ジョン・エリオットの日誌
雨の日とビスケットの味は憂鬱 06


 ベルが鳴った。階上の客間へ移動し、玄関ホールへと一家を案内する。
 また視線を感じた。しかし用もないのにふり返るわけにはいかず、いつものように黙って歩くだけだった。
 正面玄関のドアを開け、黙礼した姿勢で客人を見送った。主人と女主人の見送りはない。それだけ客人との付き合いが浅いのだと教えてくれる。
 先に待機していた馬車のドアをヒューが開け、まず夫人が乗り込み、次にドロシーが乗り込む。
 そのはずだったが、突然、少女が玄関へと駆けもどってきた。水色のスカートが跳ね返った泥水に汚れるのもかまうことなく。
 ドロシーは言った。
「ジョン、やっぱりジョンでしょ?」
「……」
 予期しない言葉に、エリオットは固まってしまった。
「ねえ、返事をして! あのスコーン、小さいとき大好きだったから、わたしにはわかるの」
 すぐさま慌てた様子で、バンクス氏もやってくる。
「よせ、ドロシー。サー・リチャードとの約束が……」
「約束ってなによ? そんなのわたしはしらない!」
「そ、そのなあ……」
 困った困ったといわんばかりに、バンクスはハンカチで額の汗を拭う。
 息子とともに夫人ももどってきた。エリオットとドロシーを交互に見つめ、観念したように言った。
「おひさしぶりね、ジョン。お元気そうで嬉しいわ」
「奥さま……」
 「ええ、奥さまもお元気そうで、なによりでございます」などど気の利いたあいさつすらでてこない。
「主人とわたしがこちらにおじゃましたのは、そう。あなたの姿を見ておきたかったからなの」
「わたくしのです?」
「ええ。あの日――サー・リチャードが使いをよこされて、第二巻の古書を渡されたとき、それはもう驚いたわ。そしてひどく後悔したの。あなたのような使用人をどうして、追い出したのかしらってね」
 ハンカチを額から首筋に移したバンクス氏が、苦い口調で話す。
「そうだ。妻からあの書類の件も聞いた。あれはおまえ――いや、きみが独断で届けてくれたそうだね。しかも鉄道運賃も封筒もきみの財布からだったとは。おまけに僕が頭になかったドロシーへのプレゼントも、きみが用意してくれた。あまりにも娘が大切に菓子袋をとっているから、気になって妻がきいてみたんだ。それでやっと事情がわかった」
 氏が続きを話そうとした直前、さえぎるように夫人がすまなそうに言った。
「それからは、主人と一緒にあなたを探し続けて……。サー・リチャードにもお手紙を差し上げてみたのだけれど、ご存知ないようだったし。ミス・バンクスならグレゴリー卿の持っていたあなたの紹介状のことを知っているかと思ったわ。でもこれも教えてくださらなかった。追い出したおまえたちが悪いって、さんざんお小言をいただくだけだったの」
 今度は夫人が息つく隙を狙ったように、バンクス氏が言った。
「あの紹介状から、きみの実家を訪ねてみようとしたんだがなあ。それもだめならと、今度は職業紹介所に何度も足を運んで、きみの名前を探し続けた。でもなかった。それもそうだよな。この屋敷に奉公していたのだから。サー・リチャードも人が悪い」
 興味のない話に耐えられなくなったのか、ジャックが「早く帰ろう」とぐずりだした。夫人がなだめ、「ごきげんよう、ミスター・エリオット」と言い、先に馬車にもどる。二度、三度とふりかえりながら。
 玄関ホールに残ったままのドロシーはエリオットを見つめ続けていた。会話を一字一句聞き漏らすまいといった、真剣なまなざしである。
 ハンカチをポケットにもどしながら、バンクスが言った。
「しかしよかったよ。ほんとうに浮浪者となって、僕たちのことを恨み続けるような人生にならなくて。ずるいかもしれんが、やっと肩の荷が下りたような気がする。しかも出世したようだし、サー・リチャードがきみを手放したくない気持ちがよくわかる。だから僕に嘘をつかれたんだろうなあ」
 唾を飲み込んだエリオットの口から、やっと会話らしい言葉が出てくる。
「旦那さまが嘘をつかれたと? いまこうしてあなたさまと、お話させていただいておりますが……」
 バンクスは苦笑する。
「あれから何度か手紙を送ったんだよ。社交界にもつながりのあるサー・リチャードなら、ひょっとしていつかどこかの屋敷で、きみの姿を目にされるんじゃないかってね。そして九年目の手紙で、ようやく事の真相を教えていただいた。理由を適当につけて、さっそく訪問しようとしたら、今度は絶対に話しかけるなと条件をつけられた。どうもね、僕がきみに濡れ衣を着せてしまった件を、思い出させたくなかったようだ。きみも昔のことは忘れて過ごしたいだろうし、いまさら謝罪しても…………」
 ここでバンクス氏はエリオットの両手をしっかりと握りしめた。
「すまなかった。僕は失って、初めて気がついたよ。大切な宝を手放してしまったと」
「宝だなんて、その……」
「かけがえのないものほど、失って初めて気がつくものだと、誰かが言っていたのはほんとうだったようだ」
 思いがけない感謝の言葉に、やはりエリオットは固まってしまうだけだった。
「わたしも握手ね」
 バンクス氏の手の上に、手袋をしたドロシーの手が乗せられる。
「あれからね、パパとママの仲が良くなったのよ。あなたを探しているうちに、つまんないケンカがバカバカしくなっちゃたみたい。だから、わたしもありがとう」
「どういたしまして、ドロシー。昔のことだから、僕もあまり覚えてなくて。でもこうしてお礼をいただけるのだから、幸せ者です」
 ドロシーとなら嫌な思い出がないぶん、普通に話せた。
 バンクスが上目遣いに笑みを投げかける。
「九年前のサー・リチャードにならって、僕も予告なしの訪問をしてみたんだ。なかなか心憎い演出だろう、ジョン?」
「ええ。たくさん驚かせていただきました、旦那さま」
 エリオットも屈託のない笑みを返す。
 手を離した氏は「この話はきみの旦那さまには秘密にな」と言い残し、陽気な笑顔でドロシーとともに玄関ホールを出て行った。
 ヒューが馬に鞭をあてると、馬車が動き出した。予定外の長話のせいで、列車の時刻に間に合いそうにない。それでもあのヒューのことだから、なんとかして馬を急がせ、ぎりぎりの時間に到着させることができるかもしれない。
「あのジャックくん、話し方が氏に似ていて何度も笑いそうになったよ」
 正面玄関のドアを閉めたエリオットに声をかけたのは、サー・リチャードだった。いまさらのように拳を口もとにあてて笑いだす。
「ええ。わたくしも昔の氏に似てるから、つい笑いそうになりました」
 エリオットは微笑し、小さくうなずいた。
 サー・リチャードのことだから、故意に見送りをしなかったのだろうか。
 どんな事情があろうとも、かつてのあるじと親しくして欲しくなかったのかもしれないし、中流階級の氏とあまり交流したくなかったのかもしれない。使用人としてのわきまえを順守することを暗に言いたかったのかもしれない。
 どちらにしても使用人であるエリオットには、主人の事情ははかりしれなかったが、こうしてわずかな再会の時を作ってくれたのも、主人らしいなと思わずにいられなかった。


 急な来客も去り、主たちの夕食の準備までの時間が、使用人たちの午後の茶となる。
 そのなかにエリオットの姿はなかった。
 眼鏡を外し、執事室でひとり、過去に思いを馳せる。
 グレゴリー卿の死、気の合わない新たな主人との生活、積み重なった誤解、解雇、どこまでも冷たかった春の雨……。
 初めはぼんやりと壁時計の針を見つめていただけだったが、いつの間にか涙が止まらなくなってしまった。
 どんなに自分に言い聞かせても、頼みもしない嗚咽まででてくる。
 こんなみっともない姿、だれにも見せてはならないと、ドアに鍵を閉める。
 五分、一〇分すぎても、まだ涙があふれてくる。
 エリオットは気がついた。
――そうだ。これは昔の僕。九年前の僕の涙なんだ。
 抑えつけていたあのときの感情が、ひとときにあふれ出す。
 氷のように凍って閉じ込めていた感情が、ゆっくりと溶けて流れた。
 苦かった過去の思い出が、薄い琥珀色をしたただの思い出に変わってゆく。
 誰かがドアを叩く。
 返事をしない。できない。できる状態じゃあない。
 それでもしつこくドアが叩かれる。
「おい、いるんだろ、ジョニー?」
 マークだった。
「いくら俺がいなくなるからって、ひとりでめそめそしてんじゃねえよ」
 誤解している?
 いくらなんでもそれはないだろうと、思わず開錠してしまった。同時にドアが開き、素早くマークが侵入してくる。
「ほらほら。やっぱり泣き虫上司の目は赤いぞ」
「……」
 ちがう、と反論したくても話せる状態ではないし、話したくない。
 エリオットは無言のまま、マークの背中を押して執事室から追い出そうとする。
「おい? 本気で怒ってるのか?」
 鼻水をすする音で答えてやる。
「そうか。だったら残念かもな。宿屋経営の話、あんまりにも条件が悪くて断っちまった」
「え?」
 エリオットの腕から力が抜けたとたん、するり、とマークが部屋の奥に移動した。壁を背に眉をしかめる。
「あの宿屋、すげえ古くて、改装しないと使えない状態らしい。しかもその費用、俺に出せって……。そりゃないぜ。ベティーも俺の蓄えをあてにしてたみたいでよ、出さないと結婚しないって言うもんだから」
「断ったっていうのか?」
「あたりまえだろ」
「でもベティーのことは?」
「先に惚れたのは向こうのほうだ。俺も好きだが、将来尻に敷かれるより、気ままな独身生活のほうがまだいいかな……と。そりゃもうベティの親父と揉めるし、そのまた婆さんも金にうるさいし、親戚付き合いも面倒になっちまった……ってわけさ」
 まったく悪びれる様子もみせず、マークは肩をすくめる。
 人好きなようでいて、どこか物事に対して冷めている性格なのは、長い付き合いのエリオットはよく知っていた。今まで去った同僚たちと、別れを惜しむそぶりすらみせなかったのも見てきた。
 だから今回の件も、すっぱりと割り切って自分のことなど忘れ、新たな人生を歩むものだと思い込んでいた。
 よかった。
 まだしばらくマークとも一緒にすごせそうだ。
 なんだかんだいっても、友人がいるのといないのとでは、比べ物にならないほど日々の仕事も生活もちがう。
 そう安堵したとたん、また涙がどっとあふれてしまう。
 恥ずかしさのあまり寝所に駆け込んでしまうが、もう遅い。
 その後数日、マークとふたりきりになるたび、エリオットは「泣き虫上司」としてからかわれることになる。
 雨は上がったが、エリオットの小さな憂鬱は終わることを知らない。

雨の日とビスケットの味は憂鬱〜おわり

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