クレオパトラは微笑まない 04
予想通り、ビリヤード室での談話が長引いてしまい、主人と客人の寝室に就寝前の酒を用意し終えたら、時計は午前零時半をとうにすぎたころだった。
使用人たちは三十分前にそれぞれの寝室に引き上げ、今は眠りについている。
ただひとりをのぞいて。
エリオットは屋敷の見回りをする前に、使用人ホールで熱いジャスミン茶を口にする。今日もいろいろありすぎて、疲労が全身を覆っていた。もし浴室でうたた寝をしていなかったら、茶を飲む気力すら残っていなかったかもしれない。
眼鏡を外し、虚ろなまなざしで暖炉の小さな火を見つめる。ひどく曖昧としていた。
視力がさらに落ちてしまったのか、眼鏡がないと使用人連中の顔を間近でないかぎり、判別することができなかった。
このままだと、いつか何も見えなくなってしまうんじゃあ……。
ふと、そんな不安が頭をもたげてきた。
そういえば、疲労がたまると頭痛もひどく、翌朝、目を開けるのもつらいことがある。レンズの度が合わなくなっているのだろうか。
休暇がとれたら町へ出かけて、眼鏡を新調しようと思うが、肝心の休暇をとることすら厳しいのが現実だ。人手不足で忙しすぎるのが何もかもいけない。
以前なら家政婦のパーシーがいたし、もっと前はマークが嫌っていた執事のブラウンもいた。そして従僕は三人、下男はふたりで、厨房は台所女中と流し場女中で仕事を分担できていた。先代のころはさらに使用人が多く、階下も常に賑わっていたとパーシーから聞いた話もあるほどだ。
それでも皆、がんばってくれているのだし、自分だけ弱音を吐くわけにはいかない。
彼らの上に立つ自分が弱くなってしまうと、使用人連中が不安になり、日々の仕事に支障がでてくるだろう。そうなれば、主人にそのしわ寄せがすべていってしまう。
だけど……。
いつまでこんな忙しい日々が続くのだろうか?
終わりがないように感じられて、気が滅入りそうになる。
――お嬢さまはどうされているのだろうか?
脈絡なく、そんな思いが胸をよぎる。
ひどく疲れてしまった日の夜は、二年前に嫁いで屋敷を出て行ったレベッカの姿が、目に浮かぶ。今でも目を閉じると、はっきりとその面影を読み取ることができるほどに。
――お会いしたい。
インドまでの道程ははるか遠い。一日や二日の休暇で訪ねられるような場所ではない。
そんなことを考えてしまう己に自嘲する。
夫である陸軍大佐が許すはずが――。
だからどうしたいというんだ、僕は……。
堂々巡りで、我ながら嫌になる。
「ずいぶんとお疲れのようでございますな」
不意に人影があらわれ、心臓が止まりそうになった。
眼鏡をかけ、顔を上げる。マクニールだった。
この男はどうしていつも、気配を消して近づくのだろう。
そんなエリオットの思いを知って知らずか、昨夜と同じように部屋の隅の椅子を引き寄せ、マクニールは座る。微妙な距離感がこれまたいやらしい。
「失礼ながら。――あなたは、真面目なお方ですな。そしてお優しい。それが余計、疲れを増幅させているのでしょう」
「はあ……。それはどうも」
そう口にし、裏階段で調達の約束をした整髪料の件を思い出す。
しまった。すっかり失念していた。
どうしてこの男のことになると、いつも頭から抜けてしまうのだろう……。
「すみません。明日の朝までは必ず、用意いたしますから。いや、これから用意して、お部屋までお持ちいたします」
マクニールは肩をすくめた。
「さきほど、わたくしが申したでしょうに。そうやって気ばかりつかわれるから、身体がまいってしまうのだと」
いつになく優しい言葉に、戸惑ってしまう。相手が相手だけに、不気味でもある。
「そんなことはないですよ。実は、この件も失念してました。忘れっぽくて、我ながら情けないです」
「それだけあなたの神経がまいっているということでしょう」
「まさか……」
「眼にもそれがきておられるようですぞ。ときたま、ひどく相手をにらみつけられる」
「あ……そう言われてみれば」
入浴中、マークが教えてくれた。最近の自分は怖いと。
態度かと思ったが、実は表情ではなかったのか。
マクニールは小さくうなずいた。
「そうです。だから無理をされないよう、お気をつけなさい。失念も無用の威嚇もわたくしどもの職業には、決してあってはならない失態です。眼鏡を新調される前に、一度、医者にかかってみられることですぞ」
「……」
予期せず的確な助言をもらい、エリオットは呆気に取られてしまう。
マクニールはやってきたとき同様、物音ひとつ立てず椅子を片付け、その場を去ろうとした。
「まってください! その……!」
「なんですかな?」
ふたたびこちらを向いた相手に、どう返答してよいのかわからない。そもそも、どうして引き止めたのか、自分にもわからないのだから。
だから頭に浮かんだままの言葉の羅列を口にする。
「あなたは今でも、ピーターズ夫人のことを愛していらっしゃるのですか?」
と、言って焦る。
そんなこときいて、失礼もいいところではないか!
やや間を置き、マクニールは淡々と答えた。
「おやおや。また勘違いされてますよ」
「え?」
「夫人を愛しているのは、我が旦那さまですぞ」
「しかしそれでは、氏が僕を従者として雇おうとした意味がないのでは?」
「これもまた夫人への愛情表現なのです」
エリオットは首をかしげずにいられなかった。
どうして妻のために愛人を見つけて連れてくることが、愛情表現になるのだろうか。
ずっと堅い表情だったマクニールが初めて、人間らしい顔をしてくれた。失笑しているのである。
「あはは……。これもまだお若い証拠でしょうな。おいくつですか?」
「二七ですが」
「でしたら、もう少しの人生経験が必要かもしれません。……ま、それはそれといたしまして」
いったん言葉を区切り、彼は言葉を選ぶように話を続けた。
「あなたさまも思ってらっしゃるとおり、我が旦那さまはあの容姿ですから、どうも事業以外のことに関しては、弱気というか……。ほんとうは奥様のことを愛されているのに、うまく表現できないご性格なのです。奥様も奥様で、昔、舞台女優なんぞだったものですから、とてもお美しい反面、少々、お高いところがございましてね」
かつての愛人という予想は外れていたものの、夫人はかなりの美女だというのは当たっていたようだ。
「なかなかうまくいかないものですよ。そして旦那さまが選んだ方法が、奥様への惜しみない贈り物でございます。初めはただの物でしたが、やがて――」
「では僕をその贈り物にしようと?」
「言葉を悪くとれば、そうなりますな。ただ、そのような方法で、満たそうとしてもいつか無理がくるもの。所詮、あの青年たちは金銭が目的です。そろそろ、旦那さまにもお気づきになられて欲しいのですが……」
ここでひとつ空咳をし、マクニールは堅い表情にもどった。
「まあ、そういう旦那さまの不器用な優しさが、わたくしは好きなのでしょう。だからあれこれ心配して、裏から手を回しているのでございますよ。ただ、あなたには少々、悪うございました」
ここで、唐突に踵を返すと、マクニールはその場を去った。来たときと同様、まったく足音を立てることなく、姿を消す。
すっかり話し込んでしまった。屋敷の戸締りを確認しなくては。
ソファから立ち上がり、カップとソーサーを片付けながら、エリオットは思った。
――あれが話に聞いたことのある、完璧な使用人だ。
物事のすべてを予測し、事態が悪くなる前に先手を打つ。それもお仕えしている主人に悟られることなく。
明日、早めにマークに事情を説明しておいたほうがいい。有能な執事の醜聞を流してはならないし、ピーターズ氏の名誉にもかかわる。
「それに比べ、僕はまだまだだなあ……」
ランタンを手にしながら、そんな言葉が口をついてくる。
そして邪推ばかりしていた自分に反省した。
二階、一階と戸締りを確認し、階下に降りてきた。厨房が気になっていたから、まっさきに入ってみる。あのやんちゃなクレオパトラ君が、残飯をあさってないともかぎらない。
人のいない厨房は不気味なほど静かだった。早朝から深夜近くまでの慌しさが嘘のようにである。
「クレオパトラ、いるか?」
声をかけてみたが、反応はなかった。
こっそり隠し置いていた鴨肉を食い散らからされたものだから、ハリスンは残飯もすべて処理したのだろう。どんなに腹をすかせた猫も、これでは食べようがない。
今夜は静かに眠れそうだ。
他の部屋の戸締りも確認し、あとは食料貯蔵室だけというときになったころ。
がさごそと何者かが、紙袋をあさっている音が耳に入った。
エリオットは食料貯蔵室に飛び込んだ。叫ぶ。
「こらっ! いい加減にしろ、ブタ猫!」
猫の威嚇が聞こえた。
昨夜、コニーが使った手を思い出し、そばにあったモップを持ってゆっくりと振ってみる。しばらく鳴き声が続いていたが、だんだんと小さくなり、白い毛皮の塊が飛びついてきた。間一髪、避ける。
またクレオパトラは体勢を立て直し、四つ足を踏ん張って構えた。目の動きがモップの揺れに同調している。
ランタンを床に置いたエリオットは、今だ! と、猫を捕獲しようとした。が、するりと腕の間から逃げられてしまう。
さらに警戒されてしまったのか、クレオパトラは瓶が並んでいる棚に飛び移った。派手な音を立てて、何本かの瓶が床に落下し、割れた。
「あ、あ、あああ! なんてことをっ!」
「ぶみゃーん」
「得意げに笑うなっ!」
「ぶみゃみゃん」
調子づいたクレオパトラは棚から棚へと飛び移り、さらに多くの瓶や缶を床に散乱させる。こうばしいパンの匂い、菓子の甘い匂い、ハーブの香り、果実酒の匂い……。祭りでしか体験できないような、さまざまな匂いが一度にエリオットの鼻腔をくすぐるが、嬉しい気分にはとうていなれなかった。
「よせ、やめてくれ!」
そう懇願しながら、頭をかきむしっていると、涙があふれてきた。
「頼むから、これ以上、仕事を…………」
眼鏡を外し、拭っても、拭っても涙は止まらない。
情けない。あまりにも情けなさすぎる。
マクニールが言っていたとおり、忙しすぎて神経がまいっているのだ。感情が制御できない自分の姿が、何よりの証拠である。
猫の管理ができなかったこちらに非があるのは明白だとしても、どうして充分に餌をやらないのだろうか。それとも慣れない屋敷に連れてきたものだから、クレオパトラなりに落ち着かないのかもしれない。
どちらにしてもマクニールへの賛美は撤回だ。
主人の世話は、完璧すぎるぐらいで尊敬に値する。
けれど猫の世話も徹底して欲しい。
何も話さない獣だからといって、尻拭いをさせられるこっちの身にもなってくれよ!
怒りがふつふつとこみ上げてくる。
しばらくクレオパトラのひとり運動会が続き、エリオットの涙がようやく止まりかけたころ。猫の鳴き声が甘えたものに変わった。
「おいおい……。今さら、いい子になるな」
眼鏡をかけながら、床のランタンをふたたび手に取る。
照らし出されたクレオパトラは、床に広がったある液体を狂ったように舐めていた。恍惚したように鳴き声を上げては、身体をくねらせて床に背中をこすりつける。
まるで酔っ払いだ。
いったいなんの液体だ、と思いながら、近くに転がっている瓶を拾い、ラベルを読んだ。
『またたび酒』とパーシーの筆跡で書かれていた。
普段、鍵のかかっている食料貯蔵室は、家政婦であったパーシーの管轄であった。今は料理人のハリスンと執事のエリオットが管理している。昔はここでパンやクッキーを焼き、ジャムも作ったのだが、今はただの貯蔵室と化していた。
それにしてもこの猫はいつ、階下に忍び込んでいるのだろう。
昨日は厨房、今日は食料貯蔵室。二つの共通点は、ハリスン。食料貯蔵室に余った食材を収めているさなか、彼女が厨房の勝手口で一服している隙を狙って、侵入したにちがいない。
あれほど、用事がないときは鍵をしろ、と忠告したのに。
だがこの惨状を見たら、さすがの彼女も反省しないわけにはいかないだろう。
エリオットはクレオパトラを片手で抱きかかえ、昨夜と同じように、そっとピーターズ氏の寝室に返そうとしたのだが。
まてよ。
ついでにマクニールに渡す、ピーターズ氏の液体整髪料の用意もしておくか。
というか、カツラなのになぜ整髪料?
やっぱりあれは地毛?
それにしては不自然だと、マークもジェイムズも疑惑を抱いている。
それともあれか。毎朝マクニールが、カツラの手入れに整髪料を使うとか。
エリオットはクレオパトラに、意地悪い笑みを投げかける。
「これだけ暴れられたんだ。ちょっとぐらいのチップじゃあ、とてもじゃないけど満足できない」
空の麻袋に白猫を押し込み、しっかりと紐で結わえる。またたび酒に酔っていたから、造作なかった。
「おまえのご主人さまには悪いが、僕の部屋に一泊してもらおうか。クレオパトラ君」