―春の章 15―




 コンドラートの後をついていくユーリー。帝都の大通りから外れた裏道を歩く。
 馬車が往来する賑やかな表とは対照的で、こちらは市井の人々がせわしげに道を行きかっている。小さな商店が立ち並び、物売りの声も聞こえ、世間話に花を咲かせる主婦たちの輪もあった。近くに水汲み場があるのだろう、洗濯物を入れた桶を抱えている。
 そんな街の一角に立つと、コンドラートは笑顔でビラを配り始めた。そのなかの三割ほどをユーリーに渡す。
「いいかい、笑顔で。これが一番大事。次に字が読めそうな輩になるべく渡して欲しい。何が書いてあるのか理解できなったら、意味がないからね」
 そう言われてもユーリーには誰が識字者なのか見当がつかない。首をかしげてみせる。
「そうだなあ。まず、身なり。僕たちのような輩はまず大丈夫だろう。次にご婦人方は読めない確率が高い。これも身なりがよければ心配ないが、それでも受け取ってくれる場合は『ご主人様のよい働き口がみつかるかもしれない』とでも付け加えてみたらいい。……まあ、これも遠からずはずれではないけれど、何も言わなかったらすぐに焚き付けにされてしまうだろうから」
「ええ、なんとかやってみます」
「頼むよ。人手不足で僕は執筆に没頭したくても、なかなか難しい。君が参加してくれると本当に助かる」
 ユーリーは複雑な思いでビラを配りだす。手渡す間合いがつかめず、差し出す前に相手に去られてしまった。それを何度も繰り返すうち、徐々にだが興味をもった人々が受け取ってくれるようになってきた。
 コンドラートが言っていたとおり、笑顔は大事だ。始めのころは緊張してそれを忘れていたが、慣れてくると表情にも余裕が生まれてくる。そのときの笑顔が、効果をあらわしてくれた。
 なかには「いったい何の話題だ?」と問うてくる男もいた。これもコンドラートが教えてくれたとおり「この先、よい働き口がみつかるかもしれないんです」と答える。身なりの良い者はさほど興味なさそうな態度だったが、見るからに労働者階級の人々は奪うようにして持っていく。
 そのうち若い娘や老いた婦人もこちらに近づいてくるようになって、ユーリーの受け持ったビラはコンドラートより早くなくなってしまった。
「おおっ! さすがペトルシキンが見込んだだけある」
「いえ、コンドラートの教え方がよかったんです」
「謙遜してもらうなんて、なんだかずいぶんと久しぶりな話だよなあ」
 と言いながら、彼は残りのビラをユーリーに手渡した。
「そろそろ見回りの時間がくる。僕が見張っているから、君が配ってくれ」
「見回り?」
「帝国軍の警ら隊だよ。最近、治安が悪化してきているからね」
 ユーリーの目にはそう見えなかった。庶民の生活は活き活きとしていて、その目に憂いは感じられなかったからだ。それともそう見えてしまうだけで、実際の生活は想像以上に苦しいのだろうか。
 そんな自分の思いを察知したらしく、コンドラートが言った。
「君は貴族の子弟だからわからないだろうけれど、空元気という言葉があるだろう? 悩もうが悩むまいが生活は変わらない。だったら、暗く沈むより明るく過ごしているほうがずっとましじゃないか」
「そうなのですか?」
「またの言葉を刹那的とも言う。その日その日が楽しけりゃ、あとはどうでもいいのさ。しかしそんな生き方が、いつまでたってもこの国の専制政治を許してしまっている。連合王国を見てみればいい。あそこはここよりもずっと進んでいる。印刷機だって手作業じゃなく、蒸気型の自動式っていうじゃないか……」
「王国が? 知りませんでした」
「だろうね。都合の悪い情報はなかなか伝わってこないから」
 ここでコンドラートは言葉を切ると、厳しいまなざしに変わった。周囲を警戒しているのだ。
 ユーリーは残りのビラを配る。がんばらずにいられない。
 さっきまでどうでもよかったのに、コンドラートの話を聞いているうちに、自分のしていることがとても有意義なものに思えてきたからだ。
 ビラがなくなるころ、突然、コンドラートがユーリーの腕をつかんだ。
「逃げるぞ」
「え?」
 状況が呑みこめないまま、迷路のような路地を駆け抜け、家と家がひしめく狭い空間を縫うように移動した。顔を上げると二階から洗濯物が紐で吊るされ、こちらを興味深そうにのぞく子供たちの顔が見える。
 さらに奥深く進むと、家というより粗末な瓦礫小屋が立ち並ぶ場所にやってくる。異臭が漂い、ボロ布をまとっている人々の姿があった。
 貧民街にやってきたのだ。
 初めて目にするそこは想像以上に劣悪な環境だった。街を普通に歩いているとまず目にしないようながらくたと汚物が、ごちゃ混ぜになってうず高く積まれている。
 普段自分が捨ててしまうような残飯が腐り果てたものを、食べている幼い子供たちの姿がある。まだ飼い犬のほうがはるかにまともな餌を食べているのではないか。
 遠くに目をやると、その子供たちを恨めしそうに見つめている、さらに小さな子供たちがいた。どの顔も精気はなく、ただひたすら物欲しげに酸い臭いを放つそれに視線が集まっている。
 大人は? と思い、さらに周囲を見渡すものの、子供たちしか目に入らない。
「初めてかい?」
 傍にいたコンドラートがそう言った。
「え、ええ。…………ひどいですね」
「君には衝撃が強すぎたか」
「そんなことは――」
 と言いかけたものの、それ以上言葉がでてこなかった。
 コンドラートはゆっくりと貧民街を歩きながら、ユーリーに諭すように話しだす。
「ここはゴミ捨て場だ。帝都中の不要なものが集まってくる。田舎なら自分たちで処理できるが、これだけの都市になるとそうはいかない。昼間だからまだ平和だけど、夕方になるとカラスや野犬が集まってきて、とてもいられやしないよ」
「貧民街かと思ったら、ゴミ捨て場だったなんて」
「似たようなもんだよ。その周囲がそうだから」
「どうして子供たちだけなんです?」
「親に捨てられたからさ。その親も買い主に捨てられた元奴隷だ。貧困と無知が一緒になって、不幸な子供たちがたくさん生まれてしまう。ほとんど三歳にもならないうちに、餓死か病死だよ」
 やはり言葉が出てこない。話で知っているのと、実際、この目で見てみるのではあまりにも落差がありすぎた。
 大人ならまだしも、こんな幼い子供たちが真っ先に貧困の犠牲になってしまうなんて。
 見ているのがつらくなり、視線を下に落としてしまう。そんな自分が情けなくもあった。
 ゴミ捨て場をすぎていくと、いくらかまともな瓦礫の建物が並ぶ一帯に出てくる。さらにその奥に進むと、急に視界が開けた。小さな広場があって、そこには小さな教会が建ち、一本の大木が枝を広げている。
 その光景がユーリーを安堵させた。貧民街を通っている最中も、襲われるのではないかと思うような目で、人々に睨みつけられていたからだ。
 コンドラートはその古い教会に足を踏み入れる。扉を開けると、みすぼらしい聖人画が目に止まった。明かり取りの硝子もヒビが入って、聖堂内に差し込む光は至るところで奇妙に屈折している。
「ソフィーヤ」
 コンドラートがそう呼びかけると、奥からひとりの尼僧が出てきた。水色の瞳に見覚えがある。
 ソフィーヤは微笑をたたえると、ユーリーに優しい声で言った。
「はじめまして。わたしはこの教会の主、ソフィーヤ・ペトルシキンと申します。コンドラートさんがお連れになられたのなら、サーシャ兄さんのお知り合いなのですね?」
 ペトルシキンの妹だったのか……。なるほど、スカーフで髪の色は見えないが、その穏やかな笑みがよく似ている。
「ええ。どこまでお力になれるかわかりませんが、僕のほうこそよろしくお願いします」
「とても心強いです。兄が見込まれたお方なのですから、期待していますわ」
 そうまで言われてしまうと、なんだか照れてしまう。いつも自分は役立たずだと暗に言われてきたから、表面的なことだとはいえ嬉しかった。
 コンドラートは粗末な長椅子に座ると、帽子を脱ぎながら小声で言った。
「警ら隊が頻繁に回っている。近いうちに一斉掃討が始まるかもしれない。気をつけてくれ」
「そう。早いのね……。この前からまだ一年たっていないというのに」
 ソフィーヤの瞳がたちまち悲しそうに曇っていく。
「あの、一斉掃討って?」
 長椅子に座りながら質問したユーリーに、彼女は優しく答えてくれた。
「貧民街の掃除よ。建物も人もすべて帝都から追い出してしまうの」
「それって、まさか……」
「ええ。おそらくまた子供たちの命が。大人ならなんとか逃げられるけれど、何もわからない子供たちはどうすることもできない。だからといって、わたしたちが救い出すにはあまりにも力がなさすぎるわ」
 コンドラートが帽子で顔を仰ぎながら言った。
「だから僕たちがいるんじゃないか。運動も少しずつだが、浸透しているようだ。彼――ユーリーっていうんだが、士官学校の学生だっていうから、僕も驚いたよ」
 正確にいえば浸透というより、グリエフが単にオレグ宛に本を持ってきたにすぎない。少々、誤解をあたえてしまっているものの、否定できる状況ではないから、うなづくしかなかった。
「そう、そうなの。兄さんの運動もやっと芽が出てきたのね」
 ソフィーヤに笑顔がもどる。微笑ではなく明るいそれだった。
「ああ。この前は別の活動家が印刷所をたずねてきた。なんでも、今度の運動はかなり大規模になるかもしれないということだよ。噂では陸軍将校が関与している組織が活動しているというから」
「陸軍将校……」
 二人の視線がユーリーに集まった。しかし自分は何も知らない。すぐに否定する。
「すみません。僕はあくまでも候補生でしたから。ほとんど学内にいましたし、そういった情報が入ってくる環境では……」
 コンドラートが首をかしげる。
「でも君はあれを読んで共感したんだろう? そんなものが簡単に行き渡ること事態、そうは思えないんだけどな」
「あ、あれは、最初は恋愛小説だと思っていたから。僕の友人が中味を熟読して、内容を教えてくれたんです」
「友人? じゃあ君以外にも賛同者が?」
 ユーリーは焦らずにいられない。成り行き上とはいえ、ここでボロを出してしまえば疑われるのは自分だ。参加した真の意図を知られてしまえば、すぐにでも追い出されるだろう。
「その友人は退学してしまいました。父親が急死したから、家業を継がなくてはならなくなったんです」
「ふうん。あそこは貴族の子弟ばかりかと思っていたら、平民もいたんだな。知らなかった」
「少しですが在学してます。一応、平等に教育を受けられる建前がありますから」
 ここでソフィーヤが疑問を投げかける。
「平民の彼、念願の入学だったんじゃないのかしら。あっさり退学だなんて……。だって貴族の方でないのなら、とても入るのが難しいような気がするもの」
 なかなか鋭い質問だ。さすがペトルシキンの妹だけある。
 額に汗を感じながら、なんとかユーリーは頭のなかで答えを探し出す。
「彼の実家、金貸屋なんです。誰も後継ぎがなくて、かといって廃業してしまえばその町の貧しい人々が困ってしまう。借金がないと食べる物すらない人がいるんだと、前に言っていたこともありますから」
 オレグがバリャコフとビリヤード対決したときに、そう言っていたのを思い出した。詳しいことはあまり教えてくれなかったのが正直な話だから、本当はそんな甘い商売ではないことは承知しているのだが……。
 ソフィーヤは微笑をたたえた。
「そうだったの。賛同された方だけあるわ。家業はともかくとして、貧しい人々のことを考えていらっしゃるのね」
「ええ。彼なりにがんばってます……」
 コンドラートも笑顔になって、励ますようにユーリーに言った。
「惜しいな、その友人とやらもいたら、戦力になったのに。でも君の友人なら、きっと優しい男なんだろうな」
 優しい男…………。
 ユーリーは笑いがこみ上げてきそうになった。
 もしオレグを見たら、そんな感想、一気に吹き飛ぶにちがいない。たしかに彼は優しいが、あくまでも親しくなった者同士の間にすぎない。第一印象はとてつもなく硬派で怖そうな男である。
 しかしそんな愉快な思いもすぐに吹き飛んでしまった。
 オレグは今頃どこでどうしているのだろう?
 イリューシン子爵の跡継ぎとしてどんな生活をすごしているのだろう?
 社交界とは無縁な平民なのだから、いろいろ肌に合わず苦労しているにちがいない。それでも彼はそう決めたのだから、持ち前の稀にみる器用さで乗り越えるはず。
 が、たちまちそんな思いも色褪せていく。
 あのゴミ捨て場の子供たちの姿が、あまりにも強烈に脳裏に焼きついてしまったからだ。
 いくら境遇が異なるとはいえ、あれはひどすぎる。オレグや自分の悩みなど、小さなものにすぎない。日々、食べるものがないとは、ああいうことなのかと。


 教会の炊き出しを手伝った後、日が暮れる前にもどらなくてならないからと、ユーリーはコンドラートに連れられて貧民街を去った。
 帰り道は自然とペトルシキン兄妹の話になる。知らないことばかりだから、尋ねずにいられないのだ。
 庶民たちが忙しく行きかう路地裏を歩きながら、ユーリーは言った。
「ペトルシキンさんの父親って医者だったんですよね? どうしてソフィーヤは尼僧に?」
 嫌な顔ひとつせずコンドラートは答えてくれた。予想していたのだろう、小声ですらすらと一気に説明してくれる。
「その父親が帝国軍に射殺されたからだよ。詳しくは僕も知らないんだが、ペトルシキンも医者を志していたらしい。医者として開業している傍ら、父親は貧民街にも顔を出していたんだ。彼のように正義感が強くて心優しい人だったというから、無報酬で診察してやったにちがいない。そのとき、一斉掃討に巻き込まれたんじゃないのかな? ソフィーヤがそれとなく教えてくれた話だと、十二年前になる。彼女の優しさを見ていると、きっと子供たちをかばって――兄妹がそうならないように、僕は密かに祈ってるんだけどね」
「そうだったのですか……。じゃあ医者の道は断念されたんですね」
「まあね。医学は一年や二年で修得できるものじゃない。それに父親を失ったから、今度は長男の自分が働かなくてはならない。ペトルシキンは君が予想しているとおり、かなりのインテリらしいから、上級貴族の秘書として働いている」
「ソフィーヤは?」
「うーん、正直な話、尼僧にはもったいないんだよなあ。あれだけの美貌とお人柄なら、上級貴族と結婚されても不思議じゃないんだけどなあ。もし父親が今でも健在なら、我が身を神に捧げるようなことはされなかったろうね」
 ここまで話すと、コンドラートは真面目な顔にもどり、大通りに出た。印刷所までもう少しだ。
 夕刻は馬車の往来も多い。道を急いで横切り、さらにその裏道に入る。ユーリーは仲間たちの待つ印刷所へ帰った。
 今朝まではすぐにでも実家にもどりたかったが、今はもうそんなことはどうでもよくなってしまった。
 あの子供たちを救えるのならば、少しでもいいから自分にできることを成そう。ペトルシキンはとても人望があるし、その妹も強く心優しい。そんな二人の手伝いができることを誇りに思わずにいられない。
 彼らに出会えたことを神に感謝する自分がいた。


 その日の夜からアリサは夢に出てこなくなった。
 ペトルシキンが首飾りの入った封書を、グリエフに渡したからにちがいない。
 もしかするとすでにオレグの元へ渡っているかも……。
 しかしそれを知る術は今のユーリーにはなかった。
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