―冬の章 02―




 月が冴え冴えと雪原を青白く照らす。ときたま木々の枝から雪が落ちる音がするだけで、あとは精気を感じることができない絶望の世界だった。
 ひどい睡魔に襲われるたび傍らの白い塊を目で確認する。ここで自分も倒れてしまえば、誰が残された仲間たちを救うのだろう。
 しかし手ぶらでおめおめともどっても意味はない。連中が待っているのは食料なのだから。
 ならば自分もここでともに果てるほうがいいのではないか。
 決して良案でもなんでもないが、ともに天界へ旅立つのが自分の運命だったのだろう。
 今、この瞬間まで生き抜いてきたのは、オレグがいたからだ。
 いつもいつも大きな夢の助けになればと思って、自分は支えてきたつもりだ。足でまといだったかもしれないが、それでもともにいるだけで嬉しかった。
――僕をおいて先にいくなんて、ずるいなあ。それとも、アリサが待っているから?
 ふとそんな言葉が頭をよぎった。
 もし彼女が存命ならば、ここまで彼の心を支配することはなかっただろう。それは恋というより、もはや執着と呼ぶにふさわしい。そして憎しみへと変化するには、そう時間は必要なかった。
 オレグはあの日以来、数えるほどしかアリサの名を口にすることはなかったが、彼の何かが大きく変わってしまったのも否めなかった。
 そして行きついた道の終わりがこの現実だ。
 これでよかったのかい、オレグ……?
 いいのかもしれない。
 もしかしたらここで初めて、本当の安らぎを得たのかもしれない。
 気高き志など、所詮、砂の楼閣だったのだ。
 あまりにも無謀で、あまりにも無知で、あまりにも無情で……。
 ユーリーは目を閉じた。
 永遠に冷たい世界と別れを告げるために。
 …………。
 犬の鳴き声がした。
 何もないと思っていたが、たしかに生命の声を聞いた。
 飢えた狼の鳴き声なのだろうか。
 そうだ。そうにちがいない。こんなところで助けられるなど、微塵も期待していない。
 神はどこまでも自分に残酷だ。安らかな凍死でなく、獣に食いちぎられる最期を与えるのだから。逃げようにも力は残ってないのが悲しくて仕方なかった。
「どうした、おまえたち!」
 犬の鳴き声が大きくなり、いっせいに賑やかになる。ユーリーを毛深い大型犬たちが取り囲む。どれも皆、身体に綱をつけており、そりへと繋がっていた。
「誰か倒れているのか?」
 犬たちが一斉にほえる。
「おとう、人が倒れてるって!」
 訛りがひどいがたしかにそう聞こえた。
 頭から分厚い獣毛皮のコートを着込んだ二人が雪をかきわけ、埋もれたユーリーの腕をつかむ。
「動ける?」
 神経まで冷え切ってしまい、少年の声に反応することができなかった。
 親子はそりからシャベルを取り出すと、月明かりのなか懸命に掘り進める。待機している犬たちが鼻を鳴らし、励ますように小さくほえてくれた。そして身体が雪原から救出されると、犬たちが争うようにユーリーの顔を舐めだす。
「よかった。この人は無事みたいだ」
「さあ、早くもどろう」
「でもおとう、もうひとりいる」
「だめだ。犬たちを見ろ」
 もう一つの白い塊にも反応をしめすものの、犬たちはすぐにユーリーのほうにもどってしまった。明らかに生命を感じない、といいたげに。
「この人、とても運がいいね」
 少年がそうつぶやくと、体格の良い父親はユーリーを担ぎ上げてそりに乗せる。ここしばらくまともに食べていなかったから、あの少年より軽かったかもしれない。


 親子の住まいは粗末な小屋だったが、丈夫な丸太を組んで作られており、外観からは想像できなほど暖かく快適な空間だった。壁には色とりどりの幾何学模様の絨毯が張られている。装飾かと思ったが、防寒対策なのだと後に知ることになる。
 コートを脱がされたユーリーは、毛布で身体を巻かれて暖炉の前に移動させられた。起き上がる体力もなく、そのまま敷物の上で横になる。
 ゆらめく炎を見ていると、心の底から安堵したせいかそのまま眠ってしまった。
 次に目覚めたとき、濃い獣の臭いに気分が悪くなる。それもそのはず、敷物は熊一頭の皮を剥いだだけの簡単なものだったからだ。洗浄してないのがわかる。毛布も汚れきって知らない人間の体臭が染み付いていた。
 ここは?
 雪の中で行き倒れになったんじゃ……。
 慌てて置きあがろうとしたが、鉛のように身体が重いし、締め付けるような痛みが頭を襲う。
「無理するな。三日も寝てたんだ」
 聞き覚えのある少年の声がした。見上げると黒い瞳の少女がこちらを見つめている。歳のころは十一、二ぐらいだろうか。直毛の長い黒髪を束ねた少女は、いたずらな笑みを浮かべ、指をさす。
「こんな完璧な金の髪をした人、見たことないよ。しかも睫まで金色。おまけに目は空色。同じ人間じゃないみたい」
 失礼だな!
 そういうおまえこそ、目が細くて鼻が低いじゃないか。同じ人間とは思えない。
 言い返すだけの体力がもどってなかった。心の中でそう悪態をつくだけで精一杯である。
「コートだって仕立てはいいね。まるでどっかのお偉いさんみたい。でも、本当のお偉いさんだったら、こんなにボロになるまで着てないか」
 それは僕だって言いたいよ……。
 ユーリーは珍しい異国風の少女の格好に目を奪われる。
 詰襟の白く長い上着の裾には細かい刺繍が施され、羊毛でできたズボンは暖かそうだ。ブーツも履いているし、動き回るにはちょうどよいだろう。かつて帝都で見てきた女性たちは、どんなに貧しくともエプロンとドレス姿で、髪だって無造作に束ねてなく、きっちりと結い上げていた。
「もういいだろう、マナ。ほら、お客人に食事を」
 野太い声で髭づらの父親が、匙の入った碗を片手にやってきた。娘に手渡すと、すぐに毛足の長い毛皮と帽子を着込んで表へ出て行ってしまった。
「おとう、兎を狩りにいったんだ。急に客が来たからね。まだ話せない?」
「…………いや。少しは」
「へえ! 声もちがうな!」
 それは発音がちがうからそう聞こえるんだろ?
 となんとか言い返そうとする前に、口の中に匙をつっこまれる。
「うぐぐ……」
「早く体力つけてくれ。悪いけど、客を養うだけの食料が残ってない」
 それはつまり、とっとと出て行けということだろうか。
 複雑な思いでユーリーは温かい塩味のスープを飲み込むのだった。


 残念なことに父親は兎どころか鼠すら捕らえてくることはなかった。この時季はあまりにも気温が低すぎるため、動物も植物も眠ってしまっているからだ。よほど運がよくないと動き回る姿を見つけることが出来ない。
 それでも自分のために狩にでかけてくれた父親に、ユーリーは労をねぎらう。
「ありがとうございます。助けてくれた上に、こうして僕のために時間を割いていただいて。どう感謝の言葉をのべていいのやら」
「ああ。ゆっくりしていけ」
「身体が思うように動くようになったら、出ていきますから。それまでどうか、お世話になることをお許しください」
「そうか」
 父親は無表情なうえ口数が少ない。これだけ会話するのがやっとだった。迷惑に思っているのかどうか、こちらからうかがい知ることが出来ない。その代わりマナは好奇心丸出しで、暇さえあれば話しかけてくる。
「そんな馬鹿上品な言葉、誰だって意味よく分かんないよ。おとうだって返事に困るだろ」
「どこが上品なものか。これでもくだけた言葉を使ったんだぞ」
「ふーん。やっぱり、ただの人じゃないんだ。もしかして帝都から?」
「ああ」
「帝都の人ってみんなそんな言葉使うのか? コートだっていいもの着てるし」
「いや、一部の限られた人だけだよ。貴族と上流階級の人間なら、礼儀をわきまえないと何もできやしないからね」
「あとの人は?」
「さあ。一言では説明できない。君より豊かな人もいるし、そうじゃない人々も大勢いる」
「それって食うものがないってことか?」
「簡単に言えばそうだな。着る物も住むところもない」
「嘘みたいだなあ。都ってすっごい豊かで何でもあるって、村長の息子が教えてくれたのに。それともおまえが嘘つきとか」
「毎度、毎度、失礼な娘だな……」
 一気に話したせいか、また疲れがやってきた。「すまない」と断りを入れ、ユーリーは再び横になった。一日二度の簡単な食事と長い睡眠が唯一で最良の薬だ。
 それでもおかまいなしにマナはしゃべり続ける。
「だってさ、その話からするとおまえって、その貴族か上流なんとかっていう人間だろ? なんでこんなとこで行き倒れになってんだよ? なあ、なあ……」
「……」
「寝ちゃった。あーあ……。もっといろんなこと聞きたかったのに」
「もういいだろ、マナ。お客人は疲れてる」
 目を閉じたまま質問をやりすごす。
 誰だってそう思うだろう。
 オレグだってこんな結末、まったく予期していなかったはずだ。
 僕だって……。
 涙がにじんでくるのがわかったが、必死にこらえた。
 こんな姿、親子には見せたくない。
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