「うわぁぁぁ!」
「だいじょうぶですか」
男の声で目が覚めた。ベッドから飛び起き、いつもの寝室でないことに一瞬、頭が混乱しかけた。
「ここは?」
「フィンチ家の寝室です。お客さま用の」
二度三度、頭を振り、昨日のできごとを思い起こす。
「そうだったな。すっかり寝ぼけていたようだ」
「湯を持ってきました。あと、朝食もあります。ここで召しあがってください」
「ありがとう」
青年は退室した。どこにでもいる農家の男風情で、深緑色の瞳が印象的だった。フィンチ家の一員だろうか。だが、昨夜はまったく見かけなかった。
着替えもしないまま眠ったものだから、あちこち皺だらけ。街や社交に出かけるわけではないので、だれも気にとめないはず。
顔を洗い、バタートーストとゆで玉子、ミルク入り紅茶を飲むと出発することにした。
「……それにしても、背中がかゆいな」
暗いときはわからなかったが、ベッドのシーツをめくってみると、ぎっしり藁が敷き詰められていた。まさしく農家である。客人用だというのに、これはないだろう。予告なしで訪問したから、仕方ないとはいえ。
「ああ、虫に食われたのか、くそう」
いまいましい朝だな、と毒づきつつ、乗馬用の鞭を手に取って部屋を出た。
牧場は朝が一番、忙しいものだから、居間にも台所にも留守番の女と子どもがいるだけで、しんと静まり返っていた。
老フィンチ氏に一宿の礼をして帰宅しようとしたが、そのあるじがいない。連れ帰るマーシャもだ。屋敷を出て、そこら辺りを歩いて探すことにした。
まず牛小屋へ顔を出してみる。牝牛の腹の下で、腰を据えた女たちが懸命に乳搾りをし、子どもたちが桶を忙しく運んで、新鮮な牛乳をミルク缶へ流す。男たちは重いミルク缶を荷馬車に乗せ、数が揃うと町へ向けて出発した。
腕を組んでそれらの光景をしばらく見学したあと、馬車を見送る老フィンチ氏を見つけ、声をかける。
「おはようございます、カートライト卿。忙しいもんで、見送りもできず申しわけございません」
「僕のほうこそ、急に泊めていただき失礼した」
マーシャを呼んでもらおうと思ったが、昨日は銀星号をこき使ってしまった。ふたりを乗せて長い時間、走らせたのだから。
「馬はどこに?」
「西側の小屋です。あちらです」
と、氏はステッキで方向を教えてくれた。母屋からやや離れた馬小屋だった。
「そうか。せっかくだからマーシャにはもう一日、休暇をやろう。明日の朝までに屋敷にもどってこい、と伝えておいてくれ」
「よろしいんですか?」
目をぱちくりとさせる氏。
「ああ。昨夜、世話になった礼だ。それではごきげんよう、ミスター・フィンチ」
「さようなら、カートライト卿」
アーサーは軽く片手を上げ、社交用の笑みを残して馬小屋へ向かった。内心、背中がかゆくていらついていたが。
――ああもう、二度と、農家に泊まるものか!
子どものとき肌が丈夫でなかったせいか、虫に食われやすい体質だった。成長するにつれ、虫に好かれることは少なくなったもの、あくまでも上流階級の屋敷での話。フィンチ氏たちにしてみれば、清潔なベッドを用意したのだろうが、残念なことにおのれの皮膚はそこまで厚くなかった。
馬小屋に入るが、愛馬がいない。たしかに氏が示したのは、ここのはず。
「おかしいな。脱走したとか?」
困った、と周囲を見渡す――と、丘のふもとで愛馬らしき姿を見つけ、アーサーは駆け寄る。
「そこにいたか、銀星号!」
そばにいる男に心を許したのか、愛馬はのんびりと草を食んでいる。主人の自分と屋敷の馬丁以外、なつかない馬とは思えないほどに。
「すばらしい馬ですね。艶もいいですし、足腰も丈夫だ。そして何より気高い。ここは窮屈だと、俺に訴えてきたものですから。勝手に連れてきて申しわけございません、お客さま」
そう言って頭を下げるのは、今朝、自分を起こした青年だった。
「きみが犯人だったのか。しかし銀星号がうれしそうにしているから、礼を言おう」
「お礼だなんて、大したことしてないです。俺なんか、いつも役立たずって言われてて、とても貴族さまに褒めてもらえるような人間ではございません」
「いやに謙遜するな……」
「謙遜だなんて、めっそうもないです」
そのとき、フィンチ家のおかみ――マーシャの伯母が、血相を変えて丘を下ってきた。青年と目を合わすなり、叱りとばす。
「おまえ、何さまのつもりだい! 勝手にお客さまと話してんじゃないよ! さっさと豚小屋の掃除をしときな!」
「すみません、おかみさん」
あいさつもないまま、彼はアーサーのもとを去った。が、一瞬、おのれを見る瞳が、いやに哀愁を帯びていた。まるで幼子がすがりつくように。
「申しわけございません。あいつは変わり者でして、馬を勝手に出したこと謝ります」
深々と頭を下げるおかみ。
「変わり者? 僕には親切な男に見えるのだが。ここの使用人なのか?」
「ええ、まあ。昨日、突然、家に来て、どうしても雇ってくれってしつこいもんだから、お義父さんがつい。二、三日したら、追い出すつもりです。まったくどこの浮浪者なんだか」
「浮浪者? そうは見えないが。今朝、僕を起こしてくれたときも、丁寧な対応だったぞ」
「あらま、余計なことを! 豚小屋掃除をしろって言ったのに、どうしてあいつは! だいたいね、お義父さんがいけないのよ。だれでもかれでも、困ってたら面倒見ようとしてさ。世話をするのはこのあたしだっていうのにね!」
おかみは怒っている。よほどあの男が好かないのだろう。
アーサーは苦笑してしまった。
「わかった。ありがとう」
「すみません、カートライト卿」
馬にまたがり、いったん、その場をあとにした。ぐるり、と丘を一周し、ふたたびフィンチ家の屋敷のふもとまでもどる。浮浪者扱いされる男がどうしてもひっかかってしまうからだ。
アーサーの直感だったが、下働きさせるには惜しいほどの気品が感じられる。父親か母親がやんごとなき人だったものの不運に見舞われ、家族と財産を失ったのかもしれない。
――たしか豚小屋と言っていたな。
周囲にだれもいないのを確認し、丘を上がる。目を凝らして豚小屋らしき建物を探した。豚の餌は残飯と決まっているから、ひょっとしたらと思い、母屋の裏手に回った。
ぶひぶひと陽気な鳴き声が聞こえ、馬を下りてそっとなかをのぞいてみる。豚に邪魔されながら、シャベルで糞掃除をしている彼がいた。むせ返るほどの臭気が鼻を突く。
「おい、きみ。名をなんという」
アーサーがそう呼びかけると、ぱっと顔を上げた青年は言った。
「フィルです」
――フィルってフィリップだよな。これは偶然なのか?
彼に出会ったのも何かの縁だと思い、自分のもとで使ってみたくなった。
「もし、きみが望むなら、わが屋敷で働くといい。初対面なのに僕の銀星号が心を許したのだ。かなり見どころがある」
「……」
状況がのみこめないのだろう。だから上着の懐にあったもう一枚の名刺を取り出し、彼の粗末な上着のポケットに忍ばせてやった。
「これを執事に見せてやれ。僕の名刺を持っている輩は限られている。理由を告げれば、門前払いはないはずだ」
「お客さま?」
「いやだったら、そのまま豚小屋掃除をしていればいい。すべてはきみしだいだ」
唖然とするフィルを残し、アーサーはふたたび馬上のひととなって、フィンチ牧場を風のように去った。
◇◆◇◆◇
わが屋敷に帰ったアーサーを待っていたのは、渋い顔をした父だった。居間で顔を合わせるなり、父は大きなため息をもらす。
「どこへ行っていた?」
乗馬用の帽子を脱ぎ、手にしていた鞭とともに執事モーガンに渡しながら、アーサーは答える。
「フィンチ牧場です。急な用事がありまして、うちのデイリーメイドに案内させました。黙って外泊したことは謝ります」
ここでモーガンを退室させる父。ソファに沈んで、腕を組んだまま、目を閉じた。
「……おまえ、その軽率な行為が何を招くのか、想像すらできないのか?」
「不都合などありません」
「では、なぜ、フィンチ牧場へ? わが家の牛乳に物足りなくて、牧場まで出かけたというのではなかろうな」
アーサーもため息を披露せずにいられない。子どもではあるまいし、一泊ぐらいどこで何をしようが、自由ではないか、と。
「では父上。ぎゃくにおたずねしますが、お祖父さまが二十六年前、わが家のメイドを銃殺したのをご存知ですか?」
たちまち父の顔が青ざめた。目を見開き、表情をこわばらせる。
「そのお顔では、ご存知らしいですね。なんでもミルドレッドというメイドだそうで、彼女が僕の夢に出てくるのです。なぜでしょう」
「……」
「おや、震えてますよ、父上」
率直な疑問をぶつけただけだったのだが、父の核心をついてしまったようだ。
ソファから立ち上がった父に、強く両腕を捕まれる。
「アーサー、おまえ……、ああ、おまえ……」
「父上?」
「どうしておまえは、兄に似ているんだ。こんなことになるのなら、べつの名前にすべきだった。すまない、どうしてもおまえの祖父を説得できなくて。ああ、すまない、アーサー」
「なぜ謝るのです、父上?」
「夢に出てくるメイドは、おそらくおまえを私の兄と思いこんで――おまえは無関係だというのに!」
許しを請うように、父が頭を下げる。とても見ていられないと、顔を上げてくれるようこちらからたのんだほどだ。
「そうだったのですか……」
老フィンチ氏の話で予想がついていたとはいえ、あらためて父から聞かされるとさらに背筋が寒くなった。あれはただの夢ではなく、過去、実際に起きた悲劇だったのだと。
十年前に亡くなった祖父の部屋に、若き伯父の写真が飾ってあったのを思い出す。婚約記念の写真だった。たしかにそっくりだな、とは思ったし、双子の弟である父にも似ていた。エンダース牧師もよく似ていると言っていた。血がつながっているのだから、似ているのは当然ぐらいにしか考えてなかったのだが。
「それほど、僕と伯父上は似ているのです?」
「ああ。顔も声も話し方も、そして性格も。まるで――」
しかし父はそれ以上、口にしなかった。いや、できなかったのだろう。
怯える父を見ていると、威厳も何もあったものじゃないなと気の毒になってきて、勇気づけるように肩を叩き返した。
「父上、すでに彼女は亡くなっているし、墓前にも参りました。もう、終わったことじゃないですか。僕はだいじょうぶです」
「私は彼女をだますような真似をしてしまった。兄のふりをして手紙を書いてしまった。まさか、父が撃つとは。脅すだけだときいていたのだ」
「脅したとは?」
「アーサー兄上はおのれの立場を忘れて、あの女に溺れてしまった。自分に成りすまして家督を継いでくれと、私に言い出したほどだ。それがいやなら、自分が死んだことにしてくれ、とまで。とんでもない、と私は断ったのだが、兄上の目は尋常ではなかった。もしあのまま家督を継いでしまえば、ローズはどうなる?」
「そのころ、すでに母上と婚約していたのですか?」
「ああ、正式にではなかったがな。ローズを捨てて、兄上の婚約者を妻にするなどできるわけがないではないか。兄上があまりにもおかしいものだから、私は父に相談した。そうしたら、ある夜、塔部屋に閉じこめられてしまった」
「アーサー伯父上に?」
「ああ。夕食のワインに睡眠薬を盛られていたらしい。兄上は私の部屋ですごして、私に成りすましたのだ。……朝、目が覚めて塔部屋を出たら、気を失った兄上と、ミルドレッドの死体を庭で見た。彼女と逃亡するつもりだったらしい。こんなむごい結果になるとは思ってもいなかった。兄上は相当、私を恨んでいたようだ。肺病で亡くなる最期まで、口を利いてくれなかったのが、今でも悔やまれてたまらない」
「なるほど。それが父上の事情でしたか……」
しばらく考えるが、どちらが悪いとも結論が出なかった。夢で見るアーサー伯父の事情と、眼前の父の事情。一番、ひどいのは祖父だが、名門貴族としての誇りを思うといた仕方ないとも思う。悲劇としか言いようがなかった。
がっくり肩を落としてしまった父を見ているうち、せめて自分だけでも味方になってやりたくなった。死者の味方をしても、意味がないと思ったのもある。
「父上は悪くない。気に病む必要などどこにもありません。伯父上が正気でなかっただけです。当時を知らない僕が聞いても、そう思えますから」
「アーサー……」
父本来の優しくて気弱な性格が顔を出したことで、苦笑せずにいられない。
「あはは。夢に出てきたら、言ってやりますよ。僕はあのアーサーじゃないってね」
「おまえは強いな」
「原因がはっきりしたんだ。もう悩まされる必要はない。そうじゃないですか、父上?」
「ああ、そうだな」
ここでようやく父が立ちあがり、呼び鈴を鳴らした。入室してきたモーガンに、茶の支度をするよう告げる。