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雪解けが始まった。永遠につづくかと錯覚するような冬が終わり、これから待望の春がおとずれる。
湿った土からは早くも緑の生命たちが、わずかに顔をのぞかせている。これ幸いとばかり、収容所の囚人たちは山羊のように、その草の芽を摘み取る。そして鍋に入れ、煮えるやいなや貪るように食べた。
一ヶ月前に村長から買い取ったジャガイモがよかったのか、あれから壊血病で命を落とすものは出てこなかった。ダニールやコンドラートもあの日のスープ以来、少し元気をとりもどして雑談ができたぐらいだ。
やはりあれは壊血病にきく食べ物だったのだと、ユーリーは確信した。
ならば次の冬に備えて、栽培しておくべきだろう。たとえ悪魔の食べ物だとしても、餓死する道は避けたい。
マナたちの屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。
悪魔の食べ物ならば、彼らがあんな顔をして、寒い冬をすごせるはずないじゃないか。
問題はどこで種を手に入れて、畑をどうするか。そして栽培方法も請わなくてはならないだろう。農業はもちろん家庭菜園すらたしなんだことがないから、何から始めてよいのか見当がつかなかった。
「まずはあの村に行くしかないか……」
大地に芽吹いたばかりの雑草をむしりながら、ユーリーはそうつぶやいた。
「それは難しいよ」
顔を上げると青白い顔のペトルシキンがいた。ユーリーの隣に座り、その場に生えている雑草を摘む。
「どうしてです?」
「長年いる男から聞いたんだけどね、雪解けが終わったら僕たちは材木を切りに行かなくてはならない。それを売った金で食料を買い込むのがここのやり方だ」
「今のように自由に出歩ける時間がないと?」
「そうだな。朝から晩まで労働だ。冬とはちがって、逃げ出そうとすれば可能だから、監視も厳しくなるらしい」
「そんな……」
「ここに来たときは初冬で、伐採作業がとうに終わったころだったからなあ」
目の前が暗くなる。せっかく次の冬に備える光明が差してきたというのに……。
「僕たちが助かったのは、ジャガイモを食べたからです。副所長だってそれを知らないはずはない。そもそもその方法で、この冬は最悪だったじゃないですか」
「同感だ」
ペトルシキンは摘んだ雑草を、ぽいと口に入れた。
「まずい……」
「当たり前です。本来は食べ物じゃないんですから」
「だな。あのジャガイモとやら、なかなかうまかったと僕も思ったよ。所長がもどってきたら、かけあってみる価値はあるんじゃないかな?」
温和な笑みを浮かべて、ペトルシキンは大きくうなづく。
思いがけず味方ができ、ユーリーの気持ちがわずかだが軽くなった。
「やっぱり僕はペトルシキンさんが好きだ」
冗談めいた口調でそう言ってやると、楽しげな笑いが返ってきた。
「あはは。思いがけず告白されてしまったよ。天界のリマンスキー君が嫉妬しているかもしれないね」
夢の中で再会したオレグが目に浮かんでくる。
無表情だったが、自分を抱きしめてくれる腕は誰よりも力強かった。思い出せば今でも感触がよみがえってくるぐらいだ。
ユーリーは己の腕をさすると、ゆっくりと立ち上がった。
「さっき副所長に許可をもらいました。明日、オレグの遺体をこっちに運んでもいいって」
両手に雑草を持ったまま、ペトルシキンも立ち上がる。
「君ひとりでかい?」
「まさか。今度はちゃんと監視官がついてきます。クラミフさんがね」
「だったら安心だ。彼なら悪いようにしないよ」
「ええ。だから頼みました。きっとオレグだって……」
空を見ると地平線がほのかに赤く染まっていた。そろそろ自由時間が終わるころだ。
明日が待ち遠しい一方で、怖くもあった。
まだ心のどこかでオレグの死を認めたくない自分がいたからだ。
夜が白々と明ける前、収容所をクラミフとともに出発した。荷馬車に乗って遭難した地点へと進んでいく。
日が天高くのぼったころ、見覚えのある針葉樹の森が見えてきた。あの奥に村があってその森の手前で行き倒れたから……。
マナの父親が犬ぞりに乗せてくれたとき、ここを目指せばいいと長い棒の先に赤い布を結んだものを突きたててくれた。白い世界のなか、唯一の赤だから遠くからでも確認できるはずだ。
馬の手綱を握り締めながら、クラミフが言った。
「このあたりでいいのか?」
「ええ、たしかにそのはずですが……」
じっと目を凝らして周囲を見渡す。溶けた雪のなかに赤い点が見えた。棒が倒れてしまったから、なかなか気がつかなかった。
「あそこです!」
ユーリーが指し示した場所には、人ひとりの大きさの雪塊が残されていた。すでに溶けかけて、見覚えのあるコートの袖がのぞいている。その先には手袋に包まれたままの手があった。
クラミフが荷馬車を止めるとすぐに、シャベル片手にユーリーは飛び降りる。遺体に積もったみぞれ状の雪をのけていった。クラミフも手伝ってくれ、たちまち懐かしい姿があらわになっていく。
地面を背にしてオレグは眠っていた。苦しさも悲しさも感じられない穏やかな寝顔である。
凍りかけた水滴が全身を濡らして、太陽の光を反射する。神々しくもあったが、血の気のまったくない人形のような肌が、生きるすべを失ったことを物語っていた。
「おまえさんの言ったとおり、彼は苦しまずにすんだらしいな」
シャベルを肩に乗せながら、クラミフがいつもと変わりない表情でそう言った。彼はこのような光景に慣れているせいか、トーシャの遺体を見てもまったく動揺していなかったことを思い出す。
「ええ。それだけがせめてもの救いです……」
まったく傷一つない美しい遺体を見ていると、まだオレグが死んだことが信じられなくなってくる。今にも目を覚まして、自分の名前を呼んでも不思議ではないほどだ。
ユーリーはクラミフとともにオレグの遺体を荷馬車に乗せ、早々にその場を後にした。早くもどらないと、日が暮れてしまう。自分と彼が仲が良かったことを知っているクラミフが気をきかせてくれ、帰りの手綱はすべて彼が握ってくれることになった。
台車の上で揺られながら、永遠の眠りから目覚めない友の隣に座る。
「よかったね、オレグ。これで仲間たちのいる丘までもどれるよ」
もし彼が目を覚ましたらどう答えるだろう?
――またあのうるさいダニールもいるのか? まったくよくないな。
「何言ってるのさ。彼もとても君のことを悲しんでいたよ。僕が収容所にもどった日から、すっかり話さなくなっちゃって、コンドラートも心配してたぐらいだ」
――それは勘違いだ。あの食事じゃ、誰だってまいる。私のことより皆、そのほうを気にしていただろう?
「そりゃあ、たしかにそうかもしれないけれど、君がいるのといないのでは、僕らの心はちがう。君がいたから初めてあの丘に連れて行かれたときも、希望を捨てずにいられたんだ」
――そうだといいが。それで都合が悪くなれば、また私を裏切るつもりだろう。あの嘘つき貴公子のように。
「……え、どういうことだい、オレグ?」
自問自答していたはずだが、思いもよらない言葉が頭のなかに響いた。
嘘つき貴公子って?
亜麻色髪の彼のことが脳裏に浮かぶものの、そうだと断定できるはずもなく。
「誰のことだい? 僕の知らないところで何かあったのかい?」
ユーリーは優しくそう問いかけながら、オレグの頬を撫でた。氷のように冷たくて、とてもではないが意思をもっているようには感じられない。
「気のせいか……?」
でも、それにしてははっきりと言葉を聞いたような気がしてならない。
「答えてくれ、オレグ」
ユーリーの心のなかに、オレグの言葉は入ってこなかった。
「いつものように、僕に話してくれ」
かつて淀みなく言葉がつむぎ出されていた唇に指をあててみる。
「このままじゃ、何もわからない…………」
そして命を吹き込むように、自分の唇を相手の唇に重ねる。言葉はなにも返ってこず、冷たい感触だけが残っていた。
きっと言いたくなかったのだろう。
思わず漏らしてしまったその言葉が、何を意味するのかユーリーにはわからなかったが、誰にだって知られたくないことはある。秘められた過去をそのまま棺桶に持っていきたいのがオレグの意思ならば尊重してやりたい。
「ごめん、オレグ」
そして本当にお別れだと念をこめて、頬に口づけした。
そのとき、大きく荷馬車が揺れた。衝撃で身体が投げ出されそうだったほどだ。
冷や汗をかきながら、ユーリーは前方で御者をしているクラミフに言った。
「どうしたんです!」
振り返ったクラミフは蒼白な顔で答える。
「大きな岩が車輪に当たったみたいだ。……おかしいな、来るときはこんな岩、なかったような気がしたんだがな」
「もしかして道を間違えたとか?」
「それはない。ほら、あの千年杉が目印だ」
たしかにクラミフが言うとおり、はるか左手の前方に巨大な杉の木がある。長年この地で働いている彼が言うのだから、まちがいはないはずだ。
とにかく馬車は無事だったのだし、事故がなくてよかったと胸をなでおろす。さきほどの衝撃で、オレグの身体の位置がずれていた。不恰好なまでに身に着けているコートが乱れしまい、それを丁寧に直してやる。
…………。
硬い感触があった。背中の縫い合わせ部分から、ごくわずかだが金の輝きがもれている。
「まさか……」
ユーリーはその縫い目をわずかにほどき、指で中味をつまんで取り出した。クラミフに見られないよう、前方に背中を向けたまま。
案の定、それは金貨だった。しかも帝国中でごく限られた数しか発行されていないという、アレクセイ五世金貨である。ユーリー自身も講義で一度しか目にしたことがないから、何度も目をこすって確認したほど、それは非常に高価なものだ。
たしか一枚あれば、競走馬を十頭は買えると聞いたことがある。普通の金貨ならば一枚につき並みの馬一頭だから、銀貨に直せば一万枚の価値はあろうか。収容所の一年分の食費がこれで充分に足りる。おつりがきてもおかしくないはず。
こんな高価なものをなぜ?
アレクセイ五世金貨はまだコートのなかに縫い付けられており、全部で五枚あった。そして他にも何かあるのかもしれないと、衣服をあらためて確認してみる。地図やコンパスは当然だが、内ポケットに山羊革の煙草入れが出てくると、不思議に思わずにいられない。
オレグは喫煙していなかったはずだ。
これも慎重に蓋を外し、クラミフに見られないよう中味を確認する。
出てきたのは折りたたまれた紙だった。広げてみると、急いだらしく走り書きのような文字が並んでいる。
『ユーリーへ。』
「……そんな」
最初のその文字に、ユーリーの心臓が激しく高鳴った。
――彼のことだから、この状況を前もって察知してたはず。何か残しているような気がしてならないのだが。
ペトルシキンのその言葉が思い出される。
彼の予想通り、オレグは己の死を覚悟していたというのか?
震える指先で紙を持ったまま、文字の続きを目で追う。
ユーリーへ。
今宵、私は雪明りのもとこれを書いている。
表は寒くて手がかじかむから、もし読めなかったら申し訳ない。
誰にも知られたくないから、こうするしかなかった。
明日、私たちは近くの街へ食料を買出しに行くが、そのまま帰ってこないつもりだ。
あと十年もおまえをあんな場所に閉じ込めておくなど、私にはとうてい耐えられない。
元はといえば、すべてこの私が巻き込んでしまったためなのだから。
だから、買出しを口実に、国外へ亡命する。
私が所持している金貨は以前、父親が私のために極秘に送ってくれたものだ。
それを宮廷官吏への賄賂として送れば、すぐに亡命できるからと。
だがこれではひとり分にしかならない。
おまえを見捨てて、ここを出ていくわけにはいかない。
二人で逃げ出す機会を日々うかがっていた。
そして明日が絶好の機会だ。
だがおまえのことだから、仲間を見捨てるような真似をするなと反対するだろう。
初めからだますつもりだった。
それでもし、私たちが重要犯罪者として指名手配され、その前に国外へ逃げ出せず、万が一、私の命がなくなるようなことがあれば、この金貨を使って欲しい。
コートの背合わせの部分に、五枚ほど縫い付けている。
アクレセイ五世金貨だから、賄賂に使えるだけの価値は充分にあるはずだ。
どんなことがあっても、おまえだけは守るつもりだから、生き抜いてくれ。
さよならは書かない。
そのような言葉、私たちには不要だと信じているから。
オレグ・リマンスキー
ユーリーはすばやく紙を折りたたむと、煙草入れにもどした。
遺品として残してしまえば、中味を読まれてしまうから、それも自分の持ち物としてコートのポケットにしまいこむ。
そして金貨も自分の上着の懐にしまった。
衝撃的な真実に心臓の鼓動が止まらない。
これでよかったのかい、オレグ?
僕にはわからない。
君にもわからないだろう。
なぜなら今、僕はここにいるのだから。
君だけ先に天界へ召されたのに。
冬の章〜おわり