―春の章 04―


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 ユーリーは手渡された赤い表紙の書物に戸惑っていた。夏期休暇のため帰郷するその日の朝、前触れもなくグリエフがよこしてくれたものである。
「私にはもう必要ない。ぜひ、君に持っていて欲しい。あと君の親友にもよろしく伝えておくれ。彼とはまたどこかで会って、ともに軍務を遂行する日を楽しみにしていると」
 アドリアン・グリエフは四回生だったから、昨日で卒業したことになる。士官候補生からひとりの尉官として、秋から社会へ旅立つのだ。だからだろう、その表情はいつになくすがすがしさが漂っていた。
「どうして僕に、です? もっと他にふさわしい学生がいるんじゃ……」
 失礼だとは思いつつもそう言葉にせずにはいられない。
 緑の瞳が細くなり、優しげな笑みをみせた。
 ユーリーはやはり好きになれない。作られたようなその笑顔が。
「君だからこそだよ。本当に渡したい輩に渡してしまえば、すぐに処分されてしまうだろう。彼は私のような上級貴族が嫌いだからね」
 なるほど。オレグに渡して欲しい、ということか。
 納得するものの、心のどこかで落胆もしていた。
 結局、いつものようにオレグの使い走り程度としか思われてないらしい。グリエフだけでなく、バリャコフもそうだし、教官たちだってそうだった。
 それでも礼をしないわけにはいかず、丁寧に喜びを伝えると、グリエフは笑顔を残したままユーリーのもとを去っていった。亜麻色の髪をかきあげながら。
 もう会うことがないであろうグリエフの後姿を見送った後、ユーリーは書物のタイトルを見た。
 『永遠の春を誓いて』
 一見するとなんでもない、小説のようだが、グリエフがわざわざオレグに渡したかったのだから、何かあるはずだ。自室の椅子に座り、ぱらぱらと冒頭のページをめくる。
「……うーん。恋愛小説? それにしては文章が堅いなあ。それにこんなに分厚いんじゃ、読み終わる前に飽きてしまいそうだよ」
 それがユーリーの率直な感想だった。
 こんな陳腐なものをオレグが喜ぶとでも思っているのだろうか?
 あの笑顔といい、なんだか不気味でたまらない。
 本を机の引き出しにしまうと、ユーリーは帰郷するため大きな鞄を手にして、寮を出て行った。早くしないと馬車の時間に遅れてしまう。
 学校が手配した乗合馬車で主要地方都市まで学生たちは赴き、そこからさらに個人で乗り換えて帰郷するのが普通だった。グリエフのように実家から直接馬車を呼び寄せることもあるが、それは限られた境遇の学生だけでもあった。


 グリエフからユーリーに手渡されたその小説が、オレグのもとに届いたころにはすでに夏期休暇は終わりを告げ、新しい講義漬けの日々が始まっていた。
 補給科に進んだユーリーには軍事訓練そのものの時間は減り、代わりにやってきたのは膨大な資料と数字の世界だった。前もって与えられた食料や燃料、武器を、各部隊ごとに分けていき、さらにその下の隊へ、もう一つ下へと分けていく計算をする。しかしただ分割すればいいというわけではなく、隊ごとの構成や状況、指令内容を充分に考慮しなくてはならない。ここで読み違えてしまえば、隊によっては現地で略奪か撤退を迫られることがあるからだ。
「うう……。頭が混乱しそうだ」
 今日の課題は規模が大きく、師団単位での補給を考えなくてはならない。実際、ここまでの大役を任せられることは早々ないだろうが、ここでしっかり学んでおかないと後々、苦労する。第一、実戦でとりかえしのつかないミスをしてしまえば、いったい何人に恨まれてしまうことやら……。
 補給は重要な生命線だ。前線で戦う士官たちばかりに目がいってしまうが、彼らを支えているのは裏方である後方支援の役目である。地道な作業だからとあなどってしまうと、使い物にならなくて逆に、誰も行きたがらない地方に左遷させられる。と、担当教官が再三脅すので、ユーリーは必死だった。
 ユーリーとともに補給科で学んでいるオレグは、余裕の表情で課題をこなしていた。いつも真っ先に課題をすませ教官に提出すると、ひとり講義室を出て行く。行き先は決まっていた。図書室だ。
 一日でも早く卒業するため、オレグは時間が空けばすぐに自習をする。講義の先のそのまた先の課題が載った教本を引っ張り出してきては、ペンを走らせ、一晩のうちに普通なら五日はかかる課題を解いていく。それを担当教官に提出し、いつの間にか講義に出席する必要がないほどになっていた。
 この調子だと半年もしないうちに、オレグは四回生に混じって後方支援の演習に加わるようになるだろうと、ユーリーの周りにいる学生たちはそう噂するほどだった。たしかに教官が個人的にそう言っていたのを聞いたという者もいるぐらいだから、それは真実だろう。
 ここでも陰でオレグは「化け物」と呼ばれてしまった。前回生までは射撃や剣術で目立っていた彼だったが、ここでも抜きんでた才能を発揮し、頭脳でも彼にかなうものは同科にはいなかった。
 ユーリーは空になった隣席を横目に、日々、数字と格闘していた。
 せっかく同科になれたのに、これではまったく別行動である。しかも自由時間も自習しているから、最近では雑談らしい雑談を交わしたこともない。食事だって呆気にとられるぐらい早いから、話しかける隙もない。
 これもアリサのためなのだ。
 それほどオレグは彼女を愛している。
 がんばって欲しいと応援する反面、心のどこかで寂しさを感じてもいた。アリサのことばかりに目がいっているせいか、自分のことは忘れ去ってしまうのではないだろうか、と漠然と思うことがある。
 所詮、友情とはその程度のものだ。
 自分にだって愛する女性ができたら、オレグのことなど忘れてしまうかもしれない。
 が、そんな自分自身にピンとこないのが正直なところだった。
 自慢ではないがユーリーはまったく異性に好かれない。というより、相手にされないといったほうが正しい。レイラ嬢と踊ったときも、彼女の視線は常にオレグに移っていた。自分と真正面だったにもかかわらず、だ。
 その反面、なぜか同性には好かれていた。
 後から知ったのだが、あのグリエフもオレグ同様、かなり気難しいことで有名だったらしい。滅多なことでは彼から親しくすることはないそうだ。
 なのに自分にはああやって書物を渡してくれたり、その前は図書室で調べものをしていたら、たまたま出くわした彼に手伝ってもらったこともある。あいかわらずあの笑顔は好きではなかったが、優しい物腰でページをめくる姿が忘れられない。
 そういえば、バリャコフも…………。
 かわいい子犬呼ばわれされ、どう考えても扱いがオレグとはちがっていた。そうさせてしまう何かが自分にはあるのだろうか。
 忘れてしまいたい。
 心の中に閉じ込めてしまおうとしたが、それが鍵を開けてしまったらしく、思い出したくない言葉まで耳の中に響いてきた。
――おまえのことが好きだ。
 鳥肌が立つ。
 忘れたくても忘れられない。中等学校時代、友人だと思っていた同級生から、ある日突然そう告白され、逃げるように避けていた日々を。
 それ以来、誰に対しても素っ気ない態度をとるようにしてきたし、兄に相談したら隙をつくるなと忠告された。それが功を奏していたのか、最近まではまったくそんな状況に陥ることはなかったが……。
 それでもまだ隙があったというのだろうか?
 自分で自分のことはよくわからないから、自信がない。
「どうした、ユーリー? 顔色が悪いぞ」
 はっとして、顔を上げた。夕食を乗せた盆を手にしたオレグがいた。
「な、なんでもないよ。ちょっと考え事……」
「そうか。ならいいんだが」
 そう言いながら彼はユーリーの隣に座り、手早くパンをちぎって口に運ぶ。いつものように食事を素早くすませるつもりらしい。
 しかし今日はちがった。ひととおり皿を空にすると、オレグは話を始める。
「前におまえが渡してくれた小説、すごかったぞ」
「え?」
 一瞬、何のことだろうと思ったが、すぐにグリエフが渡した書物だとわかった。
「ああ、あれね。オレグってああいうのが好きだったの? 意外だな」
 相手は小さくうなづき、己の顎に手をやった。機嫌が良いときに出る彼の独特の癖である。
「なんていうか今まで、私が知らなかった世界が広がっていた。もしあの世界が現実になるのなら、私はあえて今の境遇を捨ててやってもいいと思ったぐらいだ」
「そんなにすごかったのかい? もしかして駆け落ち?」
「はあ?」
 オレグの表情が怪訝なものに変わる。
 そんなに周囲に聞こえてはまずい内容だったのだろうか。
「君を夢中にさせるような、すごいヒロインが出てくるのか。ふうん」
「おまえ、思いっきり勘違いしているぞ。どこをどう読めば……まあ、たしかに初めと終わりはそうなっているが、あれはあくまでも玉子の殻だ。というか、読んでない書物を私に渡したのか?」
「まあね。あれ、グリエフ様からいただいたものだったんだ。ぜひ、オレグにって」
「なんだって!」
「秘密にしてなきゃ、読まないと思ったから」
 立ち上がったオレグは、ユーリーの腕をとると強引に食堂を出て行った。引っ張られるほうはたまったものではない。
「痛い! ま、まだ食事が……」
「そんなものより、こちらが優先だ」
 周囲の視線が気になる。しかし彼はそんなこともおかまいなしに、寮へと歩いていった。


 『永遠の春を誓いて』とタイトルのついた赤い表紙をオレグはめくっていき、三割ほどページを進めたところでユーリーに見せた。
「ここからだ。どこが恋愛小説なのか読んでみろ」
 オレグの自室の扉の前には椅子が置かれ、腰掛の上にありったけの本を積んでいる。外から自由に入室されないためだ。
 寮の個室には鍵がついておらず、その代わり警備兵が外部の者を見張っている。緊急時にそなえて鍵をつけてないのだと説明されているが、実際は学生たちを監視するための意味もふくまれているのかもしれない。
 ユーリーはベッドに腰掛けて、その問題のページに目を通した。すぐ隣では興味津々な表情で、オレグがこちらをうかがっている。
 たしかに恋愛とはまったく別の読み物だった。いや、読み物というよりこれは思想書に近い。ざっと目を通し、ページをめくっていく。とてもではないが、これを熟読すれば一日や二日では終わらないだろう。それだけ難解な単語が並んでいたし、文章もとても堅かった。
「これ、もしかして……」
 ユーリーは戸惑いを感じながら、目を輝かせている相手を見た。
「ああ。もしこの通りのことが実現すれば、バリャコフのような連中が大きな顔をして歩けなくなるだろう。それにアリサのような娘もいなくなる。すべての民に平等な教育も与えられるのだからな」
「けれど……」
 オレグの表情がにわかに曇った。
「けれど何だ?」
「これはあくまでも理想論だよ。現実を見ればわからない君じゃないだろう?」
「だからこそ、だ。私たちが諦めてしまうから、いつまでたっても帝国は一部のための者に存在するような国なんだ」
「うん。君の言うことはもっともだ。でもよく考えてみて。これを僕に渡したのは誰だと思う?」
「……」
 眉をしかめたまま、彼は考え込んでしまった。
 当たり前だ。この思想書は貴族・平民・農民という身分制度を崩し、新たに労働階級の者たちが国の中心となって動かしていくという内容のものだからだ。
 普通選挙制度の導入で選ばれた議員たちが政治を行い、国の仕事は貴族階級のものではなく、試験で選抜された一般の国民が庶民的な給料で行うことが理想とされている。国軍ももちろんそうだ。士官職も貴族の特権ではなくなる。他にも細かいことが記されていたが、とてもではないが一つ一つ吟味する気にもなれない。
 これをもっとも拒絶するのは誰だろうか。
 グリエフのような上級貴族ではなかろうか。
 ユーリーだって有能ではないが貴族の家柄だから、こうして士官学校にも通えている。しかしあの思想書の世界が到来すれば、まっさきに士官の職業を奪われるのも、この自分なのだ。逆に考えれば、オレグのような実力のあるものこそ、もっとも望む社会なのかもしれない。
 難しい顔のまま、オレグはつぶやくように言った。
「あいつは何を考えている? こんなもの私ならともかく……」
「僕も同感だよ。本人にきいてみるのが一番じゃないかな」
「それはできない。関わりを持てば、またややっこしいことに巻き込まれてしまいかねない。それでなくても、子爵の件でうんざりしているというのに」
「子爵の件?」
 初耳だ。自分の知らないところで、また上級貴族の誰かと問題があったのだろうか。
 しまった、といわんばかりに、彼は己の口元を手で覆った。
「いや、なんでもない」
「その様子でなんでもないって、変だ」
「おまえには関係ない」
「関係ないことあるものか。この前のイリューシン子爵令嬢の招待状――って、もしかして、子爵ってあの」
「だから関係ないと、言っているだろうっ!」
 オレグは語気を荒げ、すべてを拒絶するように背を向けてしまった。明らかに動揺しているのがユーリーにはわかる。
 あの夜会以来、レイラ嬢はオレグのことを諦めたのではなかったか。
 もしかすると自分の知らないところで……。
 長い夏期休暇があったのだから、その間に接触があったことは充分ありえる。しかしオレグはアリサと婚約をしたのだと、休み明け早々に教えてくれたのは嘘だったのだろうか。
 気まずい空気に耐えられなくなり、ユーリーは黙ってオレグの自室を出ることにした。腰掛に乗っている本を移動させようと、両手で抱える。
 扉の向こうに人の気配がした。
 見られている?
 いや、扉は閉まっているから、会話を聞かれていた?
 まさか……。
「ユーリー?」
 小声で名前を呼ばれ、黙したまま振り返る。両手がふさがっているから、顎で扉を指し示した。
 オレグはすぐに察知したようで、こちらへ来るよう手招きした。そっと本を腰掛にもどし、ゆっくり歩いて再びベッドに腰を下ろした。
 耳打ちされる。
「おまえの言うとおり、私はイリューシン子爵に目をつけられている」
 息を呑まずにはいられない。
「レイラ嬢との婚約を執拗にせまられて、断りつづけている最中だ。しかし相手が相手だから、それもいつまでもつかわからない。だから、一日でも早くここを出て、すぐにアリサと結婚するつもりだ」
 衝撃的な事実に鼓動が早くなる。
「今夜はここを出ないほうがいい。さきほどの会話を聞かれていたのなら、おまえも事情を知っていると思われただろうからな。個室でひとりになるのは危険だ」
 ますますユーリーの心臓が高鳴る。
 こんなことってあるのだろうか。オレグは何者かに常に見張られていたというのか。寮は警備兵によって監視されている。外部の者は許可なく進入できないはず。
 それとも財力のある子爵のことだから、自ら雇った警備兵をここに送り込んでいても不思議ではない。
 どちらにしても、これからは慎重に行動する必要があった。
 オレグが最近、自分とあまり接触しようとしないのも、これが原因だったのかもしれない。
 それから二人は他愛のない雑談をして、就寝までの時間をつぶした。内心、見張りのことで頭がいっぱいだったが、少しでも向こうの気をそらしておかなくてはならない。
 そのうちオレグはうたた寝をはじめ、着替えもすませないままベッドに横になった。無理もないだろう。毎晩、遅くまで報告書を仕上げていたのだから、寝不足にならないほうがおかしい。
 布団をかけてやったが、まったく目を覚ます気配はない。死んだように眠る、とはまさにこのことである。
 それにしても……。
 ユーリーは友の穏やかな寝顔を見ながら思った。こうしている彼は自分と同じ年齢なのだと。
 瞳に光が宿り、口を開けば、たちまちそんな自分を超えてしまう。誰よりも早く卒業し、そしてこの若さで結婚するというのだから、ずっと年上に思えて仕方なかった。
 オレグの前に広がるのは静かな小川のような人生ではなく、荒波が打ち返す海原のような気がしてならない。いくら彼自身が拒否しようと、生まれ持ったその稀にみるほど秀でた能力がそれを許してくれない。
 ついこの前までは器用な彼が羨ましかったが、今はとてもそうは思えなかった。
「君の願いが叶うといいね」
 そう小声で呼びかけ、ユーリーは床に横になった。とても寝心地が良いとはいえないが、一晩ぐらいならどうってことはない。
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