令嬢カトリーヌと禁断なる恋の日々

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き 【05】




◇◆◇◆◇



 その日、フレデリックは落胆していた。なぜなら、宝石商に売りに行ったエメラルドの指輪が、安物だと知らされたからだ。何度も何度も、店主に確認したのだが、「エメラルドじゃなく、碧の瑪瑙石だ」と返されるだけである。
 信じられずにほかの宝石商を二件回っても、答えは同じだった。
 結局、手元に残ったのは換金した七〇フラン。兄、セバスチャンの肩代わりした新年会の飲み代と同額だった。
「これでもなかなかいい品です。だからそう落胆しなさんな、お客さん」
 そう店主になぐさめられるも、心は晴れない。
――せっかく事業を興せるチャンスだったのに。
 そんな思いばかりが渦巻くのだったが、ふとマリーのことが気になった。
 ルビーだと思っていたが、自分と同様、ただの石じゃないのか?
 しかし娼館『美姫の泉』のおかみから返ってきた言葉は、「お金の都合がついたから辞めたよ」のひとことだった。つまり、ルビーは本物だったというわけだ。
 不運といえばおしまいだが、マリーはついている。もしエメラルドを選べば、娼館でデビューしてそのまま、新たな客をとっているはずだったから。
――そうか。これも薔薇紋章の指輪の加護か。
 そう考えると、もう宝石のことなどどうでもよくなった。あれはどのみち、彼女に渡る運命だったのだ。
「じゃあ、結局、得したのは、セバスチャン兄貴?」
 フレデリックはいてもたってもいられず、パリの下町にある小さなパン屋へと駆けていった。


 石畳の小路を覆うように三、四階建ての安アパルトマンたちが密集している。路地の中央の溝には、汚水が流れて悪臭ただよう。昔と変わらない光景だ。
 ふと、玄関を掃除している門番女と目があった。親しく陽気にあいさつされる。兄とかんちがいしているのだろう。
 パン屋『クールベ』はあいかわらず繁盛…………していないようだった。都市改造からまぬがれた一画とはいえ、表通りから客がやってくる気配もない。さすがに一五年もたてば、いくらかましになっていたと想像していたのがむなしいほどだ。
 小さな店は活気がなく、薄暗い店内をそっとのぞいてみるも、老婆がひとり店番をしているだけ。両親はすでに亡くなっていると、先代の老ラボー氏から聞いていたから、義姉の母だろう。
 あまりにも腹立たしいから、兄から新年会の飲み代を返してもらおう、とふんだのだが、どうやらあてにしないほうが、兄弟間の平和を保てそうだ。
――あれで娼婦のスターだもんな。わが兄ながら、呆れる。
 稼ぎをつぎこんでいるのか、賭け事でもしているのか。どのみちいい父親ではなさそうだ。
 ため息をついてそっと店を去ろうとしたのだが。
「おい、親父。いいかげん真面目に仕事しろよ。また美姫んとこにお出かけか? 金がなきゃモテねえ男なんて、情けねえ。俺はてめえみたいになんねえからな。言っておくがな、パン屋なんて興味ないぜ。だから俺にパン焼きなんて伝授すんなよ」
 店の奥からひとりの少年が顔を出した。瞳と髪が黒く、切れ長の目が自分の兄の血筋だと教えてくれる。
――セバスチャンの息子?
 フレデリックは初めて見る甥に、視線が釘付けになった。
 なんて言えばいいのだろうか。自分が生意気な少年だったころを思い出す。まだ挫折を知らない、夢ばかり見ている尊大な一〇代初めの。
「おい、なんとか言えよ。母ちゃんと婆ちゃんばかりに仕事させて、てめえはおめかしか? そのフロックコート、高そうだな。シルクハットだって、いつ用意したんだ? そんな金があるなら、家族の食費に回せよな、くそ親父!」
「俺はくそ親父か。ずいぶんときらわれているようだな」
 ふん、と鼻息荒く、甥は言い返す。
「当たりまえだろ。このまえな、こそ泥が店のパンを盗もうとしたから、おれがてめえの焼いたパンで殴ったら、失神しちまったんだぞ。それほど、うちのパンは固くてまずいと不評なんだ。尊敬なんてできるかよ」
「ほう、これはまた不器用な店主だな。で、おまえはパンを焼かないのか?」
「もう、何度言ったらわかるんだよ。おれは金を貯めたら、仲間を作って商会をはじめるんだ。パンなんかじゃなく、もっとでっかい商品を売るんだ」
 フレデリックはちょっとだけ失笑し、いさめてみた。
「でっかい商品? 残念だが今はデパートが隆盛している。たった数年であそこまで大きくなったんだ。商会はもうけにならんぞ」
「じゃあ何をしろっていうんだ?」
「考えろ。そして失敗しろ。何ごともまずは、おのれの小ささを知ることからだ」
 甥は目をぱちくりさせ、じっとフレデリックを見つめる。
「なんか今日の親父、別人みたいだぜ。話は通じないが、かっこいいというか……」
「そうやって感心するぐらいなら、素直にパンを焼け。俺が下手くそなら、おまえが上手く焼けばすむことじゃないか」
「たしかにそうなんだけどよ……。やっぱ、つまんねえだろ、こんな生活」
「じゃあ俺のように、娼館通いでもしたいのか? さっき俺のようになりたくないって、言っていたのは?」
「……だれだ、こいつ?」
 少年の目がたちまち疑いのそれに変わった。言葉は乱暴なやつだが、鋭さは備わっているらしい。鈍感なセバスチャンとはちがう。
――そろそろ、退散か。
「明日からは、俺も真面目に働こう。だが、今日は悪いが、抜け出せない用事があるんでな」
 くるりと背を向けて、パン屋を去ろうとしたとき、通りの角から自分と同じ顔の労働者がやってきた。両者はたがいの目を見、うなずき、そして駆け寄る。
「おいっ! やっぱりおまえだったか! おととい『美姫の泉』に行ったら、俺がこの前ツケを払ったって言われてよ!」
「そうさ。俺が肩代わりしてやった。だから――」
 フレデリックはセバスチャンを背後から腕で締めあげ、髪の毛を思いっきり引っぱってやった。
「いでででっ!」
「おい、くそ兄貴! おまえが真面目にせんから、俺がツケを払うはめになったんだ。ひげを生やせ!」
「じゅ、一五年ぶりに会ったと思ったら、いきなりひげ生やせか? どこでどうしていたか、俺に報告するのが、筋ってもんだろ!」
「うるせえ、そっちこそ少しは進歩しやがれ! あいかわらず酒と女かよ!」
「俺の生き方に口出しするな!」
「だったらひげを生やせ! ややっこしいんだ!」
「断る! ダンディな俺さまにひげは不要だ!」
「じゃ、俺がてめえの額に『肉欲中年』と書いてやる。これなら見分けがつくだろ!」
「よせ! おまえは冗談が通じんから、やりかねん!」
 パン屋の前でぎゃあぎゃあ兄弟ケンカをするふたりだったが、年甲斐も忘れてしまったため、われに返ったころには家族だけでなく、近所の野次馬が数人集まっていた。


 早々に店じまいしたパン屋のなかで、兄弟は一五年ぶりの再会を喜ぶ――はずだったが、素直に近況を報告できない自分がいた。ゆっくり話そうと、セバスチャンは家族を二階の住まいに追い立てる。長男のジャンが聞き耳を立てようとしているのをフレデリックが発見し、邪険に追い払った。にらみをきかせて。
 店の真ん中においてあるテーブルには、薄いコーヒーが並べられ、菓子の代わりに商品の残りが置いてあった。試しにかじってみたら、とてもではないが歯が折れそうだ。コーヒーにパンをつけて食べる。それでもうまいとは表現できない代物だ。
「どうだ、なつかしいだろ。俺のパン」
 得意げなセバスチャンに、そっけなく言い返す。
「べつに。こんなのまだ食うもの好きがいるのか?」
 兄は苦い笑みをこぼす。
「あはは……。おまえ、中年になっても変わらんな。かわいげがないやつ」
「兄貴こそ、能天気な生活をしているようだな。ほかの店より安くしているから、貧しい常連さんで持っているようなもんだろ。親父のときもそうだった」
「まあな。それより、どうして急にここへもどった? 何かあったのか?」
「いや、なんとなく。もうあれからずいぶん過ぎたし、この店も気がかりだったんだ」
 兄の顔が凍りつく。不穏な空気を思い出すように。
「まさかまだ、危ない橋を渡ってるんじゃないよな? もう一〇年以上前になるが、おまえを探しにがらの悪い連中が、何度か店に来た。まちがって俺にわけわからん因縁をつけてきたが、昔の家族写真を見せたら、双子の兄だと納得はしてくれた。だが、行き先は知らんと答えるしかなかったんだ。そのあとは、おまえが死んだという噂が耳に入ってな。そのときはさすがに、親父も落胆していたぞ。ま、俺だけは、ちがうって直感でわかっていたけどな。双子ってこういうとき便利だぜ」
「そうか。悪いことをしたな」
 セバスチャンはテーブルを叩く。
「エリック。おまえ、言うことはそれだけか? 心配した俺らの気持ちをわかってないだろ」
「ぎゃくだ。俺がここへもどると迷惑がかかるから、今までおとなしくしていただけだ。それに――」
 フレデリックは兄に顔を近づけ、小声でささやいた。
「……いいか、俺のことを昔の名で呼ぶな。戸籍上では、死んだことになっている」
「恐ろしいことを言うなよ……」
「恐ろしいのなら、二度と、詮索するな。あくまでも他人のそら似ということにしておけ」
「……」
「じゃあな。晩餐までにもどらないと」
 フレデリックは立ち上がるのだが、兄に腕をつかまれてしまう。
「まてよ。かんじんなこともきいてない。おまえ、女房は?」
「いない。それが?」
「やっぱりむずかしいよな。おまえが家庭を持つのは」
「ひとのことがいえるか、くそ兄貴」
「うるせえ。俺はな、これでも一番愛してるのは女房と息子と娘だ。娼婦はぱあっと遊ぶのに、必要悪さ。あそこで発散して、日々パンを焼くのも精が出るってもんだ」
「あいかわらず、楽しい思考回路だな。俺はついていけん」
「そうやって孤高ぶってるが、おまえ、今は? 晩餐っていいもん食ってるような、ブルジョワになったとか?」
 もっとも痛いところを突かれてしまい、フレデリックも失笑せずにいられない。
「今は薄暗い階下の長さ。予定が大きく狂ってしまって……。晩餐というのは、俺の雇い主――旦那さまのことだ」
「え? おまえがひとに使われているのか? おまけにそれって執事?」
「執事で悪かったな」
「ありえん。ガキんときはくそ生意気で、出世してやる、が口ぐせだったのに」
「ああそうさ。だからジャンにも言っておいた。人生、そう甘くないって」
 セバスチャンは頭を抱える。
「そうなんだよな……。あいつ、おまえにそっくりで、頭痛のタネなんだぜ。おとなしくパンを焼いてくれりゃあ、器用だから助かるのに……」
「俺も鏡を見ているみたいで、説教せずにいられない」
 やっとここで兄弟の意見が一致したのをきっかけに、フレデリックは店を出ることにする。さすがに兄も今度ばかりは素直に送り出してくれた。
 店のドアを開けて表に出たとき、見おぼえのある娘が立っていた。
「あれ? きみは……」
「こんにちは、セバスチャンさん――いえ、フレデリックさん?」
 マリーだった。以前とことなっていたのは、格好が淑女らしくなっていたことだ。毛皮のコートと上品な若草色のドレスのふくらみが、下町に不似合いなほどである。娼館で会ったときのような、おどおどしたようすは微塵もない。
「えっと……」
 兄のフリをしてやろうか、と思うも、張本人も店から出てきた。
「うわあ! 本当に双子だったんですね!」
 素直に感激するマリーに、セバスチャンが片目を閉じる。
「おうよ。弟のやつが迷惑をかけたな。無愛想で無遠慮で無鉄砲な男だが、よくしてもらったのかい?」
「ええ。だからお礼を――と思っていたんですけど、フレデリックさんの居場所がわからなくて……」
「そうか、それで俺んとこに来てみたってわけだな」
「はい。亡くなったと思っているっておききしたんですけど。それでもいつかあたしのお礼を伝えてくださると信じて。そうしたら、なんて運がいいんでしょう。フレデリックさんもちょうど、いらしたなんて!」
「そうか。それは幸運だな」
 フレデリックはカルノー侯爵家の指輪の効力をまざまざと見せつけられ、内心、恐ろしくもあった。
――ということは、薔薇紋章の指輪は、マリーをあるじと認めたのか。
「それで俺に、お礼って?」
 こんな場所ではなんだからと、ふたたびフレデリックはマリーとともに店のなかへもどった。そして彼女の幸運な話を聞いた。
 亡くなったマリーの父親には親戚がいた。そのまた父――つまりマリーのドイツ人祖父の弟も商売を手広くしており、彼は成功していた。だが祖父はその弟に借りた金を返さないほど不誠実だったため、縁を切られてもいた。
 それから何年もすぎたのだが、祖父の弟には子どもができなかった。愛人を囲っても同様で、あるじは亡くなってしまう。その財産はもうひとりの妹が受け継ぎ、さらに時が流れたのだが、その妹の財産を継いだひとり息子にも、子どもができなかった。そこで母方の従弟が財産を相続したのだが、その従弟一家は不運にも旅行中、船舶事故に遭ってしまう。ゆいいつ生き残った老嬢を最期に、家系は途絶えてしまいそうになった。
 そのはずだったが、マリーの父がパリに出て行った話が、財産を管理している弁護士に伝わり、老嬢は彼に財産を相続させるよう、亡くなる間際、遺言書を残した。もし彼が亡くなっていれば、その息子か娘、または孫に相続させるようにともあった。その遺言書をやってきた弁護士からマリーが受け取ったのは、五日前の話である。
「だからあたしが、相続することになったんです。でもその前に、フレデリックさんのおかげで、母の命は助かりました。もしあと数日遅れていたら、間に合わなかったでしょう。なんてお礼を言っていいのか……」
「そうか。よかったな」
「って、それだけ、エ――じゃなかった、フレデリックよ」
「ほかにどう感想をのべればいいんだ、兄貴?」
「そりゃ、あれだろ。『よかったな』のつぎは、『じゃ、酒で乾杯だ』だろ。そのあとは、ベッドでお楽しみ――」
 反射的に兄の口を手でふさぐ。
「おい、淑女のまえで言うセリフか!」
 なにやらもごもご口答えするセバスチャンだったが、意外にもマリーは笑顔で返事をした。
「いいですわ。フレデリックさんがお望みなら」
「……」
 カトリーヌの顔が浮かび。
 いやまてよ。これも指輪の導きなのか?
 ありえない。なぜなら自分は財産もなにもない男なのだから。
「悪いが、俺には恋人がいる。あきらめてくれ」
 今度はマリーが呆気にとらえる番だった。ぎゅっとくちびるをかみしめ、テーブルを見つめる。
「ごめんなさい。ただの冗談だったの。もう二度と口にしないわ」
「ああ、そのほうがいい。淑女たるもの、下品な言葉は慎んだほうが身のためだ」
「淑女、淑女って言うけど、あたし、そういう生活したことないから……。どうしていいのかもわかんなくて」
「今はどこのアパルトマンに?」
「とても安いところ。高級なアパルトマンに住む勇気がでてこなくて、衣装をなんとか作っただけ」
「言われてみれば無理もないな。俺だって、初めて貴族連中の生活を見たとき、優雅すぎて戸惑ったし……いや、まてよ。いいお手本が」
 フレデリックはマリーの手をとると、いっしょにパン屋を出て行くことにした。
「じゃあな、兄貴。また来る」
「おい、それより恋人って? おいしいエサを俺に垂らして、帰るのか?」
「その話はまたな」
「じゃ、俺から行くぞ」
「はいはい。来なくてけっこう」
「ぜったいに行ってやる」
「来れるもんなら来てみやがれ」
「中年になっても生意気な野郎だ」
 そして店を出るのだが、二階の窓からフレデリックを観察していたジャンの目が光っていたのを、彼らは気がついていなかった。


◇◆◇◆◇



「そうね、マリーは明るい金髪だから、クリームとかピンクが似合うと思うわ。あと靴も用意しましょうね。舞踏会に出るんなら、ダンスも教えなくっちゃ!」
 屋敷の衣裳部屋でカトリーヌはマリーに上流社会のアドバイスをしていた。メイドのミミを使って、あれやこれやと自分の衣装を広げさせる。フレデリックがようすをうかがいに、銀盆にお茶を乗せて入ってきたときも、カトリーヌは楽しそうにしていた。
――まるで姉妹だな。
 兄弟姉妹のないお嬢さまにとって、屋敷の元あるじの末裔マリーは、妹みたいに思えるのだろう。実際、年齢もひとつしか離れていないから、年ごろの娘同士、仲良くならないはずはなかった。
 だがマリーはどこかぎこちない。カトリーヌに遠慮しているのか、サイズを直すために侍女を探してくるという彼女に、断りを入れる。
「あたしがします。これでもお針子だったの」
「いいのよ、マリー。そういうのは労働者の仕事。わたしたちはきれいにして、社交界でうまくやっていくのがお仕事なんだから」
「それでもあたしがします。着飾って遊んでいるだけなのが、どうも落ち着かなくて」
「そこまで言うのなら、おまかせするわ。大変そうだったら、いつでもわたしに言ってね。いい侍女を紹介してあげるから」
「はい、カトリーヌさま」
「ただのカトリーヌでいいのよ。わたしたち、お友だちでしょ?」
「お友だち……」
 マリーの頬に赤みがさす。照れくさそうにはにかんだ笑みをみせた。
「ええ、カトリーヌ」
 ほほ笑ましい光景に、ポットから紅茶を注ぐフレデリックの気持ちも温かくなる。
「お嬢さまがた。お茶が入りましたよ」
 テーブルにやってきたカトリーヌとマリー。芳しい茶を楽しみながら、またあれこれ衣装や流行の話をしていた。
 ふと、マリーの緑の瞳が自分を見つめた。
「あの、フレデリックさん……」
「なんでございましょう」
「あなたの指輪は?」
 エメラルドに似せた碧の瑪瑙石のことだ。あれがあるのに、使用人生活をしているのが不思議なのだろう。だからこう答えてやった。
「大バカ野郎な兄貴の借金を肩代わりしておきました。あれでもなかなか家族思いの男でございましてね。甥たちが路頭に迷う姿を見たくなかったのです」
 真実はべつにあるものの、マリーの宝石が本物で自分が贋物だと言えなかった。そんなこと口にしてしまえば、心優しい彼女が悩んでしまうのがわかっていたからだ。
 しかしカトリーヌとはちがう約束をしていた。当然のように、お嬢さまはおどろきの言葉を返してくる。
「え? 初めて聞いたわ、フレデリック。その指輪は……。そんなにお兄さまの借金は大きかったの?」
「ええ、まあ。お恥ずかしながら。ご相談もせずに、申しわけございません」
「そう。そうなの……。それじゃあ仕方ないわね」
 カトリーヌはそれ以上口にしなかったが、明らかに落ちこんでいる。さっきまで楽しそうにマリーと話していたのに、そのあとは上の空で考えごとにふけっているようだった。
 お茶の時間が終わると、居づらくなったマリーは帰ってしまう。


 空になったポットとカップを下げて、階下にもどった。そうしたら使用人ホールから、聞きおぼえのある声――そりゃそうだ。自分の声そのものなのだから。
 まさか……
 フレデリックは最悪な予感に冷や汗をかきながら、見たくなかった光景に出迎えられる。
「よっ、わが弟よ! 予告どおり、おじゃましてやったぜ!」
「…………悪夢だ」
 兄セバスチャンだった。グラスを持ち、呑気な笑いを披露している。人なつこい彼のこともあり、すでに女中頭のマリオンや従僕のポールと、意気投合しながら安物のワインを空けていた。
 おかしい、こいつにはラボー家に奉公している、とひと言も告げていなかったのに。
「おい、くそ兄貴。どこから俺の居場所をかぎつけた?」
「簡単だ。ジャンがこっそり、あとをつけていったのさ。やっぱりおまえも年を食ったな。鈍くなってやんの。あははっ!」
「うるせえ。マリー嬢がいたから、そちらに気をとられていただけだ。だいたいだな、こっそりあとをつけるてめえの息子こそ、しっかりしつけておけ!」
「おまえこそ、俺に隠しごとばかりするなよ。一五年も心配した、こっちの気持ちもちっとは考えろって」
「それとこれとはべつだ。借金だらけの大バカといっしょにするな。まずだ、新年会のツケを返してもらおうか。兄弟の話はそれからだ」
「持ってない。ざ、ん、ね、ん、でした〜!」
「じゃ、俺の代わりに働けっ!」
 腹立たしさのあまり、持っていた銀盆で兄の頭を何度も軽く叩いた。
「やだ、フレデリックさん! あんたってお兄さんに弱かったんだね。こりゃ、傑作!」
「取り乱したフレデリックさん、初めて見ましたよ。しかもそっくりで、面白すぎ!」
 腹を抱えて笑うマリオンと、ポール。同僚たちの好奇の的になってしまい、あとは赤面するしかなかった。
 そんな自分の思いを知ってか知らずか、セバスチャンは娼館での新年会のことを話しだす。もちろん、裸踊りをしたときのことを。ツボを心得ている兄は、面白おかしくまた同僚たちを笑わせる。厨房にいたはずのピエールまでやってきて、爆笑の渦を作っていった。
――ああ、たのむから、早く帰ってくれ…………。
 気力が萎えてしまうフレデリックの耳に、ブルドッグ犬パメラの鳴き声が入った。いつもならマリオンか部下に行かせるのだが、今日だけはみずから率先して相手をしてやる。
 そうでもしていないと、やってられない。
 兄を見送ったあとは、カトリーヌの小物やドレスをマリーの家に送る手配をする。時計を見ると晩餐の準備になってしまい、ついにその日、ふたりが会話を交わすことはなかった。
――まあ、明日になればまた時間があるからいいか。
 フレデリックはそう判断したのだが、小さなひずみがやがて大きな亀裂となっていくのを、彼は予想することができなかった。

薔薇紋章の主マリーと高貴なるファントムの嘆き〜おわり


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