壁が迫っている。すべてが白一色に染まり、それしか見ることができない。
つい数刻前まで壁は氷の結晶だったはずだ。一つ一つは小さく、握るとはかなく消えてしまう雪。革の手袋に染みを残すだけの力なきもの。
しかし侮っていた自分たちを、氷の大地は残酷なまでにあざ笑う。叫びとも悲鳴ともとれる音を頭上に響かせ、嵐が途方もない量の雪たちを身体中に叩きつける。
前に進むことも後ろに退くこともままならないまま、二人は互いの無事を祈ることしかできない。
膝まであった雪は徐々に高さを増していき、腰の位置まで積もっていった。
このままでは埋もれて窒息してしまうだろう。いや、その前に身体が凍えて動けなくなりそうだ。
残った力をふりしぼり、周囲の雪を必死にかきわける。そして一歩、また一歩と前進するのだが、瀑布のごとき落下する氷雪と純白の嵐の前では無力も同然だった。
寒さで動きが鈍くなる。どこかやり過ごす場所はないかと見渡そうにも、視界が白一色で何も見えない。
ぼんやりとしてきたせいか、今までの焦りが徐々に消えていった。このままだと眠ってしまいかねない。何度も自分の頬を叩く。
「ユーリー」
自分の名を呼ぶ声。
「なんだい?」
「眠い。……少し休む」
「我慢するんだ。それにしてもこの吹雪、いつ止むんだろう?」
返事はなかった。
傍らにいる友は目を閉じたまま動こうとしない。
「オレグ?」
頬を叩く。それでも目覚める気配はない。
「眠るんじゃない! 凍死してしまうだろっ!」
白い大地に横たわった友に雪が積もる。
ユーリーは両手で払いのけるが、無駄だと笑わんばかりに白に染めていく。
――なんて冷たい色なんだ!
そう叫んでみたが、吹雪の音にかき消されてしまった。
白き大地に夢は咲きて ―おまえは大地に呼ばれた。ここにいるのも、人々がこの白き大地に祈りを捧げているからだ。― Copyright(C)2005 ChinatsuHayase All Rights Reserved. since2005.04.22 |
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ユーリー・サラファノフは名もないある下級貴族の次男である。父も八歳離れた兄も帝国軍人としての道を選んでいたから、ユーリー自身、向き不向きなど問われることがないまま同じ道を通った。
この世に男子として産み落とされたその日から、道は決まっていたといっても過言ではない。祖父もそのまた曽祖父も陸軍士官として帝国に奉仕してきたのだから、異を唱えることは家訓に反することになる。
帝国陸軍士官学校には身体検査と身分証明書と簡単な誓約書で難なく入学できた。その反面、血筋が特権の貴族と、ごく一部の富裕層しか入学できないためか、お世辞にも出来が良いとは言えない連中も多い。
運動があまり得意でないユーリーだったが、それでも筆記などで努力すればなんとかついていけた。地道に物事をこなしていくことが苦でなかった性格が幸いしたのだろう。
士官学校に在学して二回目の晩秋だった。顔を合わせたことのない他科の学生とともに実技訓練する日々も加わるようになったころ。
そのなかに目立つ存在の学生がいた。彼は剣術や乗馬はもちろんのこと、採用されたばかりの拳銃射撃の扱いまで訓練とは思えないほど手馴れていた。四苦八苦している周囲をよそに、彼だけは何度か発砲しただけで、的の中央に穴を開けることができた。
感嘆の声があがる。離れていたユーリーも気になって、他の学生たちと見物することにした。
またあの男だ。この前の剣術でもあっという間に型を修得して、向かうところ敵なしだった。流麗な剣さばきにため息をついたことを思い出す。
拳銃は従来の小銃より銃身が短く軽量であることから、馬上や片手でも扱いやすい。その反面、重心が不安定なため照準を的確に定めても、的に当てるのが難しかった。
その日の実技は散々たるもので、ユーリーはもちろん他の学生たちも掌に小さな火傷を負っただけが成果だった。おまけに硝煙で顔も薄ら黒い。いつもながら実技は苦手なものだから、落胆のため息がどうしても出てくる。
幸いなことに周囲の学生たちも苦笑するするだけで、あとはいつものように雑談しながら、射撃場を後にしていた。
素晴らしく撃てようが撃てまいが、卒業すればここにいる連中は皆、士官として軍に就職できるのだ。戦争でも起こらない限り、安穏とした暮らしが保障されている。これが貴族として生まれた者たちの特権でもあった。
父だって兄だってそうだし、自分もそうなるのだろうからと緊迫感がない一方で、どことなく居心地の悪さも禁じえない。
明らかに自分は職業軍人に向いてないんじゃないか……。
このごろそんな不安が頭をもたげてきたからだ。それでも他に進むべき道がみつかるはずもなく、日々の学業と訓練をこなすだけだった。
射撃場から寮までの道すがら、見慣れた背中があった。同じ軍服なのになぜか印象に残っている。
そうか。覚えているはずだ。
華麗なる拳銃さばきを披露してくれた、あの男だったからだ。
近づくにつれ、その背中の周りに他の背中がないことに気がついた。それが余計、彼を目立たせていたのである。
声をかけようとして、思いとどまった。
いったい何の用があったというんだろう。
見ず知らずの輩に腕前を褒められたら嬉しいだろうか。相手の雰囲気からして、かえって白々しく思われそうな気がしてならない。
自分より高い背中が止まった。あまりにも突然だったから、歩みをとめるより早く肩と肩をぶつけてしまう。
慌てて後ろに数歩下がるものの、こちらを向いた男と目が合った。
「何の用だ?」
その表情は不審をあらわにしている。
無理もない。こちらだって特に用があったわけでもなかったのだから。
「えっと。その……」
「初めてみる顔だが」
眉をひそめる顔は遠くで見るよりずっと凛々しい。こちらをうかがう暗い灰色の瞳は、濃い茶色の髪によく似合うと思った。しかし怒気をふくんだ表情が、それらを怖いものに変えている。近づきがたい雰囲気なのだ。
遠くからしか見たことがないものだから、いまさらのように気がついてしまう。次はユーリーが表情を硬くする番だった。
「君の銃撃が素晴らしかったと言いたくて。すまない。つまらないことで呼び止めてしまった」
「それで?」
「それだけだ」
相手の顔を見るのが耐えられなくなり、ユーリーはその場を小走りで立ち去った。周囲にいた他の学生の視線も痛い。
――自分は何をしたかったのだろう?
寮にもどってからもユーリーはずっとそのことばかり考えていた。自問自答するだけで顔から火が出るような恥ずかしさだった。
幸か不幸かそれから顔を見る機会が何度かあったものの、相手も自分のことなど忘れてくれたようで、視線が合うことすらなかった。
だがそれは思い違いだったことを、一ヵ月後に知るのである。
それからも週に二度、銃撃の訓練はつづいた。「これからはサーベルの代わりに、拳銃を携帯する時代だ」と教官が主張するものの、肝心の腕がついていかない。何度的を狙っても、たまにしか当たらないものが過半数だったから、無理に携帯する必要なんてないじゃないか、と陰で言う者もたくさんいた。
ユーリーもご多分にもれず的に当たらないひとりだった。物事には何でも向き不向きがあるが、特に銃撃と剣術は苦手なのが身に染みる。
もし名ばかりの貴族とはいえ、血が流れていなかったら、役立たずな兵士そのものであったろう。彼らは前線を闘うよう訓練されるのだから、作戦指令や事務処理に長けていてもまるで意味がない。
上達の早い者は馬上から発砲する訓練へと変わる。そうでない者たちはひたすら立ったまま、的に狙いを定めていた。四角い板は縁こそ銃痕で縁取られていたものの、中央になるにしたがって、白い木目をさらしたままであった。
訓練用に支給される弾丸には限りがあるから、引き金を引くのも慎重になる。一度、一度が大切だ。そんな心構えとは裏腹に、的の中央には染み一つない。
「肩に力が入りすぎなんだ」
背後から声がした。教官ではない。
拳銃を下ろして振り返ると、鳶色の髪と灰色の瞳の持ち主がまっすぐこちらを見つめていた。喜怒哀楽が感じられない。それが余計、凛々しい目元を際立たせていた。
「君は……あの時の」
顎に手をやり、男は言った。
「私はオレグ・リマンスキー。そんなことより、もっと楽に構えてみたらどうだ?」
「楽に?」
「そう。的に当てることばかり考えず、拳銃の重さを感じるんだ。手になじませるには、武器の声を聞くのさ」
「武器の声?」
ユーリーは呆気にとられた。そんなひどく抽象的なことを指導されても困るではないか。
そんな自分の思いを読み取ったのか、オレグの頬がゆるんだ。
「すまない。つまりだな、これはどういう武器なのかまず考えてみればいい、ということだ。どう扱えばいい子になってくれるか、と」
「……」
言われることはもっともなのだが、実践するにはやはり抽象的すぎる。
どう次に行動すればいいのか思案しながらも、向き直って両手で構えなおすと、別の手が添えられた。大きく力強いオレグの手はわずか上方を狙う。
「撃て」
言われたとおり発砲する。
見事、弾丸は的の中央を貫いていた。
「うわっ!」
初めての快挙に思わずユーリーの口から歓喜がこぼれた。
「いくら軽量化したといっても、所詮、鉄の塊だから重い。無意識に重心を下にずらしてしまっていたのだろうな」
淡々と解説してくれるオレグに、ユーリーは喜びをぶつける。
「コツをつかめたような気がするよ。ありがとう……ええっと」
あまりにもさりげなく自己紹介されてしまったから、肝心の名前を忘れてしまっていた。
「オレグ・リマンスキー」
「ありがとう、オレグ。僕は」
「知ってるさ。ユーリー・サラファノフだろ」
「どうしてだ。あの時も今も名前は告げてないはず」
「しっかり名前が書いてある」
オレグは皺だらけの紙切れを指差した。支給された十数発の弾丸を包んでいたものだ。
訓練中どこかに置き忘れてしまい、そのまま紛失した前科があったから、名前をしっかり書いているのだった。また紛失してしまえば、反省文一枚ではすまされないだろう。
「それはどうも……」
オレグはさらに表情を崩す。笑いをこらえているようだった。
あまりの恥ずかしさで顔が赤くなるのが自分でもよくわかった。ついでに周囲の視線がこちらに向いてることに気がついた。
良くも悪くもオレグという人物は目立つらしい。以前、話したときも視線を感じずにはいられなかったことを思い出す。
それが契機となり、ユーリーとオレグの距離は縮まった。お互いを友と呼ぶには、長い時間が必要ないほどに。
*****
オレグ、オレグ、オレグ……。
何度その名を呼んだことだろう。
それでも彼は目を覚ますことはない。
雪は止んだものの日は落ちてしまい、冷たい銀の世界しか残されていなかった。助けを探そうにもどこに進めばいいのか見当もつかず、地図を出そうにもオレグは雪に埋もれてしまい顔を出してやるだけで精一杯だった。
「起きてくれ、オレグ。僕らが倒れてしまったら、待ってる連中、どうなるんだ? それとも無謀だったのか? 答えてくれ」
沈黙どころか瞼ひとつ動かない。あの意思の強い灰色の瞳を見せてくれない。
「行こう、と言ったのは君じゃないか!」
――頼む、目を覚ましてくれ!
そう心の中で叫びつづけるものの、理性は無駄だと告げている。
この極寒の大地に挑んだ自分たちが愚かだったというのか?
しかしこのままでは食べるものがないまま、静かに朽ち果てる道しか残されていなかったのだ。
あいつらは約束を破った。食料を分けてくれると誓ったはずなのに、あっさりと掌を返してしまった。だがそれも仕方ない。彼らだって生きるためにあえてそうしたのだから、責めれば責めるほど自分が愚かになる。
わかってはいるが、それでも何かを責めつづけなければ、自分の心が狂ってしまいそうだった。
ユーリーは危険を承知でオレグとともに、街へ赴いていた。食料を調達するため、そして、オレグを守るために。
彼さえ無事でいれば、この惨めな現実をいつか必ず脱すると信じていたから。
しかし皮肉にも死神はオレグを連れて行こうとしている。
なんて無慈悲な色をしているのだろう!
ユーリーの目に白一色の世界はそうとしか映らない。
そして自分の力が徐々に失われているのも、感じずにはいられなかった。