ジョン・エリオットの日誌
執事エリオットの平穏なる一日(仮) 02


 今日は訪問者がなく、午後の玄関待機も平穏にすぎていった。
 午後四時になるのを懐中時計で見計らって、階下へとおりていく。午後の茶の時間だ。
 使用人ホールに入ると、メイベルが焼いたクッキーが並んでいた。ビリーが給仕をするなか、だれも感想を口にしない。無言で食べるだけだ。
 いや、いつもならマークが「うまい」と言うのだが、彼なりに気を遣っているのはだれがみても明らかだった。そのマークは、主人たちの魚釣りに同行して不在。
 仕方ない。自分から話題を振ってみるか。
「ええー、今日は天気がいいな」
 あまり話し上手とはいえないエリオットだったため、話題づくりにときどき苦労する。何もないときは天気の話がいい、と先代執事からアドバイスされたものの、無反応だった。
 また静まり返った使用人ホール。
「天気がいいと、大きなシーツもよく乾くな」
 すかさずメイベルがつっこみを入れる。
「洗濯屋が持っていったので、どうなんでしょうか」
「あ、そ、そうだったけ? つい、昔のまんまの感覚で、話してしまったな……あはは……」
――墓穴を掘ってしまった……。
 頬を赤らめ、だまって茶を口にする上司のすがたに、部下たちは密かに笑いを噛み殺していた。気がつかぬは本人ばかり、である。
 穴があったら入りたい心境のエリオットを助けたのは、にぎやかなマークとヒューの帰還だった。大袈裟にマークがさっそく愚痴を披露する。
「最悪だぜっ! みろよ、俺の姿!」
 言われたとおり、マークは全身が濡れた格好のままだった。整えていた前髪が落ち、シャツとズボンが肌にはりついている。
 ヒューが笑いながら説明した。
「ヘンリー坊ちゃまがでっかい鱒(マス)を釣ったのはいいんだが、重くて竿を巻けなくてな。で、マークが網を持って川に入ったら、鱒がひどく暴れたのさ。格闘した挙句の格好がソレだ」
 自慢げに第一従僕がうなずく。
「そうそう。俺の大活躍の証に、今晩の階上の食卓、楽しみにしてろよ」
 するとハリスン夫人がどかどかと、厨房から使用人ホールへとやってきて、いつもの金切り声で大変だを連発した。
「ちょっと! あんなでっかい鯉(コイ)をどうやって料理すりゃいいのさ!」
「鯉?」
「そうだよ、マーク。どこかのお屋敷で飼っていたのを、邪魔になって放流したんだろうね。あんた知らなかったのかい?」
「俺は港町で育ったから、淡水魚は鱒かウナギぐらいしか知らねえんだ」
「そうかい、それはおめでたいねえ。あたしも初めて料理するから、味は保証できないよ。それでも階上の食卓に出すのかい、エリオットさん?」
 鯉を食べたことがないので、即答できない。十数秒間を置いて、言った。
「ううーん。せっかくヘンリー坊ちゃまが釣られたのだし、出さないわけにはいかないだろう。食べていただければ、どんな味でも納得されるんじゃないのか」
「そうかい。なら決まりだね。さっそく鱗を取るよ、コニー!」
 下っ端の台所女中の少女、コニーの返事が厨房から聞こえた。続けてバリバリと鱗を剥ぐ音も聞こえてくる。
「いやあ、かなりの大物だったからな。うろこも固くてでっかいぞ」
 マークがまた得意げにそう言うのだが、大きなくしゃみをしたので、早く湯を用意して身支度を整えるよう、エリオットが指示した。
 ここで茶の時間をお開きにし、エリオットとビリーは階上の午後の茶の支度を始めた。居間でセッティングを終えると、ベルを鳴らして主人たちが降りてくるのを待つ。
 茶を給仕するエリオットに、アンダーソン家の次男ヘンリーが、陽気に釣りでのできごとを語ってくれた。一五歳の若さまだが、まだまだ子どものようでほほ笑ましい。寄宿学校から夏期休暇で帰省している今、ふだん静かな屋敷がにぎやかな場所に変貌する。
「で、僕がリールを巻いたのはいいけど、やつがとてつもなくでっかくて、マークが加勢してくれたんだ。エリオットじゃなく、マークがお伴で大正解さ。おまえだったら、力が足りなくて獲物を逃してしまったろうし」
 お代わりの茶をカップに注ぎながら、エリオットは優しく応える。
「さようでございましたか。とても大きな魚だったようですね。ハリスン夫人が悲鳴を上げておりましたよ」
「あの女料理人がびっくりするぐらいの大物ってことだ。味も立派にちがいない。父さんも兄さんもまったく釣れなかったのに、僕の竿にだけ食いついたからね。運の悪い鱒だ。そうは思わないかい、エリオット?」
「はい。存分に運が悪かったようですね、そのお魚は」
 内心、エリオットは笑いをこらえていた。どうやらやつの正体をご存じないようだ。
 いっぽうの主人と若主人は、ヘンリーに振り回されっぱなしだったと、疲れたような感想を、女主人に話していた。ゆっくり語りたかった親子だが、次男が一箇所でじっとしていなかったため、川のあちこちを歩き回ったらしい。やっと落ち着いたと思ったら、でっかい魚騒ぎで、雑談どころではなかったそうだ……。
「そういえばエリオットは知ってる? ティラノサウルスのほうが、はるかに大きいってことに。僕の釣った鱒なんか、目じゃない。この前、ロンドンの骨董商で恐竜の化石を売っているのを見つけて、買ったきた。すごいだろ。父さんも兄さんも興味がないって、見ようともしないから、エリオットに見て欲しいんだ。空いた時間、いつでもいいから僕の部屋に来てくれ。いいな」
「もちろんですとも、坊ちゃま」
 呆れた顔のサー・リチャードとジェイムズを見ていたら、坊ちゃまの遊びに付き合いきれない役目も果たさなくてはならないようだった。


 午後八時。階上の晩餐が始まった。
 ザリガニとクルトンのポテトスープ、夏野菜のプリンスウェールズソースがけに続き、魚料理が運ばれてきた。大きな銀の蓋をビリーが開けたとたん、誰の目も湯気の立つ料理に目を奪われた。
――なんてグロテスクな魚料理だ。
 魚のお頭と対面したエリオットはそう思わずにいられなかった。
 楕円形の大皿からはみ出るように盛り付けられた魚は、姿焼きである。きっとハリスンのことだから、釣りの成果を披露できるようにと、そのままの大きさで調理したにちがいない。
 ぱっくり開いた魚の口には、小粒のオレンジがくわえられていた。今朝、温室に実っていたあれにちがいない。パセリやセロリが周囲を取り囲み、可憐なパンジーの花が首を飾っている。
「オーブンで焼いた鯉のミントとオレンジのソースがけにございます」
 ハリスンから聞かされたとおり、エリオットは主人たちにそう説明した。
「わぁ、うまそう!」
 無邪気に喜ぶのはヘンリーのみ。主人と女主人と若主人は無表情で魚料理を見つめていた。
「それでは切り分けます。よいですか、坊ちゃま?」
「ああ、早く!」
「では」
 ナイフとフォークを手にしたエリオットは、鯉の背中にずぶりと刃を立て、小分けにしていく。ソースの爽やかな香りが広がると、見た目はいまひとつでも味はいいのかもしれない。あのハリスンが料理すれば、まずいごちそうなどありえないのだ。
 ……あくまでも本人談だが。
 切り分けられた料理をマークが皿に盛って運ぶ。アンダーソン一家の前に配膳が終わると、ヘンリー筆頭に今日の成果を口に入れた。
「うぉ……ま、まず……い」
 坊ちゃまの第一声がそれだった。
 凍りつく食卓。すぐにエリオットは呼び鈴を鳴らし、肉料理を運ばせる。さっさとマークに皿を片付けさせ、何ごともなかったかのようにローストされた鴨肉を切り分けた。
 気まずい階上の晩餐が終わると、主人と若主人は喫煙室に消えると思われたが、今夜は釣りで疲れたようだ。一家はすぐにそれぞれの寝室へと引き上げた。
 エリオットはサー・リチャードの寝室へ就寝前の酒を運び、着替えを手伝う。それが終わると、やっと階下の夕食の時間だ。
 が、腹を空かせた使用人たちをまっていたのは。
「ああ、鯉よ……おまえか……」
 エリオットはがっくりうなだれずにいられない。階上の残り物にあずかれるのが、夕食の楽しみのひとつだが、たまに失敗作が大量に余ったら悲惨な時間になる。
 でも背に腹は変えられない。空腹を味わうぐらいなら、どんなにまずかろうが食べなくては。
「では、神に感謝していただこう」
 切り分けられた鯉をフォークに刺し、口にするエリオット。
「まずぅ……。これじゃ神も嘆くな……」
 あまりの泥臭さに涙がでてきそうだった。部下たちも顔をゆがめて階上のおこぼれを食べている。
 葬式のように沈黙しながら、鼻をつまんで魚料理を食らう。ナイフを使う気になれず、フォークで乱暴に突き刺し、すばやく口のなかへ入れた。ほとんど噛まずにビールといっしょに流しこむ。
 まるで罰ゲームのような状況に、すまなそうな声でマークが言った。
「俺が捕獲を失敗しときゃ、こんなくそまずい飯を食わずにすんだのにな……」
 エリオットがすぐにかばう。
「失敗したらしたで、坊ちゃまの機嫌が悪くなるだろ。書き置きを残して家出されてみろ、それこそ夕飯どころの騒ぎじゃない」
 ヒューが同意する。
「そうだ、マーク。気にすんじゃねえ。こんど給金がでたら、みんなで思いっきりうまい飯でも食おうぜ」
 そのひと言で場が一気に沸いた。あれが食べたい、これが食べたいと、使用人たちが好き好きに希望を語る。
「そうだな。僕はうまいビールとフィッシュアンドチップスがあれば、それでじゅうぶんだ。よし、今度、赤い雄鶏亭にたのんで、配達してもらおう。もちろんおごりは、マークだ」
「ええ? エリオットさんじゃないんですかぁ……」
「そのぶん、ちゃんと給金から引いておくからな」
「ちぇ……」
 唇を尖らせるマークだったが、ほかの連中は素直に喜んでいた。
 口ではおごらせると言ったものの、自分の給金と割り勘にするつもりだ。収入は自分のほうが上だし、いつも食卓を盛り上げてくれる先輩部下に感謝していた。
 そんな自分の思いを察知しているのか、目が合うと小さくうなずいてくれる。エリオットもうなずきを返した。


 本日の家計簿と日誌を書き終えると、マークと就寝前の茶を飲むのがエリオットの習慣だった。仕事中は多忙で個人的な話ができないため、エリオットが従僕から執事へ昇進したころから始まった日課でもあった。
 緑茶をすすりながら、友人は大きなため息をつく。
「はあ……。今日はさんざんだったな。服は濡れるわ、魚はくそまずいわ、ヘンリー坊ちゃまに振り回されたジェイムズさまはご機嫌ななめだわ……。ロクなことがねえ」
「おつかれさま。今日は早く就寝するんだな」
「そうするよ。じゃあな、おやすみトマト君」
「トマト?」
「おまえがそー言っただろ」
「はあ?」
「明日こそは、セロリ君になって起きてくれよ」
 エリオットには意味がつかめないが、理由をきいたらマークにいろいろからかわれそうな予感がした。だからそのままやりすごすことにする。
 ふたりぶんの茶道具を盆に乗せると、マークは厨房へと去っていった。個人的な茶の支度も片付けも、上司がいれば部下の仕事だ。
 そんな気の毒な先輩の背中を見送りながら、エリオットは思った。
――マークが損な役回りを引き受けてくれたおかげで、今日の僕はまずまず平穏な一日だったな。
 マークには悪いが、面倒ごとを背負うのは自分も嫌だ。しかしこればかりは運の要素が強いため、神に感謝せずにいられなかった。
「さてと。見回りするか」
 執事の一日の最後の仕事、それが屋敷の戸締り確認だった。ランタンを手に、エリオットは執事室を出ると、裏階段を上がって二階へと移動する。
 ここは主人や客人たちの寝室が並ぶ階である。廊下とギャラリーの窓の施錠を確認し、ランプやガス燈の消し忘れがないか見回す。そのとき、いつもなら就寝しているはずのヘンリーの部屋が明るいことに気がついた。ドアの隙間から、ぼんやりとオレンジ色の光がもれてくる。
 ドアをノックし、エリオットは問うた。何かあったのかもしれないと、心配になったからだ。
「ヘンリー坊ちゃま? まだ起きていらっしゃるのです?」
「当たり前だろ。おまえが来るのをずっと、ずっとまっていたんだぞ」
「え……?」
 一瞬、エリオットには何のことだかわからなかったが、すぐに記憶がよみがえる。
――空いた時間、いつでもいいから僕の部屋に来てくれ。
――もちろんですとも、坊ちゃま。
 血の気が引くエリオット。
 すっかり忘れていた。階上の午後の茶の時間、ヘンリーからそう約束させられていたことを。
 ドアが勢いよく開く。
「やっぱり忘れていたのか、エリオット! せっかく僕がロンドンの骨董市場で買ってきた宝物を見せてやる、と言っていたのに!」
 寝間着姿の坊ちゃまは怒り心頭だ。拗ねた表情で踵を返すと、ふてくされたようにベッドの中にもぐってしまった。
「申しわけございません! 忘れていたわけではないのです。ただ、本日はあの魚料理があまりにも衝撃的で、ついそちらに気をとられておりました」
「たしかに僕が釣ってきた魚はまずかったな」
 ここで失言してしまったことに気がつき、慌てて骨董市で買ったという化石を褒めることにした。書き物机の上にある太い白骨の塊を大袈裟に褒めちぎる。
「坊ちゃま、これが噂のミラノサウルスの化石でございますね! なんて素晴らしい骨太さ。初めてお目にかかりました。ミラノというだけあって、イタリアの恐竜なのでございましょうか?」
 布団を被ったままのあるじの声が聞こえてくる。
「ミラノじゃない。ティラノサウルスだ」
「……」
 さらに墓穴を掘ったエリオットは、固まってその場に立ちつくすしかなかった。これではどう言いわけしようが、若きあるじの機嫌が直るとは思えない。
「もういい、エリオット。僕のことを子どもみたいだと、どうせおまえも呆れているんだろ? 兄さんたちがバカにするのもしょうがないなって」
「そんなめっそうもございません。単にわたくしが約束を失念していただけにございます。だから坊ちゃま、そうお気を悪うされないでくださいませ。ね?」
「古代の恐竜の話を聞いてくれるのって、エリオットしかいないんだ。おまえは忙しいだろうけど、僕の相手をするのも大切な仕事じゃないか」
 こんなにつむじが曲がったヘンリーを見たのは、久しぶりだ。子どもっぽいといえばそうだが、本当はもっとちがう話も聞いて欲しかったのかもしれない。寄宿学校――パブリック・スクールで何かあったのだろうか?
 母親にはもちろん、父親にも兄にも話せないとなると……。
「ひょっとして坊ちゃまは、この化石をご学友にお見せになられたのですか?」
「それが?」
「本物と信じていただけなかった……とか?」
「エリオットはどう思う?」
「坊ちゃまが本物だと思えば、わたくしもそう思います。だって、たくさんの空想ごっこを、昔いっしょになさったではありませんか。空想は虚実ですが、楽しかった思い出は本物です。ちがいますか?」
 布団をはねのけ、ベッドから起き上がったヘンリー。菫色の瞳を輝かせながら、机の上の化石を手にして、エリオットの顔に近づける。
「そうだよな、やっぱりそう言ってくれるのはおまえだけだ! そう、本物だろうが贋物だろうが、そんなことどうでもいい。いっしょに古代のロマンを語りたいんだ!」
「古代のロマン。いい響きですね」
「いい響きだろっ!」
 子どものようにはしゃぎながら、ヘンリーは化石を握りしめたまま跳んだ。勢い良くベッドに着地する――かと思ったが、足がすべって壁に激突する。同時に何か固い棒が折れるような音もした。
「だいじょうぶですか!」
 すぐにエリオットが気遣うが、さいわいなことに頭を打たれなかったようだ。反射的に両手を壁についたのがよかった。
 しかしその衝撃で、化石は無残にも壊れてしまった。おかしなことに、その骨は割れて砕けたままつながっている状態だ。
 エリオットはランタンで、化石を照らしてみた。すると、折れた隙間から、針金が顔をのぞかせている。
「そんな……」
 半泣きになるヘンリー。いくら口では「ロマン」と言っていても、心のどこかでは本物だと信じていたのだろう。
「あの骨董商のじいさんめっ! よくも僕をだましたな!」
 若きあるじは怒りにまかせて、ベッドの上に拳を浴びせる。
「ちくしょう! やられた!」
「まあまあ、ヘンリー坊ちゃま。たとえ贋物でも古代のロマンを買ったと思えば、よろしいではございませんか」
「ロマンも贋物もあるものか。二ポンドもしたんだぞっ!」
「それはさすがにぼったくりすぎですね…………」
「今日はさんざんな一日だっ!」
「……」
――それはわたくしもです、坊ちゃま……。
 と、口にしそうになったのをエリオットはこらえる。
 せっかく順調に平穏なる一日を過ごせそうだったというのに、最後の最後で面倒ごとに遭遇するとは。
 この夜、エリオットが深夜二時すぎまで、ヘンリー坊ちゃまの愚痴を聞かされたのは、言うまでもない。
 明日は寝不足確定だ。
 まったくもってさんざんな一日である。

執事エリオットの平穏なる一日(仮) 〜おわり〜


※作者より補足
1.ハリスンが焼いた鯉が泥臭かったのは泥抜きをしていなかったためです。日本では鯉が郷土料理の地方があるため、鯉の名誉のために書いておきました。どんな味なのかは、食べたことがないので存じませんが、昔聞いた話によると、ちょっとくせがあっておいしいそうです。
2.(仮)も含めた正式なタイトルです。意味はオチそのまま。
前頁にもどる◆◆◆次頁にすすむ
+Title+++Home+
Copyright(C)2009 ChinatsuHayase All Rights Reserved.