令嬢カトリーヌと禁断なる恋の日々

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き 【03】




◇◆◇◆◇



 翌日の午後、眠い目をこすりながらいつもの仕事をこなしたあと、裏庭に向かった。空き時間をつかって、護身術の鍛錬をするのもフレデリックの日課だった。昨夜、カトリーヌに少し説明したとおり、亡き先代である老ラボー氏との約束を果たすためだ。
――カトリーヌがふさわしい御仁とご結婚されるまでは、何がなんでも守りとおすのだ。
 当時こそ本意ではなかったものの、命の恩人のたのみを断るわけにはいかない。だから仕事のひとつとして割りきり、先代がどこからか連れてきた東洋の男から武術を三年間学んだ。「リー」と名乗ったその男は今、どこで何をしているのか知らない。ある日「あとは自分で鍛えろ」とだけ言い残し、屋敷を去ってしまったのだ。
 片言での彼の話しから推察するに、若い時分は宮廷で護衛の任をしていたようだ。だがある大宦官に睨まれてしまい、あらぬ罪をきせられ、命からがら逃げ出してきたらしい。ちなみにその男の声は少年のように澄んでいた。
 寡黙なやつが師匠でよかった。こちらのことをほとんど話さずにすんだのだから。
 相手が異国人だろうが逃亡者だろうが少年のようだろうが、どうでもいい。役に立つか否かが先代の考え方だった。
 実際、リーから学んだ拳法は役に立っている。護身もだが、お嬢さまにまとわりつく連中を怖がらせるだけでもじゅうぶんすぎるほどだ。目の前で、板を一枚割ってやればすむのだから。
――だがなあ。事態が……。
 数年前から密かに想いをよせていた相手も、またこの自分に同じ想いを抱いていたとは、つい一ヶ月前まで、だれが予想できたであろうか。さとられてはならないと注意していたが、カトリーヌもそうだったのだろう。プレゼントをくれるまで、情けないことにまったく気がつかなかった。
 結婚するまで守りとおす――その結婚相手はこのままの状況だと現れることはない。
 これからどうするのか、まだまだふたりには結論はおろか、話し合う勇気が出てこなかった。だが、資金さえあれば事業を興せる。そしてラボー氏のようにブルジョワの仲間入りを果たせば、カトリーヌと結ばれることも夢ではない。
「何を遠回りなことを。結婚した娘の愛人になればいいのだ。そうやって貴族は――」
 サンドバッグに向かって拳を繰り出していたフレデリックだが、慌てておのれの口を手でふさいだ。と、もどってきたサンドバッグにぶつかる――直前に身をかわす。
「……ああ、こいつのことを忘れていた」
 そう、カルノー侯爵の霊がフレデリックの肉体を借りて宿っていた。封印を解いてくれた、と侯爵は言うのだが、自分にはまったくおぼえがない。ただ鍵を使って扉を開けただけである。つまりあの扉そのものに神父は封印をほどこしていた。
「こいつとは、失敬な」
「失敬もくそもあるか。ひとの身体を借りておいて……」
「私との契約を果たしてくれれば、天国へまいるつもりだ。それまではすまぬが、辛抱してくれんだろうか、フレデリックどの」
「で、その約束とやらの子孫は? 気配がするだけじゃ、俺はわからん」
「ほかに手がかりがないのだ。仕方なかろう。修練のあとは探索しろ」
「おい、このあとも屋敷の仕事があるんだ。ひまな幽霊といっしょにせんでくれ」
「私との大事な予定より、しもべの仕事が大切というのか」
「当然だろ。俺はそれで飯を食ってる」
「ふむう。どうにもこうにも惜しい輩だのう。私が存命であったら、すぐにでも引き抜いてやるのだが。武術もできる従者だったら、あんな部屋に逃げこまずにすんだろうに」
 一七八九年の大革命があった日のことを悔やんでいるのだ。
 あの日、呑気にかまえていた侯爵は逃げ遅れてしまい、例の軟禁部屋に隠れたのだった。もともと使用人を罰するために作られた部屋だったため、居心地は良くない。だから粗末な寝台の代わりに、急遽、屋敷に仕えていた従僕が、床下の貯蔵場に棺桶で寝床をこしらえてくれた。
 だが従僕もしょせん、庶民階級の者。彼は以前から貴族連中が贅を尽くす生活を良く思っておらず、同僚といっしょになって侯爵を裏切った。彼らはいつまでたっても、侯爵のために軟禁部屋の鍵を開けることはなかった。床下の扉の上に寝台を乗せたのも、革命派をあざむくためでなく、二度と侯爵を出さないためであったという。
 侯爵の息子夫婦と子どもたちはさきに外国へ脱出、夫人はすでに亡く、親戚の伯爵、子爵一家も処刑された。その後、大航海時代に海賊で財を成した商人、ラボー氏が屋敷を使用人連中から買い取り、新たなあるじとして暮すようになった。
 ちなみに神父を呼んで軟禁部屋を封印し、鍵をラボー氏に渡したのは閉じこめた従僕だ。それらをすませると逃げるように彼は屋敷を去っていった。呪いをたっぷりとこめているから、ロクな死にかたをしてないだろう、と侯爵は言うのだが、それが恐ろしくもあり悲しくもあった。
 従僕はラボー氏に鍵を渡すさい、こう付け加えたという。もし地階のその小部屋を開ければ、中世時代イングランド軍にあやめられた僧侶たちの亡霊がわいてくる、と。ラボー氏は怖がらなかったものの、無駄な騒動を起こす気にもなれず、息子に当主の座を譲るときこの鍵も託した。その息子もまたその息子に、というわけだ。
 ついにカルノー家が屋敷にもどってくることはなかったのだが、同族の気配がする、と侯爵は言い切る。
 ここで侯爵の気配が消えた。身体の奥に引っこんでくれたようだ。
――まったく、冷や汗ものだな。
 フレデリックは今しがたの会話が聞かれていやしないか、周囲を見回した。小さな裏庭にはだれもいない。ここは自分の修練場だから、この時間は怖がってだれも近寄ってこないのがさいわいした。
 鎖で首にかけた三つの指輪を、シャツのなかから取り出す。ルビーとエメラルドに、冬の日光に輝く一重薔薇の紋章。カルノー侯爵から託された、彼の子孫へ手渡す代物だ。それまで大切にあずからなくてはならない。
――しかしどうやって探そう?
 気配があると言われても、手がかりはそれだけだ。地道に同姓を探すしかないのか。
 そうは考えても、カトリーヌはカルノー侯爵家を知らなかった。近くにいるのなら、知らないはずはない。すでに名前が変わってしまっているのか、最近、パリへやってきたのか……。
「この指輪はな、わが一族を守護してくれる大切な家宝なのだ。私の肉体は滅んだが、子孫のために受け継がせなくては。そしてフィリップ尊厳王から続いているカルノー侯爵家を復興させるのだ!」
「わかったから、予告なしに出てくるな!」
 フレデリックはまた両手で口を覆いながら、そう懇願するしかなかった。
 屋敷の階下にもどると、午後のカフェオレが用意されていた。バターのついたパンで軽食をすませたあとは、階上の晩餐の支度がまっている。厨房にこもっているシェフ、ピエールが腕をふるっている料理の匂いが、コーヒーの香りとともに使用人ホールにただよってきた。
「今夜は鶏肉料理ってことね」
 鼻をくんくんさせながら、マリオンがそう言った。
「そういえばパメラに餌は?」
 とポール。
「もうとっくにやってるよ。お代わりの合図がなけりゃ、平和なんだけどね」
「でも油断はだめですよ。あたし見たんですけど、居間のすみでお昼寝してました」
「そうかい、ミミ? じゃ、お目ざめのころがうるさいわね。食ってばかりの犬だから」
「あれで主人たちには、愛想よく尻尾振ってるんだもんな。要領が良すぎ」
 ポールのため息に、使用人たちは同意する。そんな同僚たちの会話を聞きながら、フレデリックはカフェオレを飲んでいた。ふだんからよけいな話は好まなかったので、いつものようにだまったままだったのだが。
「おお、なんたるまずさ!」
 口にしたパンをその場で吐いてしまった。同僚たちの視線が集中する。
「どうしたんだい?」
 マリオンが怪訝な顔で自分を見ている。
――やばい。侯爵が出てきた。
 あわてて笑みをつくり、テーブルに落ちた咀嚼物をナプキンで拭き取る。
「いや、俺のパン、バターがおかしくなっててね。大したことじゃあない」
「そうかい。ならいいんだけどさ。なんか妙な言葉遣いだったし」
「そうか? 気のせいだ」
「気のせい、ねえ……」
 同僚たちが眉をひそめ、たがいの顔を見ていた。
「塩がききすぎなのだ。いいか、今後、私の食事には極力、塩を控えるように」
「フレデリックさん?」
 三人が同時に呼びかけてきた。
――げげ、こりゃ、どうしよう?
 さすがのフレデリックも今回ばかりは、どう切り抜けてよいのかわからない。
「へえ、フレデリックさんって塩味が好みじゃなかったんですね。俺、五年間奉公していて、初めて知りましたよ」
「ま、まあ、そういうところだ」
 ポールの素直な受け答えで、その場はおさまった。あとは何ごともなかったかのように仕事がまっている。


 主人一家の晩餐時間になった。いつものように銀や陶器の食器を並べる。女中頭のマリオンとメイドのミミが料理の乗った大皿をテーブルに置き、従僕のポールが果物をサイドテーブルに運び、燭台の蝋燭に火をともしてゆく。そのあいだ、フレデリックは用意したワインを持ってくるため、廊下に出た。
「がうん、がうん」
 間の悪いことにブルドッグ犬パメラが、廊下に姿をあらわすなり吠え立てる。
「おい、メシは食ったろ。もうないぞ」
「がうううう……」
「いっちょまえに威嚇か」
 フレデリックもこの犬はきらいだ。主人の愛犬だから無難にあつかっているだけで、もしそんじょそこらの犬だったら、棒で叩きのめして追っ払っていたはず。
「しょうがないなあ。女中頭にたのんできてやるよ」
 踵を返し、食堂にいるマリオンを呼びにもどろうとしたのだが。
「どけ。わが一族を復興せんと尽くす輩に、あだなす犬め!」
 そんなセリフが口からほとばしり出たかと思うと、吠えていたはずのパメラが硬直した。数秒、動きが止まったあと、目を見開き、震えるように声をあげる。
「きゃいん、きゃいん!」
 尻尾を巻いて逃げるように去ってしまった。
 フレデリックは額に手をやる。
「ああ……。侯爵さまか……」
「感謝しろ」
「するか。パメラだったからよかったが、ほかの連中に目撃されてみろ。また俺は奇人あつかいだ」
「そっけない男だな」
「性分なんでね。それより、今度こそ勝手に出てくるなよ」
 そう小声でたしなめ、ワインを運び終えると、客間にいる主人一家のもとへ駆けていった。
 主人たちが食堂に入りおのおのの席に座る。グラスに赤ワインが注がれ、ラボー氏が神に祈りをささげると晩餐が始まった。
 小皿に料理をとりわけながら、何度かカトリーヌと視線を合わせる。
――パパンにあの隠し部屋のことを、話さなきゃ。
 午後、ふたりきりになったとき、お嬢さまはそう言ってくれた。あのまま放置するには、遺体があまりにもいたましいと判断したのだ。指輪はすでにフレデリックが所持しているし、教会の墓地に葬ることを侯爵が反対する理由はないはず。
「あの、パパン。お話があるんだけど」
 カトリーヌはこう切り出し、「なんだね」と優しく答えるラボー氏に説明した。
「昨日、パメラちゃんが古い小箱をわたしに持ってきてくれたの。それを開けたら、鍵が入っていたわ。一重薔薇の紋章の」
 べつだん驚きもせず、ラボー氏はうなずいた。
「ああ、あれか。書斎にあったやつだろう。あかずの間の鍵だ。幽霊が出るという話だが、本当かどうか。ま、触らぬ神に祟りなし、だな」
「でね、フレデリックが同じ紋章を知っていたから、わたしがたのんで開けてもらったの。そうしたら白骨の遺体が出てきちゃった」
 ラボー氏のナイフが止まった。たいして夫人は楽しそうに笑う。
「まあ、カトリーヌらしいわね。好奇心いっぱいの冒険家さん」
「おい、おまえ。呑気に笑っている場合か。祖父さんが言っていたのは本当だったんだぞ」
「でもあなた、僧侶の幽霊なんて今までごらんになったことがありまして?」
「いや」
「古いお屋敷ですもの。骸骨のひとつやふたつ、眠っていても不思議ではありませんわ。パリの地下にだって、たくさん人骨が埋まっていたんでしょう? 街を改造するとき、いつも数え切れないぐらい出てきますのよ」
「さすが怖いもの知らずのわが妻だな。カトリーヌもしっかり血を引いているのか……」
 青い顔をしながらラボー氏は、ワインを飲み干した。すぐにフレデリックがお代わりを注ぐ。
「そうか。おまえがついに開けたのか。遺体があるのなら、近いうちに教会にたのんで埋葬してもらわんといかんな。まあ、どこのだれの骨かわからんから、共同墓地でじゅうぶんだろう。まったく縁起の悪いことだ」
「なにをぬかす。海賊あがりの商人め。この私をだれだと思っておるのだ?」
 ラボー家と従僕の視線がフレデリックに集まった。すぐさま非礼をわびようとするのだが、持っていたワイン瓶を口にもっていき、ごくごくと喉をならして飲んだ。あまりにも一気に飲んだせいで、赤い液が顎を伝ってしたたり落ちた。
「どうしたフレデリック?」
 ラボー氏のナプキンを奪い取り、それでくちもとを拭う。大きなため息をついた。
「ひさびさの酒はなんとうまいことよ! しかし味は落ちるな。ポンパドール夫人とともにした、クラレットと比べるまでもない。あれこそ至高の酒だ」
「気でもふれたか?」
 主人に見下しの視線を投げかけながら、侮蔑の笑みを浮かべた。
「おい、海賊の末裔。ラボー家のしもべとこの私を同類に扱うな。身体はたしかにあやつだが、魂は第一一代カルノー侯爵アンリ・デュボア卿であるぞ」
「……カルノー侯爵? 初耳だ」
「たわけ者め。わが屋敷に勝手に住み着いたのは、きさまらのほうなのだぞ。なのに名前すら知らんとは、不遜もいいところ」
「は、はあ?」
 侯爵に身体を乗っ取られたフレデリックは、どうすることもできず、おのれのふるまいを意識のなかで傍観するだけだった。
――知らなかったラボー氏は無関係だ。ひっこめ、侯爵!
 そう心で訴えるものの、まったく無視される。それだけラボー氏の態度に業を煮やしたのだろう。
「だいたいだな、海賊の末裔と言うが、それが仕える主人に対する言葉か?」
「言ったであろう。私は肉体を借りているだけだと。こうでもしないと、不遜なきさまは私を粗末に扱うのが目に見えていたのでな」
「やはり狂ったか、フレデリック」
 さっきまで呑気に笑っていた夫人も、さすがに執事の急変にはおどいたのだろう。青い顔をして震えていた。ポールがフレデリックのそばに行き、腕をとって階下へ連れていこうとするのだが、鍛え上げられた上司の力にはまったく歯が立たない。あっけなく片手で突き飛ばされ、床に転がった。
 カトリーヌが立ちあがり、カルノー侯爵にむかって懇願する。
「お願い、おとなしくしてちょうだい! 約束どおりあなたの末裔を探してきてあげるから!」
「なら明日にでも、こいつを街へ出せ。こんなつまらん商人のために、働いている時間が惜しいぐらいだ」
「ええ、わかったわ。彼には休暇をやって、探させる」
「おお、さすが娘のほうが物わかりがよい」
 ここで喜んだ侯爵が油断した。フレデリックに肉体の感覚がもどってくる。大皿に乗っていた鶏肉を素手でつかんでべつの皿に移すと、そのバターソースを頭からぶっかけた。皿に残ったソースも舌で舐める。濃厚なにんにくと塩味が口のなかに流れこんできた。
――よ、よせ、きさま!
 侯爵の気配がなくなった。ラボー氏に不躾な言葉をあびせることもない。霊は塩をきらうと聞いたことがあったが、どうやら本当の話だったようだ。
「大変、お見苦しいすがたをさらしてしまいました。申しわけございません」
「幽霊にとりつかれていたのか……。わかったから、今夜はもう下がれ、フレデリック。 就寝前の酒も運ぶな。妻と娘にも近づくんじゃない。いいな!」
 バターソースを髪の毛から滴らせながら、こう返事をするしかなかった。
「かしこまりました、旦那さま」

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