―冬の章 14―




 ユーリーとオレグは着慣れない紅い軍服に戸惑っていた。
 彼らは学生だから本来、飾紐の付いた礼装用軍服は着用できない。あつらえるのは卒業前と決まっている。個人的な社交場なら下士官軍服でも問題ないのだが、今宵の夜会は子爵が正式に催すものだから、さすがにそれでは失礼にあたってしまう。
 それを考慮して、子爵令嬢は教官を通して招待状を送ったのだろう。彼女の目論見どおり、教官たちが特別に礼装用を貸してくれたのだ。ただ、ユーリーが飛び入り参加になったため、服の大きさが合わず、ズボンの皺が多いのが気になる。
 夜会での作戦を話し合った後、馬車の中でユーリーは腹の底から大きく息を吐いた。
「はああ。緊張するよ。こんな上流階級の社交界、初めてだから」
 向かい合って座っているオレグも、浮かない顔で景色を眺めている。
「おまえ一応、貴族だろう。しっかりしてくれないと、私が困る」
「だから言ったろう。僕らのような名ばかりの貴族は、出世でもしないかぎり庶民と大差ない生活をしているって」
「兄貴が出世しているじゃないか」
「兄貴は兄貴。僕は僕。世界がちがうよ」
「そうか」
 それっきり会話がつづかないまま、馬車はとうとうイリューシン子爵邸に到着した。すでに夜会は始まっており、屋敷の大広間へと案内される。
 イリューシン子爵家は財力があることで知られていた。帝都だけでなく地方にも事業を興しており、その収入だけで王室経費を凌ぐのではないかと噂されているぐらいである。皇帝がそれを恐れてか、どんなに献金してもイリューシン子爵は上の爵位を授けられない。
 そんな子爵の莫大な財力は屋敷の広さが物語っていた。ユーリーが以前訪れたアリョーヒン伯爵邸の比ではなく、まるで小さな城である。玄関から大広間へとつづく長くて広い廊下も磨き上げられた大理石がまぶしいほどだ。
 土地の限られている帝都でここまで贅沢に空間を利用できることそのものが、子爵の財力を如実にあらわしていた。
「こちらにございます」
 案内係の執事が扉を開くと弦楽器の旋律と、にぎやかな男女の談笑が聞こえてきた。白粉と香水と食べ物が混じった独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
 緊張しながら一歩また一歩と中へ進んだ。ちょうど舞踏の真っ最中で、華やかな夜会服に身を包んだ男女が輪を描くように踊っていた。
 もちろん知らない顔ばかりだから、居心地悪いことこの上ない。とりあえず目に付いたテーブルの前に移動すると、普段の食事では口にできない上品な食事が広がっていた。
「そういえばここに来る前、何も食べてなかった」
 ユーリーは腹の虫が鳴るのを感じずにいられない。
「食っていいのか? 誰も手をつけてないようだが」
 小声でそう尋ねてくるオレグに、ダメ出しをする。
「まだ舞踏の最中だからよしたほうがいい。はしたなく見える」
「まるでおあずけ状態の飼い犬だな……」
 オレグは苦々しくそう吐き捨て、テーブルから離れた。大広間の壁際に移動し、難しい顔で踊る男女を見つめる。ユーリーもすぐに隣に移動し、小声で忠告をする。
「笑顔を忘れずに。見知らない同士でもここは社交場なんだから、妙な噂をたてられないように気をつけて」
「ああ、もちろん」
 口調は棒読みで、面白くないことがありありとうかがえた。意思を抑えることはできても、率直なオレグは己の感情を抑えるのが苦手だ。それが悪い方向に流れなければいいのだが。
 二人の前にやってくる者がいた。勲章をいくつもぶら下げた初老の軍人だ。恰幅のよい彼は手を差し出してくる。
「お初にかかる。私は帝国陸軍第五師団団長少将のホトキンと申す」
 そうか。自分たちは礼装軍服を着ているから、そう思われても不思議ではない。
 問題はどう取り繕うか。しかも少将だなんて、まず口をきくことなどありえない階級だ。
 ありったけの営業的な笑みをみせながら、ユーリーは握手に応える。
「こちらこそ初めまして。僕はユーリー・サラファノフと申します」
「貴殿はどこの所属か?」
「それはですね……えっと」
 とっさにいい嘘が思い浮かばない。冷や汗が額から落ちそうだ。
 すう、と前に出てきたオレグが、少将と握手する。
「私はオレグ・サラファノフ。ユーリーの兄だ」
 ええ! いつからオレグが僕の兄貴に? しかもまったく見た目が似てないのに。
「申し訳ないが私たちは地方の駐屯基地中隊から出てきたばかりだ。叔父にこの夜会に招待していただいたのだが、いかんせん場違いだったようだ。まだ中尉に昇格したばかりだというのに、身に余る招待で恐縮している」
 でたらめを並べるオレグは余裕の笑みを見せていた。あまりにも堂々とした嘘に、ユーリーは必死になって笑いをかみ殺す。
「それは、それは。遠路はるばるご苦労。して、その叔父上とはどなたです?」
「決まっているだろう。イリューシン子爵だ」
 少将の顔がたちまち引き締まる。目上を敬うような視線までよこしてきた。
「さようでございますか。叔父上が子爵殿とは。いやはや、こんなにもご立派な甥殿をお持ちとは、子爵殿も幸せでございますな。我が帝国陸軍も未来永劫安泰なのはまちがいありますまい。どうか今後ともよきはからいをお願いいたします」
 相手を真っ直ぐ見つめながら、オレグは堂々と答える。
「お言葉、ありがたく受け取らせていただく。後で叔父上に報告しておこう、ホトキン閣下」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
 いつの間にか立場が逆転したらしく、少将は自分たちに慇懃なまでの礼を返してきた。嘘がばれないうちにと、ユーリーはオレグを引っ張るようにして、元いたテーブルの前までもどってきた。
 近くに人がいないのを確認すると、笑いを吐き出さずにいられない。
「あははは! お、おかしすぎるっ!」
 オレグもどっと吹き出した。彼も必死にこらえていたようで、腹を抱えながら半ば涙目になっていた。
「どうみても兄弟じゃなかろうがっ!」
 ひとしきり笑いをおさめ、またお互いの顔を見る。やはりおかしくてたまらないから、人目もはばからず笑ってしまう。
 ちょうど演奏が終わり、踊っていた人々が談笑しながらこちらへとやってきた。
 ユーリーはすぐさま息を整え、真面目な顔にもどったオレグとともに、招待主である子爵令嬢を探すことにした。
 接触したら失礼のないようにしつつも、オレグを見初めたという令嬢を失望させなくてはならない。それには第三者であるユーリーが、彼の出自を正直に告白するほうがよいのではないか、という結論に達した。オレグ本人が言ってしまうと深刻さが足りず、気にしてないように受け取られかねない。子爵令嬢と金貸屋の息子ではあまりにも釣り合いがとれないし、父親である子爵だってまず認めないはずだ。
 それがユーリーとオレグが馬車の中で決めた計画だった。
 広間の中央に進み出る。子爵令嬢はオレグの顔を知っているから、向こうから接触してくるはずなのだが。
 再び演奏が始まった。踊れないオレグは真っ先に下がり、パートナーのいないユーリーもゆっくりと壁際に移動する。
 何人かの若い女性がオレグのほうに歩み寄ってきた。どうやら踊りのパートナーになって欲しいようで、脈ありげな視線をちらちらと送っている。彼は一切、視線を合わそうとせず無視を決め込んでいた。
 本来ならば男性から相手の意思を汲み取り、その気がなくても一度は踊るのが礼儀となっている。どうしても無理な場合も、手の甲に接吻をし、侘びを入れなくてはならない。
 社交界とは縁がないと言っていただけあり、これでは逆に目立ってしまう。女性たちも不審に思ったらしく、女同士集まってなにやらひそひそと小声で話し始めた。
 ユーリーは気がすすまないまま、彼女たちの前にやってくるとパートナーを申し込むことにする。少しでも気をそらせておかなくては。
 曲調がゆったりとしたものに代わった。ユーリーの前を颯爽と黄色いドレスの女性が通り過ぎ、オレグの前に立った。
「ごきげんよう。オレグ・リマンスキー。なかなか見つからないと思っていたら、こんな壁際にいらしたのね」
 ユーリーは申し込みかけたその手を引き、「申し訳ない」と女性たちに詫びを入れる。当然、怪訝なまなざしを向けられるが、今はそれどころではない。
 きっと彼女が子爵令嬢だ。
 高鳴る鼓動を感じながら、二人のそばに近づく。
 あいさつが交わされているはずだが、彼は腕を組んだまま令嬢を冷たい視線で見ているだけだ。
「君が招待状の主、レイラ・メルクーシン令嬢か?」
「ええ。それにしても、随分なごあいさつね。よほどわたしの招待がお気に召さなかったのかしら?」
「当然だ。知らない輩から突然、こんな場に連れ出されたのだからな」
「あら……。それは失礼しましたわ。明日から夏期休暇だとお聞きして、急いでお話する場をいただきたかっただけですの」
「子爵令嬢とつければ、私が喜ぶとでも?」
「まさか。それでもあなたのことだから、いらしてくれると思ってたわ」
 子爵令嬢――レイラは扇子を口元にあて、青い瞳を細めた。それは妖艶だが挑戦的な笑みだった。
 黄色いドレスの彼女は、ユーリーが踊ろうとした女性たちよりずっと美しい。結い上げた栗色の髪には純白の百合が飾られ、長身を引き立てている。愛らしい可愛さとは対照的な美貌が、逆に近づきがたい印象を与えていた。
 レイラが右手をオレグの前に差し出す。踊りの合図だ。
「待ってください。彼の代わりに僕が踊りましょう」
 彼女の視線がこちらに移った。いかにも不審そうなまなざしでユーリーを見つめている。
 怖い。蛇に睨まれているみたいだ。
 子爵令嬢だけあり、物怖じしない堂々たる雰囲気が伝わってきた。
「すまないが私は踊れない。彼が代理だ、レイラ嬢」
「下手な冗談はよして」
「いや、本当に社交界とは無縁なんだ。悪い」
「……」
 腕を組んだままのオレグを見つめながら、レイラは差し出されたユーリーの手をとった。曲調が変わり、広間の中央に出て行くにはちょうどよい機会だった。


「ねえ、本当に彼は踊れないの?」
 ゆったりとした曲に合わせながら足踏みするユーリーに、パートナーとなったレイラがそう言った。納得できないといったふうに目を細めて、壁際にいるオレグを見つめている。
「そうだよ。オレグの実家は金貸屋で、こういう場所とは無縁な生活を送っていたとか」
 たちまちレイラの目が大きく見開かれた。
「なんですって?」
「その出自のおかげで、苦労している。それでも彼は強いから、僕のほうがいつも助けてもらっているようなものだけれどね」
 淡々とユーリーは説明した。感情を入れて話すと、周囲に聞こえかねないからさりげなく会話をすすめる。
「それに婚約者がいるとか言ってたよ。士官学校を卒業したら、地方に赴任してそこで家庭を築くのが夢らしい」
 添えられたレイラの手が痛いほどきつく、ユーリーの肩を握った。明らかに動揺している。
「そう、そうだったの。だから彼は故意に負けたのね」
「え?」
 驚いた。
 まさかあの決勝戦での負け試合を見破っていたとは。
「どうしてそんな愚かなことをしたのか、とても気になっていたの。だから一度、話してみたかった」
 レイラの視線がこちらに移った。もう用はないでしょう、といわんばかりに踊りながら場の端へと誘導される。
「お願いですから、このことは内密にしてください、レイラ嬢」
「もちろんですわ」
 令嬢らしい華やかな笑みをみせ、彼女はオレグのもとへと歩み寄っていった。少し距離を置き、ユーリーは二人の様子を見守る。
 相変わらず憮然とした態度を崩さないオレグに、レイラが一方的に話しかけているようだ。オレグがときおり首を横に振っては、言葉を返している。
 笑顔を見せない彼に苛立ったのか、レイラはしばらくするとドレスの裾を広げて礼をし、その場を去ってしまった。
 子爵令嬢はオレグのことを諦めたようだ。あまり気分がよいやり方とはいえないが、作戦が功を奏したといえる。
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