―春の章 05―




 目を覚ますと固い床ではなく、背中はベッドの上だった。
 いつの間に?
 すぐに上体を起こしてみると、そこにオレグはいなかった。扉の前に置いてあった椅子は机の下へもどされ、本も棚に並んでいる。あの赤い表紙の本だけ見当たらない。内容が内容だけに、机の引き出しに閉まっているのだろう。
 今日は週に一度の休日だから、慌てて身支度を整えることもない。あれから見張りがどうなったのか気になるから、オレグがもどってくるまでもう少し待ってみることにした。
 ユーリーはあの赤い本が気になって、彼に悪いと思いつつ、机の引き出しを開けた。筆記用具と開封された手紙が入っているだけで、肝心の本は見当たらない。
 別の引き出しかもしれない。開けたそれを閉めようとしたら、あるものが目に止まった。緑の輝きを放つ宝石がぶら下がった首飾りだ。鎖は途中で切れ、濃い金髪がからまっている。
 なぜかそれを見た途端、悪寒が走った。
 見てはいけないものを見てしまったのかもしれないと、ユーリーは慌てて引き出しを閉めた。そして気を取り直すように本棚に目をやったら、ひどく乱雑に並べられていることに気がついた。
 あのどちらかといえば几帳面なオレグらしくない行動だ。慌てて本を片付けたとしか思えない。
 急いで外出したのだろうか?
 衣装箪笥の扉を開けてみるものの、私服がそのまま吊るされていたから、校内にいるのはたしかだ。
 なんだろう、これは。
 身体の奥の何かがざわめいてたまらない。
 このいつもと変わりないはずの、静かな朝が余計、不気味に感じられた。
 オレグを探さなくては!
 ユーリーの直感がそう告げ、足は扉の外へと向かった。
 廊下は静かだった。誰もいない……と思ったら、足音がいくつか寮の玄関に向かっている。二階の吹き抜けの廊下から階下を見下ろすと、警備兵たちがひとりの学生を取り押さえようとしていた。
 騒ぎを聞きつけた教官たちもやってくる。そしてたまたま通りがかった学生たちも、驚いた顔で様子をうかがっていた。
 声が聞こえた。
 オレグだ。
 正気を失ったあの叫びが、寮内に響き渡る。
 ユーリーは急いで階段を駆け降り、騒ぎの起きている玄関へと向かった。野次馬となっている学生をかきわけ、教官たちの間に入る。そこで見たのは、警備兵四人に取り押さえられ、手錠をかけられている最中のオレグの姿だった。
「俺に触れるな! どうせ貴様らもあの子爵の手先だろうがっ!」
 教官たちはなだめようとするが、まったくその言葉が耳に入っていないようである。悪鬼のごとき形相で、警備兵たちを罵りつづける。
「俺を殺したいのなら、早く殺せっ! こんなクソみたいな俺のために、なんでアリサまで殺されなきゃならない!」
 ユーリーは絶句した。
 あの首飾りと開封された手紙。
 アリサの死を報せるものだったのか!
 男のうめき声がした。オレグが警備兵のひとりを足で蹴ったのだ。
 一瞬、動揺した警備兵たちの隙をついて、彼は手錠をはめたまま、教官が帯剣しているサーベルを、すばやく両手で抜いて奪い取る。
 その鋭利な刃先はひとりの教官の首へ向けられていた。
「き、君……。今度、騒ぎを起したら、問答無用で退学ではなかったのかね?」
 コモス教務指導官だった。目を見開き、青ざめた表情で両手を挙げた。
「それがどうした。人の未来を奪いやがった貴様らが言うことか?」
 オレグの剣刃はじりじりと相手の首へ食い込んでいく。その目は躊躇など微塵も感じられず、いつ首を切り落としても不思議ではないほどの殺気が漂っていた。
 人質をとられた警備兵は動くことができない。拳銃を構えようにも、発射する前にコモスの首が落ちてしまうだろう。普通の学生ならともかく、オレグは剣術大会で準優勝まで勝ち取っているほどだから、剣の扱いには誰よりも長けている。
 学生たちはあまりの恐ろしさにその場を離れだした。これで士官候補生なのだから情けない。
「なんのことだ、ね? アリサという婚約者など私は」
「いつ婚約者だと俺が言った?」
「……」
 コモスの額から玉のような汗が滴り落ちる。
「貴様、知ってたろ。だから子爵の警備兵を寮によこした。金か? それとも弱味でも?」
「い、い、い、いや。断じてそれは…………」
「では誰が?」
「……」
 ここでもコモスは震え上がるだけで、口を開こうとはしなかった。いや、震えがひどくて言葉にならなかったのだ。彼の首から血が一筋流れ落ちた。
「普段は偉そうなこと言ってるが、所詮、役立たずだな。死ね」
「校長だ! 校長が警備兵を入れたんだっ!」
 コモフの悲痛な叫びが、ユーリーを突き動かした。剣を構えたままのオレグに体当たりし、二人でその場に崩れ落ちる。
 一瞬の出来事だった。気がつくとすでにオレグは警備兵と教官たちに取り押さえられ、身体中に縄を巻かれている最中だった。自害しないようにと、口の中に布を押さえ込まれる。そしてそのままの格好で、どこかへ運ばれてしまった。反省房としか考えられない。
 コモフは脱力したまま、その場に座ったきり動けないようだった。しかしユーリーは彼を気遣う余裕があるはずもなく、オレグの自室へと駆けもどっていく。


 ユーリーは机の引き出しを開け、あの手紙に目を通す。
 その内容はあまりにも衝撃的なもので、ユーリーの身体を震わせるほどだ。
 赤の他人なのに、である。

 オレグ様、この手紙は読んだらすぐに処分してくださいませ。
 ご主人様から固く口止めされているのですが、このままではとてもあの娘がうかばれません。
 先日、アリサは十八歳の若さで天に召されました。
 風邪をこじらせてしまったのでございます。
 しかしそれは表向きのこと。
 深夜、何者かがわたしとアリサの部屋に入って、水差しに毒を入れたのです。
 朝、その水を飲んだ途端、娘は苦しみ出しました。
 たまたまわたしはその後に目を覚ましましたから、水を飲むことはなかったのです。
 人を呼びましたが、間に合いませんでした。
 その間、娘は何度もあなた様の名前を言いながら、胸をかきむしったのです。
 あの苦しみようは忘れられません。
 今でも目を閉じると、娘の悲しそうな顔が浮かんできます。
 それでもオレグ様。
 あなたは娘とちがって輝かしい未来のあるお方です。
 どうか娘のことは思い出として、新しい道へお進みくださいませ。
 ただ、いつまでも忘れられないように、こうして手紙をお書きしました。
 どうか、どうか、どうか、時にはあの娘のために祈ってやってください。
 器量の良くない娘でしたが、わたしたち夫婦にとってはあれでも大切なひとり娘です。
 夫もこれを書きながら、涙をこらえております。
 あと、娘が大切にしていた首飾りも送っておきます。
 これをご覧になれば、あのときの娘のつらさが、少しでもわかっていただけるでしょう。

「なんてことだ……。これじゃまるで」
 ユーリーはここで背後を振り返る。閉じられた扉の向こう、誰がのぞいているのかわかったものではない。
 首飾りを上着の内ポケットに入れ、手紙も小さく折りたたんで一緒に入れた。
 学生たちがさきほどの騒ぎはなんだったのかと、玄関で話しているなかを黙って通り抜け、食堂の裏にやってくる。ここは焼却炉があるから、手紙を燃やすにはちょうどよいだろう。
 周囲に誰もいないことを確認すると、折りたたんだ手紙を炎の中に捨てた。
 あのままの状態で、子爵の息のかかった者に手紙が見つかってしまえば、アリサの両親の命も危ういと判断したからだった。


 それからオレグの姿を見かけることはなかった。
 事が事だけに退学はもちろんだが、裁判沙汰になるかもしれない。コモス教務指導官の命を奪おうとしたのだから。
 反省房の前には警備兵が待機しており、ユーリーが近づくことはできない。前回とはちがって、オレグは完全に犯罪者扱いだった。
 それでも彼が悪いとは思えなかった。
 たしかに短慮だったが、婚約者の命を奪われたのを知って、おめおめとおとなしく過ごせる者などいようか。しかも陰謀の臭いがする。
 イリューシン子爵の娘、レイラとの婚約を迫られていると打ち明けられたが、どうしてオレグなのだろう。他にも相応しい相手がいくらでもいるだろうに。
 それだけオレグという男は子爵にとって魅力的なのだろうか。あんな卑怯な方法で娘との結婚を迫ってもお互い幸せになれるはずないじゃないか。
 それとも幸せとは別の次元のことなのだろうか?
 オレグや自分が望む幸福と、子爵たちの望む幸福はまったくの別物。そう考えていけば、少しは辻褄が合うような気がする。それでも到底、納得などできるはずがない。
 ユーリーは常に身辺を警戒するようになる。
 オレグが唯一親しくしていたのは自分だし、何か知っているのかもしれないと思われても不思議ではない。なるべく独りきりにならないよう、時間が許す限り図書室や遊戯場の隅ですごすことにしていた。
 それを怪訝に思う輩がいて、オレグが近くにいたころはまったく話しかけてこなかった、同科の連中が近づいてくる。賑やかな遊戯場の隅のソファで、ビリヤードに興じる学生たちを遠めで見物しているフリをしていたときだ。
「リマンスキーはどうなったんだ?」
 やはりこれか。
「わからない。それを決めるのは学校側だし、僕も彼と接触することは禁じられている」
 三人組は意味ありげな視線を投げかける。
「寂しいのか? おまえだけだったからな、あいつと仲がよかったの」
 思ったとおりの問いかけで、うんざりしてきた。
「ああそれが? でも僕はそんなつもりないから、ひとりにさせてくれ」
「つまんねえなあ。せっかく、誘ってやろうと思ったのに」
「結構」
「連れないやつ」
 親しくしてくるのは、オレグのことを根掘り葉掘り聞きたいためだ。彼は同科だけでなく学校中で有名だった。しかし肝心の本人がとても気難しく、何を考えているのかわからないし、おまけに実家は金貸屋だ。興味がないほうがおかしい。
 先日の騒動でオレグに婚約者がいたことまで暴露されてしまい、さらにいろいろな噂が飛び交い、その行き先は唯一の友人であるユーリーのもとに来てしまう。なんだかどこにいても居心地が悪くて、いっそ休学してしまおうかと思っているぐらいだ。
 しかし休学する前に、オレグのことがある。いったい、これからどうなるのか。
 裁判にでもなれば、自分も出頭するよう教官から言われているし、だからといって話すことなどない。第一、イリューシン子爵が絡んでいるのだから、まともな裁判が行われるとは考えられない。
 イリューシン子爵。
 いったいどんな人物なのだろう。
 実業家として有名だが、裏の顔は何なのだろうか。
 黒い陰謀がうごめいているようで、気が休まることがなかった。関わりたくなくとも、向こうから接触してくるのだから、どうしようもない。
 次にユーリーのもとへやってきたのは、あのバリャコフだった。相変わらず金魚のフンのような取り巻きを連れているし、下卑た笑いも変わらなかった。唯一前とちがうのは、敵意をむき出しにした視線がないことだろうか。
「リマンスキーのやつ、婚約者がいたんだって? ああ見えて手が早い男だったんだな。意外すぎて驚いたなあ」
「残念ですが、僕は何も知りません。彼がそんな話をしたこともありませんし、最近は忙しくしていたみたいですから、何をしていたのかもわかりません」
 視線をそらしたままそう一気に答えると、バリャコフに髪の毛をつかまれてしまった。そのまま上に引っ張られる。
「な、何を?」
「私の目を見て話さないからだ。どうせおまえのことだから、やつのために話さないだけなんだろうが。そんな隠し事しても無駄だ。あいつは犯罪者だ。そのうちおまえも共犯扱いになって裁判所に連れて行かれるかもしれないぞ」
 その言葉で、にらみ返さずにいられない。
「まだ犯罪者だと決まったわけじゃない!」
 バリャコフはユーリーの髪の毛を離すと、取り巻きを指差した。
「はん。さっき子爵の馬車が通っていったのを、こいつらが見たんだ。名誉毀損で訴えるためかもな。婚約者が子爵に殺されたとか、わめいてたというじゃないか、あの男」
「なんだって?」
「その顔だと知らなかったのか?」
「いや……。そんな」
 そんな核心まで話が知れ渡ってしまったとは。噂とはいえ、これでは本当にオレグは退学どころの騒ぎではなくなってしまう。
 しかも子爵が会いに来ている。
 何のために?
 いてもたってもいられなくなったユーリーは、バリャコフを突き飛ばすようにしてその場を去った。「貴様、失礼だぞ!」と叫ぶ声が耳を素通りし、駆け足で反省房へと向かう。
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