ジョン・エリオットの日誌
クレオパトラは微笑まない 03


 いつ午後の来客があってもいいように、玄関ホールで待機するのも執事と従僕の仕事のひとつである。日ごとにふたりずつの交代制になっていて、今日は先にビリー、後にエリオットだった。思いがけず長風呂をしてしまい、短い昼の空き時間は他の用事ですっかりなくなってしまった。
 常備している便箋がそろそろ切れそうだとメイベルに告げられ、発注するついでに他の備品の在庫を確認していたのである。これも本来、家政婦の仕事だった。
 やはり無理をしてでも雇ったほうがいいのだろうか。だからといって、他の連中の給金を下げるわけにもいかない。一度に何人も退職されるほうが、もっと恐ろしい。
 一日一度は必ず自問するその言葉を胸にしまいながら、エリオットは黒いフロックコート姿で玄関ホールで待機する。まんじりともせず背筋を伸ばし、やってくる確立が低い来客を待ち続ける。
 頭のなかで繰り広げられるのは、家政婦を雇うか否かの続きだ。
 一度、屋内使用人の全員を呼んで、どちらをとるのか、多数決をしてみるとか? 給金を減らしてでも家政婦を雇うか、仕事が増えても家政婦を雇わないのか。
 いや、それも目に見えている。執事と料理人の上級使用人は賛成で、残りの下級使用人たちは不賛成。数から考えれば、「雇わない」に決定だ。たとえ、女主人の侍女も賛成に回ってくれたとしても、残りの使用人たちは給金が少ないより、少しぐらい忙しいほうが得だろう。
 そもそも、連中には家政婦がいようといまいと、仕事に大差はない。それどころか、うるさい女上司がいないから、前より気楽なのかもしれない。
 一番問題なのは、公の場で決めてしまうと、家政婦を雇うという選択肢を半永久的に消してしまうことになる。
 もしそうなってみろ。ハリスン夫人が…………。
 背筋に悪寒が走る。
 それだけはなんとしても避けたい。
 やはり、若主人のジェイムズがご結婚されるのを根気よく待つのが、現時点での最良策といえる。
 これはこれで、気が遠くなりそうだ。
「エリオットさん」
 ビリーに小声で呼びかけられ、懐中時計を見た。午後三時を半ば回る前だった。あと三十分以上も時間が残っている。
「使用人ホールでマクニールさんがお呼びです。少し時間をいただけないかと、おっしゃってます」
 またか。いい加減にしてくれよ…………。
 辟易せずにいられない。しかし断る口実も思いつかず、仕方なくビリーと交替し、階下へと向かう。
 マクニールはエリオットが姿をみせるなり、「ピーターズが呼んでおります」とだけ告げ、狭い使用人廊下を歩き出した。
 うわあ。最悪の展開だ…………。
 これもまた断れない立場にあるから、おとなしくあとをついていくしかなかった。客人に呼ばれれば、迅速に駆けつけるのが使用人である。
 ふたりの歳の離れた執事は、使用人専用の狭い裏階段を上がっていく。表の主階段は掃除や客を案内する等の用事がない限り、使うことは固く禁じられていた。それはどこの屋敷でも同様だった。
 二階にやってくると扉を開け、広い廊下を歩く。寝室の扉をいくつか通り過ぎ、マクニールが立ち止まったのは、主客室の扉だった。親しい訪問者に対してのみ使用される広い客室で、主人のサー・リチャードがピーターズ親子を歓迎してるという意味にもとれる。
「どうぞお入りください」
 マクニールに扉を開けられる。いつも扉を開ける立場だから、やや戸惑いながらも堂々と足を踏み入れた。怖気づいてしまうと、逆に失礼にあたる。
 安楽椅子に腰掛けたピーターズ氏は立ち上がり、手袋をした手を差し出してきた。
 握手を求められている?
 しかしなぜ?
 いつの間にか背後に立っていたマクニールに、小声で忠告される。
「旦那さまはあなたに感謝したいと、おっしゃっているのでございます。さあ、手を」
 握手するしかなかった。力強いそれは、どんな意味がこめられてるのだろう。
「娘から聞きましたぞ。君のおかげで、気持ちの区切りがついたと」
 あの件だ。亭でキャサリンにそっと打ち明け話をした。
 黒い髭面の巨漢紳士だが、整髪された髪は、年齢のわりには艶やかで豊かなのが印象的だ。笑みをみせると人好きのしそうな大らかさがにじみ出た。明らかにサー・リチャードに対する繕ったものとはことなる。
「さようでございますか。お役に立てたようで、光栄にございます。ピーターズさま」
 堅い表情のままエリオットはそう答えた。
「いやいや。正直なところ、こちらの若主人どのに、その気がないことはとうに承知しておった。ただ、娘が惚れている以上、助力してやりたくなるのが、親心というものでしてね」
「ええ」
 さまざまな思いが駆けめぐるのだが、主観は口にしなかった。あくまでも主人の「使用人」なのだから、客人と一個人として話すことは、主人を裏切ることにもなりかねない。
「娘も内心ではわかっていたはずだが、諦めがつかなかったのだろう。しかし、これで後を引くことなく、次に進めることができますぞ。ありがとう」
「感謝のお言葉、もったいのうございます」
 従者の件かと思い込んでいたから、あまりにも思いがけない吉報にエリオットは安堵する。
 しかしそれは早かった。
 ふたたび安楽椅子にどっかりと腰を下ろすと、ピーターズ氏は世間話の続きを始めるように語る。
「よくあることだが、私と妻は昔からうまくいかなくてね……。せめてひとり娘だけは、心底好きになった紳士と結ばれて欲しいと願っておる」
 相づちは打たず、黙したまま相手の話に耳を傾ける。
「だが、妻をそうさせたのはこの私だ。だから、あれの願いもできるだけきいてやりたいし、今では不自由させないほどの財産もできた。そこでだ」
 真剣なまなざしでピーターズ氏に見つめられた。
 嫌な予感がして、溜飲せずにいられない。
「マクニールから話は聞いていると思うが、どうかね? もう一度、考え直してみては。仕事は楽だし、なかなかの好条件だと思うぞ。給金が不満なら、もっと出してもいい。昨夜の件といい娘の件といい、君はなかなか楽しませてくれる紳士とみえる。これなら退屈しないだろう」
 エリオットは言葉が出ない。即答したいが、相手が相手だけにそれははばかられる。
「それに聞いたところによると、朗読もお得意だとか。ますます好都合だ」
「滅相もございません。それは買いかぶりでございましょう」
 誰が余計なことをマクニールに言った?
 瞬時に部下である使用人たちの顔を思いめぐらせるが、あまりにも多くて特定できない。自分の見えない場所で、こいつはいろいろ聞きまわっていたのはたしかだ。
「ぜひとも、我が屋敷に仕えていただけ――」
 相手がそう言い終わらないうちに、拒絶の言葉が口をついた。
「何度も申し上げたはずです。わたくしは主人であるサー・リチャード・アンダーソンのもとで生涯、お仕えする所存にございます。どんなに給金が下がろうとも、この屋敷を愛してますし、部下たちもそれは同様だとご承知ください」
 言いすぎた。
 それでもよかった。
 金だけでなんでも解決しようとする、このブルジョワ紳士が気に入らなかった。
 たとえ悪意がなかったとしても。
 わずかに眉をひそめ、ピーターズ氏は言った。
「そうか。それは残念だ。君が仕えてくれれば、妻も喜ぶと思ったのだが……。すまなかった。この話は忘れてくれたまえ、エリオットどの」
 なんだって?
 お相手はこの巨漢紳士ではなく、ピーターズ夫人。
 話がちがいすぎるじゃないかっ!
 反射的にそんなセリフが口からあふれそうになる。それもなんとかこらえ、マクニールにうながされるまま、客室を下がる。
 奥のベッドからクレオパトラが飛び出してきた。待ち構えていたかのように、激しくピーターズ氏に甘えている。突然の訪問者で、猫は警戒していたのだろう。
 廊下に出たとき、猫の鳴き声と小瓶が割れる音が聞こえた。けれど、駆けつける気力はなかったし、マクニールがすぐに応えるから、自分はいてもいなくても大差ない。


 使用人たちが午後の茶をとる時間になった。二階から降りて、使用人ホールに入ると、すでに部下たちはテーブルの前にたったまま、待機していた。マクニールは猫の後始末があるため、顔を出していない。
 ちらり、と懐中時計を見ると、三分遅刻だった。
 エリオットが上座につくと、食事と同じ席順で使用人たちは座る。いつものようにビリーが茶を給仕して回った。
 午後の伝達事項があればこの機会を利用するのが常だったが、ピーターズ親子の件で頭がいっぱいで、言うべきことは思い出せない。
 やられた。
 あのマクニールにしてやられた!
 故意に勘違いさせるような話し方をしていたのだ。よくよく思い出してみれば、「ピーターズ夫人」という言葉こそなかったものの、それを除けば彼の主人の言っていた内容そのままである。入浴の順番の件だって、信憑性を高めるために「仲がよろしいんですね」と、思わせぶりなことを耳に入れたにちがいない。
 しかしどうしてそんなことを?
 ピーターズ氏は妻のための従者を雇う件に熱心なようだが、そばで仕えるマクニールは面白くないのだろうか。だとすれば、つじつまは合う。
 マクニールのかつて美男子だったろう姿を思い出し、ピーターズ夫人とただならぬ関係だったのではないかと推測する。そしてそんな彼の後に、若い愛人が屋敷に来たのはいいが、面白くない。だから、主人に発覚しないように影で、その愛人に嫌がらせをし、屋敷を逃げ出させるように仕向ける。
 なんというか、あまりにも陰険な情事の世界である。あのマクニールならやりかねないし、自分もまんまと彼の計画にのせられてしまった。
 だが、初めから夫人の従者になるのだと話を持ちかけられても、承諾するつもりなどさらさらなかった。給金に心を動かされる使用人なのだと、安く見られたことが余計に腹立たしい。
 使用人ホールにしばらく沈黙が続いた。
「あの、エリオットさん」
 メイベルに呼びかけられ、我に返る。
 メイベルもマーク同様、黒い髪と瞳の持ち主で、意思をはっきりさせる性格だった。怖気づかないし気も利くから、彼女に家政婦になってもらうという選択もある。が、メイベルはまだ二〇歳をすぎたばかりで、経験が浅いため、それも気が遠くなる。
「なんだい?」
「クレオパトラさまのことなんですが……」
「ああ、あの猫か」
「はい。それはもうお元気すぎて、掃除の手間が増えて困ってるんです。エレンとスー、三人がかりで客室のカーテンや絨毯、家具に傷がないか丹念に調べなきゃいけませんし、何しろあの白くて長い毛がくせものなんです。はたいてもはたいても、白い毛がふわっと、舞ってるんですから!」
 メイベルの口調は徐々にきつくなっていた。それだけあの猫に対する怒りが募っているのだろう。
「だいたいですね、どうして屋敷に猫まで連れてこなきゃならないんです? まだ犬のほうがいいと思いません? 家具やカーテンをひっかいたりしないもの!」
 彼女が怒るのも無理はないな……と、エリオットは苦笑せずにいられなかった。
「まあ、落ち着いて、メイベル。まだ正式に旦那さまからお聞きしていないが、客人は明日には帰宅されるだろう。あと一日の辛抱だ」
「まだ一日もあるんですか……」
 不機嫌丸出しのメイベルだったが、愚痴をぶつけたせいでいくらか表情は清々しかった。
「そうだな。僕もあの雄猫には、振り回されている」
 メイベルとエレン、スーが驚きの声を上げる。
「ええー、あの猫、オスなんですか!」
「昨夜、厨房で残飯をあさっているのを捕獲したとき、しっかり確認した」
「ええー、残飯をあさるんですか!」
「どうもあれだけでは足りないらしい」
 さすがに家女中たちは呆れたようだ。互いの顔を見て、笑いを噛み殺していた。
 やや考え、エリオットはつぶやくように言った。
「家具に傷がつこうがつくまいが、それなりのチップをいただかないと、面白くないかもしれないな」
「ですよね!」
 ここですかさず同意したのはマークである。「チップ」という言葉に反応したとしか思えない。
「それとなく、伝えてくださいよ、エリオットさん。あのマクニールさんに言ってみるとか」
「できるわけないじゃないか。こちらから要求するのは、恥ずべき行為だ」
「だから、それとなく、って俺は言ったじゃないですか。遠まわしに伝えるんですよ」
「いい言葉があれば、教えてくれ」
「そんなときの我らがエリオットさんじゃないですか」
「困ったときだけ僕を頼るんじゃない……」
 苦々しくそう言うと、その場の空気を変えるように、マークが別の話題をもちかけた。
「それより知ってます? さっき、所用で村に出てきたんですが、今夜、集会所で映画が上映されるようですよ」
「映画!」
 エリオットと侍女のナターシャのぞく使用人たちが、いっせいに沸き立つ。
「なんでもアメリカから買ってきたフィルムと機材を持って、巡業している一家があるみたいなんです。ニューヨークで流行しているドタバタ喜劇だって聞いたから、すごく興味がありません?」
 どの顔も期待と喜びに満ち溢れていた。給仕をしているビリーまでも、瞳を輝かせてマークの話に聞き入っている。
 無理もないだろう。それだけ田舎は娯楽に乏しいし、映画という存在は聞いていても、実際、観たことがない者が大半なのだろうから。ロンドンほどの大都会ではなくとも、映画が上映されているような大きな町へ遊びに行く場合、丸一日の休暇をとらない限り、なかなか難しい。
「それは何時からだ?」
 ひとり冷静なエリオットが、マークにそう尋ねた。
「えっと……、八時です。観客からアンコールがあれば、十時からも上映してくれると、集会所に泊まっている一家は、親切に言ってくれました」
「あきらめろ」
「どうしてです?」
「言っただろう。客人はもう一日、滞在されると。もし今夜が最後ならば、旦那さまは連日以上に歓待されるはずだ」
「そうですね……」
 マークは眉をしかめ、肩をすくませる。他の使用人連中も一気に、失意の表情に変わった。
 しかしそれも一時のこと。午後の茶の時間が終了すると、何事もなかったかのような表情で、すぐさまそれぞれの仕事にもどる。それも彼らの日常の光景だった。


 一家と客人のための午後の茶の給仕が終わると、次は晩餐の準備にとりかかる。晩餐用の燕尾服に着替えた執事と従僕が食堂にテーブルを出し、食卓を整えるのだ。
 エレンが銀器に生けた花を運んできた。園丁が切り分けた草花を屋敷に飾るのは、家女中たちの役目で、晩餐用の食卓に飾る花も同様である。続いてスーが果物の盛られた籠を置いた。特に季節はずれのバナナやオレンジは、庭園の温室で育てられたものであり、これもまた客人の歓待には欠かせない。
 次にエリオットが燭台を置いて蝋燭を立て、ビリーが数多のグラスや食器を慎重かつ丁寧に並べていった。あらかじめマークが折っていたナプキンを並べ終える。確認のため、席と席の間に的確な距離が保たれているか、物差しで計るのはエリオットの役目だった。
「よし……、よし……、ここもよし。銀器に指紋はついてないし、グラスもすべてそろっている」
 滞在する客人がふたりなのもあり、準備はパーティーや本格的な晩餐会と比べると、ぐんと楽なほうだ。しかし客人のない日は大きな花器は飾らず、食器の数も少なかった。だからこの機会に、ビリーを使って教育もさせる。
「この調子でがんばってくれ」
 エリオットがねぎらいの声をかけると、たちまちビリーは破顔する。
「はい!」
 暖炉に目をやる。石炭が足りるのか足りないのか、微妙な量である。メイベルは足りる、と判断したのだろうが、秋の夜だから急に冷え込まないとも限らない。
 ビリーを使って、石炭を補充するよう伝言を頼んだ。メイベルは女客であるキャサリンの夜会服の着替えを手伝っている最中だから、エレンかスーを使えと付け加えて。
 走り出した彼の背中を見送るや否や、後ろで控えていたマークに声をかける。
「例の件、しっかり断っておいたからな」
「従者の?」
「ああ。どうやらあれは夫人の従者――まあ、愛人だな。その話だったようだ」
 思ったとおり、マークは小さな驚きの声を上げた。
「あ、愛人! ……けど、相手をするのが夫人なら、悪くないと思う輩もいるんじゃないか? あの給金、魅力的だぜ」
「だからこそさ。もし、同業者と話す機会があったら、この件は伝えておいたほうがいい。あのマクニールはかなりの食わせ者だ。僕もやられた」
「だまされたってことか?」
「あいつは夫人の元愛人だろう。新しく入った従者をイジメては、屋敷を追い出している可能性が高い。あの調子だと、ひとりやふたりじゃあないぞ」
「嫉妬かよ」
「だな」
「怖ええ……」
「だから同業者に会ったら、それとなく伝えておけって言ったんだ」
 マークは神妙な顔をしてうなずく。
「ああ、わかった。でもよ……」
 ここでさらに小声になった。
「屋敷を逃げ出すぐらいのイジメってどんなもんだろうな?」
「さあな」
「マクニールが嫉妬するぐらいだから、すげえ美女だとか」
「もうその話はよしてくれ」
「なのに夫は巨漢でカツラ。夫婦揃って訪問してこなかった理由が、なんとなく読めてきたなあ。ま、どっちにしても、たくさんチップさえいただければ――」
 エリオットは聞いてはならない単語を耳にし、唖然とした。
「おい、まて。そのカツラって?」
 マークは大きく目をまたたく。
「あれ? ひょっとしておまえ、気がついてなかったのか?」
 わずかに下唇を噛み、視線を左斜め上にやり、記憶の糸をたぐる。
「ううーん、意識してはなかったが……。言われてみれば、あまりにも艶のある髪をされているし」
「やっぱり、カツラだぜ」
「おまえははっきり見たのか?」
「いや。けど、あの不自然さは」
「いやいや。はっきりしないのに、決め付けるのは客人に失礼だ」
 マークはちょっとだけ苦笑した。
「真面目なおまえらしいな」
 ここで炭バケツを持ったスーが食堂に入ってきた。エリオットは何事もなかったかのように、主人の夜会服を整えるため、二階へと上がった。後ろにマークが続く。彼は若主人の着替えが担当である。
 裏階段を上がる途中、マクニールと出くわす。一言あいさつだけをし、そのまますれちがうつもりだったのだが、呼び止められてしまった。
「おお、ちょうどよかったです。申し上げにくいのですが、じつはクレオパトラに液体整髪料の入った、瓶を割られてしまいましてな」
 ピーターズ氏の客室を出る際に聞いた、瓶の割れた音が脳裏によみがえる。
「でしたら、のちほどご用意いたします。今、手が放せなくて」
「明朝までにお願いいたします」
「はい」
 こいつとは必要以上に関わりたくないから、事務的な言葉だけ交わして再び駆け足で階段を昇った。
 主人たちの夜会服の着替えをすませると、酒を運び出し、次は料理の用意である。
 エリオットが鳴らした晩餐十分前のベルの合図とともに、裏階段を上がって、厨房からビリーが五皿のスープを盆で運び出す。魚料理が入った銀の覆いのついた皿はマークである。その後ろをメイベルが続く。もうひとつの魚料理の皿を持って。
 厨房も多忙をきわめ、階下に「もたもたするんじゃないよ」というハリスンの罵倒が響き渡る。だが女中の泣き言は聞こえない。嘆きを口にする暇などないのだ。
 食堂に主と客たちが入ってきて、それぞれの席につく。昨夜までの順番と異なり、ピーターズ氏とジェイムズの席位置が替わっていた。キャサリンとの件は「縁がなかった」ことを意味するように。
 デカンターに分けられた赤ワイン――クラレットを、エリオットがグラスにひととおり注ぐと、主人が乾杯をとり、晩餐が開始された。彼らの表面上の会話はありきたりなものだが、別れを惜しむ言葉がちらほらと混じっている。客人が明日に帰宅するのは、火を見るより明らかだった。
 スープが終わり、魚料理の覆いが取られると、後ろで待機していたビリーが持ち去る。
 出てきたのは鮮やかな紅色をしたサーモンのパン詰である。エリオットがサイドテーブルで切り分け、人数分の皿に盛る。その間、マークが汚れた食器とグラスを片付け、魚料理の皿をテーブルに置く。ふたたび姿を現したビリーが、使用済みの食器を階下の洗い場へと運んでいった。
 こんな調子で、滞りなく晩餐は進行するのだったが、エリオットの視線はときおり、ある一点に集中してしまう。
 いけない。
 見てはいけない。失礼にあたる。
 でも今夜を見逃したら、生え際を観察できる好機は、永遠におとずれない可能性が高い。
 空のグラスを持ってきたマークと視線が合う。
――どうだ?
 と、言いたげに、彼はほんのわずかに視線を、例の方向にそらした。
 ポートワインをグラスに注ぎながら、エリオットは眉を一瞬だけしかめてみせた。
――それより、真面目に給仕をしろ。
 と、無言で叱咤した。
 なのに…………。
 気になる!
 自然とエリオットの視線は、ピーターズ氏の生え際に注がれていた。
 たしかにマークが言っていたとおり、豊かな黒髪の艶と、口髭との均衡がとれておらず、頭髪だけ妙に若々しい。
 そのとき。
 間の悪いことに、疑惑の張本人と視線がまともに合ってしまう。すぐにそらすものの、気まずいことこの上ない。用もないのに使用人と目を合わせるのは、下品とされている。しかも、視線を向けたのは使用人である自分のほう……。
 主人と女主人のほうにそれぞれ視線を動かしたが、この失態は察知されてないようだ。安堵する。
 しかしひとりだけ、意地悪な視線をよこす者がいた。
 ジェイムズだった。彼もまた疑惑を抱いていたひとりらしく、ちらちらとわざとらしく、ピーターズの生え際に視線を動かし、またエリオットのほうを見つめた。
――おまえもか。
 そう呼びかけられたような気がした。
 いっぽうのキャサリンは何もかも吹っ切れたようで、昨夜までの戸惑いの笑顔ではなく、自然な笑みを披露していた。素直に料理を楽しんでいる。
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