―初夏 02―




 夏期休暇も終わりに近づいたころ、兄の叱責でユーリーは目を覚ました。草を燃やす臭いが充満している。
 自室の扉を開け、廊下を歩き、声のする裏庭へ移動する。自分の部屋は裏庭にちょうど面しているから、その声はよく通っていた。
「エミーリ! そんなもの早く捨てろと言ったろう!」
「……いやだ」
「だめだ!」
 兄は息子が握り締めている封書を奪うと、小さな炎のなかに放り込んだ。雑草と一緒にそれはぱっと炎を上げ、たちまち白い煙となって立ち昇っていく。
 今日は週末で軍の仕事も休みである。私服姿の兄は朝から不機嫌丸出しの視線を、こちらに投げかけた。
「おはよう、ユーリー。起こしてすまなかったな」
 すぐさま首を小さく横に振る。
「いや、いいんだ。それより、どうしたんだよ? エミーリ泣いているじゃないか」
「ユーリー」
 名を呼びながら、エミーリが駆け寄ってくる。しっかりと自分のズボンの裾を握って、助けを求めるようにユーリーを見つめた。
「アンナ大おばさまのお手紙……。大切にしてたのに」
「そうだったのか。エミーリもアンナ叔母様が好きなんだ」
「うん。大好き」
 父の妹であるアンナ叔母はとても陽気で朗らかな人だ。年に一、二度、家を訪れては互いの近況を父と話す。その話は我が家と大差ないはずなのに、その人柄が陽気で楽しいものに変えてくれた。
 そして絵本やお菓子を幼い自分にくれては、いろんな物語を語って聞かせてくれたことも思い出す。叔母のことだからその場、その場で適当に辻褄を合わせていたのだろうが、それがかえって滑稽で、ユーリーの大きな楽しみとなっていた。
「兄さん、どうして手紙を燃やすんだよ?」
 厳しいまなざしを相手に向け、じっと目を見つめた。それでも兄の表情は、いつもの薄い笑みだけだ。
「子供には毒があるからだよ。とてもじゃないけれど、読ませられない」
 そう言って肩をすくめる。
「だからといって燃やすことはないだろ? エミーリはまだ字が読めない。他に方法があるんじゃないのかい?」
「ずいぶんと偉そうな物言いだな。親の事情も知らないおまえが、口出しするようなことじゃない」
「でも僕はエミーリの叔父だ。他人じゃない」
「父親とはほど遠い。エミーリだって、僕の言うことが正しいと思っているはずだ」
 兄は「おいで」と言いながら、両手を広げた。しかしエミーリは頑なに首を横に振るだけである。
「もう父さんは怒らないよ」
 それでもエミーリはユーリーから離れようとしなかった。
「どうしてこない?」
「だ、だって……。お父さん、いつも笑ってないもん……」
「エミーリ?」
「ユーリーおじさんのほうが、僕のお父さんみたい」
 両手を落とした兄は表情をなくして、そのまま裏庭を去ってしまった。
 もっと話したいことがあったが、まずはエミーリの機嫌を直すのが先決だ。そのまま裏庭でかくれんぼをして遊んでやった。わざとすぐに見つかるように隠れ、自分が鬼になったらなかなか見つけられないふりをした。


 朝食が終わるとユーリーはあらためて兄と話すことにした。面倒そうな顔をする兄だったが、アンナ叔母の手紙の件を口にするとうなづいてくれる。
 ふたたび裏庭に出て、草取りが終わったばかりの地面に腰を下ろす。こうして兄弟同士、並んで座るのは何年ぶりだろうか。
 すぐにユーリーは本題を言った。
「あの手紙、借金の催促じゃないのかい?」
 たちまち兄の顔色が悪くなる。
「……どうしてそれを? まさか父さんが」
「うん。話したことは内緒にしてくれって言われたけれど、とてもそんな状況じゃなさそうだ。もしかして他にも借金をしている親戚が?」
「それは……」
 少し間をおき、兄は言葉をつづけた。
「アンナ叔母と母さんの実家と、士官学校時代の学友ひとりだ」
「三人も?」
「仕方なかった。相手が悪かったんだ。三年前、故郷の駐屯大隊に異動になったろう? 異動してまもなかったから慣れていなかった。それに中尉だったから佐官連中の誘いを断れなかったのもある」
「そういえば父さんが言っていた。上官との賭博に付き合っていたって」
「ああ。今思えば、騙されたのだろう。駐屯基地の上級貴族将校がずいぶんと放蕩者で、賭博を繰り返していたらしい。その相手にされたのが佐官連中で、その佐官連中がかけ金を取りもどそうと誘ったのが僕だ。しかも初めから、いかさまだった」
 腐っている。と、ユーリーは思わずにいられない。
 賭博もだが、なによりいかさまだという言葉が衝撃的だった。
「どうして兄さん、僕に相談してくれないんだよ? 昔、僕の相談に乗ってくれたから、こんなとき、手紙の一つでもよこしてくれれば……」
 兄は肩をすくめる。
「おまえに何ができる? 借金だぞ。しかもその額は半端じゃない」
「だからといって教えてくれるのと、そうじゃないのはちがうだろ?」
「さあどうだか。おまえのことだから、休学して働くと言うんじゃないのか?」
 図星だった。帰郷したその日、すぐさまそう口にしたら、母にたしなめられたぐらいだ。
 それでも話し合いぐらいして欲しかった。
「僕は弟だ。そしてエミーリとマリヤの叔父だ」
「家族思いのおまえらしい言葉だな……」
 兄は視線を落としてため息をつく。あまりにも力ない様子に、さすがに心配になってきた。
「ユーリー、父さんはもう永くない。悲しいか?」
「当たり前じゃないか。夏期休暇に間に合ってよかったと思うぐらいだ。……たった一年であんなに変わり果ててしまうなんて、今でも信じられない」
「そうか。それが普通なのかな」
「え?」
 兄の意外な言葉にユーリーは目を丸くする。
「僕はなんとも思わない自分に戸惑っている。それどころか早く――。すまん、こんなこと口にする自分が嫌なんだ。今でも父さんを許せない」
「許せないって、兄さんのほうこそ一目置かれてたじゃないか」
「だからこそだよ。できて当たり前。母さんも僕をかまうと叱られるから、距離を置かれていた。おまえはおまえで歳が離れているから、話し相手にもできなかった。時々、後ろを振り返ってしまう、そんな自分自身が嫌でたまらない。借金する前は、明日のことしか考えていなかったというのに」
「兄さんらしくないよ……」
「おまえが思っているほど、僕は強くない。父さんだってそうだ。普段、強がっているやつほど、案外、最期は脆いもんだ」
 兄はそう言いながら、足元の雑草をむしりとる。早朝、抜いたばかりだというのに、夏の暑さは緑の生命力をたくましくている。
――強がっているやつほど、案外、最期は脆い。
 なぜだかわからないが、その言葉が幾重も脳裏にこだまする。
 なんだろう、このざわめきは。
 他に思い当たる者などいないというのに……。


 帝都へ旅立つ日の朝、ユーリーは家族総出で見送られた。
 あらかじめ頼んでおいた馬車を居間で待つ間、エミーリとマリヤの話し相手になってやる。兄は勤務のため先に家を出ていった。
 ユーリーはずっと気になっていたことをエミーリに尋ねてみた。
「大きくなったらなんになるんだい?」
 すぐさま答えが返ってくる。
「軍人さん」
 あまりにも予想通りだから、苦笑せずにいられない。
「本当に?」
「うん。お父さんが言ってるもん」
「やっぱりそうなのか……」
 つづけてマリヤが無邪気に言った。
「あたしも軍人さんになるのっ!」
「マリヤもかい? それはいいね!」
 ユーリーは笑った。母も父も愉快そうに笑う。
 帝国軍に入隊できるのは男子のみだ。その事実を知ったころ、マリヤは別の夢をもっているにちがいない。
「でもね、エミーリ」
 まだ幼い甥の肩を軽く叩き、言葉をつづける。
「世界はとても広いんだ。いろんな人や仕事がある。もちろん年齢身分問わずにね。だから、もう少し大きくなってから、考えてみたらいいよ」
 エミーリの曇りのない笑みがかえってくる。
「うん!」


 一年後再会するころには、エミーリとマリヤはさらに大きく成長していることだろう。
 そして一日でも永く父があの安楽椅子で穏やかに過ごせるよう祈る。
 馬車のなかでそんなことを思いながら、故郷の町を眺めているユーリーだった。

初夏〜おわり

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