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春の夜の雨は冷たい。傘もなく旅行鞄片手に歩いていると、すれちがった馬車に水しぶきを浴びせられる。運悪く大きな水溜りが道幅いっぱいに広がっていた。
迂回するのも面倒で、エリオットはそのまま足を踏み入れる。じわりじわりと濡れた感触とともにつま先を冷やした。渡り終えるころにはブーツはもちろん、ズボンの裾から雫が滴り落ちるほど濡れてしまった。
鉄道駅までの道程、給仕のいない悲惨なバンクス家の晩餐のことが頭によぎるが、すでに解雇された身。案じるだけ意味のないことである。
小さな館が規則正しくならぶ新興住宅地は、どの家からも暖かそうな灯りが窓からもれていた。
家族団欒。そんな言葉が浮かぶ。
上流階級でもなくかといって労働者階級でもない中流階級の家庭。中途半端な彼らは階級同士のつながりも希薄ゆえに、家族の絆を大切にするという。
だがそんな絆も、ただの使用人には関係ない。ましてや大きな屋敷のように、同僚もいないこともあって、孤独な労働を強いられる。朝、女中たちが賑やかなまでに話をするのは、その寂しさをまぎらわす大切な時間なのだろう。
が、自分はそこでも距離を置かれた存在だった。
そうか。
僕は、寂しかったんだ。
だからミス・バンクスの申し出を断ることができなかった。次の職を探すまでの時間が耐えがたかった。知らない人々の間を渡り歩き、面接を繰り返し、値踏みされることに。
亡くなったグレゴリー卿の親戚なら、たとえ中流階級の主でもいくらかの情をかけてもらえるのではないか。単なる使用人でなくひとりの人間として思われることに、心の片隅で期待していた。
「僕はバカだ。そんなことあるわけないじゃないか」
そんな独り言が口をついて出、余計、胸が苦しくなる。
濡れた身体と、感覚が麻痺するほど冷えたつま先が余計、自分を惨めにさせた。
駅でロンドン行きの切符を買う。薄暗いホームに出たら、ちょうど下りの列車が到着したころだった。スーツ姿の紳士たちが鞄と杖を手に、帰宅への道程を歩く。幾人かの人々とすれちがいながら、上り列車のホームへと移動する。
やがて蒸気を吐きながら列車が止まったが、エリオットは乗車できなかった。乗降口へと足が動かない。
「乗らないのか!」
車両の扉を開けた車掌に、声をかけられる。それでも足を踏み出すことができなかった。
「すみません」
エリオットが首を横にふると、扉が閉まり、汽笛を鳴らして車輪が回りだす。
小さくなっていく列車を見送りながら、大きなため息をついた。
頼れるのは実家だけとはいえ、紹介状もなしに解雇されたと告げる勇気がでてこない。あの義理の父親のことだ。落ちぶれた自分の顔を見ただけで、追い出されるのは目に見えている。実の母親は威圧的な夫に逆らえず、自分がすがってしまえば今度は母親が代わりに当り散らされてしまう。
かといって、他に頼れる親戚、兄弟、友人もおらず。
こんなことになるのなら、ちゃんと酒の中身を確認しておくんだった……。
どうしようもない後悔に襲われ、眩暈を覚えずにいられない。
けど僕は泥棒などしていない!
同時に理不尽なまでの主の態度に、怒りがこみあげてくる。
許せない。
許せない!
あいつも僕も!
プライドと自己卑下の入り混じった渦のような感情は、エリオットの時間を狂わせるには充分だった。
二度、三度と列車が到着するものの、まったく足が動かないどころか、当の本人は列車が眼前に停車していることにすら気がつかない。明らかに様子のおかしい乗客に、車掌たちは声をかけるのもためらって、そのまま列車を発車させてしまう。
「きみ。具合が悪いのかい?」
冷たいホームの上でうずくまったままのエリオットに、声をかけるものがいた。
聞き覚えのある声に意識が現実にもどり、ゆっくりと顔を上げた。
「ひどい顔をしている」
「あなたは……」
水色の瞳をしたバンクス家の客人がいた。
サー・リチャード・アンダーソン!
反射的に立ち上がり、エリオットは深々と頭と垂れた。
「さきほどは、あのような酒をお出ししてしまい、誠に失礼いたしました。あれはあくまでもわたくしの過失。けっしてミスター・バンクスのまちがいではございませんので、どうかご容赦のほどをお願いいたします」
と、ここまで口にして、思いとどまる。
どうしてあいつのために、この僕が頭をさげなきゃならない?
いや。これでいいんだ。
だってあれは僕の失態によるもの。
けど……どうしてあいつをかばう必要が。
ぐるぐると思考するエリオットだったが、サー・リチャードの笑声にそんな思いも吹き飛んでしまう。
「あははは! いい召使だよ、きみは。じつにいい」
「その……」
事情がいまひとつ呑み込めず、首をかしげることしかできない。そんな自分の様子がおかしかったのか、サー・リチャードは口髭を触りながら、また笑った。
「うむ。じつに愉快な晩餐会だった。出てきた酒はともかく、氏と夫人がひどく青ざめてね。それを宥めてやったのだが、恐縮されるばかりで会話にならなかった」
「それが愉快だったというのですか?」
「そのあと、本題を切り出そうとしたんだが、今度は給仕がいないと夫人が大騒ぎして、氏と喧嘩を始めてしまった。どうしてジョンを追い出したのかと、でもあいつは本泥棒だから当然だと。ついには並べてあった料理が飛び交って、騒ぎで起きたお嬢ちゃんと食堂の隅で見物していたんだよ」
「…………」
エリオットは呆気にとられてしまった。気の合うバンクス夫妻は、派手な喧嘩も辞さないほど仲が良いらしい。しかも客人の前でだ。
ここで話は終わるかと思ったら、ひとしきり笑ってサー・リチャードは言葉を続ける。
「ひと通り争いが終わったら、すみませんと言いながらプティングを被った氏が、私のもとに駆けつけたのはいいんだが。大きな花瓶にこれまた派手につまづいて……」
こらえきれないのか、腹を抱えてサー・リチャードは笑う。
だがエリオットは乾いた笑いしか出てこなかった。
バンクスがつまづいた大きな花瓶とは、ソファの裏に置いたまま忘れたものにちがいない。水もたっぷり入っていたし、棘だらけの茎も放り込まれていた。
さぞかし痛かったろう、傷だらけで水浸しの氏の姿を想像してしまう。
ここでサー・リチャードはわれに返ったのか、懐中時計を取り出した。
「では」
と、背中を向けるのだが。
やや間を置き、ふり返る。
「きみ、これからどこへ?」
「いえ……、その……」
「紹介状は?」
「いいえ」
「そうか。歳は?」
「一八です」
「私の長男と同い歳だ。ちょうどいい」
「はい?」
あらためて向き合ったサー・リチャードに鞄を差し出される。
「どうだね。私の屋敷で働いてみないか」
あまりの急展開な成り行きに、エリオットは返事ができない。
「先々月、従僕がひとり辞めてな。なかなか次が決まらなくて、ブラウンが苦い顔をしていたところだ。真面目なきみとなら、あのジェイムズも心を開いてくれるかもしれん」
嬉しい反面、数々の失態が脳裏によぎる。
こんな素晴らしい紳士に仕えるほど、自分はできた使用人じゃあない。
「お言葉は嬉しいのですが、このとおり僕はかなりの未熟者です。ご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
「そんなことどうとでもなる。うちにはブラウンという、立派な教育係がいるから安心したまえ」
「ですが……」
気持ちの踏ん切りがつかないエリオットだったが、遠くから列車が蒸気を上げる音が耳に入ると、差し出された重い鞄を受け取らずにいられなかった。
「ロンドンに到着したら、ホームで落ち合おう。それから食事だ」
「かしこまりました。旦那さま」
杖を持った新たな主人は一等客車へ乗車し、主人と自分の荷物を持ったエリオットは後方の三等客車へ乗り込む。発車と同時に、大きな安心感が身体を包む。崩れるように固い木の椅子に座った。
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九年前、レストランでとった遅い夕食は、思いがけないほどありがたいごちそうになった。本来ならば主人と同席などありえないことだったが、「ひとりでは味気ない」と押し切られる形で勧められ、弦楽器の四重奏を聴きながら料理を楽しんだ。主人たちの残りものでない、温かい手の込んだ食事に感動したのも覚えている。
その後、アンダーソン家の住んでいるオールストン・ハウスに帰るため、パディントン駅で二等席の切符を二枚買う。一等客車と三等客車のはずが、これも「今夜は話し相手が欲しい気分だ」とサー・リチャードの言いつけによってなされた。
当時は不思議に思ったものの、主人のお人柄を知っている今なら理解できる。サー・リチャードがひどく元気のない自分を気遣ってくださったのだ。バンクス氏に追い出されたのも、元をただせばアンダーソン家の不手際だったのもあろう。
バンクスに泥棒扱いされたエリオットだったが、車窓を眺めながら相手の話を聞くうちに、やはり大きな誤解だったのだと判明した。サー・リチャードがバンクス氏を訪ねたそもそもの理由は、先代が借りたままにしていた辞書を返すためだったのである。
しかも、それは第二巻。
その辞書はかなりの年代物で、古書を収集していた先代であったが、どうしても全巻入手できなかったという。何年もかかってやっと別の持ち主を探し当てたものの、グレゴリー卿は決して譲ろうとしなかった。そのころすでに大半の財産を失い、傾きかけていた家計のために卿はその辞書を手放せなかったのだろう。食い詰めたとき、全巻を競売に出して大金を手に入れるつもりだったのかもしれない。それでも諦めきれなかった先代は、しばらく借りるだけでも――と頼み込み、アンダーソン家の書斎に並ぶことになった。
それから期限内に辞書は返却されることはなかった。一年後に先代は亡くなり、いっぽうのグレゴリー卿は病に倒れ、辞書のことなどすっかり忘れ去ってしまったようだ。
先代が亡くなって一〇年後、書斎を整理していた執事のブラウンが偶然、その辞書に先代のメモが挟まれていたのを発見した。もともとこの第二巻はグレゴリー卿のもので、一年後、必ず返却する約束が交わされていたらしい。
報告を受けたサー・リチャードは謝罪を兼ねて、自らグレゴリー卿の屋敷を訪ねたのだが、運悪く一か月前に卿は亡くなっていた。いまにも崩れそうな古い屋敷に残っていたのは年老いた園丁夫婦のみで、遺産のことはわからないからと、グレゴリー卿の妹ぎみの居場所を教えてくれた。
数日後、形見として辞書を所持したのが甥のジョージ・バンクス氏だと、ミス・バンクスから紹介された元管財人弁護士から聞く。それからすぐに『故グレゴリー卿から譲り受けられた辞書の件で大切なお話がございます。急な訪問により気遣い無用』と電報を打って、その足でバンクス氏を訪問。あのお粗末な晩餐会に遭遇したわけである。
結局、サー・リチャードは古書の件を言い出せず、後日、あらためて下男を使いにやって、詫び状とともにバンクス氏に返却したのだった。
そのとき、あのバンクスはどんな顔をしたのだろう?
使いにもどった同僚にエリオットはそれとなくきいてみたのだが、出てきたのは夫人で、表情はなかったという。あのバンクスのことだから、気にも留めていないはず。事あるごとに「使用人ごときが」と罵られたぐらいである。
最低のあるじだったが、そのおかげでこうして、アンダーソン家の屋敷で働くことができたのも事実だ。恨んでなどいない。
……そう思っていたはずだが、泥棒呼ばわりされたあの屈辱感は、心の片隅でひっそりと生き続けていたようだ。氏と再会すると思うだけで、ひどく憂鬱になる。
食器保管室でひとり銀器を磨き終わり、エリオットは時計を見る。あと一時間ほどで客人はやってくる。
菓子の用意はどうなっているのかと、厨房をのぞいてみた。台所女中のコニーとアルマが皿を前に、なにやらもめている。
「どうしよう、アルマ……」
「あたしのせいじゃないからね」
「そんなこと言っても、ちゃんとハリスン夫人が蓋を閉めていなかったから」
「じゃあ、ハリスン夫人に言う?」
「それができたら、悩んだりなんかしないもん」
「ネズミが齧ったジャムクッキー、お出しするわけにはいかないでしょ?」
「だったらアルマが言ってよ」
「午後から休暇、取ってるのに? 想像するだけで怖いわ」
どうやらハリスンの管理が悪かったようで、作り置きしていた菓子がネズミにかじられてしまったらしい。
――まったく、あの歩くダイナマイト料理人が……。
ほとほと呆れるエリオットだったが、グレゴリー卿の屋敷でネズミがかじったスコーンをバンクス氏に出した過去を思うと、そう責める気にはなれなかった。
「だったら、すぐに作ればいいだろう? まだぎりぎり間に合うぞ」
エリオットの言葉に、ふたりの少女は顔を青ざめさせて出入り口を見た。慌ててアルマが菓子を隠そうとしたが、コニーが奪い取ってエリオットの前にもってくる。
「助けてください、エリオットさん。あたしもアルマもまだ上手にお菓子が焼けないんです。頼みのリンダは買出しで夕方までいないし」
「ばか、コニー! 上司にそんなことを――」
「いいぞ。スコーンぐらいなら、昔、何度も焼いたことがあるんだ」
腕まくりをしてみせ、厨房の奥へ入っていく。銀器を磨いたときのエプロンはつけたままだったから、材料と道具がそろえばいつでも作ることができた。
「い、いいんですか?」
素直に喜ぶコニーとは対照的に、アルマは眉を寄せて申しわけなさそうな表情になる。
「緊急事態にいいも悪いもないだろう。それより、僕が今から言う材料をすぐにそろえてくれ。あと、コニーは道具とオーブンの準備だ」
ふたりの少女に笑みが浮かんだ。
「はい!」
と元気よく返事をして、それぞれの持ち場へと駆けていった。
材料がそろったところでさっそくボールに入れ、指先で小麦粉をさっくりと練り合わせる。ここでしつこく練ってしまうと、スコーンがうまく膨らまない。かといってあまり手を抜くときれいに焼きあがらない。この微妙な加減は経験で学ぶしかなかった。
その間、アルマに卵を泡立たせ、牛乳と一緒に生地に入れて手早く丸めると、めん棒で伸ばして型を抜く。溶き卵をはけで生地に塗り、規則正しく天板に並べた。
焼きあがるまでの時間をつかって、べつの材料をふたりの女中に用意させる。薄く切った食パンにバターとマーマレードを塗ってクルミを散らし、焦げ目がつくまでじっくりトーストした。耳を切り取って三等分すれば、家庭的で簡単な焼き菓子のできあがりである。
それから来客一五分前に、待望の焼き菓子が完成した姿をお披露目する。
数年ぶりに焼いたスコーンは上出来だった。そばで見学していたコニーとアルマが感激するほどである。
「きゃー! すごい、すごいです、エリオットさん!」
無邪気にはしゃぐコニーに続いて、アルマが両手を組んで瞳を輝かせる。
「リンダのよりずっとおいしそう! ちゃんと生地が割れてるわ。それにこんなに簡単につくれるお菓子もあったんですね」
「ハリスン夫人って、旦那さまたちの凝ったお菓子しか作らないから、マーマレードのそれ、あたしも初めてみました」
「リンダが帰ったら、あたしたちから教えていいですか、エリオットさん?」
昔はひとりで黙々と作業し、どんなにうまく焼けても褒めてくれる者などいなかった。
エリオットにも自然と笑みがこぼれる。
「もちろんさ。そこまで褒めていただけるなんて、光栄だよ。たくさん作ったから、あまったぶんは」
ここで周囲を見回し、小声で言葉を続ける。
「今日はハリスン夫人もマークもいない。ビリーや君たちといっしょに午後の茶を楽しんでも、だれも文句は出ないさ」
さらにふたりの少女ははしゃぐ。いつも女だけの狭い厨房空間で飲食をしているせいで、たまにビリーたちと過ごす機会があると、ほんとうに楽しそうに笑うことを知っていた。
しかし、コニーとアルマの次の会話で、エリオットは額に汗が吹き出てしまった。
「やったー! エリオットさんと同席ね、アルマ!」
「リンダたちにこっそり自慢してやるんだから。楽しみ!」
「悔しがるよ」
「当たり前でしょ。だって、リンダってエリオットさんの大ファンだもん」
「ちょ、ちょっとまて。そのファンって……?」
困った顔をしたエリオットに、アルマは意地悪そうに言った。
「女の子の秘密です。ごめんなさい」
あまりにもコニーと愉快そうに笑うものだから、それ以上、追究する気になれなかった。
乙女の秘密というものに深入りすると、ろくなことがないと何度か経験で学んだのもある。
屋敷からの迎えの馬車に乗って、客人はやってきた。鉄道駅から屋敷までは時間がかかる。門前の車停めに馬車が止まり、ヒューが御者台を降りてドアを開ける。玄関ホールで待機していたエリオットは、窓から歩いてくる客人の姿を目にするなり、正面玄関のドアを開ける。
黙し、視線を遠くにやったまま、背筋を伸ばして靴のつま先をそろえた。
緊張する。いつになく。爵位のある貴族を客人に出迎えたときですら、こんな緊迫感はなかった。
少女のにぎやかな声が聞こえてきた。
「もう、お父さんたら。雨が降ってるんだから、もっとゆっくり歩いてよ」
すぐに少年の声が続く。
「お姉ちゃんが遅いんだよ。食べるのも遅いし、着替えるのも遅いし」
「余計なお世話よ、ジャック。レディはせかせかしちゃ、みっともないの」
「どこがレディ? さっきも汽車のなかで、ばくばく食ってたじゃないか」
「もう! どうしてあんたは、いっつも意地悪言うの?」
ここで夫人の声がした。懐かしい響きに、エリオットの鼓動が一瞬、早くなる。
「あなたたち。これから准男爵さまのお屋敷にお邪魔するのよ。姉弟けんかはお家に帰ってからにして」
「そうだ。母さんの言うとおりだぞ。行儀の悪い子は、明日のお菓子は抜きにする」
バンクス氏の声に、さらに動機が早くなる。
エリオットはちかづいてくる一家を見た。
まずバンクス氏が、視界に入る。小柄な背丈と大きな目は変わらなかったが、以前のような険しい表情はなかった。少し疲れた雰囲気は加齢のせいかもしれない。
次に夫人。あまり変わらないようだが、娘と息子に話しかける姿は、あの無関心な母親像と結びつかない。
そして、成長したドロシー。母親に似たようで、小麦色の髪も九年前の若き夫人と面影が重なる。しかし性格はだれに似たのか、よくしゃべる姿はあのおとなしい少女とは思えない。
そんな一家の真ん中を歩くのが、ジャック少年。あのしかめっ面が昔のバンクス氏にそっくりで、緊張するエリオットに失笑をもたらしそうになった。皮肉いっぱいなところも、よく似ていておかしい。
「ようこそ。いらっしゃいませ」
エリオットが一家にあいさつをすると、バンクス氏に名刺を差し出され、銀の盆で受け取った。名前を確認すると、『ジョージ・バンクス』と書かれた文字が目に入る。
まちがいなく九年前、自分を紹介状なしで解雇したかつての主人――。
「ミスター・バンクス。サー・リチャードがおまちでございます。さあどうぞ、こちらへ」
視線が合う。が、一家はまったく関心がないようで、主たちの待つ客間へと案内するエリオットの後を賑やかについていくだけだった。
ここでいったん退室し、あらかじめ用意した茶道具をとりに階下へ降りた。ビリーとともにトレーに乗せて客間にもどり、ポット、砂糖ばさみ、六人分のカップやソーサー、スプーンをサイドテーブルに置く。
次に差し湯用ポットを、テーブルの三脚台の上に乗せ、アルコールランプに火をつけた。温めておいた湯が蒸気となって、ポットの注ぎ口からうっすらと湯気を出す。
見られている?
そんな気がした。目線だけで前を見ると、たしかにバンクス氏が自分を。
そらされた。気のせいだったのかもしれない。
たった一ヶ月。
一介の使用人のことなど、覚えているはずがない。
そんな自分はまだ、あの日の悔しさを忘れられないでいるというのに……。
感情が渦となって湧きあがりそうになるのを、ぐっとこらえる。
その間、階下に降りて厨房から焼き菓子を運ぶ、ビリー。銀の蓋を外すと、焼きたてのマフィンの香ばしい匂いが客間を満たした。
ここで給仕のエリオットとビリーは退室する。
茶会は女主人が客をもてなすのが通例となっている。茶の道具と菓子がそろえば、あとは主人たちから頼まれないかぎり、使用人が給仕をすることはあまりなかった。今日は客の人数も少ないことだし、使用人連中の耳に入れたくない話もあるだろうから、呼び出しのベルが鳴るまで階下で待機していればいい。
使用人ホールのソファに沈み、額に手をやってまた深く息を吐く。
ひどく緊張してしまったせいか、喉がからからに渇いていた。これではまるで初めて客に給仕をした従僕時代の気分そのままである。
大貴族ならともかく、相手は権威もなにもないただの中流階級の紳士。部下にしれたら失笑されてしまいそうなほど、情けない。
「聞いたよ、エリオットさん。あんたがスコーンを作ったんだって? へえ、みかけによらず器用なんだねえ。おかげであたしの半日休暇、つぶれなくてすんだじゃない。やっぱりあたし、あんたの押しかけ女房になろうかしら」
こんなときに、もっとも出会いたくない最悪な人物が自分に声をかける。
歩くダイナマイト、ハリスン夫人だ。いつもいらだっている彼女とは思えないほど、声の調子は上機嫌だった。
「ああ、それはよかった」
「なんだよ、その気のない返事は? それにその顔……」
「顔?」
エリオットはおのれの顔に手をやる。
「そうだよ。ひどく憂鬱そうな顔をしてる。そんな顔で客人の前に出ちゃいけないって、昔、誰かに言われてなかったっけ?」
「僕はそんなにひどい顔を?」
「いまにも雨が降り出しそうな顔さ」
思わずエリオットは執事室に駆け込む。そして何度も鏡を見た。
自分ではいつもと変わらないような気がするものの、鏡を意識して見ているからかもしれない。
そういえばブラウンにもときどき注意されたのを思い出す。
――おまえは無表情のつもりだろうが、その陰気臭い目つきはやめろ。いやなことはベッドのなかだけで思い出せ。それが俺たちの仕事だ。
時計を見ると三時四〇分をまわったところだった。
客人が屋敷を出るまで一時間足らずだろう。帰りの鉄道時刻をヒューに告げていたというから、まちがいはない。
それまでになんとか気持ちを切り替え、客人を見送ろうと思い直す。
どんなにいやな元主だろうが、かつて雇われていたのはゆるぎない現実。あいさつまでとはいかなくとも、顔すら見せないのはあまりにも礼を欠く行為だ。