ジョン・エリオットの日誌
雨の日とビスケットの味は憂鬱 04


◇◆◇◆◇



 翌日の金曜日は雨だった。昨日の天気が嘘のように消え去り、朝は重い曇天、午後から細い雨粒が大地を濡らす。
 今日は庭掃除の日であるが、雨のおかげで後日に延期された。代わりに短い半日休暇が与えられ、午後の三時間は自由の身となる。
 エリオットは借りたばかりの娯楽小説片手に、屋根裏部屋のベッドに転がる。
 夫人だけでなく、バンクス氏も今朝は機嫌がよかった。そこで氏が朝食を終え、新聞に手を伸ばすころを見計らい、本を借りる許可をとりつけたのだ。
 「ああそんなことか」とだけ言い、氏はひとつ返事で承諾してくれた。もちろん仕事に差し障りがない程度という条件付である。
 やっと念願の探偵小説が読める!
 天にも昇る心地のエリオットだったが、一〇分もしないうちに眼鏡をかけたまま、うたた寝を始めてしまう。依頼人がベーカー街のアパートをおとずれ、ハドソン夫人が探偵を呼びに行き、パイプをくわえたホームズが登場――する前に意識は夢の世界へと旅立っていった。
 目覚めたときは休憩時間は終わり五分前を迎え、夫人が呼び鈴を鳴らす音が耳に入る。
「ああ、せっかくの休暇が!」
 飛び起きて後悔してもすでに遅い。
 頭髪に櫛を入れ、黒いネクタイを締め直し、眼鏡を外し、ベストのボタンを留めながら一階の食堂兼居間へと移動する。
「おまたせしました、奥さま」
 電報片手に、夫人は少し眉根を寄せる。
「晩餐にお客さまがおみえになるわ。でも急で困ったわね」
「何人いらっしゃるのです?」
「サー・リチャード・アンダーソンおひとりよ。急な訪問だから気遣いは不要とあるけれど、初めての方だし、ご近所の紳士ならともかく……」
 ここで夫人は憂鬱そうなため息をついた。
 エリオットの眠気はたちまち吹き飛び、背筋がまっすぐに伸びる。
 サー・リチャード。
 准男爵の称号を持つ紳士。
 いっぽうの夫人はもてなしの苦手な、中流階級の女主人。
 つとめて力強く、エリオットは言った。
「ご安心ください、奥さま。わたくしはこれまで、上流階級の屋敷に仕えてまいりました。対応は心得ております」
「ジョン……」
 いつも無愛想な顔ばかり見せる夫人だったが、すがるような目つきで言った。
「お願いするわ。主人のいない今、頼れるのはおまえだけなの」
「ええ、尽力させていただきます」
 第四従僕しか経験のない身だったが、余裕たっぷりの笑みを浮かべてみせた。
 まず女主人を安心させる必要がある。もてなすがわがあまりにも不安がると、客人は歓迎されてないと思ってしまう。私的な集まりの場合、上流階級の人々は食事より、招待がわの接待態度を重視する傾向があった。
 料理はいつもより一品多くするだけにとどめ、折りよく近くにやってきた行商の男から野菜と果物のみ買う。あとの食材は缶詰や、保存庫にあるものだけでまかなえるだろう。
 エリオットは書斎に入り、キャビネットの棚を遠慮なしに開けた。ここは主人以外触れてはならない聖域だったが、酒がなくてはもてなしもできない。普段飲む安物はもちろんだめだし、商店へ酒を買いにいく時間もなく、やむなく事後承諾というかたちになった。
 主人たちは普段あまり飲酒しないだけあり、未開封のワインが五本あるのを見つける。銘柄を確認するため、屋根裏部屋に上がり、エプロンはもちろん、きちんと眼鏡をかけて書斎にもどった。一ヶ月前のような、ぶざまなスコーンを客人にお出しするような失態は避けたい。
「ええと……。これはだめ、これも厳しいなあ」
 五本の酒瓶を机の上にならべ、見比べた結果、客人にお出しできそうなのはシェリー酒だった。もっとも高価な酒である。飲むのが惜しかったようで、ラベルが色褪せていた。
 開封してもよいものだろうか。
 一瞬ためらうが、客人が客人であるからここで吝嗇していては、今後のバンクス氏の交流にも影響しかねない。どうしてあのとき、気を利かせてシェリー酒を出さなかったのかと、責められるよりいいだろう。
 それに。
 そもそもバンクス氏とサー・リチャードはどういった間柄なのか。グレゴリー卿を通じての知り合いなのだろうか。親密な間柄だから急な訪問をするといった電報をよこしたのか。夫人にきいてみたかったが、あの様子では知り合いといったふうではなさそうだった。
 台所をのぞいてみたら、おっとりしている普段とは別人のように、袖を捲り上げてボールの中味をかき回している。さっき買ったベリーでプティングを作っているようだ。オーブンからは肉の焼ける匂いがただよい、洗いかけの野菜が流しに置いてあった。
「お手伝いします」
 エリオットは夫人が返事をする前に、赤カブとさやいんげんを洗った。この時期、まだ出回ったばかりの葉物は小さく色も薄い。それでも青野菜はご馳走とされていたため、少々値が張っても手に入れたかった。
 サラダの下ごしらえを終える。オーブンから牛肉を出して汁をかけ、またもどす。沸騰した大鍋の湯に、夫人が包んだプティングをゆっくりと浸すと、ふわりと甘いバニラの香りが台所を包んだ。
「食卓を整えてきます」
 これも夫人が返事をする前に行動に移った。
 白いテーブルクロスをかけ直し、燭台を置く。曇りがあってはならないと、念を入れて丁寧に、棚から出した来客用のグラスを磨きなおした。
 皿、ナイフ、フォーク、グラスを布ごしに取ってならべていく。席と席の感覚が正確に距離を置いているか、経験が浅い立場では判然としないが、小さな食卓なので問題はないだろう。
 あらかじめ折っておいたナプキンを並べ終えると、食卓の用意は整った。
 そのはずだが、なにかが足りない。
 違和感がある。
 エリオットは眼鏡を外し、遠目で食卓を見た。
「あ、そうか。花だ」
 果物のかごは無理だとしても、花ならあるではないか。あのサーモンピンクの。
 普段なら許可なく入ってはならない夫人の寝室に、遠慮なく足を踏み入れる。大きな花瓶に入った薔薇を抱え、食堂の隅に置くと、小さな二つの花瓶に差し替えた。
 テーブルに置くが、これまた違和感がある。薔薇の茎が長いのかもしれない。
 取り出し、はさみで切る。花瓶に差そうとしたが、今度は短すぎた。大きな花瓶から薔薇を抜いて、茎を切り、小さな花瓶に差してみた。長いのと短いのがちぐはぐで、お世辞にも飾りものとしてふさわしいとはいえない。
 花を生けるのは家女中の仕事だったから、コツがいまひとつわからない。ただ切って差すだけでいいと思っていた自分が情けなかった。
 子爵家の屋敷で第四従僕として仕えていたのは八ヶ月ほどで、食器を並べるのも使用人ホールでのみしか経験がなかった。その後奉公したグレゴリー卿の屋敷はそもそも来客や晩餐と呼べるものがなく、手ほどきを教えてくれるような先輩や上司もいなかった。身についたのは雑用全般と、年老いた主の世話と朗読である。
 夫人には強気で「ご安心ください」と言ったものの、あきらかに経験不足なのが身に染みた。
――ここで怖気づいてどうする!
 気合を入れるようにはさみを握り直し、今度は慎重に長い茎を切りそろえる。花瓶に挿してみたら、どの食卓に出しても遜色ない仕上がりに満足する。
「これでよし」
 ここで柱時計が午後六時を告げた。あと三〇分もすればバンクス氏が帰宅し、一時間後にはサー・リチャードが訪問する予定だ。
「お腹すいたの……」
 小さなお姫さまの声がして、エリオットはふり返る。
 ああ、肝心なことを忘れていた。急な来客のことばかりに気をとられるあまり、ドロシーの夕食のことなど頭になかった。
「すぐに行くから、お部屋にいるんだ」
 だまったまま少女は廊下を出ていった。階段を上がる音がする。素直に言うことをきいてくれてよかった。昨夜のチョコレートケーキがごきげんを直したにちがいない。
 こうしてはいられないと、エリオットは慌てて散らかった花を片付けた。大きな花瓶にもどし、とりあえずソファの後ろに隠しておく。あとで夫人の部屋にもどせばいい。ドロシーの面倒が先決だ。
 台所に入り、スープと焼けたばかりの肉で作ったサンドウィッチをトレーに乗せた。ドロシーが子供部屋で食事をしている間、ココアを作って、おやすみの準備もする。大切な客のある日の夜は、幼い子供は決して同伴させない。子供と大人の世界は完全に分離されている。
 いつもより早い就寝時間に機嫌が悪くなるドロシーだったが、エリオットが一〇分だけくまさんで相手をしてやると、満足したらしくベッドに横になる。それを見届けるのも惜しむように子供部屋をあとにしたら、バンクス氏が帰宅のベルを鳴らした。
 エプロンを外すのも忘れたまま階段を駆け降り、玄関のドアを開ける。
「おかえりなさいませ!」
 氏は不愉快そうな顔をした。
「なんだそのか――」
「あなた! あと三〇分でサー・リチャード・アンダーソンがおみえになるわよ」
 慌てて玄関にやってきた夫人の言葉に目を丸くする。
「は……?」
 理解できない、といったふうに氏はぽかんと口を開けたままだ。
「夕方、この電報が届いたの」
「ええ?」
 鞄と帽子をエリオットにあずけるなり、夫人から渡された電報に目を通すバンクス。
 たちまち顔が青ざめた。
「あのボロ辞書、そんな価値があったのか?」
 そして書斎へと駆けていった。
 あの様子から察するに、サー・リチャードと氏は懇意の仲ではないようだ。それどころか面識すらないのかもしれない。
 こうしてはいられないと台所へもどった夫人に続き、主人の鞄を寝室に置いたエリオットも地階へと移動しようとしたが。
「おい! 第二巻はどこへやった!」
 廊下で顔を合わせたバンクスに胸倉をつかまれ、揺さぶられる。
 すぐにあの本棚の右下にある、古書のことだとわかった。
「あ、あれでございますか。初めから第二巻が抜けて――」
 言い終わらないうちに、頬を殴られた。氏の打撃は、身体を床に沈めるにはほど遠かったものの、エリオットをひどく動揺させるには充分すぎた。
「嘘をつくな。あれに許可なく触ったのはおまえだろう? 本棚の整理にかこつけて、こっそり売ったんじゃないのか」
「いいえ、いいえ!」
 血の気が引くのを感じながら、首を横にふる。
「わたくしは泥棒なんかいたしません! ほんとうに、初めから第二巻が抜けていたんです」
 バンクスは頬を紅潮させて唸るように言葉を吐いた。
「おまえの言うことなど、信じられるものか」
「どうか、信じてください!」
「使用人ごときがっ!」
 また頬を殴られた。騒ぎをききつけた夫人が一階の廊下にやってくる。
 感情的な言葉で事の経緯を簡単に聞かされた夫人。次に見せたのは、やはり蔑みの視線だった。
 泥棒という濡れ衣を主に着せられた使用人。何度も「ちがいます」と訴えるものの、世間一般的に使用人はよく物を盗む連中だといわれている。もともとが貧しく教養もないし、主人のいない前での素行はしれたものではない。
 ジョージ・バンクスとジョン・エリオットの関係も、よくある主人と使用人の関係にすぎなかった。あるのは雇うがわと雇われるがわという互いの立場で、賃金という名の契約があるだけだ。だから当然、契約を履行するだけの価値がないと雇い主が判断を下せば、その日かぎりで解雇となる。
 「本泥棒」呼ばわりされたエリオットは怒りと悲しさと悔しさ――。
 いや。ちがった。
 人というものは不思議なもので、おのれの許容範囲を越える精神的衝撃に遭遇すると、感情が麻痺してしまうらしい。その場で「解雇」を言い渡されるものの、棒立ちになって主人の宣告を耳にしているだけだった。
「短い間でしたが、お世話になりました」
 そう言い残し、私物をまとめるため屋根裏部屋に上がる。
 旅行鞄を開けて乱暴に衣類を放り込む。古風なグレゴリー卿のスーツは、箪笥につるしたままにした。あのバンクスの血縁者の形見というだけで、持ち去ることを拒絶してしまう自分がいたからだ。
――申しわけございません。グレゴリー卿という名の、僕のご主人さま。
 心のなかでそう謝罪し、旅行鞄の蓋を閉じた。
 素早く外出着のフロックコートに袖を通すと、手袋と帽子を身につけて旅行鞄片手に階段を降りる。未払いの一か月分の賃金を請求しようと思ったが、古書を売ったとされるお金を逆に請求されるのが目に見えていた。唇を噛みしめながらひとり、バンクス家の玄関を出て行く。
「おい、まて、ジョン」
 バンクスに背後から声をかけられる。
 今さらなんの用だ? と腹立たしさをそのまま顔に出して、肩ごしにふり返った。
「このまま出て行っても、紹介状がないと行くあてがないだろう?」
 エリオットは答えなかった。たしかに相手の言うとおりだが、口をきく気になれない。
「それに今夜は大切な客人がある。給仕をしてくれる者がいないと困る」
――それがどうした。おまえに解雇されたのだから、僕のしったことか。
 心のなかでそう毒つかずにいられない。
「そこでだ。今夜の給仕をしてくれれば、明日にでもミス・バンクスに頼んで、紹介状を書いてやろう。伯母さんなら上流階級の知り合いもいるし、まともな従僕の職にもありつけると思う」
「……」
 数秒、間を置き、バンクスははっきりとした口調で言った。
「どうだい。なかなかいい取り引きだろう?」
 そのまま背を向けて館を去りたい衝動にかられる。
 しかし「紹介状を書いてやる」という、誘惑のほうがはるかにまさった。悔しいがバンクスの言うとおり、行くあてのないエリオットにとって、紹介状のあるなしは死活にかかわる問題だった。


 予告どおりの時間に、客人がバンクス家の玄関のベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ」
 ドアを開けて応対した従僕を見て客人は驚いたようだ。黒いフロックコート姿のエリオットは、凝視される。無理もないだろう。こんな典型的な中流階級の家庭に、従僕がいようなど夢にも思っていなかったはず。
 だがそれもわずかなこと。紳士は名刺をエリオットに手渡し、コートを脱いだ。本来ならば名刺は銀の盆で受け取るものだが、バンクス家にそんな代物はない。無作法だとしりつつ、手袋をした手で名刺に目を通す。裸眼だったものだから、額に名刺をこすりつけるようにして名前を確認した。
――サー・リチャード・アンダーソン。
 想像していた印象とずいぶんちがうな、とエリオットは思った。明るい茶色の頭髪と口ひげ。そして水色の瞳。氷のような冷たい色ではなく、まるで晴れた日の青空のようだと思った。
 准男爵という人種は、もっと鼻につくような紳士か、作ったような笑みを浮かべているものではないか。皮肉なことに、バンクス氏のほうがはるかに上の階級の紳士に見えてしまう。
 雨に濡れたコートとシルクハットとステッキ、最後に鞄をあずかり、来客用の洋服架けに吊るすと食堂に案内する。
「さあ、こちらへどうぞ。サー・リチャード」
 晩餐の支度が整ったテーブルは、柔らかい燭台の炎に包まれ、磨き上げたグラスがオレンジ色に反射する。サーモンピンクの薔薇はさらに色濃く、銀のナイフとフォークが白いテーブルクロスに映える。
 バンクス夫妻とサー・リチャードがあいさつし、ふたりの紳士が握手を交わす。つい今しがたまで苦々しく口もとをゆがめていたバンクスであったが、さすがに客人の前では愛想笑いを浮かべないわけにはいかないようだ。法律事務所で見た卑屈な氏のすがたそのままだった。
 「詳しい話は酒と食事を楽しみながらにしましょう」とバンクスが言ったのを合図に、エリオットはサイドテーブルにあらかじめ用意していたシェリー酒の栓を抜いた。
 あっけなく簡単に栓は抜けた。
――あれ? こんなもんだっけ?
 子爵の屋敷では執事がまったく酒瓶に触れさせてくれなかったものあり、エリオットはいまひとつ感覚がつかめない。古い瓶だからそんなものかもしれないと思い直し、酒瓶片手にグラスに注ぐ。薄い琥珀色の液体からは、少し酸っぱい匂いがした。
 さすが年代ものだけある。安物のワインとは香りもちがうらしい。
 エリオットは食前酒を注ぎ終え、前菜をとりに地階の台所へ降りる。鮭の燻製と赤カブのサラダを皿にとりわけると、トレーに乗せてふたたび食堂へもどった。そして給仕したのだが、まったく会話がない。せっかくの晩餐だというのに、笑顔すらなかった。グラスの酒も減っていない。
 バンクスのことだから、気の利いた話題を切り出せないのかもしれない。面識のない上流階級の相手を前にして愛想笑いだけでは乗り切れないし、夫人は夫人でそんな夫を手助けできない。
――だから弁護士になりそこねたんだよ、この小型犬野郎が。
 内心、エリオットは鼻で笑いながら、次の皿を用意するためトレーを手に階下へと移動した。
 ローストされた牛肉を作業台で薄く切り分けていると、誰かが階段を降りてきた。あの騒々しい足音はバンクスのものだ。
「おい! どこまでも僕を侮辱すれば気がすむ、この小僧!」
 ナイフを動かす手を止めたエリオットは首をかしげる。なんのことだかまったくわからない。
「僕が嫌いなのはけっこうだが、よくも客人の前で恥をかかせたな」
 さらにちかづいたバンクスの顔は、今にも湯気がでてきそうなほど紅潮していた。額の生え際の毛穴が開いて、髪の毛が落ちてしまうのではないかと思ったほどだ。
「きさま、それでもプロか? 僕が紹介状を書くと約束したのだから、最低限の仕事は遂行しろ。陰険な嫌がらせなど、恥ずかしくないのか、ええ?」
 やはりエリオットには理解できない。つとめて冷静に言葉を返す。
「お言葉でございますが、ミスター・バンクス。わたくしには皆目見当がつきかねます。おっしゃったとおり、給仕役としての務めは果たしておりますが……」
 両の拳を握り閉め歯ぎしりしながら、氏は言った。
「いいかげん、しらばっくれるのはやめろ。あのシェリー酒、腐っていたぞ!」
「なんですって?」
 一瞬、わが耳を疑った。
 酒瓶の栓を抜いたとき、あっけなく外れたのを思い出す。
 そうか。栓が古くなってしまったせいで、朽ちてしまい、空気が瓶に入ってしまっていたのだ。ほんのわずかでも空気と酒が混じってしまえば、風味は落ちてしまう。長年、放置されたシェリー酒だとなおさらだろう。
 ラベルだけでなく中味を口にして確認することを怠った結果だった。いままで酒の管理をしたことがなかったのもあり、忙しさのあまりそこまで気が回らなかった。
 あまりの大失態に、エリオットは返す言葉がなかった。謝罪すら口にできない。ナイフを調理台に置き、視線を足元に落とす。
「こんな泥棒野郎に紹介状など、必要ない。今すぐ出て行け。浮浪者となって野垂れ死にしようが、僕の知ったことか」
 くるりと背中を向けたバンクス。
 そのまま黙って館を出る選択肢しか残されていないエリオット。
 なにをどうあがいても、終わった失態はとりもどせない。
 それでもこれだけは言いたい。
「どうか信じてください。わたくしは泥棒などしていません」
 蔑みの視線とともにかつての主人は言った。
「たとえ盗んでなくても、疑われるようなことをしていたおまえが悪いんだ」
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