令嬢カトリーヌと禁断なる恋の日々

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き 【02】




 朝になれば、行方不明になった自分たちを探しだしてくれるだろう。扉を叩けば、執事室に入ってきただれかが気がつくにちがいない。
 ふたりはそう話しあったあと、居心地の悪い隠し部屋のベッドに並んで腰かける。さいわいなことに臭気はないのだが、なによりつらかったのが身にしみるような寒さだった。吐く息は白く、ランプの灯りだけが暖かさを感じさせてくれる。
「こんなことになるのなら、マントのひとつでも羽織ってくればよかったです」
 そうなのだ。あの鉄扉の向こうは自分の部屋。マントもだが、毛布も暖炉もある。それがたった一枚の壁だけで、こうも寒さがちがうものなのか。
「あなたが悪く思うことはないのよ。わたしが言い出したことなんだから」
「いえ、ふだんならこんな失態はおかさないはずなんですが――」
 そして視線をほうぼうにやる。
 さっきから何者かの気配を感じてたまらないのだ。だがこんな狭い部屋に、いったいだれがいるという?
「だいじょうぶよ。朝になれば、パパンたちが見つけてくれるわ」
「それを信じるしかないでしょう。だいたい鍵だって、わたくしが差し込んだままのはず。なのにどうして」
 ここでカトリーヌが大きなくしゃみをした。何度も。
 わずかでも寒さをやわらげようと、自分の上着を脱いで肩にかけてやった。そこまではよかったのだが、今度はフレデリックが盛大なくしゃみを披露する番だった。
 ……結局、朽ちかけた毛布をふたりで分かちあうようにして、肩にかけた。ぴったりと寄りそうと、たがいの息づかいを感じるほどだ。やがてランプの油が切れてしまい、炎がじょじょに小さくなっていき――ついに闇に包まれた。
 朝までまだまだ時間が長い。不安になったのだろう、だまっていたカトリーヌがしゃべり始めた。
「ねえ、フレデリック」
「なんでしょう」
「このまえの聖誕祭のとき、わたしに言ったわよね。ずっとまえからわたしのことが好きだったって。それっていつごろかしら」
「そ、そんなこと言いましたっけ?」
 本当は忘れてなどいなかったが、恥ずかしさで否定した。
「言ったじゃない。ねえ、教えて」
 ぎゅっと手を握られてしまうと、相手の魔力に屈せずにいられなかった。
「……ここだけの話ですよ。かれこれ七、八年ぐらいまえになるでしょうか。そのとき、たまたまわたくしはひどくきげんが悪うございましてね。なれない土地での旅行で、旦那さまたちのお世話に手間取っていた。そういう日にかぎって、お嬢さまは迷子になられたのです」
「どこだったかしら。ミラノ? マドリード?」
「いいえ、霧の濃いロンドンです。お出かけに付きあわされておりました。動物園だったでしょうか」
「あ、思い出したわ。わたしがめずらしいオウムにみとれて、ママンたちとはぐれちゃったのよね。たしかひどく叱られて――」
「あのときは大変、失礼いたしました。あまりの空気の悪さで、胸がむかついていたのもあって、ひどく怒鳴ったんです。旦那さまも奥さまもその場にいないのを、いいことに。お嬢さまはそれでも、わたくしを恐れませんでした。それどころか、いつもとちがうわたくしを心配までされて……ポケットに入っていたキャンディまでくださいましたよね?」
「そうだったかしら。わたしってよく迷子になってたから、全部おぼえてないの……。そのたび、あなたに見つけてもらって、それが当たり前に感じてもいたのよ」
「まあ、それがきっかけです。も、もちろん、すぐに恋した……とか、そんなんじゃあ、ないですよ。何がなんでも、無事にご結婚されるまで守り通さねば、と決意し直したのです」
「え? どういうこと?」
 このとき、自分は余計なことを話してしまったのだと気がついた。先代との約束の件は、だれにも明かしてはならなかったのに。
「決意し直すって、まるでずっとまえから決められていたような言いかた」
「……ええーっと。今日の俺はどうかしてるな」
 暗くてたがいの表情が見えないのが不幸中のさいわいだ。思いっきり赤面しながら、仕方なくことの次第を簡単に打ち明けた。
「あのですね、先代ラボー氏と約束していたのですよ。わたくしを屋敷に置いてかくまってくれる代わりとして、カトリーヌさまがご結婚されるまで御身を守ると。だって、ラボー家にはほかにご兄弟姉妹もいらっしゃらないでしょう? 財産目当ての不埒な輩からお守りすることも当然、ふくまれています。……ただ、先代が病床にたおられてから、慢心したというか。どうにも奉公生活が性にあっていなくて、一方的に辞めてやろうと計画しました。同僚とうまくいかないのもありまして……」
「じゃあ、もしわたしがキャンディをあげなかったら、いなくなっていたの、フレデリック?」
「そう解釈されてけっこうです」
「でも、どうしてお祖父さまとそんな約束を? かくまう代わりって、悪いことでも……」
「……」
「答えられない?」
 返事の代わりに、カトリーヌの手を握り返した。強く。
 それからはふたりに会話はなかった。
 気まずかったものの、余計なことを話したくないのもあり、このほうがありがたい。そのうち睡魔がおそってきて、どちらからともなくうたた寝を始めた。


 どのぐらいたったのだろう。
 フレデリックは聞きなれない男の声で、目が覚めた。
「早く私を自由にしてくれ。封印を解きし者よ」
 眼前に立っていたのは、白い巻き毛のカツラを被った男だった。それだけではない、古風でフリルがたっぷりとあしらわれたシャツに、白い燕尾服と半ズボン、絹の靴下、黒いエナメルのパンプスという出で立ちだ。腰にはレイピアが帯剣されている。
「俺は夢を見ているんだな。ここは芝居小屋か……」
「まだ寝ぼけておるのか。ラボー家のしもべよ」
 すう、と男の白い手が伸びてきたかと思うと、頬をなでられた。ひどくつめたい。背筋にとてつもない悪寒が走った。
 フレデリックは本当に目がさめた。
「俺らを見つけてくれたのか。ありがとう」
「おかしなことを言う。私を見つけたのはきさまだぞ。封印を解いたあとは、人探しだ」
「封印? なんの話だ」
 目を細め、にらむように相手を凝視するのだが、あることに気がついた。
――灯りがないのに、姿が見える?
 朝がきたのかと明かりとりの天窓を見ようとしたのだが、まったくの闇。すぐ隣で肩を寄せて眠っているカトリーヌさえ、見えない始末。
 そしておさまることのない悪寒……。
 ま、さ、か。
 フレデリックはぶんぶんと頭を振るも、まだ幽霊らしきそいつは立っていた。
「そんな顔をするでない。このとおり、私の肉体はすでにないのだ。だが声だけでは信じてもらえぬだろう、とわざわざこの身をあらわしてやったのだぞ。感謝したまえ」
「感謝するも何もどういうことだ? 俺らは封印を解くために、この部屋に来たわけじゃない。だいたい、そっちこそ何者だ。ここはラボー家の屋敷だぞ。幽霊とはいえ、許可なく出入りすることは禁じられているはずだ」
 内心震えが走るのだが、おびえてしまえば相手の思うつぼにはまると判断し、毅然と言い返してみた。すると感心したのか、幽霊男はふっと微笑する。貴族連中がよく見せる、気品があるがどこか冷たいそれを。
「ほう、きさま、私の身分を知っても同じ口がきけるのかな? ――わが名は第一一代カルノー侯爵、アンリ・デュボア卿であるぞ」
「そうか」
「ほかに言うことはないのか、きさま」
「人間ならまだしも、幽霊になっても身分にこだわるのか。バカらし――」
 そう言い終わるまえに、全身が固まる。口もきけない。
「…………」
「私をなめるでないぞ。念力で金縛りにしてやったわい」
「…………」
「肉体のない今となっては、この帯剣はただの飾りものだが、きさまのなかに自由に入りこむことができる。娘のほうもためしてみたが、どうにも居心地が悪い。だがきさまとは相性がいい。生命にみちあふれておった、昔がよみがえってくるようだ」
「…………」
「さあ、身体を借りるぞ。そしていまいましい軟禁部屋を出て、私の子孫に家宝を渡さねば」
「…………だれが。させる――かっ!」
 気力をふりしぼり、心の奥底から抵抗してやる。金縛りが解け、じょじょに身体の自由がもどってきた。しかし痺れと悪寒は変わらない。
「さっきから聞いていれば、べらべらと意味不明なことばかりしゃべりやがる。しかも、この俺の身体を借りるだと? 寝言も休み休み言え。てめえの好きにはさせん」
「おお、私の念力を……すばらしい精神力の持ちぬしだ!」
 カトリーヌも目をさましたようで、小さな悲鳴をあげ、フレデリックにしがみつく。
「ちょ、ちょっと? だれこの喜劇役者さん?」
「お嬢さま、残念ながらまたも最悪な状況です。幽霊紳士ですよ」
「幽霊……」
「おまけに第一一代カルノー侯爵とおっしゃってます。ご存じです?」
 あっさりとカトリーヌは否定した。
「知らない」
 ここで幽霊紳士がいらだったように言った。両手を突き出して、指を小刻みに動かす。
「きさまらこそ、私の屋敷に勝手に住み着いておる庶民のくせに。さっきから不遜なことばかりぬかしておる。いいかげんにしたまえ」
「あなたこそ変だわ。ここはわたしの屋敷よ。ルネサンス時代から住んでいるんですからね」
 さすが代々の商家の娘カトリーヌ。先祖の名誉になると幽霊相手でも毅然と言い返す。
「きさまこそ何を血迷ったことをぬかすのだ。この屋敷はな、もとはカルノー侯爵家のものだった。それをきさまら平民ごときが、大革命騒ぎに乗じて留守になった屋敷に住み着いたのだぞ。私の許可も得ず改装までしおって、成金趣味もいいところだ」
「このお屋敷はラボー家のものよ。五代前からの肖像画も壁にかけているし、お祖父さまだってここでお生まれになった。あなたこそ勝手にひとの屋敷に住み着いてるじゃない? さっさともとの世界に帰りなさい!」
 侯爵はため息をつく。
「そうか。きさまは何も知らんのだな。顔を見ておればわかる。これでも生前は宮廷で臣下の連中の顔色ばかりうかがっていた。ルイ一六世王は無能だが、絶対だったからな。だれも逆らえんかった」
「うそよ、うそ。じゃあ、わたしのご先祖さまは泥棒だったっていうの?」
「ラボー家は昔、海賊をしていたのだぞ。大航海時代にひと財産築いたおまえの先祖がいて、曽祖父が事業を興し、革命騒ぎに乗じて金融業に手を出した。おかげで大儲け。屋敷を買ったのも、このころだ。王政復古のときも、貴族連中にたくさん貸し付けて、これまたおまえの祖父が大儲けしたのだ」
「そんな……、信じられない……」
「ここまで言っても信じてくれぬのか。ならば、あれを見せるしかなかろう」
 侯爵は姿勢を低くし、寝台の下を指ししめした。
「この下に隠し扉がある。それを開けてくれ」
 フレデリックは肩をすくめる。
「そう指示されても、真っ暗で何も見えません。あなたのお姿だけです」
「そうだったな。よかろう。私が灯りとなってやろうぞ」
 侯爵の姿がゆっくりとくずれていき、ただの青い光と化した。真夏の海中のように部屋を照らし出す。
 さすがにこれにはカトリーヌは肝をつぶされたようで、腰かけている寝台から立ち上がることができなかった。震えるお嬢さまを抱き上げ、「失礼します」と部屋の壁際に下ろした。
「寝台の下、って言ったな」
 指の関節を鳴らし、粗末なベッドを押してみる。わずかに動き、さらに力をこめてやると、大きく移動した。幽霊侯爵が言っていたとおり、床に扉がついている。
「だめよ、開けちゃ。何がいるかわかんないわ」
 心配するカトリーヌ。
「何がいようと、わたくしが打ちのめします。まずは幽霊のたのみをきいてやって、ここから出してもらうことが先決でしょう」
「やっぱり侯爵さまがわたしたちを閉じこめたのかしら」
「金縛りといい、閉じこめるぐらい造作ないんでしょうよ」
 フレデリックは床の扉についている取っ手を引いた。きしんだ音を立てながら、舞い上がった埃とともに棺桶のような寝床が姿を見せる。粗末な寝台とはまるで別物で、朽ちた絹布がかつての豪奢さを物語っていた。
 当然、それだけはない。寝床に横たわるのは、気品ある衣服を身にまとった――。
「骸骨か。しかもカルノー侯爵と同じ服。帯剣の鞘も同じだ」
「ほ、本当?」
 怖いながらも好奇心に勝てなかったようで、カトリーヌもおそるおそる寝床をのぞく。
「かつらが乗っているわ。まるで革命前の貴族の遺体ね」
「では侯爵のおっしゃっていたことは、真実?」
「わからない。お祖父さまと言っていたことと、あまりにもちがうんですもの」
――私の左手を見ろ。そこに指輪があろう。
 青い影はそう言った。たしかに金色に輝く輪が骨の指にからまっている。
――あの指輪はな、フィリップ尊厳王から初代カルノー侯爵が賜ったものだ。手にとれ、ラボー家のしもべよ。
 フレデリックは躊躇してしまう。
――何をためらっておるか。
「かしこまりました」
 骸骨に触れるのはいやだったが、仕方ない。慎重に手を伸ばし、ゆっくりと骨から指輪を抜き取った。冷たい感触がまた背筋を凍らせる。
 手のひらのなかで青く照らされる金の指輪は、太く無骨なデザインだった。はるか昔に作られてだけあり、最近のような精巧さはない。だが刻印の紋様に見おぼえがある。
「この部屋の扉と、鍵についていた一重の薔薇か。なるほどな」
「じゃああの紋章って、カルノー侯爵家の証だったというの?」
「そのようです。残念ながら」
「じゃあうそをついていたのは、うちのほうだったのね……」
――ようやく納得したか。ならば話は早い。日が昇ったら私の末裔を探せ。そして薔薇紋章の指輪を渡すのだ。
 フレデリックは不機嫌なまま、骸骨に向けて言った。
「おい、そっちこそ勝手に俺を使い走りにするな。だいたいだな、こっちだって日々の仕事がある。呑気にひと探しなんぞできるか」
――その娘に休暇をもらえばよかろう。
「俺のあるじはアルマン・ラボー氏だ。旦那さまに話をつける必要がある。すぐにはむずかしい」
――なかなか素直に応じない男だな。じゃあこれでどうだ。私の右手にふたつ指輪がはまっておろう。末裔を見つけ出した報酬として、きさまが受け取るというのは?
 反射的に断ろう、と思ったのだが、侯爵の右手に光る深紅と碧の輝きがフレデリックの心をとらえた。見た目でもはっきりとわかるほど、大きな宝石だ。持ち主は栄華をほこった侯爵なのだから、偽物ということもあるまい。
 もし売れば…………。
「やだ、フレデリック。その宝石が欲しいの?」
「ええ、お嬢さま。これがあれば、事業を始める資金にできます。奉公生活を辞めて、今度こそ」
「ここに来る前も、事業をしていたのかしら」
「始めるつもりでした。大金を入手する機会があったのです。ですが、仲間に裏切られて、一文無しに……」
「そんなことがあったなんて。初めて聞いた」
「まだ若かったころのお話です」
「まるでお祖父さまみたいなことを言うのね。パパンよりずっと若いのに」
――さあ、受け取れ、ラボー家のしもべよ。そしてその娘と結ばれるために、何がなんでも私の末裔を探しだすのだぞ。
「ええ、ぜひそうさせてくれ」
 フレデリックはそう答えながら、ふたつの指輪を抜き取る。またもぞっとするほど冷たい感触が、指先を伝わった。
――では、契約成立だ。私との約束が果たされるまで、きさまの身体を借りるぞ。
 青い光が凝固し、瞬時にフレデリックを包みこんだかと思うと、すぐに消えた。代わりに軟禁部屋を照らし出しのは、小さな天窓から降りそそぐ朝焼けの光だった。ためしに扉を押してみると、あっけないほど簡単に開いた。

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