乗馬服を脱いでラウンジスーツに着替えると、午前の茶を飲むため、居間へ下りた。すでに母と妹が椅子に座っており、一家四人が揃ったのを合図に始まる。
「メグ、今日はどこかのお屋敷に行かないのか?」
数日ぶりに顔を合わせたマーガレットは、視線をそらしたまま無愛想に答えた。
「毎晩、夜会なんて疲れるだけだわ」
「じゃあ、今日はいるんだな。よかった」
ふっと、マーガレットの視線が突き刺さる。痛いほどに。
「よかったって、お兄さま。あまり安易なことをおっしゃらないでくださる?」
「ああ、誤解の件か。家だったら問題ないだろうに。しかしいやに不機嫌だな、おまえ」
「昨夜、うちのメイドとずいぶんとお楽しみになられたそうね。お兄さまにそういう趣味があったなんて、知らなかったわ」
「メグ!」
マーシャと消えたことで、誤解しているのだ。さすがのアーサーもこれには赤面せずにいられない。
「僕をそういう目で見ているのか? 僕がそんな下品な真似をする輩に見えるのか?」
「そうよ、マーガレット。いくら心配されたからって、アーサーに迷惑をかけるような物言いはよして。あなた、ちかごろ刺の立ったことばかり言うから、そちらのほうこそ心配よ」
おろおろと母が兄妹のあいだに入る。母はふだんはおっとりしていて、口数が多くないのだが、さすがに見かねたようだ。
「やはり結婚したくないのか……」
ぽつり、と父がこぼすように言った。以前のような覇気はなく、あきらめ混じりの口調だった。
「いえ、そういうわけでは、お父さま」
「ならば理由を言ってくれ。相手が既婚者だったら無理だが、身分のない男ならなんとかしてやろう。強引に引き離しても後味が悪いだけだからな」
「まあ、あなた。急にどうなさったの?」
母は驚くのだったが、アーサーには真意が読み取れた。
伯父――父の双子の兄、アーサーの件を後悔しているのだ。昔のこととはいえ、伯父の恋人が夢に出てきたと話したとたん、父は崩れるように気力を失った。
「老嬢になるよりいいだろう。だから、私たちに言いなさい、だれを愛しているのかを」
「言えませんわ」
「メグ」
アーサーが呼びかける。
「おまえ、父上がここまで譲歩しているのに、まだ意地を張るつもりか? 僕も味方になるから、言ってくれ」
「……」
これ以上、追及できなかった。なぜなら、言葉の代わりに大粒の涙が落ちる。
ぽたぽたとテーブルクロスを濡らし、マーガレットは席を立つ。そのまま居間を出ていってしまった。
◇◆◇◆◇
アーサーはマーシャのことが気がかりで、そっとデイリー・ハウスをのぞいてみる。今朝食べたバターがまずくて、すぐにほかのメイドが作ったとわかったためだ。
彼女はおらず、家政婦がバターを作っていた。
「おはよう、ミセス・シャープ。マーシャは辞めたのか?」
「あら、まあ、若旦那さま!」
目を丸くした家政婦が、ドアを開けた自分を困った顔で見た。
「ええ、まあ。いろいろございまして」
「僕が黙って彼女を連れ去ったことが?」
「いえ、そういうわけでは……」
「たのむ、ほんとうのことを教えてくれないか。もし、僕が悪いのなら、彼女の両親に謝罪をしないと……」
「だめです。若旦那さまが頭を下げるなんて、なさってはいけません。悪いのは、すぐに帰らなかったマーシャなんですから」
「一日、休暇をやったのも僕だ。あなたにはお話したはずだが」
「ええ、そうでしたわね…………」
はあ、と重いため息をついた家政婦は、バターの攪拌機を回す腕を止めると、あらためてアーサーに向き直る。
「あの、あたくしがお話したことは、ここだけの秘密にしておいてくださいませ。そう約束されるのなら、事情を申しましょう」
「約束する」
「でしたら」
一呼吸おき、小声で家政婦は言葉を続ける。
「……お嬢さまが昨日、マーシャを引っ叩いたのです」
「メグが?」
「ええ。それはもう、激しい怒りようでして。おまえのせいで、お兄さまの名誉に傷がつくとかどうとか。騒ぎをききつけてあたくしも顔を出したんですけど、お怒りを鎮めることは無理でした」
「だから仕方なく解雇したというのか?」
「はい。マーシャの作ったバターは、二度と口にしないとまでおっしゃるものですから。そうするしかありませんでした」
「なんてことだ」
「あたくしどもも、マーシャは好きでしたわ。ですがご主人さまが要らない、とおっしゃるのなら、どうすることもできません」
と、家政婦の視線が怖いほどに鋭くなった。
――あなたたちのもめごとを、階下に持ちこまないでくださいませ。
きっと腹のなかでそう訴えているにちがいない。使用人とはそういうものだ。
「ああ、話をありがとう。そして悪かった。この件は二度と口にしないでくれ」
「もちろんですとも、若旦那さま」
そうして何ごともなかったかのように、家政婦はバター作りを再開した。後任のメイドが来るまで、べっとりとしたバターを食べる羽目になりそうだ。
翌々日、ロンドンの社交からもどってきたマーガレットに、アーサーはすぐさまマーシャの件を問いただす。なぜ、不満があるのなら自分に話してくれなかったのか、と。
「だって、お兄さまにお話しても、あのメイドをかばうだけでしょう。お話するだけむだですわ」
あまりのそっけなさに、さすがのアーサーも不愉快にならずにいられない。兄妹しかいない図書室で、つい、声を荒げてしまう。
「だから僕をそういう目で見ているのか、ときいているんだ!」
「ええ、そうですわ」
マーガレットの青い瞳がさらに冷たさを帯びる。
「お兄さま、正直におっしゃって。貴婦人より、メイドのほうがお好きだと」
「おまえ、おかしなことを言う。いつ、僕が、そんな身分のない女を?」
「まったく覚えがなくて? ほんとうに?」
「ああ、ないものはない。なんならフィンチ牧場へおまえが行って、夜、どうしていたかをきいてみればいい。なにもないとわかるはず」
「お兄さま。わたしが言いたいのは、そういう願望がおありなんじゃないかって、お話よ」
「さっきから容赦ない、言いがかりを――」
と、口にしかけたところで、アーサー伯父のことが思い浮かぶ。
――顔も声も話し方も、そして性格も。まるで――
父はたしかにそう言った。そして伯父の秘密の恋人が、老フィンチ氏の娘であるメイドのミルドレッド。
「メグ、おまえ、アーサー伯父のことを知っているのか?」
「ええ、若くして病死された伯父でしょう。それがどうかなさって?」
「いや、もしかしてその伯父と僕を混同させてるのかと」
「伯父さまとお兄さま、そんなに似てらっしゃるの、お顔だけでなく?」
「うん、まあ。父上が言うには、何もかもそっくりだと」
身分ちがいの恋愛や、祖父が恋人を銃殺したことは伏せた。とてもではないが、妹に話せる内容ではない。
「知らなかったわ」
「知らないって、おまえ、知っているから僕につまらない疑惑をかけてるんじゃないのか?」
「じゃあ、お兄さまじゃなかったのかしら。でも……」
ここで力尽きたように、マーガレットはソファに沈む。さっきまでの勢いはどこへ、と問いたいほどだった。
「メグ?」
「お兄さま。昨夜の晩餐会で、わたし求婚されましたの」
「で、断ったのか?」
「いいえ」
「じゃあ……」
ようやく遅い祝福がめぐってきたことに、アーサーは安堵するのだが、相手がだれなのかを聞いて、一気に落胆した。
「ブラウデン子爵と婚約? 正気か、メグ?」
「ええ。わたしにふさわしい御仁ですもの。これでよろしいのよ」
「しかし、あの老貴族はたしか、三度妻と死別したはず。父上より年上だぞ。冗談じゃないのか、なあ?」
「来週には、子爵がわが家へお見えになられるわ」
「父上はなんて言っている?」
「これからお話します」
「僕が一番初めってわけか。しかしどうしてブラウデン子爵を……」
四度目のシーズンとはいえ、まだ若い妹が、老貴族を選ぶとは正気に思えなかった。しかも三度も妻に死なれたことといい、不運といっしょに結婚されそうで、ぞっとせずにいられない。
立ち上がったマーガレットの腕を、反射的にアーサーはつかんだ。
「まだ父上に言うな」
「どうしてお引き止めになるの?」
「決まってるじゃないか。おまえにふさわしくない相手だからだ」
マーガレットは自嘲めいた笑みをこぼす。
「お兄さまったら、今ごろどうなさったの? わたしにあれほど結婚、結婚とおっしゃってたじゃない」
「それはだな、若い貴公子だったらの話で。まさか老貴族だとは予想できないだろう。それに、その……好きなやつがいるんじゃなかったのか?」
「ええ」
「だったら、話してくれ。僕がその男と結ばれるように図らうから」
「遅いですわ。何もかも」
「正式に婚約したんじゃないんだ。まだ間に合う」
「……」
「……」
ふたりの視線がまともにぶつかる。そして、たがいの青い瞳を、深くのぞきこんだ。
なんだろう、この動悸は。
アーサーはしてはならない質問をしたような気がしてきた。
どうしても言えない男。
それは、まさか――。
マーガレットのくちびるがゆっくりと開き、苦いささやきとなって耳に入る。
聞きたくなかった男の名前とともに。
「わたしが好きなのは――アーサーお兄さま」
衝撃とともに震えが身体中を駆けめぐる。
「だからわたしには、ブラウデン子爵が似合いですのよ」
そう言い残して、マーガレットはひとり図書室を出ていった。
その晩、父と母はマーガレットの婚約を祝福した。
本心はべつだろうが、娘が選んだ相手なのだから、不服はない、と付け加えて。
アーサーは祝いもしなかったが、やめるよう説得もできない。
できるわけがない。
妹令嬢マーガレットがずっと愛していたのは、この自分なのだから。
そして恐ろしいことに、兄である自分もマーガレットを――。
決して、だれにも言えない大きな秘密だった。
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ある貴公子と二度目の許されざる恋