◇◆◇◆◇
ロンドンから鉄道に乗り、郊外の駅で下車する。小さな家と緑の公園が並ぶ通りを歩いていたら、小さな子供と婦人たちが散歩をしているのに、何度か出くわす。青い芝生の上で婦人が日傘を差して座り、その周りで幼い子供たちが思い思いに走り回っていた。女中か母親かは判然としないが、微笑ましい光景のなかにドロシーとバンクス夫人の姿はなかった。
エリオットがバンクス氏の館にもどったのは、昼下がりをすぎたころだった。いつもなら午後のお茶の時間である。バンクス夫人自身が用意したらしく、芳香な紅茶の匂いがエリオットを出迎えてくれた。
「ただいまもどりました、奥さま」
台所の勝手口から入り、食堂へ顔を出したエリオットだったが、夫人は「遅かったのね」とだけ言って、紅茶にミルクを入れた。予想したとおり、カップはひとつ。夫人のものである。
「申しわけございません。後片付けは僕がします」
「あら、そう」
「少々、失礼させていただけないでしょうか。着替えてまいりますので」
視線をそらした夫人の返事は、サンドウィッチをつまむ仕草と、そらされた視線だった。
いつもならエリオットが支度をするのだが、頼まれもしない火急の用で四時間近くも家を空けてしまった。表情や言葉には出さないものの、そのあからさまな態度が夫人の不機嫌を物語っていた。
ドロシーのことが気にかかり、屋根裏部屋でシャツとエプロンに着替えた後、二階の子供部屋をそっとのぞいてみた。これも予想どおり、ひとりで人形遊びをする少女がいるだけである。
ベッドに立ち、茶色い熊のぬいぐるみを落として遊んでいた。頁を開いて立てておいた絵本と熊がぶつかり、音を立てて床に叩きつけられる。それが終わると次の本が犠牲になり、そのまた次の本が犠牲になる。
そうとう空腹で機嫌が悪いらしい。一ヶ月ちかくこの館ですごしてきてわかった、少女独特の癖だった。子供部屋に何冊もある絵本はほとんど、読むための物から遠ざかった姿に変わり果てている。
夫人の用が終わったら、ドロシーの面倒をみたほうがよさそうだ。あの様子では午後の茶はもちろん、午前の茶もまともに食べさせてもらってないだろう。相手をしてやればおとなしい少女にもどることも学んでいた。
午後の茶の片付けをして、台所で味気ないビスケットと茶で空腹をまぎらわした後、子供用の食事を作ることにする。夫人が作ったサンドウィッチの材料の残りを並べていると、声をかけられた。
「おどきなさい。夕食の準備の時間だわ」
淡いピンクのエプロンをつけた夫人が立っていた。
いつもなら黙って台所を立ち去り、暖炉と食堂の掃除をして食卓を整えるのだが、今日はちがった。
エリオットは毅然と言葉を返す。
「いいえ。その前にお嬢さまに食事をお作りしなくては」
「この時間はわたしがここを使う決まりでしょう?」
「お嬢さまは朝からなにも召し上がっていないようです。夕食まで我慢させるのは、酷なのではございませんか?」
夫人の冷え切った表情は変わらない。
「それがどうしたっていうのよ。うちの子育てに口を挟まないでいただけないかしら」
「ですが、あれではあまりにも……」
きっ、とにらみつけられた。
「子守でもないくせに、生意気なことを言うのね。だからわたしは女中がよかったのよ。朝の身支度も手伝えるし、娘を散歩に連れ出せるし、夕食の支度も任せられる。こんな不愉快なお話って、ないでしょう?」
女中がよかった、と言われてしまうとエリオットはなにも言えなくなる。
たしかに夫人の言うとおりで、性別の壁が家事の範囲を狭めてしまう。本来、バンクス家のような中流家庭に、従僕がいること事態おかしいのだ。常識から外れていると一笑されても不思議ではない。
今日は忘れ物の件もあり、夫人はかなり腹立たしかったのか、エリオットをにらんだまま、さらに愚痴をこぼす。
「そりゃあ、主人はいいわよね。家事のことはなにも考えなくていいもの。あの伯母さまに厄介者を押し付けられても、困るのはわたしだから」
普段静かなぶん、夫人は一度、機嫌が悪くなると何を言っても聞き入れてくれない。ひどいときは四日間、まったく口をきいてくれなかったこともある。バンクス氏がいる前をのぞいて、あいさつひとついただけなかった。
「すみません」とだけ口にして、エリオットは台所を立ち去った。
頭では事情をわかっていたつもりだが、いざ口に出されると苦いものが胸にこみ上げてくる。たまらず、階段を駆け上がる。
――厄介者。
これがこの一家のおのれに対する本音なのだ。
だったら初めから断ればよかったじゃないか。
バンクス氏も僕も。
本来ならば動かない互いの立場がずれて、本来ならばいてはならない世界にいる。
それでも今、自分がここにいるのは、期待していたからかもしれない。
言葉にならない、小さな何かを。
………………。
どれだけすぎたろうか。
行き場のない激情がいくらか落ち着くと、ベッドの上でひとつ深呼吸してエリオットは寒々しい屋根裏部屋の天井をながめ、視線を落とす。あまりにも忙しすぎて自分のベッドのシーツは、ここに来たときから洗っていない。脂と煤の汚れも気になるが、さらに嫌なのは前の女中の染み付いた臭いだった。
同性とはちがう、かといって母親のような安らぎや、若い娘のいざないめいたものでもない。古い汗と脂と煙と香辛料が混じった体臭は、ひたすらに不快としか表現できない。
自分のシャツの袖を鼻でかぐ。
わからない。毎日のことだから、臭いが染み付いていても感覚が麻痺しているのだろう。
そんな自分の臭いはどんなひどいものを放っているのか?
ここが大きな屋敷だったならば、清潔さを保てるよう、週に一度は入浴が義務付けられていた。グレゴリー卿の屋敷でもそうだった。卿に仕えるのに、不潔な身なりは許されない。
だがここはどうだ?
この自分の不潔さも気にならないのか?
それとも単にこの階級の連中は、体裁ばかり取り繕うあまり、外から見えない部分は後回しなのかもしれない。こんな無粋な連中に仕えているこの自分はなんなのだろう。
最低だ。
まだ嘲笑されるほうがいい。
朝、顔を合わす女中たちだって、内心、侮蔑しているはず。
よほどの醜態をさらすようなことを前の主人にしたのではないのか。こんなところしか行き場がないぐらいだ、上流階級に名が知れ渡るぐらいひどい怒りをかったんじゃないだろうか。
気遣いされるのがかえってつらい。「いやな女中たちだ」と蔑むほうが素直に怒りをぶつけられるだけ、気持ちを切り替えることができる。
卓上の呼び鈴が鳴った。
魂が別世界から現実にもどったような感覚だった。
――奥さまがお呼びだ!
エリオットは反射的に駆け足で、一階の食堂へと降りていく。
食卓を大急ぎで整え、暖炉の火を調整する。いつもならその前に掃除をすませ、食器を磨いておくのだが、今日はさぼってしまった。夫人の怒りはさらに大きいはずだが、いつもの無表情にもどっている。
「あとは頼むわ」
「はい、奥さま」
会話はたったそれだけで、夫人は娘に食事を与えるため、子供部屋に消えた。まだ幼い子供は食卓をともにすることが許されず、先に食べさせるのが上流家庭の常だった。バンクス氏はいくら中流とはいえ、グレゴリー卿を伯父にもっているだけあり、その習慣がときどき生活習慣に現れるようだ。
氏が直接話したことはないが、伯母であるミス・バンクスとの会話から察するに、卿の次男か三男である氏の父は弁護士だったのかもしれない。長男でない氏の父親は当然、自立せねばならず、そのまた次男か三男である氏も弁護士を目指したのであろう。
だが現実は、挫折と父親よりはるかに少ない収入だった。同じ中流でも弁護士の家庭とその事務弁護士では大きな差がある。さらに不運なことに伯父を頼ろうにも、財産はほとんど残っていない。その劣等感と苛立ちが、あの内弁慶の性格を生み出したのかもしれなかった。
エリオットは調理された料理が冷めないよう火の番をし、主人であるバンクス氏が帰宅するのをまつ。帰宅と同時に、給仕の準備を始めなくてはならないから、ぼんやりできない。
そろそろだ……と、柱時計を見たが、氏の気配はなかった。昼に事務所を訪れたとき多忙そうだったのを思い出し、残業なのかもしれないとため息をつく。そのぶん食事は遅くなり、当然、後片付けをする自分の就寝時間も遅くなる。
――淡い紅薔薇なんてどうだろう?
「あ、そうか」
バンクス氏が慣れない花屋で店員に注文する姿を想像する。スープをかき回しながら、エリオットはほんの少しだけ笑みを浮かべた。
玄関の呼び鈴が鳴り、エプロンを外したエリオットは玄関へと駆け上がる。ドアを開けると、甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
いつもなら帽子と鞄を受け取るのだが、今夜はサーモンピンク色の花束が加えられた。想像していたよりずっと大きくて、さぞかし目立ちながら列車に乗っていただろう姿が目に浮かぶ。
「花瓶の用意を。――その前に、妻に渡してくれないか」
「はい!」
エリオットの笑みが大きくなる。普段は笑顔など要らない使用人の仕事であるが、みずみずしい薔薇の花を前にすると顔がほころぶ。
先に鞄と帽子を片付け、薔薇を抱えて食堂に入ると、眉根を寄せる夫人の顔があった。不思議そうに花束を見つめる。
「旦那さまから奥さまにです」
「なにかお祝い事でもあったかしら?」
さらに表情が不可解のそれになる。
部屋着になったバンクス氏が、上機嫌で食堂にやってきた。
「君は最高だ! こんな妻を持った僕は、幸せ者だ!」
「え、ええ?」
さっぱり意味がのみこめないと、首をかしげる夫人に、花束を抱えたエリオットはそっと耳打ちした。
「……昼間の忘れ物の件です。奥さまの機転のおかげで大変助かったと、旦那さまはおっしゃっておりました」
「あ、え?」
数秒、夫人の動きが止まり、小さくうなずいた。
「ああ、あれね、あなた。お役に立てたようで、よかったわ」
「そうだとも。さあ、受け取ってくれ」
ようやく事態を察して椅子から立ち上がった夫人は、素直に花束を抱え、顔を花びらの群れに近づける。甘美な匂いとともに優しい笑みを見せ、夫に視線を向けた。
「わたしが薔薇が好きなのを覚えていてくれたのね。お話したのはもう、何年前だったかしら」
バンクス氏は頬を赤らめる。
「新婚旅行でニースに行ったときだっけなあ。真っ赤な薔薇より、淡い紅が君には似合うと、僕が言ったんだよ。とっても君は嬉しそうに笑っていた。忘れるものか」
「あなたはそんな昔のことなんて、忘れてるのかと思っていたわ。覚えているのはわたしだけなのって」
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「だって……」
視線を落とし、小さな声で夫人は言葉をもらす。
「お忙しいのはわかるけれど、わたしのお話をちっとも聞いてくださらないもの。ドロシーのことで相談したいし、お夕飯になにが召し上がりたいのかも」
氏の大きな目がさらに大きく開かれる。
「え……? そんなことをかい?」
「あなたにとってはそんなことでも、わたしにとっては大切なことだわ」
「いや、てっきり君は静かな食卓が好きなのだとばかり……」
「お話するのがあまり得意じゃないこと、あなたはご存知のはずでしょう」
「何年もそうしてきたから、そういうものかと」
「曖昧なお返事ばかりじゃあ、どう相談していいのかわからないの」
「家のことは君にすべて任せていたから、それで」
「ただ、わたしは……」
「その、僕は……」
バンクス夫妻はサーモンピンクの薔薇を挟み、しばし互いの顔を見つめ合っていた。
エリオットが一家に仕えるようになってから、初めて聞いたまともな夫婦の会話だった。普段は決して見せようとしなかった、穏やかな笑みまでふたりは披露してくれる。
それとも熱いまなざしだろうか。そばで見て見ぬふりをしているエリオットが、少々、気恥ずかしくなるほどだった。この調子だと、さらに甘い時間に発展しかねない。食事の後ならいくらでもかまわないが、ここで待っている身にもなって欲しい。
空咳でおのれの存在を知らせる。あまり褒められた行動ではないが、今夜はさすがの氏も咎めることはないだろう。
読みは当たり、それからは普段どおりの夕食が始まった。しかし今朝までのような機械的な食事ではなく、会話のある温かい家庭らしい食卓の風景に、エリオットの給仕もいつになく気持ちがこもった。
エリオットが台所で自身の食事を素早くすませ、食堂の片付けを始めるころには、夫妻の姿は居間になかった。珍しく書斎に灯りはなく、かといって就寝には早く、その先の行動は関知しないことにし、自分も早く休むことにする。
食器を収め終えた後、館の戸締りのためにランタンと、小さな鍵束を手に台所を出る。まず二階に上がり、廊下の窓の鍵を確認し、氏の寝室は素通りした。夫人の部屋だけから灯りが漏れ、ここもドアに触れず、最後に真っ暗な子供部屋をそっとのぞく。
ドロシーはおとなしく寝ていた……と思われたが、突然起き上がって、エリオットに向かって熊のぬいぐるみを投げつけた。あえてよけず、胸でしっかりと受け止める。
「うそつき、ジョン! 遊んでくれるって約束したでしょ!」
「え?」
そんな約束、まったく覚えがない。
「くまさん落としたら、来てくれたじゃない」
ああ、そういうことか。
夫人の午後のお茶の前、ドロシーの様子をそっとドアの隙間からうかがっていたつもりだが、とうに自分の視線に気がついていたのだろう。てっきり遊んでくれると信じていたのに、それからまったく姿をあらわさなかったものだから、鬱憤がたまって仕方ないのだ。
子供だからといって、甘く見ていた自分の判断に反省する。ドロシーはおとなしいぶん、周囲を観察する能力が発達しているのかもしれない。
「ごめん」と苦笑しながら、寝かしつけるため部屋に入った。乱雑に置かれたおもちゃを踏まないよう、ランタンの薄暗い灯りを頼りに、ベッドに近づく。熊のぬいぐるみをそっと枕元にもどした。
「今日はもう遅いから、明日、ね? いいかい」
「いやだもん」
いつもならすぐにおとなしく言うことをきくのに、今夜のドロシーはちがった。また熊を投げられる。至近距離だったため、見事なまでに顔を直撃した。
「痛いよ、ドロシー……」
エリオットがなかば呆れると、ふてくされた顔で小さなお姫さまは答える。
「ママはきれいなバラ、もらったのに、あたしにはないんだもん」
「どうして知ってるんだい?」
「パパとママがお話してるの、きいちゃったの。きれいなバラなんでしょ?」
エリオットは苦笑せずにいられない。
夫妻が早めに食堂を引き上げたのはいいが、うっかり子供部屋の前で話をしたのだ。いつも自分だけひとりで早寝なものだから、大人たちの秘密がしりたくてたまらないし、仲間はずれにされたようで悔しいのだろう。
「ドロシーはたくさんおもちゃがあるだろう? たまにはママにもプレゼントが必要だよ」
そう諭すように言ったが、効果はなかった。
「あたしそんなもん欲しくない。ママが食べてるお菓子が欲しい。悪い子になっても食べたい」
「だから明日にしよう。ね?」
「おなかすいたの。クッキー食べたい」
「困ったなあ……」
苦笑が小さなため息に変わる。
正直、エリオットはすぐにでも自室に引き上げたかった。飢えたお姫さまの相手をするほどの元気は残っていない。一日の家事労働と、主人たちへの気疲れで毎日、疲れ果てている。
バンクス氏がもう少し気をきかせて、娘の菓子も買ってきてくれたらよかったのに。几帳面なようでいて、そのじつあまり気が利かない。
そういえば亡くなったグレゴリー卿も、そんな性格だった。自分の関心ごとには細かいのだが、他人のことになるとんと無頓着になる。根は優しくてもそれが誤解となって、評判の悪さを生み出していた。甥である氏を観察して、今さらのようにそう思った。
「あたしも欲しいの、ジョン」
「……」
「甘いクッキー」
ほとほと困り果て、そのまま無視して子供部屋を出て行く。かわいそうだが、父親でも母親でも乳母ですらない自分は、過干渉できる立場ではない。
戸締りを終え、屋根裏部屋に引き返すと、すぐにベッドにもぐりこむ。
疲れた。
今日は主人の忘れ物のせいで、いろいろありすぎた。
しかし眠れない。疲労が凝り固まり、眠る体力まで奪ってしまったかのようだ。
興奮しているのか。
そう。そうだった。今日はいろいろありすぎて……。
ふと、脳裏に熱く見つめ合う、バンクス夫婦の姿がよぎる。
きっといまごろ、ひとつのベッドで……。
エリオットは身体を起こし、あられもない想像に支配された自分の頭を軽く叩く。
「なにがニースに新婚旅行だ! なんだかんだいっても、仲がいいんじゃないか。くそう!」
どこまでもおひとよしな自分に腹が立つ。
あんな嫌味ばかりの主人と、どこまでも無関心な女主人のために、この自分が必死になって仲を修復したようなものではないか。
なのにほんとうのことは言えず、残ったのはお駄賃で買った菓子だけ。
これまた気が利かない夫人のことだから、鉄道運賃の件もすっかり忘れ――いや、初めから気にしてなどいなかった。期待するだけ厳しいかもしれない。
「あ、そうだ。すっかり忘れていた」
空腹ではないが、気分転換にちょうどいいだろう。台所の湯が温かいうちに茶を淹れればまだ間に合う。そう判断し、ランタンとチョコレートケーキの包みを手に、そっと屋根裏部屋を出て階段を降りた。
「あたしも欲しいの、クッキー」
「……」
屋根裏部屋と二階の間の踊り場で、エリオットは固まってしまった。
ドロシーが裸足で階段を駆け上がってきたからだ。自分が降りる気配を敏感に察知して、部屋を飛び出したらしい。
「ママはバラでしょ、なのにあたしは」
うんざりしてきた。
――夫婦でいちゃつく前に、娘のことを気にかけろよ!
そんな叫びが今にも喉から飛び出してきそうだ。
だが、娘に無関心な両親を持った目の前の少女が、気の毒でもあった。暴力や叱責こそないものの、面倒見の良い女中がいないかぎり、だれもドロシーの相手をしない。安っぽいおもちゃばかり与えられ、ほんとうに欲しいと言うものは与えられず。
これも上流階級の家庭によくあることで、バンクス家の教育方針にも表れてしまうのだろう。しかし乳母や家庭教師がいる家庭ならともかく、女中ひとりがせいぜいの家庭ではどうしても無理が来る。
氏や夫人もそのことを考慮して、生活態度を見直してくれればいいのだが……。
心のなかで大きなため息をついたエリオットは、静かに腰を落とし、チョコレートケーキの包みをドロシーに手渡す。
「ごめん、忘れていた。これ、パパからの贈り物だよ」
ぱああ、と花開くようにドロシーに笑顔が宿る。飛び上がらんばかりに喜び、駆け足で階段を降り、子供部屋にもどっていった。
エリオットは階段を静かに降り、地階の台所で茶を淹れた。味気ない既製品のビスケットを一枚齧り、砂糖もミルクもない出がらしの紅茶を立ったまま飲む。これが自分に唯一許された菓子であり、小さななぐさめでもあった。
いくらか気持ちが落ち着くと、眠気がまぶたを重くする。