ジョン・エリオットの日誌
クレオパトラは微笑まない 02


 ランタンを手に屋敷をひととおり回り、戸締りをすべて確認し終えると、時計の針は午前をすぎるのが日課だった。他の使用人連中はすでにそれぞれの部屋に退き、特に用事がなければエリオットもそのまま階下の執事室にもどることになっている。
 だが、今夜はちがった。見回りをする前に洗い場で水を流す音が聞こえていたから、最後に点検することにしていたものの、肝心の作業が終わってない様子だった。
 のぞいてみると、くすんだ金髪のおさげの少女、コニーがひとりで洗い物を片付けている。ハリスンのことだから、罰としてすべての洗い物を彼女に押し付けたにちがいない。銀器はすべて従僕の担当だから、陶器とグラスだけとはいえ、ひとりではかなりの重労働である。
 仕方ない。ああやって、召使というものは鍛えられるのだし、この自分だってそうだった。すぐに音を上げてしまうぐらいなら、この職業にコニーは向いてないのだろう。
 そう思う反面、この調子ではいつ、郷里に逃げ帰っても不思議ではない。前世紀とはことなり、年々、家事労働を厭って使用人として仕える若者が減っているのも事実だ。
 現にコニーの前に雇った一四歳の少女は、ハリスンに大声でなじられた翌朝、すぐに辞めてしまった。「紹介状が書けなくなるから、もう少し辛抱してみては」とエリオットは忠告してみたのだが、工場か商店での働き口をみつけたいと言い残し、わずか三日で未練もみせず去ってしまった。
 コニーはどうだろう?
 遠目で観察しながら、皿洗いの様子を見守る。あれだけぶたれたのだから、まだ泣いていてもいいはずだが、歯を食いしばって流し台に立っていた。彼女ひとりだけしかその場にいないというのに、手を抜いている様子もみられない。
 見込みがあるかもしれない。
 そう判断したエリオットは洗い場へと踏み入れる。すぐに相手が気がつくよう、わざと足音をたてた。
 振り返ったコニーは呆気にとられた顔を見せたかと思うと、すぐに堅くなり、薄茶色の瞳は怯えを見せている。
「あとどれぐらいかかりそうだい?」
 緊張のあまり返事はないと予想したのだが、しばらく間をおいてコニーは答える。
「……は、はい。申しわけありません」
「謝る時間があるなら、早く片付けるんだ」
「すみません!」
 背中をむけて流し台の中に手を入れるのだが、かすかに肩が震えていた。
 心の中で、エリオットは苦笑する。
――僕は相当、恐れられているな……。
 これも仕方ないだろう。まだ新米の少女だからといって、かばってしまうと、逆にハリスンからの風当たりが強くなるだけだ。他の使用人の介入を料理人はひどく嫌う。だから、無関心をいつも装っていた。
 いったん洗い場を出、食器保管室に置いている自分のエプロンを手に取って身につけ、ふたたびコニーのもとにもどる。そして洗ったばかりの皿を清潔なリネンで拭いた。
「あ……」
 困惑した表情で、コニーはエリオットを見た。
「ここが片付かないと、僕も休めない。だから今日は特別だ。……でも」
 ここでわざとらしく小声で言った。
「他の連中にはないしょだぞ。上司が流し場を手伝うなど、前代未聞だからな」
「は、はい!」
 わずかに笑みを見せたコニー――そういえば、初めてみる少女の笑みだった。
 食器を拭きながらそれとなく、エリオットはきいてみた。
「少しは慣れたかい?」
「怒られてばかりです」
「まあね。僕も初めは似たようなもんだったよ。子爵家の屋敷にいたころだけど、誰よりも先輩や上司に叱られていた。でも不思議なことに、僕だけが階上に足を踏み入れることを許されてね。奉公していた四年の間に、従僕まで上がれた下男は他にいなかった」
 意外だと言わんばかりに、コニーに見つめられた。小さくうなずきを返す。
「だからそう悲観することはない。今は忙しい時期だから、ハリスン夫人は苛立っているだけだ。そのうち、なんとかなるものさ」
 さらにコニーの顔が明るくなった。
「ありがとうございます、エリオットさん!」
「いえいえ。君が元気になってくれたようで、ほっとした」
「だって、もっともっと、怖い人だって思ってたんです。母さんも若主人さまと執事には、すごく気をつけなさいって――あ、ごめんなさい!」
 エリオットは苦笑せずにいられなかった。
「それは、君のお母さんの言うとおりだよ。べつの意味で怖いことがあるから、できるだけ接触しないほうがいいのは、僕もよくわかる。子爵家の屋敷にいたころ、同じ年頃の女中たちが、何人も泣きながら屋敷を追い出されたのを見てきた。さいわい、ここは風紀が乱れていないから、働こうと思えば長く居続けられる」
 コニーは意味がよくわかっているのかいないのか、神妙な面持ちで話を聞いていた。
 そろそろ世間話は切り上げたほうがよさそうだ。
 ふたりは無言で食器を洗い、丁寧に拭いた。この調子だとあと三十分もかからないだろう。
 あとは食器を保管室に片付けて、厳重に施錠するだけになったころ。
 耳慣れない声が厨房から聞こえた。明らかに人間ではなく、獣のそれだ。外見は愛らしいのが、その実、するどい爪と牙をもったあの白いふわふわの――。
「まさか、あいつが……!」
 ランタンを持ち、エリオットは忍び足で厨房をのぞき見た。
 毛足の長いペルシャ猫が、見覚えのある肉の塊をくわえて、鋭い目つきでこちらをにらんでいる。皮だけ食したあの鴨肉だった。捨てたと思っていたが、ハリスンは何かに使おうとして、こっそり隠していたにちがいない。
 飼い主ピーターズ氏の執事、マクニールに命じられたとおり、お猫さま用のお食事を用意したはずだが、量が足りなかったというのか? そういえば飼い主に似て大食いだ。ころころした体型もそっくりである。
 それでも放置するわけにはいかず――カーテンや壁紙をひっかかれてしまえば、責任はこちらに押し付けられる。屋敷の管理がなってないのだと。
「おいで、クレオパトラ」
 乳飲み子に呼びかけるように、優しい声で言ってみたが、無視された。ばくばくとうまそうに鴨肉に食らいついている。
 今のうちに捕獲だ!
 エリオットは作業台の下にもぐりこみ、背後からクレオパトラを捕まえようとした。すぐに察知され、振り向かれ、半ば屑になった鴨肉を落とし、白い毛の塊は一目散に厨房を出て行く。向かったのは洗い場だ。
「コニー、捕まえろ!」
「はいっ!」
 濁点のついた猫の鳴き声と、コニーのあやす声が聞こえる。
 洗い場にもどったエリオットが見たのは、白いエプロンにとびかかるクレオパトラの姿だった。コニーは外したエプロンを器用にゆらしながら、二度、三度と猫をよけ、次に身構えた隙に素早くつかまえた。
「見事!」
 エリオットが感嘆すると、じたばたともがく猫を抱きしめたまま、コニーはとびきりの笑顔を見せてくれる。
「あたしの家、猫を三匹飼ってたんです」
「そうか、そうか。君が洗い場にいて助かったよ」
「男の子だから、元気ですね」
 大きな違和感があった。
 クレオパトラというから、てっきり雌猫かと思っていたが。
 エリオットはランタンを猫に近づけると、長い毛をかきわけた。尻尾の付け根あたりを確認する。コニーの言うとおり、雄特有の証が見つかった。
「エジプトの美女の正体がこれか……」
 どっと笑う。しばらく動けないほど、おかしくてたまらなかった。
 コニーもくすくすと笑う。
 不機嫌そうな鳴き声で、クレオパトラが必死に対抗していた。


◇◆◇◆◇



 階上の朝食がすみ、主人から本日の予定を聞いた後、階下の一日のスケジュールを組むのがエリオットの日課のひとつである。家政婦がいたころは主人だけでよかったが、不在の今、女主人の用件も管理しなくてはならない。さいわい、どちらの主人とも、今日は特にこれといった用事はないようで、晩餐のメニューの相談だけで終わった。
 昨日、一昨日は主人と若主人は、客人とともに領内の森で狩猟を行われ、いつものようにマークと同行した。弾の装填や猟犬の世話、休憩所にあらかじめ運ばれた昼食を給仕するためである。
 ピーターズ氏にはマクニールがいたから、ビリーは猟に同行する必要がなかったものの、ひとりで女客人の世話をこなさなくてはならなかった。キャサリンはわがままとは無縁な令嬢だったため、トラブルと無縁だったのが幸いである。
 客人は今日は趣向を変えて庭内の散策に留まったようだ。しかもどういった成り行きなのか、主人も女主人もピーターズ氏も屋敷内ですごし、表に出たのは若主人ジェイムズとキャサリン・ピーターズ嬢である。出されたといったほうが正しいのかもしれない。
 家女中頭のメイベルが階上の掃除の合間に、窓の外を観察して言うには、キャサリン嬢ばかりが一方的に話しかけているようだった、と。それはたちまち使用人たちの噂話となって広がり……。
「社交界でジェイムズさまにひと目惚れされた、というのはどうやらほんとうだったみたいですよ。しかもピーターズ氏はかなりの資産家ですから、旦那さまも悪い話じゃないと思われているんじゃないかって、誰もが言ってます」
 執事室で階下の予定表を聞き終えたビリーが、意味ありげな笑みを浮かべながら、噂話を教えてくれた。時代遅れのお仕着せ姿は、まだ少年の域を抜けきっていない彼には、よく似合う。
「ふうん、そうか」
 モーニングコート姿のエリオットは、予定表のメモに目を落としたまま、気のない返事をしてやった。
「ええ? 興味ないんですか?」
「答えは明らかじゃないか。騒ぎ立てるほどのことじゃない」
「そうですか……」
 厳しいまなざしをビリーに向ける。
「それより、客人に失礼のないように、細心の注意を払え。昨夜のような失態は、二度と起こすなと、皆に徹底周知させるんだ。また大きな失態をしてみろ、即解雇も厭わないからと付け加えてな」
 ビリーの表情に緊張の色が加わる。
「僕がその役目を?」
「ああ。マークはこれから午前の茶の給仕だし、僕は若主人さまにお出ししなきゃいかん。伝達が終わったらすぐに残りの銀器磨きを再開しろ」
「はい!」
 半ば駆け足でビリーは執務室を後にしたが、突然の大役に興奮しているのが読み取れた。
 が、ここでもっと大切なことを付け加えるのを失念してしまった。
 ビリーだけを執事室に呼んだ意味がないじゃないか……。
 うっかりばかりの自分にため息をつかずにいられない。
 マクニールはあいかわらず暇さえあれば、使用人たちの右往左往する階下で、観察をしている。ビリーの瞳は緑がかった茶色だが、濁りのない美しい金髪をしているから、目をつけられない可能性はないとも言い切れない。
「まったく、やっかいな客人だ……」
 ここでまた、ため息をつかずにいれなかった。


 庭園は秋が深まり、樹々がはらはらと赤や黄色、橙色の葉を落としている。水が止められた噴水の水面にも、葉は鮮やかな彩りを加えていた。
 園丁一家はこの時季、庭園の掃除が大変だ。そう思いながらエリオットは銀のポットと茶器を乗せた盆を提げながら、亭(あずまや)目指して歩いた。
 マークをよこしてもよかったが、主人から日課を聞く際、「息子たちの様子を見てきて欲しい」と指示が出た。他の使用人連中には内密なのだろうから、自分が行くのがもっともふさわしいと暗に言われたようなものだった。
 黄色い葉がエリオットの目前に落ちてくる。盆に入ってはいけないと、さっと左側にずらした。もちろん、盆は水平を保ったままであるから、揺れた陶器が音を立てることはなかった。
 亭は庭園の池の中央に造られ、小さな橋を渡った先にある。先代のころは白鳥たちが優雅に白い羽を浮かべていたというが、今は冷たい秋風が吹くたび、花のない睡蓮の丸い葉が揺れるだけ。
 それでもジェイムズがここを選んだのは、花の少ない今の時季、庭園で美しい景色を魅せるのは池の亭だと知っているからだ。おそらく父親に半ば、強制されたのだろうが。
 予想したとおり、若いふたりは歯車がまるで噛み合ってなかった。ビリーが報告してくれたそのままの光景が、亭のテーブルで展開されていた。
「あの……、アンダーソンさんって、読書とかされないのですか?」
 困惑気味の笑顔をみせながら、ドレス姿のキャサリンが話題を切り出している最中だった。あの父親からこの娘が生まれるのかと驚くほど、愛らしいお嬢さまだ。深紅色をしたモスリン生地のドレスの胸元を飾るのは、柔らかい桃色の薔薇の造花である。ふんだんにリボンをあしらわれた帽子からのぞく髪の毛は、はしばみ色。黒の瞳とよく合うし、肩にかかった白いショールが、さらにそれらの色を引き立てた。
「しませんね。あれは死ぬほど退屈だ。または馬鹿馬鹿しい。なぜなら、嘘だらけで理想ばかりの世界ですから。世の中そんなに甘いものじゃない」
 それに対してジェイムズの表情はまるで氷上のごとき冷たく、とらえどころがない。水色の瞳は向かい合っているキャサリンではなく、盆を提げたエリオットに移った。
「茶はいらん。もうもどるからな」
 間髪入れずジェイムズがそう言い、立ち上がるものだから、盆を提げたまま様子をうかがう。
「さようでございますか」
 忌々しいものを見るような目でにらみつけながら、ジェイムズは言葉を続ける。
「どうせ、親父の偵察役なんだろ?」
「いいえ。ジェイムズさま。お父さまはご心配されているのです」
「腹の中ではおまえも面白がってるくせに。こんな茶番劇はうんざりだと、伝えておけ!」
 ジェイムズはひとり亭を去る。さすがにキャサリンはそれ以上、ついていくことがためらわれたようだ。座ったままうつむいて、動かなかった。
 あまりにも気まずいから、エリオットもすぐにその場を離れたかったものの、客人のお嬢さまひとりを残すわけにはいかない。盆を提げたまま、距離を置いて見守るしかなかった。
 また風が亭を駆け抜け、赤い葉を池に落とす。それが二度、三度繰り返されるが、キャサリンは動かない。
 本来ならこちらから声をかけるべきではないが、亭にひとりいるよりは、屋敷にもどっていただいたほうがいい。庭園だから人目につかないとは限らない。
「そろそろおもどりになられますか? 風が冷たくなってまいりました」
「……」
「お風邪を召しますよ」
 やっと返ってきたのは、小さな嗚咽だった。うつむいたまま、涙を流している。
 さらに気まずくなったエリオットは、いったん亭を後にする――はずが、あまりにもキャサリンが痛々しく映ってしまい、盆をテーブルに置かずにいられなかった。
「差し出がましいようでございますが、ピーターズ嬢。残念ながら、ジェイムズさまにはかつて心に決められたご婦人がいらっしゃったのです」
「え?」
 さっきまでの涙が嘘のように、キャサリンは目を見開いて顔を上げた。
「旦那さまはそれはもう、反対されました。しかし、お相手がお相手でしたから、無理もございませんでした」
「そのお相手って、どんな方ですの?」
「弟君ヘンリーさまの元家庭教師にございます」
「今はどうしてらっしゃるの?」
「亡くなられました」
「まさか……」
 エリオットはその問いには答えず、静かに言葉を続けた。
「どうかこのことは、くれぐれもご内密にお願いいたします」
「え、ええ……もちろんですわ」
 キャサリンは立ち上がり、亭を降り、橋を渡る。再び盆を提げたエリオットは、少し距離をおいてあとに続いた。


 階下にある洗濯室は、かつて女中たちが忙しく動き回っていたが、今はアイロンがけと簡単な洗濯をすませる場所となっている。女中を雇うより、大量の洗濯物を業者に頼んだほうが安く上がるからだ。
 奥は男性使用人たちの浴室に改築されていた。浴室といってもただ、浴槽と椅子が置かれているだけの小さな空間である。アイロン台が並ぶ部屋と一枚板でしか仕切られていない。
 それでも以前のように、離れの壊れかけた小屋の浴槽よりはるかにいい。給湯設備はなかったし、隙間風がひどいから、冬に入浴すると行水をしているのと大差なかった。
 週に二度の入浴の順番は厳格に決められていた。上位の使用人から始まるのである。当然、一番最初に入るのは執事であるエリオット。その次が御者のヒュー、さらに次が第一従僕のマークと続く。昼間の短い空き時間を使うから、のんびり湯に浸かる時間はない。
 扉が開いた。
 ここで湯舟のなかのエリオットは我に返った。
「おい、ジョニー。うたた寝してたのか?」
 素早く扉を閉めて近づいてきたのは、タオルを手にしたマークだった。
 エリオットは顔を泡で濡れた手で拭う。眠気が一度に吹き飛んだ。
「みたいだ。助かった」
「浴槽で溺死なんて、笑えないぞ」
「だな」
 マークは肩をすくめ、呆れたようにため息をついた。
「だから次の家政婦を早く雇え、って俺は前も言ったんだ」
「できることならそうしている。ただ、ジェイムズさまの従者も必要だ。社交シーズンでロンドンに滞在されるとき、おまえが同行するわけにはいかんだろう」
「俺はいいぜ。一度、大都会で生活してみたかったんだ」
「無茶言うな。地理も知らんくせに。それでなくても人手が足りないし、ヘンリーさまも今度の休暇で寄宿学校から帰ってこられる。ご結婚されるまでは、家政婦を雇うのは厳しい」
「そんな悠長なこと言ってると、永遠に家政婦は雇えないぜ。そもそも、ご結婚される意志があると、俺は思えないんだが」
「それもなあ。そうなんだよな……」
 亭での光景が頭に浮かぶ。近い将来、家督を継ぐのだから、一日も早く所帯を持っていただきたいと思う。その反面、キャサリンのようなお嬢様が、悲しまれる姿を日々見るのも胸が痛む。上流階級によく見られる愛のない結婚ほど、冷たい家庭生活はない。
 若主人と亡くなった女家庭教師の話題は、屋敷のなかではタブーとされていた。エリオットもマークもそれ以上、この話題は口にしなかった。
「交替!」
 椅子の背もたれにかけていた自分のタオルを、マークに渡された。
「え、ヒューは?」
「あんまりにも長いから、俺が様子を見にいくことにした。その代わり、二番目だ」
「……そんなに僕はうたた寝を?」
「二十分」
 それはさすがに心配されても仕方ない。すぐに浴槽から出ると、素早く身体を拭き、眼鏡をかけ、下着を身につけた。
 その間に服を脱いだマークが湯舟に身体を沈める。石鹸で頭髪を泡立てながら、彼は言った。
「あんまりカリカリしていると、おまえのほうが先にまいっちまうぞ」
 シャツに袖を通しながら、エリオットは答える。
「そう見えるのか?」
「ビリーやメイベルも、最近のエリオットさんは怖いって愚痴ってた。まあ、あのハリスン夫人とまともにぶつかっちまえば、そうならないほうがおかしいが」
「仕方ないだろう。僕以外、誰が相手を?」
「だから、そういうところが――」
 ここでマークはいったん湯舟にもぐり、すぐに顔を上げる。一気に息を吐き出した。
「けど、それもおまえのいいところなんだよなあ」
 ズボンを履いたエリオットは、脱衣かごからズボン吊りを手に取る。
「いやにもったいぶった言い方だな」
 意味ありげな笑みを見せ、マークは浴槽のふちに両肘を置いた。
「あのとき俺は、ジョニーやブラウンさんを恨んだが、今となっては正しかったとつくづく思うぜ」
「ああ、あのことか……」
「もし俺だったら、とうの昔にハリスン夫人とやりあって、主人にクビにしてもらったか、俺が出て行ったろう。それにビリーも屋敷に残っていなかったかもしれないな。毎日、八つ当たりされたらたまったもんじゃない」
「そうか」
「あの借金王ブラウンはとことん嫌な野郎だったが、仕事だけはまともだったからなあ。人選も狂ってなかった――ってことか」
 エリオットはこの話題になると、必要以上のことは話さなかった。
 本来ならば先輩であるマークが、前の執事であるブラウンを補佐するはずだったのだが、ある日を境に立場は逆転してしまったのだ。もちろん、マークは面白いはずがなく、あれからしばらくは思い出すのもはばかられるほどの日々だった。
 マークが湯舟から立ちあがる。椅子にかけてあるタオルを投げ渡してやり、エリオットはここで浴室を去ろうとした。ふと大切なことを思い出す。
 あのことを伝えておかなくては!
 いったんは扉に手を触れたエリオットだが、真面目な顔でふたたびマークと向き合う。
「なんだよ?」
 面食らう相手に、小声で警告する。
「昨夜、僕は執事のマクニールさんを介して、ピーターズ氏から従者にならないかと、転職をもちかけられたんだ」
「なんだって?」
 マークのタオルを動かす手が止まる。
「しかも前の従者は半月、さらにその前は三ヶ月しか続かなかった。条件として、金髪と青い瞳、そして就寝前の朗読は欠かせないとか」
「ま、まさか、それは……」
 エリオットはちょっとだけ意地悪い笑みを浮かべた。
「マーク、おまえは大丈夫だな。金髪じゃあない」
「って、そういう問題かよ! もちろん断ったよな、ジョニー?」
「当たり前じゃないか。想像するだけで眩暈がする」
 さらにマークは青ざめ、乱暴に己の身体を拭いた。
「それにしても前の従者、よく三ヶ月や半月も……。俺だったら即日、窓から逃げ出すぜ」
「その代わり、給金はかなりいいぞ。年俸一〇〇ポンドを提示された」
 マークはぶるりと身体を震わせる。
「よけい、現実味を帯びる金額だな」
「ビリーにそれとなく伝えておいてくれ」
「もちろん」
 ここでやっとエリオットは浴室を出た。
 待ちくたびれたのか、洗濯室にヒューの姿はない。窓をのぞくと、煙草をくゆらしていた。ガラスを軽く叩いて合図を送ってやる。すぐに吸殻を地面に落とし、ヒューは慌てて屋敷にもどってくる。
 ヒューと入れ替わるようにエリオットが洗濯室を出ると、会いたくない人物が直立不動で立っていた。マクニールだ。表情のない顔で、じっとこちらを見つめる。
 ここでエリオットは気がついた。
 そうだ。昨夜の衝撃で、こいつの入浴の順番を失念していた。
 すぐに笑みを作り、エリオットは言った。
「あ、すみません。空き時間をおっしゃっていただければ、下男に湯の支度をさせます」
「それは結構でございます。それより」
 マクニールはちらちらと辺りに視線をやった。
「……あなたはあの従僕どのと大変仲がよろしいんですな」
「マークのことですか? 彼とは十年近くやってきましたし、もう兄弟みたいなもので――」
 ここまで口にしてエリオットは青ざめた。冷や汗がどっとふきだす。
 マークが浴室へ入り、すぐに自分が出てこなかったため、マクニールは余計な誤解をしているのだ。昨日の話が話だけに、冗談を口にしているとは信じがたい。
 相手の手首をつかむと、エリオットはポケットから鍵を出しながら、ある部屋の前に進んだ。ワイン貯蔵室だった。窓のないこの部屋は、主人か執事に許可された者しか入れない規則になっている。誰かに聞き耳を立てられることもない。
 ランプに火を灯して扉を閉めるや否や、エリオットは懇願するように言った。
「頼みますから、あの件はなかったことにしてください! いくら給金がよくても、そんな話、この屋敷の者に呑ませる気はまったくありませんから!」
 ひるむことなく、マクニールは淡々と言葉を返す。
「わたくしはただ、ピーターズの意思をお伝えしたまでにございます」
「ですから、そのような意思はないと、お伝えください」
「さようでございますか」
「ええ、そうです」
「ではお伝えしておきましょう」
「お願いしますよ」
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