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翌朝、茶を運んできたビリーに起こされるが、金縛りにあったように身体が動かない。
「エリオットさん、エリオットさん。……さっきから、不気味な声がベッドの下から聞こえるんですが」
「……あ」
ここで気力をふりしぼって、のろのろと身体を起こす。
「今、何時だ?」
サイドテーブルに置いていた眼鏡を取りながら、そうたずねる。
「七時半です」
「なにぃっ!」
一気に目が覚めた。ビリーをにらみつけてしまう。
「三十分も寝坊じゃないか! マークはどうした!」
怯えた目をしながら彼は答えた。
「その……、マークは何度も起こしたんですよ。なのにエリオットさんは目を開けられないし、不気味な声はするし。もしかしたら、何か悪い病気に罹られたんじゃないかって、心配で、心配で」
我に返る。
そうだった。昨夜はクレオパトラを袋詰めした後、液体整髪料を執事室で調合していたのだ。すっかり夜が更けてしまい、眠りについたのは午前三時を回ったころだったろうか……。
「そうか。すまない」
ビリーが注いでくれた紅茶にどっとミルクを入れ、一気に飲み干す。三十分も経っていたから、温さを通り越して冷たかった。
「それよりこれを。マクニールさんに至急、渡してくれ」
エリオットはサイドテーブルの引き出しから、化粧品の瓶を取り出した。
「はい」
ビリーはちょっとだけ安堵の笑みをみせ、受け取った瓶を手に執事室を出て行った。
彼の足音を聞き終えないうちに、エリオットは水差しで洗面器に湯を注ぐ。素早く顔を洗い、髭をそり、髪を整え、靴下とブーツを履き、シャツを着、カラーを襟に立て、ネクタイを締め、いつものモーニングコートに着替えた。その間わずか五分。
鏡の前で黒いネクタイが曲がってないことを確認し終えると、洗濯室へ向かう。主人の新聞にアイロンをかけるためだ。
「寝坊したな、ジョニー」
マークがいた。得意げな笑みを披露すると、まだ温かい新聞三誌を手渡してくれる。
なぜ彼でなくビリーが起こしてくれたのか、今、理解できた。
「ああ、助かる!」
「さ、行くぜ!」
エリオットは主人を起こしに、マークは若主人を起こすために、厨房で茶器の揃った盆を受け取り、裏階段を上がる。侍女のナターシャも女主人を起こすために、茶を運びながらその後に続いた。さらにその後ろは、女客人を起こすため、メイベルが階段を上がる。
彼らは一階の踊り場で、掃除道具を持ったエレンとスーとすれちがった。ふたりは、茶盆を提げた四人の邪魔にならないよう、隅で通り過ぎるのを待っている。
慌しい朝の時間だったが、階上ではゆったりと進んでいく。主人たちが起床するのは午前八時と決まっていた。
起床の茶をそれぞれの部屋に運び終えると、ふたたび裏階段を使って使用人ホールに集まる。いつもならすでに食卓は整えられているはずだが、エリオットが寝坊してしまったため、ビリーが急いで皿を並べているさなかだった。
そもそも非は自分にあるのだから、エリオットは無言でビリーを手伝う。後れて入ってきたマークも加わり、なんとか朝食までに間に合った。他の使用人たちが集まってきたころ、マクニールに声をかけられる。
「おはようございます。あの、クレオパトラをご存知ありませんかな」
「クレオパトラさまがどうかされました?」
「今朝から姿が見えんのです」
「そうですか」
かまうことなく上座に立ち、そのまま食前の祈りをささげようとした。すると、あのマクニールが、懇願するように言葉を続ける。
「心当たりは探してみたのでございますが、ひょっとすると表に出たのかもしれません」
「と、おっしゃると?」
「お願いします。わたくしひとりでは、広い屋敷を探し回ることは不可能でございます」
やや間を置き、エリオットはうなずいた。
「わかりました。探すとなれば、朝食の時間しか空いてませんね」
たちまち使用人たちの表情が不機嫌になった。当然だ。大切な食事の時間を、猫探しに使われてしまうのだから。
しかし不満を漏らす者はいない。執事の言葉は絶対なのである。
「恩にきります! わたくしは中庭にいますから!」
そう言って、マクニールは駆け足でその場を去った。彼の姿が見えなくなるなり、無言の厳しいまなざしがいっせいにエリオットに注がれる。
「すまないな。しかしうまくいけば、もっと美味しい食事にありつけるかもしれないぞ」
マークが代表して言った。
「おっしゃる意味がいまひとつ不明なんですが」
ここでエリオットは、まっすぐに部下たちの顔を見つめる。
「時間がない。とりあえず僕の言うとおりに行動してくれ。……いったん、猫を探しに、それぞれ散る。そして八時二十分に、玄関ホールに集まる。ただし、姿を見られないよう、適当な場所に身を隠すんだ。そして僕が眼鏡をかけ直すのを合図に、前に出ろ」
いっせいに不思議そうな表情が返ってくる。
「説明している時間がない。とにかく、頼む!」
エリオットが「行け」と号令をかけると、使用人たちは思い思いの場所へ散っていった。
次に彼が向かったのは厨房だ。なかに入るなり、ハリスンにものすごい剣幕で怒鳴られる。厨房に地響きが起きそうだった。
「いったいどうしたんだい、あれはっ! 食料貯蔵室がめちゃくちゃじゃないか!」
「猫さ」
ハリスンの目に殺気がこもる。肉包丁片手に怒りをぶつけるものだから、台所女中たちは怯えた目で、ふたりの上司を見守っている。
「ああ、そうかい! あの忌々しいブタ猫かい! どうして――」
相手が怒鳴り声を大きくする前に、さらに大きな声でエリオットが言い返す。
「チップが欲しかったら、八時二十分に玄関ホールに来てください!」
意味が呑みこめないハリスンは、眉をひそめる。
言い返される前に、エリオットは厨房を出て行った。次に向かうのは執事室の寝所だ。ベッドの下に手を入れ、麻袋を取り出す。
濁音交じりの猫の叫びが聞こえた。うるさいから、またたび酒を袋にかける。効果てきめんで、ごろごろと喉を鳴らす声がした。
「単純なやつめ」
麻袋を抱え、執事室を出る。途中、誰ともすれちがわないよう、角を曲がる前に行き先を確認する。勝手口から表に出て、薬草園へ駆け、茂みに麻袋を隠した。
さらに次に向かったのは、マクニールのいる中庭である。花のない薔薇花壇の前で屈みながら、猫の名前を呼んでいる背中に声をかけた。
「みつかりましたよ、マクニールさん!」
立ち上がった相手が駆け寄ってくる。いつもの堅い表情は微塵もなかった。
「ほんとうですか! いやあ、ありがたい! で、どこに?」
「玄関ホールにいらっしゃいました」
「では」
駆け出そうとするマクニールを引き止める。
「どうされましたかな?」
「申し上げにくいのですが、ピーターズ氏にもご足労いただけないでしょうか」
「はあ?」
「クレオパトラさまがひどく警戒されまして、捕まえることができないんです。飼い主である氏でしたら、すぐに高いところから飛び降りていただけるのではないかと」
「さようですか……」
ここでマクニールは思案しているようだ。無理もない。この時間、まだ氏は夜着のまま寝室ですごしているのだろうから、着替えの時間を考えれば間に合うかどうか。
「またいなくなる前に、お願いします」
「そうですな」
マクニールは駆け足で中庭を去った。
懐中時計で時間を確認する。急いでこれから主人の身支度を整えれば、二五分ごろに姿を現すはずだ。
エリオットは薬草園にもどり、誰か手を貸してくれる者はいないかと、視線をこらした。勝手口にもどる下男、トム少年の姿が見える。階下の廊下を伝って、玄関ホールに向かうのだろう。
麻袋をつかみ、トムを呼びつける。
「これを持って正面玄関から、玄関ホールに行ってくれ。中味を取り出して、袋はここに捨てろ」
「でも……正面玄関は出入り禁止です」
「今回かぎり、僕が許可する。この時間の旦那さまたちは、一階を使われることはないから、大丈夫だ」
トムは袋のなかをのぞく。
「猫! もう見つけたんですか!」
「いやいや。活躍するのはこれからだよ。ピーターズ氏が現れたら、捕まえましたと言って、猫を放せ。決して渡すんじゃない。床に放すんだ」
「はい」
トムは緊張した面持ちで猫を抱え、その場を去った。奉公にきて初めて正面玄関をくぐるのだから、無理もないだろう。それでもまだ一三歳の少年だけに、疑問をもたないまま、素直に命令をきいてくれるにちがいない。
玄関ホールはいつもの静けさに包まれていた。白黒の市松模様の床は艶やかに磨き上げられ、白亜の巨大マントルピースには女神の彫像がほどこされ、正面の壁にはアンダーソン家代々の肖像画がかかっている。
ただ、アンダーソン家は准男爵の称号を叙されてまだ二代目だったから、肖像画の数は多くない。その代わり、先代が買い付けたさまざな油絵が、隙間を埋めるように飾られていた。
ここは訪問者を歓迎し、屋敷の富を披露する空間でもあるのだ。当然、賤しい身なりの者は通ることを許されず、それを監視するのが本来、エリオットの役目のはずなのだが。
ぶうぶうと鳴く猫を抱えたトムは明らかに、その場にふさわしくなかった。お仕着せ姿とはいえ、正面玄関に立つことは禁じられている。
柱や隣室の影に隠れている他の使用人たちも、朝の祈祷以外で、足を踏み入れてはならない者が大半だ。たとえ上級使用人である執事といえども、用事がないかぎり、私的に正面玄関を利用することは許されない。
早く姿を現さないだろうか……。
八時二五分を経過し、柱時計の針は二六分を指す。
八時半になってしまえば、ふたたび使用人としての仕事がまっている。
なんとかそれまでに間に合ってくれれば!
銀の手すりが眩しい螺旋の主階段のふもとで、エリオットは疑惑の張本人を待ち続ける。
さらに一分経過。
支度に時間がかかっているのだろうか……。
例の特製整髪料でカツラを手入れしているマクニールの姿を想像してしまい、不覚にも笑いがこみ上げてきそうになった。
そのときである。
「おおっ! クレオパトラよ!」
主階段の上から、両手を広げてピーターズ氏が降りてくる。背後にマクニールがついていた。氏はエリオットに気がつくなり、早足で階段を降り、上気した顔で言った。
「どこにいる、クレオパトラは?」
「あちらにございます」
ぽつんと玄関ホールの隅に立っているトムを、指し示した。
「捕まえました!」
予定通りトムが笑顔で猫を床に放す。
駆け寄る白い猫。再会を喜ぶ飼い主。その場はまるで、子供向けのおとぎ話のように、感動的な再会であった。
そのはずだった……。
大きく跳躍したクレオパトラは、あるじの腕ではなく、頭に飛びついた。ずるり、と整えられた黒髪が落ちていく。
「ああ、旦那さま!」
蒼白な顔をしたマクニールが駆け寄る前に、クレオパトラはカツラをくわえて床を駆けていく。階段を昇り、中段で嬉しそうに舐めては、ごろごろ喉を鳴らした。
ここでエリオットは眼鏡をかけ直した。
階下にいるはずの使用人たちがどっと、玄関ホールに姿を現した。どの顔も、ある一点を凝視している。
マーク、ビリー、トム、メイベル、ナターシャ、エレン、スー、ヒュー、ハリスン、コニーの視線は、変わり果てたピーターズ氏の頭に注がれていた。
エリオットは笑いを噛み殺す。
見事だ。見事すぎる。
数本の毛が頂に虚しく生え、残りはまばらに下半分を覆っている。窓から差し込む朝日に反射した頭髪は、眩しいまでに輝いていた。
「何を見ている、おまえたち! 早く、仕事にもどれ!」
エリオットの怒声で、使用人たちはいっせいに散った。どの顔も今にも崩れそうなほど、笑いをこらえているのが、遠目でもわかる。特にハリスンはひきつけを起こすのではないかと思うほど、頬の肉が震えていた。
例外はマクニールで、血の気が引いた表情のまま、クレオパトラを追いかけ、捕まえ、カツラを奪い返し、慌てて主の頭に載せた。
わずか十数秒足らずの出来事だった。
何が起きたのか状況がのみこめないピーターズ氏。呆然とその場に立ち尽くしたままだ。
「失礼いたします」
それだけ言い残し、エリオットも玄関ホールを静かに去った。
エリオットは自分の朝食をとらないまま、主人の髭剃りと着替えを手伝った。その後、早足で歩きながら、一階の掃除が行き届いているか点検をすませ、汚れがわずかでも目に入れば、控えている家女中に指示を出す。今朝はなかったから「よし」だけで終わった。次はマークとビリーが配膳した階上の朝食室を確認し、これも「よし」だけで終わる。
次の合図を鳴らすため、いったん、執事室にもどった。
なかに直立不動のマクニールがいた。喜怒哀楽のない表情で、懐から封筒を取り出す。
「ピーターズからです。あの件はくれぐれも内密にと、言伝を承りました」
受け取りながら、エリオットは会心の笑みを見せてやる。
「もちろんですとも。部下にも周知させておきますゆえ、ご安心ください」
「お気遣い感謝いたします」
「いえいえ。こちらこそ」
踵を返し、マクニールは去っていった。表面上は変わらないが、内心穏やかではないはずだ。いつもなかった足音が、今朝はいやにはっきり聞き取れた。
封筒を開けてみると、いまだかつてお目にかかったことがないほどの、チップだった。
すぐさま人数分にわけようとしたが、休暇がとれない忙しい日々だと、使う機会もなかなかないだろう。娯楽といっても、村のパブで酒を飲んだり、商店で菓子を買ってもたかがしれている。
そのとき、昨日、マークが教えてくれた、集会所での映画上映の話題を思い出した。
まだ巡業の一家は村にいるだろうか?
早朝の出発でなければ、話をつける時間があるかもしれない。
が、そんなことを考える暇はない。壁時計に目をやると朝の祈祷まで、あと三分だ。
鍵のついた引き出しに封筒をしまうと、執事室の向かい側にある使用人ホールに入り、祈祷前の合図を鳴らした。裏階段を上がった使用人たちが、いっせいに玄関ホールに集合し整列する。サー・リチャード、女主人、ジェイムズが主階段を降りてくると、朝の祈祷の始まりだ。
その後、主人が直接、使用人に伝えたいことがあれば、口をきく。そうでなければ、そのまますぐに解散となる。だが、主人から直接伝えることは滅多になかった。たいていのことは執事を通して、伝えられる。よほどのことがないかぎり、限られた使用人以外、主人と顔を合わすことすら許されない立場なのである。
――今日も一日、どうか平穏でありますように。
毎朝、主人の横で、エリオットはそう祈らずにいられない。
朝食もそこそこに、ピーターズ氏と娘のキャサリンはオールストン・ハウスを去ることにした。
もっとゆっくりしていけばよい、という主人の言葉も耳に入らないようで、マクニールがマークの手を借りながら、ピーターズ氏の車に荷物を詰めていく。さすが裕福な氏だけあり、車も最新型のフォードだ。
四日も滞在していたため、荷物も多い。キャサリンの衣装の入った鞄が、二度、三度とマークの手を渡って運ばれた。
マークが裏口から最後の荷物を両手にさげて出てくる。彼は車停めの玄関前を去り、交替でエリオットが待機する。
玄関ホールにピーターズ氏とキャサリンがやってきた。そのすぐ後ろに主人、女主人と続く。
いっぽうのクレオパトラは、檻に入れられマクニールに運ばれていた。主人たちが車に乗り込む前に、猫を車に乗せるのだが。
「ぶみゃん!」
と、まるで駄々をこねるように、檻のなかで暴れ始めた。さすがのマクニールも足元をよろめかせてしまい、ドアの隙間から様子をうかがっていたエリオットが、駆けつけて手助けする。
無事、クレオパトラが後部座席に乗車したとき、眉一つ動かさないままベテラン執事は言った。
「どうも」
「いえ」
そのままエリオットは背中を向けて、ふたたび表玄関へもどろうとしたとき。
「やられましたな」
静かだが、心底、悔しそうな声だった。振り返り、すかさず答えてやる。
「あなたほどでは」
たったこれだけだったが、マクニールの視線は好敵手そのものである。だからエリオットも、無表情のままごくわずかにうなずいてみせた。
しばし屋敷の主と別れを惜しんだあと、ピーターズ親子が正面玄関のドアに近づく気配がした。駆けもどったエリオットはゆっくりと大きな扉を開ける。
フォードが発車した直後、クレオパトラだけが「ぶにゃん」と、小生意気なあいさつを返してくれた。
客人が帰った日の夜、階下の使用人ホールはいつにない賑わいをみせていた。午前の茶をとる時間を削って、自転車で村に駆けつけた甲斐があったと、エリオットは感慨にふける。
巡業の一家は運の良いことに、次の日程の都合で、村にもう一泊する予定だったという。本来ならば一家はゆっくり羽根を伸ばす日だったのだが、エリオットの交渉に快く応じてくれた。ピーターズ氏がくれたチップは、昨夜、集会所で上映した儲けを上回るほどの金額だった。封筒の中身を見せるなり、一座の主は目を輝かせたのはいうまでもない。残りのチップは、村の菓子屋で買ったプラムケーキの代金に消えた。
映画そのものは前に観たことがあったため、興味はそれほどなかったのだが、運びこまれる機材を指差しながら、興奮する皆の姿に嬉しくなった。壁にスクリーンが張られ、いやでも期待が高まる。
いつも厨房から出てこないあのハリスンさえ、今夜はおめかしして女中たちと少女のようにはしゃいでいた。おどおどしている姿しか知らないコニーもめいいっぱい笑い、普段おとなしいビリーも陽気にマークと歌を披露している。
ただナターシャだけは女主人の付き添いで、何度か映画を観たことがあって、茶を淹れて回ってくれた。「朝の出来事は一生、忘れられませんわ」と、何度も笑いながら、部下のためにプラムケーキを切り分けているエリオットをねぎらう。
離れの小屋に住んでいる園丁の一家も駆けつけ、さらに階下は賑やかになった。
「エリオットさん、あんた最高だよっ! あたしがあと二十歳若かったら、絶対、押しかけ女房してやるんだから! いくら嫌だと言ってもね。それぐらい最高だ!」
ハリスンがそうジョークを飛ばすと、どっと笑いがおこる。そして喝采も起こる。
その場にいることが照れくさくなってきたころ、部屋の明かりが落とされ、いよいよ待望の映画が始まった。
からからと音をたてて映写機はフィルムを回す。集会所と比べればずっと狭い部屋であるが、使用人ホールの向かい側にある執事室から映写機を回せば、なんとかスクリーンに収まったのが幸いである。表で鑑賞するには、秋の夜は寒かった。
ピアノ伴奏のないサイレント映画でも、これだけ役者の動きひとつひとつに笑えば、充分に楽しめる。……と、空の皿を盆に集めながら思った。
よかった。これで少しは、日ごろの忙しさをまぎらわしてくれれば。
疲れがどっと押し寄せる。
あの客人たちがいるのといないのでは、気分がまったくちがう。
張り詰めていた神経が緩んでしまった。
そっと洗い場に向かい、あとは任せたといわんばかりに、皿を集めた盆をそのまま置いて去る。ひと眠りしたかったが、執事室は今、機材で塞がって立ち入れない。
そうだ。マークのベッドを借りよう。すべてが終わって片付いたら、彼に起こしてもらえばいい。何も言わなくても、わかってくれるはず。
エリオットは重い足取りで廊下を歩き、執事室の隣にある男性使用人の相部屋を目指す。ふと、開け放たれた洗濯室に、人影があるのに気がついた。ゆらゆらと、わずかに動き、こちらの様子を注意深くうかがっているようである。
まさか、またあのマクニールが?
気配を殺しているようだから、反射的にそう感じた。
「おい、ずいぶんと楽しそうだな」
たちまち疲れが飛んでいった。ここで耳にするはずのない声だったからだ。
「ジェイムズさま?」
ガス灯のもとに映し出される彼の顔は、いつになく沈んでいるように感じられる。いつも憂鬱そうな雰囲気のお方だから、明かりが少ないせいかもしれない。ここは階上のように灯が多くなかった。
「邪魔したな」
それだけ言い残すと、廊下に出て、裏階段へ続く扉を開ける。
「おまちください」
引き止めずにいられなかった。何か大切な用事があるから、ここまでやってきたのだ。主人たちが階下に降りることも、屋敷のタブーのひとつだった。
歩みを止め、ジェイムズは肩越しに振り返る。
「なんだ?」
「わたくしどもにご用がおありなのでしょう? 遠慮せず、申してくださいませ。いつもなら、皆は就寝してますが、本日は大丈夫でございますよ」
「いや。ほんとうに……」
ここでジェイムズはやりきれないように、肩をすくめ、ため息をつく。
「おまえらはいいな。たかが映画ひとつで、あれほど騒いで楽しめる。あのピーターズ嬢だってそうだった。大した話題でもないのに、目を輝かせて楽しんでいた。……それが、私には腹立たしかったんだよ」
そう話す彼自身は、楽しんでいる使用人連中をのぞきに来ている。あまりにもそわそわしていたから、気になって仕方なかったのだ。
「腹立たしいのでございますか?」
「ああ。どうしてだろうな」
「どうしてでございましょうね」
「それがわかれば、こんなところにいやしない」
ジェイムズはふたたびエリオットに背を向ける。
今度こそ階上にもどる――と思われたが。
またふり返り、ほんの少しだけ笑みを見せてくれる。
「この前、マークから聞いたんだが、おまえもひどい失恋をしたことがあるんだってな。傷心者同士、いつかたっぷりと話そうじゃないか、エリオット?」
「そ、それはですね……」
マークのやつ、いつ余計なことをしゃべった!
若主人に知られていたとは!
ジェイムズの笑みが意地悪いものに変わる。
「顔が赤いぞ。これはますます楽しみだ」
「……」
恥ずかしさのあまり立ちくらみがした。それとも単なる疲れからくるものだろうか。
「約束だぞ」と言い残し、ジェイムズは裏階段を上がっていく。小さくなっていく足音を聞きながら、エリオットは拳を握りしめる。
これはたっぷりと、事情をきいておく必要があるな。
まっていろ、マーク。
明日の朝、起こされたらすぐに、この件を問いただしてやる。
まったく。
ようやくやっかいな客人が帰ったと思ったら、新たな憂鬱が歩いてやってくるとは。
こうして、ジョン・エリオットの一日は終わり、また新たな一日が始まる。