令嬢カトリーヌと禁断なる恋の日々

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き 【04】




◇◆◇◆◇



 午後、ポン・ヌフ橋の上でゆっくりと流れるセーヌ河を見つめる。どこへ向かってよいのかわからないまま、歩いているうちにたどり着いた。
――この街も変わったな。鉄道とやらを見たときは、たまげたぞ。
「そうか。よかったな」
 地下の軟禁部屋が封印されていたおかげで、カルノー侯爵は永いこと外に出ることがかなわなかったという。せいぜい聞こえるのは屋敷の住人の話し声と生活音ぐらい。あとは封印された部屋に閉じこめられたままだった。神のもとへまいろうにも、薔薇紋章の指輪を息子に手渡せなかったこともあり、悔やんでも悔やみきれないまま時間がすぎていったのだという。
 肉体のある人間ならとうに発狂するところだが、幽霊は時間の感覚がことなるようだ。話を聞いているフレデリックには、貴族のお悩み相談ぐらいにしか感じ取ることができなかった。
――それに建物もずいぶんと高くなったことよ。凱旋門も私が生きておったころにはなかった。わが一族を殲滅せんとした連中は許しがたいが、時代は進むものだのう。
「パリ見物でもするか、侯爵? 末裔は見つかりそうにないが」
 わざと冷たくそう言ってやる。
――気配がするのだ。
「あのな、さっきからそればかり言われてもな。このままだと俺は解雇される。それもこれもおまえが羽目を外すからだ」
――だから今はこうして、控えめにしておるだろうが。
「もう遅い。おかげで化け物扱いだ。同僚もだが、主人も俺を見たら逃げるんだぞ。一三年も奉公して、最後が幽霊にとり憑かれたじゃ、シャレにもならん」
――そう怒るな、フレデリックどの……。私もやりすぎたと反省しておるのだ。
 そのときそばにいた花売りの老女が、怪訝そうに自分を見ていた。目が合うと恐れをなしてその場からそそくさと去る。ひとり言を聞いて、気狂いとかんちがいしたのだろう。
 道行くひとびとは、紳士や貴婦人たちもいたが、貧しい者もいた。橋の上を冬の太陽が暖かく照らす。にぎやかな街の一角だが、フレデリックの心は冷え冷えとしていた。
 それにしても、こんな事態になっても、カトリーヌだけはいつもと同じように接してくれる。幼いころから変わらないそんなお嬢さまが愛しくて、屋敷を出る前にたくさんキスを返した。「やだ、今生の別れじゃないのよ」と照れる姿も、やはり愛おしかった。
 今はまだ奉公を辞めるわけにはいかない。先代との約束が果たせなくなってしまうのもあるが、事業を始める準備期間が必要だ。無謀な計画があだとなり、ふたたび挫折して一文無しになることはどうしても避けたい。
 ため息をひとつつき、カフェにでも寄って休憩をとろう――と思ったら、何者かの視線を感じた。顔を川面に向けたまま、耳をそばだてる。相手にさとられぬよう、ゆっくりと身体の向きを変えながら、周囲をすばやく観察した。
 派手な青緑のドレスを着た女が自分を見つめている。警戒するふうでなく、親しみをこめて。だから目を合わせてやったら、手を振ってくれた。
「やっぱりセバスチャンね! やだ、昼間からフロックコートでめかしこんで、どうしたのよ? 店番してないと奥さんに怒られるんでしょ」
 きゃきゃっとはしゃぐように、女は近づいてくる。安物の香水が鼻についた。足首の見えるドレスが娼婦だと教えてくれる。
――セバスチャンか。あいつとかんちがいしているな。
 そう結論を出すと、つれない態度で言い返す。
「悪いが、ひとちがいだ。俺はフ――」
――濃厚な気配がするぞ、フレデリックどの!
「え?」
――その女はわが末裔と深い関わりがある者だ。
 フレデリックは瞬時に計算し、ここはプライドを捨ててあいつを演じることにした。この女と仲がいいのなら、情報もたくさん引き出せるはず。
「ちょっと、どうしちゃったのさ。いつものセバスチャンじゃないみたいよ。ぶすっとしてさあ、愛想もないし」
 シルクハットを被りなおすと、空咳をし、笑みを作ってやる。
「ああ、ちょっと風邪ひいちまってな。ごほ、ごほほ……」
「なあんだ、そうだったの。それよりさ、ちょうどいいところにいたよ、あんた。おかみさんが、ずっとまってるんだから。このまえのツケ、まだ払ってないでしょ?」
「ツケ? 俺、そんなに楽しんだっけ?」
「そんなこともおぼえてないの? おめでたいわね。新年のパーティで使った飲み代だってば。七〇フラン払ってよ。あとほかのツケも。ずっとまってるんだから」
「……そんなに飲んだのか」
「あたしらにもおごってくれたじゃない」
「気前がいいな、俺って」
「そうね。パン屋さんだとは思えないぐらいの、上客よ。みんな愛してるんだから」
「ああ……」
 がっくりとフレデリックはうなだれずにいられない。思いがけず双子の兄、セバスチャンの知り合いにつかまったのだから。おまけに大きなツケに、小さなパン屋のまま。
――いいかげん、身のほどを知れよな、兄貴!
 わなわなと怒りがこみあげてくるものの、背に腹は変えられない。「わかった」とだけ言って、女とともに娼館へともどることにした。


 表通りをふたつはずれた裏通りは、あいかわらず悪臭がたちこめていた。ただ数年前とちがうのは、日当たりが増したことだ。第二帝政期で始まった都市改造で、密集するスラム街がいくつも解体され、貧民は郊外へと追いやられてもいた。
 そんな変貌をとげつつある街の一角に、娼館『美姫の泉』はあった。五階建ての建物の一階では、まだ早い開店時間を表すように、戸締りがされている。娼婦はフレデリックを連れて裏口へと回った。質素だが清潔なロビーへ通される。
「ただいま、おかみさん。セバスチャンとばったり会ったんだよ!」
 彼女のその呼びかけで、数人の足音が近づいてきた。セバスチャンとかんちがいした娼婦たちが、争うようにフレデリックの腕を引っぱる。
「ねえ、今日はあたし?」
「あたしよね、セバスチャン?」
「ツケでもいいから、あたしんとこに泊まって!」
「うんとサービスしてあげるわ!」
 フレデリックは四人もの美女に接近されて、理性が飛びそうになる。どうやら兄はモテモテで、その気になれば好きな娘を抱けるらしい。ただ問題は……。
「ちょっと、あんたたち。まずはあたしと話をつけてからだよ、どきな」
 でっぷりと肥えた厚化粧の女が、腰に手をやってフレデリックをにらみつけた。
「ごめ〜ん、おかみさん〜」
 潮が引くように娼婦たちは距離を置く。
「ねえ、セバスチャン。あんたさあ、お得意さまなのはうれしいんだけど、いいかげんツケを払ってよね。これ以上、ためると出入り禁止にしちゃうよ。それともあれかい、あんたの店に借金取りをやってもいいってことかい?」
「合計いくら借りているんだ?」
「二五〇〇フラン。これでもおまけして、端数引いてあげてんだからね」
「に、二五〇〇も…………」
 フレデリックは二の句が告げられなかった。ここまで派手な借金をしながらも、娼館通いする兄があまりにも情けない。昔から大らかで酒と女が好きな男だったが、いい歳こいてまだ性根が変わっていないとは。
――女房と子どもが泣くぞ、兄貴……。
 ため息を吐きながら、財布をふところから出す。
「そうか。あいにく手持ちはこれだけしかない。この前の新年会とやらのぶんなら、払っておこう。悪いがあとは、今度、請求してくれ」
「え、いいのかい、セバスチャン?」
 目を丸くするおかみ。
「いいもなにも、そっちがそう言ったんだろ」
「そうだけどさあ。なんだかいつものあんたらしくなくてさ。冗談ばかりかまして、その場を切り抜けようとしないし」
「……今日はそういう気分じゃないんだ」
 そして空咳を披露してやる。
「まあ、風邪?」
「ああ」
「そりゃ無理ないね。あんた、酒が入ったら裸踊りするんだもん。ま、あたしらは大いに楽しませてもらってるから、責めたこと言えないんだけどさ」
「え?」
「この前の新年会、最高だったよ。腰にあたしのスカーフを巻いてさ、くるくるってバレリーナの真似をするんだもん。またステージを用意してあげようか。華麗なるオペラ座女優でござい〜ってね」
「それも裸でか?」
「あたりまでしょ。それがあんたの特技だし」
――なんつー、恥知らずの野郎だ。セーヌ河に沈めて、頭を冷やしてやろうか!
――これはまた、おどろきだな。フレデリックどのが裸踊り……。
「ばかやろー、俺じゃ――」
 ここであわてて口を閉じる。怒りのあまり、兄を演じていることを忘れてしまった。
 おかみは首をわずかにかたむける。
「やっぱり今日のセバスチャン、なんだか変だわ。熱でもあるんじゃない?」
「かもな。というわけで、失礼する」
――おい、もう出るのか。末裔の気配が濃いのだ。
 侯爵の声を無視したまま、フレデリックは裏口を出ようとする。そのとき、買い物かごに野菜を入れた若い下働き女とすれちがった。乗り移った侯爵の手が動き、彼女を捕まえる。
「見つけたぞ、わが末裔よ!」
「……やだ、お客さん? あたしはまだ」
「今すぐ、私のものを受け取れ。おまえにはその権利があるのだ」
 真っ赤になってうつむいてしまった彼女の代わりに、おかみが景気よく手を叩く。
「さすがセバスチャン! やっぱりあんたは目のつけどころがいいよ。この娘はね、来週、デビューさせる予定だったんだよ」
「おい、まて。俺はそんなつもりじゃ……」
「ああお金ね? 今日はツケでいいって。新年会のぶん払ってくれたしね。今すぐ支度をするから、ちょっとまってて」
「あの……」
 呆気にとられたフレデリックが止めるもむなしく、おかみがロビーのすみで煙管をふかしていた娼婦に指示を出す。「マリーに化粧をしてやりな」と。
 これこそ本意ではなかったが、侯爵の末裔とやらとじっくり話ができる機会だ。仕方なく兄のふりをし、案内されるまま四階の部屋へとあがっていった。


 初めて入る娼婦の仕事部屋は想像以上に、こざっぱりしていた。きれいに洗濯されたシーツのベッドに、酒が用意されたサイドテーブル。グラスは曇っていて、ラボー家のような金持ちが利用するような娼館でないことを物語っている。
「あと少しだけまっててね。マリーが来るから」
 そう言い残し、ポン・ヌフ橋で出会った娼婦は部屋を出て行った。階段を下りる音を聞きながら、またため息をつく。
「まいったな。侯爵の末裔が娼婦……。シャレにならん」
「まだ間に合うぞ」
「どういう意味だ?」
「商売を来週からはじめる、と言っておったではないか。きさま、客のふりをしてマリーを逃がせ。わが末裔にこのような汚らわしい商売をさせるわけにはいかん」
「そのあとは? 言っておくが、俺は面倒をみる気はまったくないからな」
「ラボー家の罪滅ぼしに、面倒をみさせるぞ」
「だめだ、だめ! だいたいだ、革命が起こったのも、おまえら貴族が贅沢三昧した結果だ。庶民はな、日々のパンに困るほど困窮していることもあるんだ。娼婦だって立派な商売だぞ」
「何をぬかす。だれのおかげで立派な屋敷に住めると思っておるのだ?」
「時代は変わっていくって、鉄道と凱旋門で思い知っただろ」
「だがな……」
「俺との約束は、末裔に指輪を渡すこと。あとは関知できない」
「きさまに渡す報酬を、マリーに渡してやってくれないか」
「約束がちがうだろ。それでも侯爵さまか?」
「欲深い男め。呪うぞ」
「よく言う。またかじってやろうか? とびっきりしょっぱい岩塩を」
 言い争いに発展しかけたとき、ドアがノックされた。返事をすると、白い薄絹のドレスを身にまとったマリーが立っていた。粗末な下働きのかっこうとはまるでちがう。化粧した顔もなまめかしい。
「あの、お客さん……。本当にあたしでいいんです?」
 心の準備ができていなかったらしく、小さく震えていた。だからベッドに座らせ、約束の指輪を渡すことにした。ネクタイを緩め、シャツのボタンを外す。
「あ、あの! 初めてなんです……。だから……」
 どうやらかんちがいしているらしい。
 頬を真っ赤に染め、うつむいた金髪のマリーはかわいらしかった。好奇心いっぱいな令嬢カトリーヌとはちがった、初々しさが男心をくすぐる。
――これで侯爵の末裔じゃなかったら。
 ふとそんな気がおきたら、手が勝手におのれの頬を叩いた。
「あいて!」
「よこしまな心を持つな、ラボー家のしもべよ!」
「わかった、わかった、侯爵さま……」
「セバスチャンさん?」
 マリーがじっと怪訝な顔でこちらを見ている。
「今、きみのご先祖さまが、俺の身体を借りててな。俺はその使いってわけさ」
「おっしゃる意味がわかりません」
「わからなくてもけっこう。とにかく、これを受け取ってくれ。カルノー侯爵家の家宝だ」
 首から鎖を外し、通している金の指輪をマリーに握らせる。
「いいんです? まだなにもしてませんけど……」
「代金じゃない。きみはカルノー侯爵家の末裔なんだ。だから受け取る義務がある」
「さっきから意味が……」
「もしかして、何もきかされていないとか?」
「カルノーとか侯爵家とか、さっぱりわかりません」
「自覚なしか……」
 しばらくふたりは沈黙する。客と娼婦という関係のはずが、侯爵の使いと末裔というものに変わっていたため、どう接していいのかわからないのだ。
 その場に居づらくなったフレデリックは、指輪を渡したことだし、さっさと娼館を出ることにした。身支度を整え、ドアの取っ手に触れる。
 が、背後からマリーが抱きついてきた。
「帰らないでください! あ、あたし……このままじゃ、おかみさんに殴られる。だってお仕事してないんですもの」
「代金はツケで払う。だから今日は」
「お願い。あたし、初めてのお客さんがあなたで、ほっとしてるの。とても楽しくて優しいお客さんだって、姐さんたちがおしえてくれて……。だから……」
「悪いが俺はセバスチャンじゃない」
「うそ? 同じ顔と声なのに?」
「双子の弟だ」
「そんな……。信じられない。セバスチャンさんはそんなこと、ひと言も」
「だろうな。死んだとかんちがいしてるからな」
 ここでマリーの腕が離れた。そして悲鳴をあげて泣き出す。
「涙を見せてもむだだ。俺は同情せん」
「ち、ちがうんです。ゆ、幽霊が……」
 フレデリックはマリーの視線を追った。天井にゆらゆらと白い影となって、侯爵がこちらを見つめていた。
――わがカルノー侯爵家の末裔、マリーよ。
 半透明の古めかしい貴族に、マリーは恐れている。無理もないと、フレデリックが震える肩を抱きしめてやった。
「あれでもまだ、俺の言うことが信じられないか?」
「い、いいえ! でも、あたしは……ただのお針子だったんです。ご先祖さまのことも、ぜんぜん聞いていないし、病気の母さんもお針子でした」
「父さんは?」
「あたしが小さいときに亡くなりました。昔、ドイツに住んでいたんですけど、そこでの商売がうまくいかなくて、パリにきたって母さんから聞かされました」
「ドイツか。亡命貴族の行き先だな。王政復古のときにもどってこなかったのか?」
 そうは問うも、マリーは答えなかった。彼女自身も知らないのだから。
「父の家系は商人だと思ってました。貴族だなんて、初耳です」
――無理もなかろう、マリーよ。今、おまえの父らを呼んで話を聞いたのだが、その父もまた祖母から聞かされていなかったのだからな。
「じゃあ、祖母は何をしていたんです?」
――祖母の父――つまりおまえの曽祖父であり私の息子だが、亡命寸前のところで革命軍に捕まってしまったらしい。嫁と孫娘だけはどうにかドイツへ逃げられたが、嫁は夫が処刑されたショックで病死してしまった。孫娘のほうも親戚から歓迎されておらず、年ごろになったら望まぬ結婚を商人としたようだな。その息子がおまえの父だ。その商人も初めは羽ぶりがよかったが、商売に失敗して、借金を抱え、ついには行商人へと転落した……とか。ああ、なんたること! もし、私が薔薇紋章の指輪を息子に渡しておけば、このような落伍なる人生を歩ませずにすんだかもしれぬのに!
 だがフレデリックは不可解だった。一族を守る指輪なら、カルノー侯爵だってむざむざと軟禁部屋に封印される運命におちいらなかったはず。
「本当にその指輪がなかったせいなのか? 俺には眉唾にしか思えん」
――かんちがいするでない。指輪を渡さなかったのは私の過ちだが、これは指輪の意思でもあるのだ。指輪のあるじにふさわしからぬ末裔は、指輪をはめる運命にさずかることができない。そのような祝福を、フィリップ尊厳王は神からいただいたのだ。
「じゃあ、指輪を持っていても、見放されたら守ってくれないのか。そんな代物、マリーに渡してよかったのか?」
――すべては歴史が語ろう。神の意思まで私はあずかり知らぬ。では、そなたの幸運と繁栄を祈っておるぞ、マリー。
 ここで幽霊は消えた。フレデリックのなかにあった、カルノー侯爵の気配ともども。
 しんと静まり返った部屋で、マリーはがたがたと震えていたままだった。気持ちを落ち着かせるために、グラスに注いだワインをやった。
「飲め」
 ベッドに腰かけたマリーは、素直にワインを口につける。
「怖かったか?」
「なんだか夢を見ているようで……」
「夢じゃない。ほら、指輪をはめるんだ」
「いいえ、売ります。これで母さんの薬を買うの」
 フレデリックは指輪を握りしめたマリーの手を、両手で包んだ。
「いけないよ。ご先祖さまからいただいた家宝だ」
「たとえあたしが侯爵家の末裔でも、それがなんだっていうんです? お針子だけじゃ薬も買えないから、ここで働くことに決めたんですもの。父ちがいの弟と妹にご飯も食べさせなきゃいけないし」
「そうか。高貴な血も金がなけりゃ、ただの貧乏人ってことか……」
 なんという皮肉だろうか。海賊の末裔と揶揄されたカトリーヌが令嬢で、由緒ある侯爵家の末裔が娼婦とは……。このまま帰っても、マリーのことを気にかけてしまうだろう。家族思いの優しい娘なのだから、見捨てるには良心が許してくれない。
 またシャツのボタンを外し、首にかけていた残りの指輪を差し出した。
「ルビーとエメラルド。きみはどちらが好きかい?」
「急にどうしたんです?」
「どうもこうも、これも侯爵さまの持ち物だ。俺のおつかい代金としていただく予定だったが、ふたつももらうのは身にあまる光栄なんでね」
「そんな……」
 言葉は遠慮しているのだが、貧しさがそれを打ち消した。マリーの指先がルビーに伸びる。
「よし。じゃ、俺がエメラルドだな」
「ありがとうございます。セバスチャンさん――じゃなかった。あの、お名前は?」
「セバスチャンでいいさ」
「教えて。だれにも言わないから」
「約束するか?」
「もちろんよ」
 だからそっと耳もとへささやいた。おのれの名を。すると「お礼よ」と言って、マリーに頬を口づけされた。

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