ジョン・エリオットの日誌
忘れ去られた姉妹と確執の館 03


「あたくしたち、昔はとても仲のいい姉妹でしたの。でもね、あたくしが結婚したころから、少しずつおかしくなり始めた。少しずつ、少しずつ」 
 冷めた紅茶が入ったカップ片手に、アンナはそう言った。食堂のテーブルに向かい合って座るエリオットは、気が気でない。何度もドアへ視線を走らせる。
「リズは来ないわ。一度、屋根裏に上がると、ずっとあそこで雨漏りの番をしてるの」
「おひとりで?」
「そうよ。だってほかにすることなんてないんですものねえ。家事だってお客さまがいるときだけだし、ベーコンエッグよりお家が腐るほうが深刻ですもの。ここに住めなくなってしまうでしょう」
「じゃあふだんは、あなたが家事をなさっているのですね」
「いいえ。ひとの話をよくおききなさいな。家事はほとんどしてないわ。お客さまがいるときだけでいいんですもの」
「はあ……」
 いまひとつ意味がつかめないエリオット。だが話を進めるには相づちを打っておくしかない。
 アンナは豪快にぐいっと紅茶を飲み干し、大きなため息をつく。
「ああ、久しぶりだわ。お茶なんて。昔は毎日、あたくしがロジャーのために淹れたのに、いまじゃあ妹すら淹れようとしない。お気に入りのお客さまだけ。どうしてこうなったのかしらね……」
 ふと視線が遠くなったアンナ。リズが言ったような気狂いとは思えない静かなものだ。
「あなたもご存じでしょうけれど、今は女余りの時代。長女のあたくしが無事結婚できたのに、妹のほうはさっぱりだったの」
「おきれいな方なのに――」
 と、ここまで口にして、はっとする。美しくない姉の前では、失言もいいところだ。
「そうよ。みんな言わなかったけれど、心では思っていた。どうして醜い姉が結婚できて、美しい妹には縁がなかったのかって。それこそ愚問よ。だってあたくし、家庭教師として町で働いていて、妹はずっとこの館のなか。老いた父が亡くなったとき、たったひとりぼっちで、女だから相続できる財産もない。世間知らずもいいところだから、もしあたくしがロジャーを連れてここにもどらなかったら、商人にあやうく安く館を買い叩かれるところだったわ」
「そうでしたか。しっかりなさっているんですね」
「当たりまえでしょうに。だってあのロジャー、見かけだけは立派で、中味はてんでダメ男だったもの。どの仕事も長続きしないし、本ばかり読みふけって作家になるって言い出すし――でも、人を夢中にさせるほどの才能はなかった。あたくしと結婚したのだって、この館を相続できるから。牧場と畑だって少しあるわ。質素に暮せば充分に食べていけるだけの。三男で財産のない彼には、こんな館でも魅力的だったのよ。あたくしが男児を生めば、館も畑も家畜もすべて自分のものになりますもの、ね」
「ロジャーさんとはどうやってお知りあいに?」
「単純なことよ。働いていたお屋敷のご家族だったの。長男の子供たちを教えていたのが、あたくしってことね。これといったお付き合いもなかったのに、あたくしの財産がからんだら、簡単に結婚できたわ。……怪しいと思ったけれど、プロポーズは承諾したの。だって考えてごらんなさいな、このあたくしが求婚される機会なんて二度とない、でしょう?」
 ここでアンナは低く笑った。なつかしい思い出なのだろうか、それとも苦いのだろうか。
 ポットを持ったエリオットは、饒舌なアンナに残りの茶をすすめた。
「まあ、気が利くのね。ありがとう。ロジャーとは大ちがいだわ」
「いつもやっていることですから、めっそうもないです。それより、どうやってここを出ればいいのでしょうか」
 そう言いながら、内心、ひやひやしていた。身の上話が長くなりそうだったのを見越し、こらえきれず自分から催促してみた。
 アンナはまったく反応せず、お代わりした茶を飲み始めた。今度は淑女らしく優雅に少しずつ。
「せっかくのお茶よ。もう少しお話に付き合ってくださらない?」
「え、ええ。そうですね……」
――まだ続くのかよ!
 頭のなかでそう叫びながら、エリオットは引きつった笑みを浮かべるのにせいいっぱいだった。
「昔は……そう、昔は、あたくし淑女として正しくふるまっていたのよ。身なりだってきちんとしてましたし、ロジャーといっしょになってからも。でも、妹と主人が親しくなってしまってから、何もかもどうでもよくなってしまった。これだけあたくしがふたりのために、館と土地を守っていたのに、裏切られたの。意味がおわかり?」
「もしかして、不倫……」
「そうよ。マントルピースに飾っている写真を見れば、すぐにお察しできますでしょう」
「……」
 さすがに相づちを打てなかった。そうだ、と簡単に肯定するには、アンナが気の毒すぎる。
「無理もないわね。縁談がまとまらないリズが、あたくしたち夫婦の生活がうらやましくて仕方なかったのかしら。こんなに冷えた関係なのに? ロジャーが愚かだったのよ。財産目当てで結婚したあげく、義妹にまで手を出すなんて……」
 アンナは怒りがよみがえったのか、乱暴にカップを置くと、エリオットをにらみつけながら言った。
「男なんてだれもそう。いくらあたくしが尽くしても、結局肌の白い美しい妹に目がいくのよ。あなただってそうでしょう?」
「いえ、そんなことは……」
「それだけならまだしも、裏切り者たちは、あたくしを亡き者にしようとしたの」
「そ、それってまさか……」
 怒涛の展開にエリオットは緊張する。
「あの日があたくしの最期の晩餐になるはずだった。でも、主のもとへ旅立ったのは、ロジャー。青酸カリ入りのスープを食べて、たっぷりと苦しんだわ」
「え、え、え?」
「あたくし、変だと思ったのよね。だっていつもロジャーの皿にたくさんのスープが注がれているのに、今夜にかぎってなぜかあたくしのが多かった。おまけに牛テールのクリアスープ。あたくしの大好物ですけど、あなたもご存じでしょう? あれは手間がかかるから、リズは滅多に作らなかったの。特別なお祝いでもない日によ。だから、まさかと思ってそっとふたりがいない隙に、お皿を交換したら――」
「うわぁぁ!」
 たまらずエリオットは食堂を飛び出した。
 怖い、怖い、どうしようもなく怖い!
 が、やはり玄関のドアは開かない。ならば裏口は、と思ってふたたび食堂を通って、台所へ向かおうとした。テーブルには紅茶のポットとカップが置かれているものの、さっきまで座っていたアンナの姿はどこにもない。二階へ向かったのだろうか。
 そんなことはどうでもいい。とにかく、館を出たい!
 台所へ降りたものの、肝心の勝手口がなかった。おかしい。台所には付き物のはず。
「まあ、青い顔をされて、どうされたんです?」
 振り返ると、白いエプロン姿のリズがいた。やはり怖くて、台所を飛び出した。慌てて食堂を通って二階へ駆け上がる。
 昨夜泊まったロジャーの部屋に入り、窓を開ける。雷雨が表を叩いていたが、ドアがだめらならここから逃げ出せばいい。そう思って、枠に足を乗せたら、背後から力強く引っ張られた。
「だめよ、だめっ! 早まってはだめっ!」
 アンナだ。まったくか弱くない外見どおり、力もたくましい男のように強かった。彼女といっしょに背中から床に落ちる。衝撃で本棚がかすかに揺れた。
 それでも逃げ出したいエリオットは、相手を振りほどきながら立ち上がる。
「お願いです。これ以上、あなたがたの確執に巻き込まないでください。僕には帰るべき場所があるんです」
 そう言いながら、ずれた眼鏡をかけ直す。
「窓はだめよ。骨折だけじゃすまないでしょうね」
「二階なら打撲程度ですみます」
 ここまで言って、確信のなさに言葉を濁す。
「多分……」
「元の世界に帰れないって言いたいのですわ。館のなかはあたくしとリズの世界。庭はロジャーの世界。今度は彼の術中にはまってしまいますわよ」
「はあ? 亡くなったはずじゃあ……」
 首をかしげてみせるが、アンナが本当に言いたいことが読めてきて、また血の気が引いた。
――一歩、表に出れば、そこはあの世逝き。
 そんな返答が脳裏をこだましていった。
 うっすら笑みを浮かべたアンナは腰に手をやり、自信たっぷりに言った。
「ここだけの話よ。よくおききなさい。この館を出たければ、リズを絶対に怒らせないこと。そして雨を降らせているロジャーの味方をすること。もう屋根裏は腐りかけているわ。そのうち二階、そして一階も腐ってしまうでしょうね。そうすれば、館なんてなくなって、元の場所に帰れるわよ。もちろん、計画はリズには秘密。スープもちゃんと飲むのよ。でも怒らせたら……。うふふ……」
「……」
 ここでもエリオットは言葉がなかった。力なくベッドに腰をかけるのがやっとである。


 昼食を告げる呼び鈴が鳴った。アンナの話を聞いてからというもの、食堂に顔を出すのがためらわれる。それでもリズを怒らせてしまうわけにはいかず、仕方なく階段を降りていった。
 白いテーブルクロスの上には、パンとマッシュポテトとスープが並べられていた。皿はふたりぶんだけで、アンナはいっしょに食事をしない。
 質素な昼食を食べながら、リズは小声で言った。
「アンナ姉さん、何を話してくれたの?」
 ほんの少し思案し、エリオットは慎重に答える。
「昔のことを。家庭教師をなさっていて、そのとき亡くなったご主人と出会われたそうですね。そんなことです」
「やっぱりそうですか。家庭教師をしていたなんて、また嘘を……」
 リズは大きなため息をつく。青い瞳でエリオットを一瞥したが、悲しそうに視線を落とした。
「嘘だとおっしゃるのですか。ではアンナさんはどうやってロジャーさんと?」
「親同士が一方的に決めた結婚ですわ。姉さんはあのとおり勝気でしょ。だからそんな古くさいやり方をきらって、町へ出ていったの。でも仕事なんてございません。家庭教師として勤めようとしても、空きがなくて結局、泣きながらここへもどってきたの。お父さまお許しください、って。だから許してもらう代わりに、牧師館の三男だったロジャーと結婚したの」
「話がまったくちがいますね……」
「無理もないですわ。だって姉さんは病気なんですもの。義兄も何度、虚言癖に悩まされていたことか」
「作家になりたかったロジャーさんを支えていたのも、嘘だとおっしゃるのです?」
「作家になりたかったのは姉さんよ。長女と言うだけで、好きでもない男と結婚させられて、質素で陰鬱な館暮らしから抜け出したかったんでしょう。でも、出版社に送っても、まったく相手にされなかった。まあ、わたしが読んでも面白くないロマンス小説なんて、無理もないでしょうけど」
「そうだったのですか」
 あまりの両者の話の食いちがいに、エリオットは混乱しかけた。
――どちらが嘘を言ってるんだ?
 それとも、ふたりとも嘘をついているのか?
 雷鳴が轟いた。雨は止む気配すらない。昼間だというのに、蝋燭を灯していないと食事もままならないほど暗い食堂。陰鬱な館にふさわしい雰囲気だ。
「だいたい姉さんはぜいたくなのよ。長女というだけで、結婚させられたロジャーがかわいそう。そんなにいやなら、わたしが代わってあげたかった。まだ若かったのに、結核にかかって亡くなったのも、気の毒でたまらないの……」
 そんな相手の話を聞いていると、マントルピースの上にある写真立てに、つい視線がうつってしまう。
――やっぱり不倫していたのか……。
 どちらかが嘘を話しているとしても、これだけはたしかなようだった。
 しばらく沈黙が流れたが、リズが笑顔になって明るい声でうながす。
「あ、スープも召し上がってください。冷めてしまいますわ」
「ええ。いただきます」
 匙を手にして、茶色い豆スープを食べる。
――青酸カリ入りのスープを食べて、たっぷりと苦しんだわ。
 ふとアンナが言っていたのを思い出す。しかし体調に変化はなかった。


 雨は降り止まず、昼食の片付けをすませたリズは、ふたたび屋根裏へと上がって行った。雨漏りの番である。
 エリオットは二階のロジャーの部屋にもどると、さっそく窓を開け、表をながめた。
 黒い雲が立ち込め、大きな雨粒を落としているものの、丘を越えた先は青い空が広がっていた。玄関が使えないなら、ここから脱出すればいい。アンナは止めたが、あれは妄想の産物なのだ。恐れることはない。
 ためらうことなく窓枠に足をのせ、片脚を表に出す。そして両手で身体を支え、そのままぶら下って地面へ着地するつもりだった。
 が、大きな爆発音がしたかと思うと、目の前が真っ白になる。めりめりと音を立てながら、そばに生えていた庭木が裂けた。たちまちあたりは焦げ臭くなり、エリオットは呆然としたまま身動きがとれない。
 すぐにふたりの足音が近づいてきて、ドアが開け放たれるなりアンナの声が耳に入る。
「バカは真似はおやめなさい!」
 水の滴る雑巾を握りしめたリズが、そのあとに続けて言葉を放つ。
「お願い、出ていかないで!」
 計画が頓挫したエリオットは、窓枠から離れた。無理矢理笑みを作り、即席の言いわけいを披露する。
「さ、散歩をしたいなって。玄関のドアが壊れていて、出入りできないでしょう?」
 沈黙が数秒流れ、三者はしばし互いの顔をうかがう。やがて冷笑を浮かべたアンナが、リズに低い声で言った。
「やっぱりあんた、好かれていないのよ。無理もないわね。邪魔になったら、だれよりも冷酷になれるんですもの。お客さまもそれをうすうす感じていらっしゃるわ」
 すぐに妹は反論する。
「またそうやって、妄想をお客さまに吹き込むのをやめてくれない? せっかく滞在してくれた人たち、だれもがすぐに逃げてしまったのも、姉さんがあることないことしゃべるからよ」
「だってロジャーのように、毒殺されるのを見ていられないもの。じゃまになったら、あたくしを――でも、その手は二度と通用しないことを、覚えておきなさい」
 たちまちリズの表情がくずれ、わっと泣き出す。
「ひどい! そんなことわたしがするわけないでしょっ! お客さまの前で恥をかかせないで!」
「あんたって、いつもそうやって被害者ぶるのよねえ。同情したロジャーや、お客さまたちが気の毒でたまらないわ」
「ひどい、ひどいわ、姉さん……」
「だって本当のことでしょうに」
 「ごめんなさい」とだけ言い残したリズ。姉を突き飛ばすように部屋を出て行き、階段を駆け上がる音がした。続けてアンナも「ごきげんよう」とあいさつをして、出て行く。ばたんと向かいの部屋のドアが閉じられた。
 返す言葉もないまま、エリオットは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
前頁にもどる◆◆◆次頁にすすむ
+Title+++Home+
Copyright(C)2009 ChinatsuHayase All Rights Reserved.