―春の章 16―


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 トーシャのくれたブーツはとても履き心地がよかった。オレグの夢を見た四日後、ユーリーは再びあの地主の館へと出発したのだ。
 足は痛むものの、包帯もしっかり巻いているし、副所長が内緒で化膿止めの軟膏をくれた。所長は申し出をすぐに受けてくれて、相変わらず手錠を付けることを条件に自由にしてくれる。
 所長がうるさいことを言わなかったのは、責任をとりたくなかったのだと、今さらのように気がついた。あまり自分が指図すると、囚人が勝手にしたのだという言い訳はできなくなってしまう。
 それに反し、副所長は普段は小うるさくて憎たらしいが、いざとなれば責任を感じてしまうらしく、ユーリーの包帯だらけの足と、あの食わせ者の地主が汚い交渉をするのではないかとしきりに案じていた。
 なんだかんだ言っても、対照的な二人が責任者になっているから、収容所は秩序が保たれているのだろう。もし他の収容所だったら、こうして自由に行動することなど不可能だったかもしれない。
 街道を西へ進んでいると、前方から箱馬車が近づいてきた。忙しげにいつも通るから、税の取立て以外にも仕事はあるのかもしれない。それか単に、農民いじめを楽しんでいるだけなのか。あの地主のことだから、そんな報告を喜々として待っている姿が容易に想像できる。
 今日も空腹が身に染みる。朝食が出ないからだ。
 あと一日たてば、仲間たちも口をきいてくれるかもしれない。一週間が朝食なしの条件だったのだから。
 それでも不思議と寂しいと感じない自分もいた。さすがに初日はこたえたものの、オレグと夢で話してからは誰かを責める気になれない。ペトルシキンはひどい誤解をしているが、彼だって好き好んであんな罵倒をしたわけではないはず。
 それだけ今まで自分とオレグのことを黙って見守っていたのだろう。本心はどうあれ、仲間として受け入れてくれたのは、彼自身なのである。まだ本人と話をしてないから、これもまた推測の域を出ない。単なる行き違いであることを信じるしかなかった。
 日が暮れるころ、ようやく地主の館に到着した。門番に名前を告げ、しばらく待っていると「すぐに主人が面会したいそうです」と言いながら、下男の青年が出てきた。そっと帰り際、忠告してくれた彼である。
「あの……こんなこと言うのは、大変差し出がましいんですけど、本当にいいんですか? ご主人様、たいそう喜ばれてましたよ」
 ユーリーは笑顔でうなづく。
「なおさら好都合だよ。嫌われてなくてよかった」
「勇気のあるお人だなあ」
 さすがに今回は風呂をきっぱりと断り、廊下を歩く。足が痛むが、道中塗った軟膏がきいているからまだ大事にはいたらないはず。
 前回と同じく地主が待っていたのは、食堂だった。食い物で釣ろうする魂胆がみえみえだから、やってきた給仕が差し出した皿を丁重に断る。
 そんなユーリーの態度に、地主は不思議そうな顔をした。
「遠慮はいらないのだぞ。この前の交渉を承諾するために、私を訪ねたのだろう?」
 ユーリーは首を横に振る。
「いいえ。承諾ではありません。その続きです」
「続きだと? 他に答えがあるというのか?」
「あります。でも…………」
 ここで故意に悩む姿を装ってみせた。視線を落とし、額に人差し指をあてる。
 すぐに相手は反応して、傍らに寄ってきた。興味深そうにこちらをじっとのぞき込む。その好色な視線にひどく苛立ったが、我慢のときだ。
「でもどうした? 他に欲しいものがあるのか?」
「そうじゃなくて……。その、前におっしゃいましたよね。ナザ村の畑におまえの好きなものを勝手に植えていいって」
「ああ、勝手にすればいい。何を作ろうが知ったことではない。税は変わらず取り立てるからな」
「麦じゃなきゃだめです?」
 ここで顔を上げ、じっと相手の目を見つめた。が、すぐにまたそらす。
「当たり前だろうが……」
「これは?」
 ユーリーは懐に手を入れる。その仕草が誤解を招いたのか、地主に抱きつかれてしまった。すぐさま強引に押しのけ、素早く金貨一枚を取り出す。
「まだ交渉は終わっていません。これを見てください」
 鼻息の荒い地主が目を丸くした。
「これは! アレクセイ五世金貨!」
 椅子から立ち上がり、ユーリーは毅然と言い放つ。
「そうです。これが税の代わりです。村の人々がこれを税として納める。麦よりもはるかに価値があるはず。異論はありませんよね?」
「い、いや……。麦じゃないと……」
「そうですか。それがあなたの答えですか。ならば、僕はこれからイオーノル領主のもとへ赴きます。そして直接、領主にこれを税として手渡します。もちろん事情も詳細に説明します。この交渉内容も。それでも向こうが麦でないといけない、とおっしゃったら諦めますが」
 たちまち地主の顔が青ざめた。ユーリーの手にしている金貨を奪おうと手を伸ばす。
 すぐさまそれを避けて、怒気を含めた言葉を返す。
「地主ともあろうお方が、そんな最低な方法で金貨を奪うのですか? 残念ですが、まだアレクセイ五世金貨はあります。もし、僕が明日中に収容所にもどらなければ、そこの副所長がその残りの金貨を持って、イオーノル領主のもとを訪問する約束になっていますから。悪あがきはよしてください」
 副所長云々のくだりは真っ赤な嘘である。それでもこのハッタリはかなり効果があったようだ。相手がたちまち動揺するのがわかる。
「くううっ! なんてことだっ! 小僧が、小僧ごときがっ!」
 地主は目を血走らせ、歯軋りし、食卓を激しく叩いた。呼び鈴が落ち、その音で下男の三人組が駆けつける。
 ユーリーはその場から連れ去られなかった。肝心の主が、ひどく動揺しているからだ。指示がないと動けない立場なのである。
「それでは交渉決裂ですね。麦じゃないといけないと、はっきりおっしゃったのですから」
 地主に背を向けて、颯爽と食堂を出ようとする。
「ま、待てっ! 許可する、許可するから、領主にだけは!」
 踵を返し、ユーリーは微笑む。しかし侮蔑の視線だけは忘れなかった。
「本当ですか? よかったあ。なら畑は好きなように使わせてもらいますね。あと……」
 狼狽した顔で地主は言った。
「ま、まだ、あるのか……?」
「簡単なお願いです。両替してください。金貨百枚の価値がありますけれど、特別に九十五枚ということでどうでしょうか? その五枚は手数料です」
「そんな大金……」
「ないはずはないでしょう? これだけ贅沢な生活をされているのですから」
「……」
「返事は?」
「は、はい」
 勝った。交渉に勝ったのだ!
 まだ緊張が解けなかったものの、こうなってしまえば立場は逆転している。
 悔しそうに何度も食卓を叩く地主を、冷たい視線で見守っていた。その様子がおかしかったのか、忍び笑いが聞こえてくる。
 振り返ると、下男たちが笑いを噛み殺していた。給仕まで口元をゆがめている。いつも言いなりになっているのだろうだから、たまにはこんな鬱憤晴らしもいいだろう。
 地主は渋々、両替に応じてくれた。渡された金貨を再度数えなおし、きっちり枚数を確認すると、館を後にする。門を通り過ぎたとき、下男たちがユーリーを追いかけてきた。
「すごいですね! すっきりしましたよ!」
「ご主人様もこれでしばらくはおとなしくしてくれます!」
「まさかこんな日が来るなんて、夢のようじゃないですか!」
 そう口々に喝采する彼らを見ていると、それだけ地主に虐げられているのだろう。嬉しくもあったが、これも一時のこと。ふたたびあの好色男が下男たちを物のように扱うことを思うと、素直に喜べなかった。
 それでも笑顔でうなづき、あいさつを交わすと、来た道を引き返す。長い道のりが自分を待っていた。
 しばらく夜道を歩いていると、後ろから馬車が近づいてくる。すぐに脇に避けたが、馬車はその場で停止した。御者が呼びかける。
「おい、そこの金髪! 地主様が送っていけってさ!」
 素直に応じられない。借りをつくってしまえば、また何を言い出すかたまったものではない。
 怪訝な視線を投げかけている自分に気がついたのか、御者はさらにこう言った。
「おまえさん、足が悪いんだろ? もし明日中に帰れなかったら大変だ! とおっしゃっていたんだ」
「ああ、そうでしたか」
 言われてみれば、そんなことを口にした覚えがある。期限内にもどれなければ、副所長が代わりに領主のもとへ赴くのだと。
 馬車に乗り込んだユーリーは、笑いが止まらない。
 オレグの言うとおり、好かれることを利用するのも悪くなかった。もっと早くそれに気がついていれば、余計な遠回りをせずにすんだにちがいない。


 地主の馬車が収容所に到着すると、地平線から太陽が顔を出す。思いがけず乗れた馬車のなかで睡眠をとったから、次の行動は決まっていた。
 所長室へ監視官に連れられて入り、昨夜の件を報告する。なるべく感情を入れず、交渉が成立したことのみを話した。あの地主の狼狽した顔を思い出すだけで、笑いがこぼれそうになるのを我慢する。
 久々の朝食を手錠をつけたまま雑居房でとる。この日もコンドラートとダニールはまったく口をきいてくれなかった。一週間も経つというのに、よほど彼らの怒りは大きいのだろうか。
 一抹の不安を感じながら、ユーリーは点呼が始まる前にナザ村へ赴く。収容所を出て丘を下り、まず村長の家へ向かった。しかしすでに農作業が始まっているらしく、扉を叩いても誰も出てこない。
 丘の前の畑には人がなかったから、その裏手だろう。来た道を引き返し、朝日を浴びながら両手で空を仰ぐ。雲が高く、どこまでも白い。本格的に暖かくなってきた証だ。
 一日でも早くジャガイモの植え付けをしなくては……。
 はやる気持ちを抑えながら、丘を周る。裏側が見えたころ、広大な畑で農作業にいそしんでいる村人たちの姿が確認できた。種まきは終わり、水やりに精を出している。男たちがバケツを棒の両杯に吊るし、それを肩にかついで歩いていた。
 村長を探す。畑の中央で腰をかがめて柄杓で水を撒いているのを遠目で見つける。
 ユーリーは麦を踏まないようそっと歩いてゆき、村長の近くまでやってくると、優しく声をかけた。
「おはようございます。その、お話があるんですが、いいでしょうか?」
 相手はまばたきしながら、手を休める。
「はて、まだ用事が?」
「はい。司祭様と地主様に許可をいただきました。ジャガイモを好きなように栽培してもいいと」
「なんと?」
 村長は目を丸くして、こちらを凝視した。
「ですから、畑に好きなように植えてもいいって」
「本気なのか?」
「もちろんですとも。その約束でしょう?」
「たしかにそうは言ったがのう……」
 明らかに困惑している。まさか司祭とあの地主が許可をくれるとは思っていなかったのだろう。司祭はともかく、地主と対等に渡り合うのは至難の業だった。
 しかも悪魔のリンゴと恐れているジャガイモだ。約束とはいえここですんなり承諾してくれそうになかった。
 ユーリーは上着のポケットから金貨の入った袋を取り出し、一枚出すとその黄金の輝きを村長の前でかざす。
「ナザ村の人たちがジャガイモを栽培してくださるのでしたら、僕からこの金貨を報酬としてお渡しします。麦が足らなくても、これを税として収めることも可能です。それでも充分にお釣りがくるでしょう。残りはお好きなように使ってください」
「は……?」
 これもまたすぐに話の内容を呑み込めないようだ。あんぐり口を開けて、まじまじとユーリーの差し出した金貨を見つめ、手に取った。
「ほ、本物かのう?」
「この金貨は地主様が両替してくださったものです。保証します」
「両替?」
「もともとアレクセイ五世金貨だったものを両替しました。そしてその金貨の持ち主は、子爵様と親しかったほど裕福でした」
「し、し、子爵様……?」
「はい」
「まるで雲の上のお人のような話じゃ……」
 にかわに信じられないといったふうに、唖然としている。
 無理もないだろう。農民が普通に生活していればまず金貨など目にする機会はない。そして彼らの知っているもっとも偉い人といえば、下級貴族である地主なのだ。さらにその上の領主――上級貴族の名前すら耳にすることはないであろう。
 ユーリーは袋に入った残りの金貨を村長に手渡す。
「お願いします。どうか、ジャガイモを栽培してください。もし再び冷害になってしまえば、今度こそ本当に収容所の人間はほとんど餓死してしまいます。犯罪者とはいえ、これでも僕らは帝国の未来のために命をかけていました。そしてこれからもそうありたいのです」
 土下座はしなかった。自分の行いが後ろめたいものだと思いたくなかった。
「急にそう言われてものう…………。わしはいいが、他のもんが」
「お願いします!」
 村長の手をとり、堅く握りしめる。
 しばらく沈黙が流れた。
 二人の様子に他の村人たちも気になりだしたようで、徐々に集まり始めた。輪を描くように自分たちを見守っている。
「お願いします。僕たちの未来がかかっているんです」
 判断しかねている村長の代わりに、言葉を口にする者があった。
「若いもんがそこまで熱心なんじゃ。その未来とやらに手を貸してみたらええ」
 赤い花柄のスカーフを巻いたターニャ婆さんだった。皺だらけの顔を緩め、ユーリーを優しく見つめる。
「どうせあたしも村長も先は短い。何かあったらあたしらが責任をとればええ。若いもんの未来に比べりゃ、ちっぽけなことよ」
「ターニャ婆さんもそう思うか。わしは賛成なんじゃが、勝手に決めるわけにはいかんからの」
 そう言いながら、村長は集まった村人たちの顔をひとりひとり見つめる。三十人ほどいる老若男女はうなづきを返していた。そして「金貨だ!」と、以前、ユーリーを悪い人扱いした少年が無邪気に喜んでいる。
 あらためて村長はユーリーと堅く両手で握手を交わすと、晴れやかな笑顔で言った。
「わしらは栽培しても食わんが、おまえさんがそこまで手を尽くしてくれるのなら、やってみよう。その代わり、しっかり栽培方法をわしらに教えてくれ」
「はいもちろんです」
 ユーリーも満面の笑みを返す。
 よかった。どうにか出発することができそうだ。
 まだまだ不安はあるものの、ここで思いとどまってはならない。
 自分は前に進むしか道はないのだから。

春の章〜おわり

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