ジョン・エリオットの日誌
忘れ去られた姉妹と確執の館 02


◇◆◇◆◇



 目覚めたエリオットだったが、窓の外をみると、激しい雨はまだ降り続いていた。これでは電報を打ちに行くことすらできない。
 昨夜脱いだシャツとズボンはまだ湿っていて、薄暗い部屋のなかでロジャーが着ていたのであろう、服を拝借することにした。
 暗灰色のフロックコートとチョッキはまるで自分のためにあつらえたかのように、身体にぴったり合っていた。それがかえって不気味で、フロックコートを脱いだ。雨が止んだらすぐにでも電報を打ち、その足で屋敷にもどろうと決める。借りた服はすぐに洗濯屋に出して、下男トムを使って送り返せばいい。
 サイドテーブルにある手鏡をとって、自分の顔をみたら髭をそっていないことに気がついた。しかし剃刀はない。
 部屋を出て一階に降りてみた。かび臭い台所からべつの匂いが漂ってきた。ベーコンと卵を焼いているのだろう。のぞいてみると、リズがオーブンで朝食を作っていた。レンジにフライパンを乗せ、その下の火でパンをトーストしている。
「おはようございます」
 白いエプロン姿のリズは、口もとを緩めた。
「おはようございます。朝食ができたら呼びにいきますから、お部屋でまっていてくださいな」
「あの、剃刀はありませんか?」
 そう言いながら、伸びかけた自分の顎髭を指で触る。
「……あら、残念だわ。ロジャー義兄さんは髭を伸ばしていたんです」
「そうでしたか」
「あなたも髭を伸ばされたらいいわ。そのほうが男前で素敵ですもの」
 エリオットは苦笑する。
「僕は使用人ですから、髭は厳禁です」
「まあ、使用人ですの? とてもそんなふうに見えませんわ」
「こう見えても、配膳なんてお手のものです。お手伝いいたしましょう」
 ほどよく焼きあがった目玉焼きとベーコンを皿に乗せ、トーストにバターを薄く塗る。大きな盆にそれらを乗せると、隣の食堂へ運んだ。テーブルの上には白いクロスがかけられ、そのうえに三人分の皿を置いた。ふと視線を上げると、時代遅れの壁紙のうえには何枚かの写真が飾られていた。
 そのなかの一枚に目が留まる。
 眼鏡をかけた優しげな紳士と、ふたりの淑女。ひとりはリズだ。今と変わらない若さで真面目な顔をして椅子に腰かけている。奇妙なことに、ドレスは祖母が着ていたような裾にふくらみのあるものだった。その隣には同じようなドレスを着た少し年上の女。きげんが良くないのか、カメラのレンズをにらみつけるようにして見つめている。そんな彼女たちの後ろで立っているのが――。
「ロジャーです」
 エリオットの視線が食堂に入ってきたリズに移った。
「髭はありませんけど?」
「亡くなる少し前から、伸ばし始めましたの。だってそのほうが、素敵じゃあございません?」
「ええ、まあ、たしかに。僕の旦那さまもお髭が似合っていますし」
「でしょう」
 リズはちょっとだけ楽しそうに笑いながらそう言い、空になった盆にひとりぶんの朝食を乗せた。
「ごめんなさい。せっかく配膳していただいたのに。アンナ姉さん、人見知りがはげしくて、ごいっしょするのはむずかしいの」
「そうでしたか。気がつかずにすみません」
「いいえ、いいえ」
 ここで声をひそめ、リズは言葉を続けた。
「…………姉さん、妄想がひどいんです。もし顔を会わせたとき、妙なことを口走るかもしれませんが、お気になさらないでくださいませね」
「ええ」
「お世辞にも亡くなったロジャーとは、夫婦仲が良いとはいえなかったの」
 さらに小声になって彼女は言った。
「物騒なことを――本当にああなる前に、天国へ召されてよかったのかもしれない。そう考えてしまって」
 エリオットは息をのまずにいられない。
 最悪って、その、まさか。
 けれど言葉にできず。
「あらあ、ついお家の事情を話しこんでしまいましたわ。お客さまには関係ございませんのにね。ごめんなさいね。よその方とあまりお付き合いがないから、つい夢中になってしまいましたわ」
「は、はあ……」
 われに返ったように、リズは笑顔を取りもどすと、盆を提げて食堂を出て行った。


 リズとふたりきりで取る朝食は味がしなかった。これなら台所女中頭リンダが作る、焦げたトーストのほうがまだましだと思うほどに。いくら客の立場とはいえ、複雑な一家の話を聞かされてしまえば、居心地がいいわけない。
――一刻でも早く、ここを出ないと。
 しかし無情にも雨は降り止まない。それどころか、滝のように館を叩く音が聞こえる。とても古い建物だから、いまごろ屋根裏はずぶぬれになっているかもしれない。
 リズも同じことを考えてたらしく、朝食がすむとバケツを両手に階段を駆け上がっていった。ひまなエリオットも手伝おうと、リズに声をかける。すぐに返答があり、台所にあった洗面器を手に屋根裏へと移動する。
 心配したとおり、急勾配の天井からいくつもの雨漏りが大きな粒となって落ちていた。濡れた床を歩きながら、バケツと洗面器、ボールを置く。ぴちゃんぴちゃんと飛び散る音が、輪唱のように屋根裏をにぎやかにした。しかしまだ容器の数が足りない。
「二階にある洗面器を取ってきます。あなたは雑巾で床を拭いてくださらない」
「ええ、もちろんです。しかしこの雨、まれにみるひどさですね」
「いつものことよ。ここ、しょっちゅう雨が降るから、家が腐りそう。義兄さんがいるころは、よく晴れていたのに」
「そうですか。不思議ですね」
「仕方ないわ」
 単なる偶然だろう。適当にあいづちを打ち、バケツの淵にかけてある雑巾手にした。リズが階段を降りる音を聞きながら、腕まくりをし床を拭く。借り物の服を濡らさないように、床についた左手で身体を支える。これでズボンは濡れない――はずだったが、チョッキの背中にいくつもの雨粒が落ちてくる感触がした。
 バケツの上で雑巾を絞り、また拭くのだが、あっという間にブリキのなかは雨水でいっぱいになった。何度も濡れたのを知らしめるように、屋根裏部屋の床は腐りかけている。下を見て用心して歩かないと、身体の重みで床が抜けそうなほどだった。
 階下まで何度も水の入ったバケツを持って降りるのも、骨が折れそうなので、屋根裏部屋にある小さな窓を開けた。ここからバケツはもちろん、洗面器やボールの水も捨てる。
 夕立のような雨。窓を開けただけで大粒の水滴が部屋に入ってくるありさまだ。
 すぐに窓を降ろそうとしたのだが。
 エリオットはあることに気がついた。
「向こうの丘は晴れているじゃないか……」
 ちょうど雨雲の切れ目にかかったらしく、眼前の向こうに広がる緑の丘では、羊達が草を食んでいる。奉公している屋敷でもよく見かける、牧歌的風景だ。
 よかった。どうやらあと少しで、雨は止みそうだ。
 ふたたび洗面器を抱えて上がって来たリズに、エリオットは陽気に言った。
「もうすぐしたら、雨が止みますよ」
 リズは眉根を寄せる。
「それはないわ。ここの丘には雨がよく降るの」
「まさか。だって外は」
「あっちの丘はちがうんです。別世界だから」
「別世界? どういう意味です?」
「一度降ったら、一週間は絶対に止まないのが、わたしたちの住む館なの。信じてくださらないの?」
 そんなことってあるのだろうか。
 リズは義姉アンナが妄想にとらわれている、と話してくれたが、じつは……。
 ふとそんな思いが胸をよぎった。
 床掃除もそこそこに雑巾をバケツにもどしたのだが、リズはせっせとバケツを床に置いていった。そのうしろ姿がなんだかこっけいだ。どうせ雨は止むのに。
「あの、そろそろ休憩にしませんか? よろしければ僕がお茶を淹れましょう」
「ご勝手にどうぞ」
 明らかに気分を害したように、リズはそっけなく答えた。エリオットをまったく見ようともせずに。
 これはすぐにでも、館を出て行ったほうがよさそうである。
 そう判断したエリオットは、約束どおり地下の狭い台所でお茶を淹れると、やがて来るだろうリズをまっていた。あいさつがてら午前の茶をすませ、そのまま帰路に着く予定だ。雨はまだ降っているものの、ひとつ向こうの丘は晴れているのだから、傘がなくてもどうってことない。
 しかし待てども待てどもリズはやってこなかった。
 妄想を信じてやれなかったことが、それほど腹立たしいのか。
 ならば黙って館を去ったほうがいいだろう。向こうが顔を合わせるつもりがないのならば、こちらだって同じだ。世話になった礼はトムを使いにやって、菓子でも持たせればいい。
 ポットに入った茶をテーブルに置いたまま、エリオットは食堂を出ようとした。だが、廊下に続くドアの前に、べつの淑女が立っている。写真立てで見た、リズの隣にいた女。
「あら、まだいたの、リズのお気に入りさん」
 アンナは鳶色の髪を無造作に結っていた。あまりにも適当なものだから、無数の後れ毛が髪の束から飛び出している。襟の詰まった濃紺のドレスも、アイロンがけされてなく皺だらけだ。顔だって同じ姉妹とは思えないほど色気がなく、彼女の鷲鼻は気の毒なほどに立派だった。
「おじゃまして申しわけございません。天気も落ち着いてきたことですし、すぐにでも発ちますから」
「そう? 遠慮はいいのよ、リズのお気に入りさん」
 棘のある言い方だ。やはり自分は歓迎されざる客ということか。
「まあ、そんな怖い顔をなさらないで。あたくし、ちょっとだけお話したかったの」
 ここで小声になる。仕草は姉妹らしく、眉根を寄せる目つきが似ていた。
「あの娘――リズがいないときを狙っていたの。そうじゃなきゃあ、忠告もできないんですものね」
「忠告? だいじょうぶです。僕はここをすぐに――」
「できるものならそうしてごらんなさい。あなたはすでにあの娘の術中にはまってしまったの。だって川を流れていたあなたを見つけたのは、あの娘なんですもの」
「どういう意味です?」
「だからそれをこれからお話してさしあげるわ。そのあとどうするかは、あなたしだいってところね。うふふ……」
「……」
 笑う女が不気味で背筋が寒くなる。こらえきれなくなって、食堂を出た。もちろん向かった先は玄関のドア。
 が、いくら取っ手を押しても引いても、館のドアはぴくりとも動かない。
「ほら言ったでしょう? あなたはあの娘の術中にはまってしまったの。ここを抜け出す方法を教えてさしあげる」
 足音もなく背後に立っていた不気味な女、アンナ。けれど館を脱出するには、しばらく話を聞かなくてはならないようだ。
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