ジョン・エリオットの日誌
雨の日とビスケットの味は憂鬱 02


◇◆◇◆◇


 ジョージ・バンクス家の召使、ジョン・エリオットの朝は早い。
 まず一家が起床する二時間前に屋根裏部屋のベッドを離れ、眼鏡をかけ、仕事着で階段を駆け降りる。二階、一階、目指すは地階の台所だ。
 法律事務所の事務弁護士として働いているバンクス氏の住まいは、館と呼ぶにはかなり小さく、高級住宅街のテラスハウスのように高さもなかった。典型的な中流階級の紳士の住まいである。郊外の町には同じような小さな館が並び、ひとつの館を中央で区切って二つの家族が生活している建物もある。見栄えは立派な一軒家だが、じっさいはただ見栄を張っているだけなのだ。
 比較的新しい住宅地であるが、ここでの生活も昔のように使用人がいなくては成り立たない。ほとんどの家庭は雑役女中をひとり雇い、春の早朝の通りは彼女たちが玄関掃除をする光景と、牛乳売りの掛け声で賑わいをみせる。
 さきに台所のオーブンレンジの煤掃除をすませ、大鍋で湯を沸かしている間、エリオットは玄関掃除にとりかかる。玄関マットをはたいたあと地面から玄関へと続く階段に水を撒き、四つん這いになってたわしでこすり、磨き上げる。煤で黒く汚れたエプロンが濡れて、水の冷たさが指先をかじかませるころ、牛乳売りの娘の掛け声がした。バケツとホウキを持って館にもどり地階へと駆け降りる。台所の勝手口に置いてある空の牛乳瓶を手に、表へと出た。
 荷車を牽いたロバと娘の周囲には、近隣の女中たちが同じように牛乳瓶を持って順番を待っていた。その間、彼女たちは賑やかに世間話をして、主人たちの情報交換をする。まだ十代の半ばの女中や五〇歳をとうにすぎているだろうさまざまな年代の女中たちは、エリオットが顔を見せるたび、楽しそうに声を上げる。
 無理もなかった。この近隣では使用人は雑役女中がほとんどで、下男はおろか従僕のすがたを見かけることはまずなかったからである。それだけ、男性召使がめずらしかったのだ。
 初めのころはとまどっていたエリオットだったが、気さくな彼女たちに救われる思いがした。あまり会話はできなかったけれども、同じ階下の使用人同士だけあって話しやすいし、大きな屋敷のように厳しい規律もない。もしここがあの子爵家の田舎屋敷だったら、歳若い独身女中たちと世間話に興じただけで、罰を与えられかねない。
 あいさつもそこそこに牛乳を満たした瓶を抱えるようにして持ち、勝手口からバンクス家の地階にもどる。
 沸かしたての湯をつかってタオルを濡らし、それを持って屋根裏部屋へ駆け上がり、息が整う時間も惜しむように服を脱ぎ捨てた。タオルで煤汚れた顔と手足を清めると、素早くシャツとズボンを履きかえてエプロンを付け直しながら、地下室の台所へと駆け降りた。
 起床する主人一家のための茶の支度をする。まず奥方であるバンクス夫人の部屋の扉を叩き、寝室の前にそっとトレーを置く。自分は男性だから、女性の部屋に立ち入ることは許されない。「やっぱり女中が」と愚痴を何度もこぼされたが、一ヶ月もたてば慣れてくれたのか、夫人の機嫌は良くもないが悪くもない。
 夫人が前夜、部屋の前に置いていたブーツを手に台所へもどり、つぎはバンクス氏の茶を部屋に運ぶ。扉を開け、サイドテーブルにトレーを置き、ベッドの下に置いてあるし尿壷をそっと床に置かれたブーツとともに持ち出した。
 台所にもどるなり、勝手口をでて壷の中を小さな裏庭に捨て、水で洗う。続けて夫妻のブーツを磨き、部屋にもどした。もちろん夫人は扉の横に、氏は壷とともにブーツがベッドのそばにもどることになる。娘のドロシーだけはまだ幼いから、茶の用意も靴磨きも必要なかった。朝が遅いぶん、エリオットの仕事も後回しになる。
 ここでひと息つきたいところだが、朝の大仕事がエリオットを待っていた。朝食の用意である。いつものようにパンをオーブンであぶり、ベーコンと玉子をフライパンで焼く。牛乳も温め、朝食用のコーヒーを沸かす。焼いたリンゴとシナモンの甘い香りが漂うころを見計らってエプロンを外した。
 朝食の支度が整うとまたまた屋根裏部屋へ駆け上がり、頭髪を整え、カラーをつけ、ネクタイを締め、モーニングコートに袖を通す。給仕の支度が整った。
――こんな流行遅れの服なんぞ、こいつにやってしまえ。
 親族たちがそう言い放った言葉は腹立たしかったものの、グレゴリー卿の形見だけあって仕立ては立派なスーツである。薄給の身では既製品のスーツすら厳しい境遇だったから、この形見分けはなによりもありがたかった。そもそも使用人は時代遅れの制服が常識だったから、問題もない。
 台所にもどったエリオットはトレーに朝食を乗せ、一階の食堂へ運び、ならべる。今しがた届いたばかりの朝刊をバンクス氏の席に置いて、卓上の呼び鈴を鳴らした。しばらくすると着替えをすませた夫人が食堂に現れ、続けてバンクス氏が席に着いた。
 氏は無愛想にじっと食卓を見つめ、トーストを裏返す。
「よし、合格だ」
「ありがとうございます、旦那さま」
 つとめて笑顔で答えたエリオットだが、不愉快でたまらなかった。
 どうしてこのあるじはこうも疑い深いのだろう。
 まだオーブンの使い勝手がわからなかった初日に、トーストを焦がしてしまい、それからは嫌味のように点検される。家事ができないのではなく、家々によってオーブンの火加減が微妙にことなるから……と言い訳してみても、まったく信じてくれないようだった。
 エリオットは子爵家の田舎屋敷で下男として働いていたとき、当然のように炊事場の仕事も手伝わされていた。簡単な菓子や朝食ぐらい作るのは造作なかった。グレゴリー卿の屋敷に仕えたときだって、女中のメアリが歳で台所仕事がままならないことも多々あったし、ひとりで屋敷の掃除もこなしていた。
 バンクス氏は従僕に偏見をもっているのだろう。とくに接触の少ない中流階級の出身ならば仕方ないかもしれない話だった。
「いや、やっぱり不合格だ」
 突如、バンクスにそう言い放たれ、エリオットは反射的に身構える。
 おかしい。完璧なはずなのに……。
「初日に約束したはずだ。その眼鏡は僕や妻のいる前では、外しておいてくれと」
 どっと冷や汗が噴き出すものの、平静さをくずさないまま素早く眼鏡を外し、懐へしまう。
「使用人ごときが」
 氏が侮蔑を投げかけたのを合図に、朝食が始まる。
 春といってもまだまだ朝は寒い時季だから、コーヒーを注ぐカップもオーブンで温めておいた。以前勤めていた中年女中はそこまで気が回らなかったようで、「給仕だけは一人前だな」と嫌味のように褒められたのは初日だったか。
 おっとりしている夫人は食事もゆったりしていたが、始終落ち着きがない氏は食べるのも早かった。味わう時間も惜しいといわんばかりに、トーストとベーコンエッグをコーヒーとともに胃に流し込んだ。焼きリンゴは手をつけずに置いたまま、朝刊を読む。
 後ろで控えているエリオットには、主人のすがたが餌に食らいつく小型犬のように見えて仕方なかった。細かいことに目くじらを立てては吼え、食事を味わうこともせず、ぎょろりとした目で眉根を寄せては自分を雲散臭そうに見る。
 そんな夫に辟易しているのか、奥方である夫人もあまり口答えしない。かといって微笑もせず、温かい視線を家族に向けることはない。他人にも興味がないようで、世間話が苦手だったのもあり、近隣の奥方を家に招くことはなかった。五歳の娘ドロシーもそんな両親の姿を見て育ったためか、口数の少ないおとなしい少女である。
 まるで生きる悦びを忘れたかのようなバンクス一家だったが、氏の唯一の楽しみは娯楽小説を読むことで、夫人の憂さ晴らしはピアノを弾くことだった。昼間は居間のピアノが優雅にしかしどこか寂しそうに調べを歌い、繰り返される旋律のなかでドロシーが人形遊びに没頭し、夜は書斎の燈が幻想的なオレンジ色の柔らかい光を放つ。
 もし氏の小言がなければ、ほんとうにこの一家は死んだように静かな世界になってしまうのだと、よそ者のエリオットは漠然と感じていた。
 それともこれが中流階級の家庭の光景だというのだろうか。
 実家は貧しい労働者階級、仕えた屋敷の主は上流階級。その中間に位置する彼らとは接点がなかったものだから、バンクス一家だけではなく、エリオット自身も戸惑うことが多かった。


 バンクス氏が出勤するために家を出、夫人が背中を見送るころ、一人娘のドロシーが起床する。エリオットが着替えを手伝ってやり、柔らかい小麦色の髪の毛を黒いリボンで結んで終了である。
 子供用の朝食は質素だった。ミルクと薄いバタートーストか、エリオットが焼いた作り置きのスコーンとジャムである。これはバンクス家が特別ではなく、子供の食事は大人のものと区別されるのが一般的だった。
 娘と同じ小麦色の髪をした母親は、娘にあまり関心がないのか、ときどき視線を投げかけるだけで会話はない。ダイニングテーブルでぱらぱらと家政読本をめくっては、けだるそうに「今日の夕飯、どうしましょう……」と、つぶやく。
 いつもどおりの静寂で味気ない時間が過ぎていく。
 かと思われたが。
「ママー、焼きリンゴ食べたい」
 エリオットが朝食の皿とカップを片付けていると、小さな声でドロシーが言った。幼い指先は給仕用のサイドテーブルを指している。ポットとバンクス氏が食べ残したデザートの皿があった。
 読本に目を落としたまま、夫人は答えない。あまりにも反応がないから、ドロシーがまた言った。
「もっと食べたいの」
 小声で訴える娘に、やや間を置いて夫人が答える。
「あら、そう。だったらもっといい子にしてなさいな。お菓子ばかり食べる子は、頭が悪くなっちゃうってお母さん、いつも言ってるでしょ」
 説教をする夫人の視線は、家政読本に落とされたままだ。
 何を訴えても無駄だと幼いながらあきらめているらしく、それからドロシーはひとり食堂を出て行った。いつものように二階の子供部屋に閉じこもって、人形遊びをするのだろう。
 今日は天気がよいから、午後は夫人に散歩をすすめてみたほうがいいかもしれない。もちろん、娘同伴でだ。それでなくても、ドロシーは母親との会話が少なすぎて、ときどき寂しい顔を自分に向けるのだから。
 朝食の後片付けが終わると、昼食の用意までの時間は館の掃除に費やされる。木曜日の今日は書斎と小さな客間だった。夫人は食堂兼居間のダイニングでアップライトピアノを弾き始めた。
 エリオットは上着を脱ぎ、エプロンをつけて眼鏡をかけ、演奏を耳にしながら本棚の整理をする。
 娯楽小説好きなバンクス氏らしく、背表紙に書かれている文字はエリオットも知っている作家が多かった。ウェルズ、ブラックウッド、ポー、コナンドイル、マッケン……。性格は合わないのに、趣味が合うのだから嬉しいような悲しいような複雑な気分である。
 他にも法律家を目指していただけあって、こちらは読むのもためらわれるような専門書も数多く並んでいる。
 それらのひとつひとつを取り出し、羽ブラシで丁寧に埃を払い、また棚にもどす。順番をまちがえないよう、元あった位置に詰めていく。
 左上から始まり徐々に移動して、最後は下段の右端に並ぶ分厚い古書の埃を払う番になる。以前から気になっていたのだが、通巻の数字が並ぶなか、なぜか第二巻だけが抜けていた。
 このラテン語の古い本はグレゴリー卿の形見で、唯一、売り物になりそうだからとバンクス氏が持ち帰ったものだ。かびくさい古い屋敷を管理する者はなく、空き家となった卿の住まいからいくつかの骨董品が親族に持ち去られた。卿の長男、次男、三男、ミス・バンクスと続き、さらに五人の甥たち。一番最後がバンクス氏。形見選びは「金目のものがない」という氏の愚痴とともに終了した。
 氏の本棚の横に置かれたまま、四冊の古書は埃を被る羽目になったのだが、それを救ったのがエリオットだった。本棚の整頓をしたらちょうど良いぐあいに隙間ができたから、目立たない位置にそっと収めておいた。
 なのに眺めれば眺めるほどに、なにかしら違和感が拭いきれなかった。その正体が抜けた『第二巻』であることに気がついたのは、三度目の掃除のときだったろうか。文字がかすれていたせいで、すぐにわからなかった。
 ピアノの調べが変わった。あいかわらずゆったりした曲に眠気を誘われそうになるが、あの無愛想な夫人が弾いているとは思えないほど、優しく甘いショパンの旋律である。口数が少ないぶん、演奏で感情を吐き出しているのかもしれない。
 木曜日はその旋律を背景に、こっそり読書をするのが最大の楽しみだった。そのわずか十数分の時間を作るため、どの部屋の掃除よりも必死になって早くすませる。
 今度、思い切って、氏に本を貸してくれるようかけあってみよう。当初からいつか、いつか……と我慢して書斎の掃除をしていたが、仕事にも慣れてきたし、給金や休暇をせびるわけではないのだから許可してくれるはず。どうせ読むなら、堂々と、じっくり自室のランプの灯りでしたい。
 しかしその前にもうひと仕事あり、マホガニーの書き物机の整理がまっていた。これは楽勝で、几帳面な氏だから、いつも片付けるほど物が散らかってなかった。
「あれ?」
 そのはずだったが、見慣れない大きな封書が置かれていた。それには走り書きのメモ用紙がついていて、日付が記されている。どうやら、その日までに用意しておかなくてはならない重要な書類か資料のようだ。
 その日とは、今日の日付。
「まさか!」
 エリオットは封筒を手に取ると、ピアノを弾いている夫人に声をかける。
「奥さま、大変です! 旦那さまが大切な忘れ物をされたようです」
 演奏がとまった。
「あら、そう……」
 夫人は心ここにあらず、といったふうに小首をかしげただけで、また演奏にもどった。
 いくらなんでも今回は見過ごせない。
 エリオットはいつもより強い口調で、言葉を返す。
「旦那さまの大切な忘れ物ですよ? このまま放置されるおつもりですか?」
 ふたたび演奏が止まった。乱暴に鍵盤を叩き、夫人が振り返る。いつもぼんやりとしている表情ではなく、明らかに苛立ちのそれだった。
「それがどうしたっていうの? あの人が忘れようが忘れまいが、わたしには関係ないことよ」
「ですが……」
「知らないものは知らないの。わたしが困ったとき、いつも知らないと言う人だから、これでいいのよ」
「しかし、このままでは旦那さまが……」
「勝手になさいな。ジョン、あとはおまえに任せるわ」
 まったく意に介さない夫人の態度に、エリオットは困り果てた。
 書斎にもどり十数秒、思案する。次に向かったのは屋根裏部屋だ。外出用のフロックコートに着替え、シルクハットを被る。以前の屋敷で使っていた白い手袋をはめると、封書を持ってバンクス家を出た。


 ロンドン行きの蒸気機関車に乗ったエリオットが向かったのは、バンクス氏が勤めている法律事務所である。地図を確認する時間がなかったため、まずは大通りを目指した。少々遠回りをしても、わかりやすい道を選べばそう迷わないだろうと判断したのだ。
 数年ぶりに歩くストランドは相変わらず人と馬車の往来が激しく、幹線道路に並ぶ高い建物にはさまざまな商店や劇場、新聞社が並ぶ商業施設だった。どの人も早く歩くものだから、自然とエリオットの歩調も急かされる。
 古本屋が並んでいた。立ち読みをしている紳士たちの黒っぽいスーツのすき間から、色とりどりの背表紙が顔をのぞかせ、目が行く。菓子屋のガラス越しに見える、白いクリームや黒いチョコレートにも心奪われそうになる。
 しかし今日、ここに来たのは遊ぶためではない。目的の法律事務所はキング・ウィリアム通りに面した住所になっており、市場も近かった。目印になる建物を探す。
 視線を遠くにやったとたん、すれちがう紳士と肩がぶつかってしまった。
「すみません」
 わびるが相手はいっこうにかまうことなく、去っていく。その間もひっきりなしに馬車が往来する車輪の音や、人々の雑踏が絶えることなく耳に入る。
 久しぶりの鉄道となれない人ごみに眩暈を感じ、エリオットの気が遠くなった。
――僕はなにをしているんだろう。
 ふと、そんな疑問が頭のすみをよぎる。
 いつもえらそうな態度で威張っている、法律家になりそこねてどこか屈折した、吼えてばかりの小型犬みたいな中流階級紳士のために、なにを必死になって手助けしようと?
 バンクス夫人が夫に愛想をつかすのも無理ない気がする。毎日、毎日、あんな男と顔を合わせていたら息が詰まって仕方がない。
 急にバカバカしくなり、手にしていた書類を――。
「ない?」
 振り返ったエリオットが見たのは、大勢の人々の靴に踏まれる無残な封筒の姿だった。
「すみません!」
 慌てて人ごみをかきわけ、屈み、一瞬ためらうものの、白い手袋が汚れるのもかまわず拾い上げる。そのとき、頭に載せていたシルクハットが誰かの脚に当たり、通りを転がっていった。これも当然、替えなど持っているはずないから、誰かに踏まれる前に拾わなくてはならない。
 運の良いことに帽子は踏まれることはなかった。代わりにどこかの紳士に靴底で顔を蹴られてしまったが。
 それからほどなくしてキング・ウィリアム通りは見つかった。しかしこの足跡だらけの封筒は、いくらなんでも体裁が悪い。おまけに馬糞の臭いがする。
「どうしようか……」
 たまたまそばに文房具店があったから探す手間は省けたものの、悩むのは出費だった。鉄道の往復運賃を夫人に請求しづらく、納得いかないまま自費でここまで来た。なのに封筒まで買わなくてはならない。
 やっぱりバカバカしくなり、足跡だらけのまま渡してやりたくなる。
「だいたい、大切な書類を忘れたあいつが悪いんだ」
 自分にそう言い聞かせ、くるりと文房具店に背を向けた。
 が、歩き出せない。
 封筒をどうして落としたのかと問われてしまえば、なにも言い返せなくなってしまう。
 ひとつため息をつき、エリオットは文房具店のドアを開いた。


 生まれて初めて訪れる法律事務所は、緊張感でいっぱいだった。
 建物の三階にある事務所は広々としているのだろうが、部外者であるエリオットは帽子を外し、狭い受付室でバンクス氏を待った。応対してくれた青年は「すぐに参ります」と答えてくれたものの、柱時計の針が一〇分を過ぎても、氏が姿を現す気配がしない。
 買って中味を入れ替えたばかりの封筒を、両手で抱えるようにして持ちながら、ドアの向こうにいるだろう主人をひたすら待つ。今しがた気がついたのだが、購入した封筒には淡いピンクの花模様がプリントされていた。眼鏡をかけないまま目の前にあるものを適当に選んだから、無地のものにすればよかったと少しだけ後悔した。
 椅子から立ち上がり、気分転換がてら表をながめる。三階の窓から見下ろす街は瀟洒な石造りの建物が続いていた。通りを歩く人も馬車もやはりせわしく、空に目を転じるとどこまでも靄がかかったように曇っていた。郊外ではあれだけ青空に恵まれていたというのに。それだけ石炭の煙害が大きいことを意味する。
 ここは王立裁判所が近く、他にも法律事務所がいくつもある。今いる事務所だって、さんざん迷って探し出したのだ。
 さらに一〇分経過した。イスに背中をあずけていると、疲れが睡魔を呼び起こしうたた寝をせずにいられない。
 毎日早く起床し、夜は遅い。それだけならまだしも、雑役女中と変わらないほどの仕事を抱え、朝の支度だけで一日の体力を使い果たしそうだった。田舎屋敷で下男として働いていたときと大差ない。あれも上級使用人たちの雑用ばかり押し付けられていた。
 それでも夕食の支度だけは夫人の仕事だったため、近所の女中たちと比べたらまだまだ恵まれているかもしれない。断定できないのは、それを理由にバンクス氏は給金を相場の半額しか支払わないと言い出したのである。従僕の半額ならまだしも、雑役女中の半額では小遣い程度にもならない。
 そんなこんなで休暇をいただいたら、すぐにでも職業紹介所へ登録しに行くつもりだった。いくら実家よりマシだとはいえ、そこまで自分はお人よしではない。
 そもそも下っ端の女中連中と同じ仕事をするおのれの姿が情けないし、恥ずかしくもあった。氏がグレゴリー卿の親戚でなかったら、ひとつ返事で断ったろう。次の仕事までの繋ぎと思っているから、なんとか我慢できる自分がいる。
 どたどたとふたつの足音がして、エリオットは目覚めた。立ち上がり背筋を伸ばす。
 見慣れた主人の顔と、知らない髭面の痩せた紳士が自分の前にいた。
 不機嫌丸出しで紳士が言った。
「おい、このくそ忙しいときに、来客だと? とっとと用事をすませろ、バンクス」
 それに対し、バンクスの顔は引きつり笑いそのものだ。
「申しわけございません、先生」
「それでなくても、おまえの大失態のせいで、依頼人が痺れを切らしてるというのに」
「すみません」
「謝ってすむ問題かっ! 顔を見るのも腹立たしい!」
「……」
 深々と頭を下げる姿は、エリオットが初めて見る主人の姿でもあった。
 えらそうで嫌味ばかりの主人だと思っていたが、事務弁護士として働いている氏は滑稽なほど低姿勢であり、言葉遣いもまったくちがう。
 なんだかまずいときに訪問してしまったようだ。
 エリオットはそう直感し、会釈だけすると黙って封筒を手渡した。
「これは?」
 と、中味を確認するバンクス氏だったが、たちまち瞳が輝きだす。苦渋に満ちた態度が一転し、雨上がりの青天のように晴れやかになる。
「ああっ! 助かった!」
 どれどれ、と髭を触りながら先生も書類をのぞく。
「おおっ! いまから急いで提出すれば、間に合うじゃないか!」
「はい!」
「となればさっそく」
「もちろんです」
 エリオットの存在を忘れたかのように、ふたりは駆け足で事務所へもどる。
 ぽつんと取り残され、一抹の寂しさを感じながら帰路につくことにした。急用で昼食の用意ができなかったから、ドロシーのことが気がかりである。夫人のことだからほったらかしでピアノに興じているか、ひとりでお茶を飲んでいる様子が目に浮かぶ。
 建物の階段を下り、正面玄関の両開きのガラス扉に手をかけた。
「待ってくれ、ジョン!」
 ふり返ると、笑顔いっぱいのバンクスが階段を駆け降りてきたところだった。そういえば満面の笑みの主人を見るのも、初めてかもしれない。
「お忙しいところを突然おじゃまして、申しわけございませんでした」
 そう言って一礼するエリオットは、肩を大きく揺さぶられる。
「申しわけもなにもあるものか。よく気がついてくれたな、ええ? 先生も上機嫌だったぞ」
 褒められているのだと気がつき、自然とエリオットにも笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、旦那さま」
「それにずいぶんと洒落た封筒に入れてくれたじゃないか。さすが僕の妻だけある」
「あの……」
「そういえばあいつ、花が好きだったよな。帰りがけに買ってやるか。淡い紅薔薇なんてどうだろう?」
「ええ。素敵ですね」
「よし、決まりだ」
 封筒が洒落ていたから、バンクス氏は夫人が書類を持っていくよう、エリオットに指示したと思い込んでいるらしい。
 複雑な気持ちになるものの、あの主人が笑みを見せてくれただけで嬉しかった。おまけに「駄賃だ」と言って小遣いまでくれたから、よほど感激していたのだろう。
 ふたたびストランドの大通りを歩いたエリオットは、甘い香りの誘惑に負けて、菓子を買ってしまった。この一ヶ月というもの、吝嗇な主人のせいで味気ない既製品のビスケットしか口にできなかった反動がきたようだ。
 運賃の足しにするつもりだった「駄賃」は、こうしてチョコレートケーキの包みに化けてしまったのである。
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