷するたびに成熟していく妹に戸惑ってもいた。ここ最近は、子どものときのようにいっしょに出かけても、素直に喜べない自分がいる。やがて結婚するであろう、妹が遠くなっていくのを実感せずにいられないからである。
 その寂しさが、今まさにアーサーの心を揺さぶっていた。
――このまま老嬢になってくれればいいのに。
 と、考えてはならない想いにとらわれる。
 だが、いけないと、再びおのれに言い聞かせ、曲調が変わったのをきっかけにダンスの練習をやめた。
 老嬢――生涯独身の令嬢になってしまえば、マーガレットの世間体が悪くなる。わが家の屋敷のなかで、春を知らない枯れた蕾になって欲しくなかった。


「お兄さま。お兄さまったら!」
 妹令嬢マーガレットの呼びかけで、アーサーはうたた寝から目覚めた。
「あ、メグ……」
「あ、じゃないわよ、もう。これから舞踏会ってときに、居眠りなんて笑えないわ」
 心配半分、怒り半分のマーガレットの顔が、眼前にあった。上からのぞきこまれていたから、目と口の位置が逆さまになっている。
 屋敷の図書室のソファに沈んでいたアーサーは、背伸びをし、ゆっくりと立ちあがった。すでに薄い水色のドレスに着替えた妹が、扇子で兄の尻を軽く叩く。
「早く着替えてらっしゃいな。お客さまもお見えになっているのよ」
「はいはい。しっかり者の妹を持って、僕はしあわせ者だよ」
「ひと言多いわよ!」
 ぴしゃり、ともう一度尻を叩かれ、まるで馬みたいだなと苦笑しながら、三階の自室へ駆け上がる。すでに着付け係の従僕が待機しており、急いで黒い燕尾服に身を包んだ。
 二階の大広間に行くと、すでに集った客人たちがグラス片手に談笑していた。アーサーはまず父の大事な知り合いにあいさつし、つぎに親戚連中、そのつぎに自身の知り合い、最後にパブリック・スクールや大学で作った友人たちと憎まれ口を叩き合う。
 少年時代、ルームメイトだったロバート・ボーウェン爵子が、さっそく舞踏会に招待された喜びを顔に出していた。
「なあ、カートライト卿。レディ・マーガレットはまだ婚約者がいらっしゃらないのだろう?」
「そうみたいだな」
 黒髪に茶色の瞳の好青年ボーウェンが微笑むと、周囲にいた令嬢たちの視線が集まった。彼もまた、今年から社交界に出入りするようになったひとりである。前回、マーガレットにエスコートして出席した舞踏会で、一目惚れしたらしい。無理もなかった。マーガレットはそれだけ美貌の持ち主だった。
 豊かな濃い金髪に、透き通るような青い瞳、そして人目を惹く姿形。兄である自分も同様だったが、何よりマーガレットを引き立てているのは、凛とした態度だった。
 決して貴公子相手に媚を売るようなことはせず、甘いささやきにもなびかない。それがかえって男連中をやきもきさせては、どこの貴公子がお眼鏡に叶うのかと、しきりに嘆かれるほどだった。
 従僕が運んできたシャンパンのグラスを取りながら、ボーウェンは言った。
「あんなにお綺麗で、四度目のシーズンだというのに。まさかきみが悪い虫を追い払ってるのではないだろうな?」
 友人の的外れなかん繰りに失笑する。
「あはは。ああ見えて、あいつ、かなり好みがうるさいんだよ。もし気に入った男がいなかったら、独身のままでいいって豪語しているぐらいだ」
「そうなのか。望みは薄いかもしれないな。だが」
 ぽん、とボーウェンがアーサーの肩を叩く。
「きみと僕の仲じゃないか。一度でいいから、たのむよ。な?」
 アーサーは冷たくその手をはねのけた。
「僕が妹との仲を取り持てと? 悪いが遠慮しておくよ」
「個人的に話ぐらいさせてくれよ。ほら、偶然を装って、ピクニックに顔を出すとか、さ」
「ああ見えて、かなり気難しい女なんでね。小細工は逆効果だ。妹自身に決めてもらうのがいい。というわけで、自分で行ってこい」
 どん、とボーウェンの背中を押し、こちらにやってきたマーガレットと、対面させる。
「あら、以前、お会いした……」
 と彼女は口にするも、名前が思い出せないのは明らかなようすだ。澄んだ青い瞳がすっとボーウェンをそらし、アーサーを一瞥する。だから目配せしてやった、「相手をしてやってくれ」と。
「ロバート・ボーウェン爵子です」
「そうでしたわね、ボーウェン爵子。ごきげんよう。あのときは楽しゅうございましたわ」
 そして彼女は微笑する。恋する男の顔が溶けそうなほどに、にやける。傍目で見ても丸わかりなほどに。
「おお、僕もです。あの、よろしければ、『メグ』とお呼びしてもよろしいでしょうか。あなたの兄上と僕はパブリック・スクール時代からの親友です。妹令嬢のあなたさまとも、親しくおつき合い願いたいのです」
「あら、ご遠慮くださらない」
「厚かましいでしょうか?」
「わたしのことを『メグ』と呼ぶのは、アーサーお兄さまだけの特権ですの」
「そうですか。仲がよろしいのですね……」
「まあ、お褒めくださってうれしいですわ」
 明らかなマーガレットの嫌味に、ボーウェンの表情が苦くなる。
――メグは脈なし、だな。
 マーガレットは単純な男が嫌いだった。社交界デビューをしたその日から、「つまらない紳士連中ね」と、愚痴をこぼしている。なかなか好みの御仁に出会えず、「どんな紳士ならいいのか」、とたずねてみたら、「わかりやすい男は嫌い」のひと言だった。
 ちょうど良い具合に、ダンスの演奏が始まった。ボーウェンがマーガレットにパートナーを申しこみ、ふたりは踊り始める。
 軽やかにダンスをするひとびとを見物しながら、自分もパートナーと見つけて踊る必要がある。舞踏会を催してダンスをしないわけにはいかない。だれに申しこもうかと、大広間を見回したら、数多の令嬢の視線とぶつかる。どの目も「わたしを誘ってください」と言いたそうだった。
 順序でいえば、身分ある貴族令嬢を優先すべきだったが、時間は限られている。今宵は大勢の招待客でにぎわい、いつになく盛大にしている。今年こそは結婚して欲しいからと、マーガレットのために父が催した大規模な舞踏会でもあった。
――ひとりと踊れば、ほかの令嬢たちがやっかむからなあ。それでべつのとまた踊れば、残りが悲しい目をするんだよな。選ぶのはむずかしいよなあ。
 アーサーは微笑の裏で、優先順位の計算をした。
 それならばいっそ、ほかの令嬢たちと交流のなさそうな相手を選んだほうがいい。ぐるりと大広間を見渡し、壁の花と化していた、明るい茶髪の令嬢に声をかけた。
「ごきげんよう、ミス・アンダーソン。今宵は楽しんでおいでですか?」
「まあ、カートライト卿……」
 父の友人である准男爵家の令嬢だった。久しぶりに顔を見るも、あまり元気がない。笑顔を無理に作っているのが伝わってきた。
「よろしければ、僕と踊っていただけませんか」
 アプリコット色のドレスを着たアンダーソン嬢はうつむき、意外な返事をする。
「踊りたい気分ではございませんの。せっかくお誘いいただいたのに、申しわけございませんわ」
「ええ? 舞踏会にいらっしゃるのに、ですか?」
 以前から変わり者の令嬢として知られていたが、こうもあっさり断られてしまうとは。しかもアーサーは主催するがわ。
 恥をかかされたようで、気分が悪くなったアーサー。強引に彼女の手を取って大広間の中央へと進み出た。音楽に合わせてステップを踏むと、エスコートした相手も軽やかに応えてくれる。ダンスは苦手でないらしい。
「てっきりダンスがお嫌いなのかと」
 小声でそう話しかけてみる。
「いいえ、そういうわけではありませんの。ただ、わたし、踊ってはいけないような気がして……」
「なにか深い事情がおありのようですね。相談に乗ってさしあげましょうか。あなたと僕の父は懇親の仲ですし、お力になれるやもしれません」
「……」
 すっかり相手の笑顔が消えた。曲が終わらないうちに、アンダーソン嬢は壁のそばへもどってしまった。
 背後からマーガレットに呼びかけられる。
「あらあら、とんだやぶ蛇をつつかれたみたいね、お兄さま」
「おまえ、ボーウェン爵子とはもういいのか?」
「一度、お相手すれば充分よ。それより、ミス・アンダーソンにはわたしからお話ししてみましょうか。デリケートな話題は、お兄さまには不向きですもの」
 マーガレットが壁に向かって歩き出し、目的の令嬢へあいさつをした。扇子を広げ、何やら小声で耳に入れると、アンダーソン嬢はかすかにうなずく。そんな彼女の手をマーガレットが握りしめると、作り物でない笑みがぱっと広がった。どうやら心を開いてくれたらしい。
 そうこうしているうちに、楽団が演奏を再会した。音楽が優雅に流れるなか、もどってきたマーガレットと踊る。
「ミス・アンダーソンはなんと?」
 手を取り合った妹はしれっと答える。
「ご結婚したくないそうよ。不器用なお嬢さまなのね。わたしみたいに適当にやりすごすことができないんだわ」
「しかしどうして」
 マーガレットはいたずらっぽく笑う。
「女同士の秘密よ」
「手を握って勇気づけたってわけか。おお、同士よって」
「うふふ。そんなところかしら。結婚だけが、わたしたちの幸せじゃないわよねって」
 にっこり微笑むマーガレットだったが、アーサーは気が気でない。ふと、視線をにやると、父が自分たちに厳しい視線を投げかけているのが見えた。
――マーガレットには困ったものだ。
 昨夜、父に呼び出され、あれこれ愚痴を聞かされた。
 無理もなかった。
 十七歳で社交界デビューしたマーガレットだったが、三年をすぎても、婚約者が現れる気配がなかった。ならば、と父がふさわしい縁談を持ってくるも、妹は片っ端から断る。強引に話を進めれば、「気に入らない御仁と結婚するぐらいなら、死んだほうがまし」と、血相を変えて拒絶する。
 もちろん、数多の貴公子から、結婚の申しこみはあった。だがどんなに若くて優しい貴公子だろうが、マーガレットはかたくなに肯首しなかったのだ。だから、だれか密かに恋をしているのだろう、心当たりはないのか、と父が問うてきた。
 昼間ダンスの練習をしたあと、アーサは「知りません」と報告するしかなった。知らないものは知らないし、妹が密会している気配は見受けられない。
 華麗にステップを踏むマーガレットに、アーサーは忠告してやる。
「メグ、つぎは僕じゃない貴公子と踊るんだ。あまり父上に心配をかけさせるな」
「あら、わたしではご不満?」
「そういう意味ではなくてだな。おまえがいつまでたっても、結婚する気配がないからだよ。だれか好きな男でもいるのか? 例えば、身分のない商人とか……」
「いいえ、そんな恥知らずなお相手なんか、いらっしゃらないわ。お兄さままでつまらないことをおっしゃるのね!」
 マーガレットは曲の途中にもかかわらず、アーサーの手を振りほどき、大広間をあとにした。気分を害したと言わんばかりに。

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