―春の章 06―




 落日の空が赤く反省房の建物を染めている。その前に警備兵が立っていたが、見慣れない服装をした男の後姿もあった。一目で上流階級のものだとわかるその背中は、子爵の使いだと思わせるには充分である。
 警備兵にかけあっても無駄とわかっていたから、子爵の使いならば話しようによってはとりあってくれるかもしれない。望みは薄くとも、ここで黙って見ているよりずっといいだろう。
 ユーリーが男に近づく。振り返った相手の顔に驚いた。
「グリエフ様!」
 以前と変わらない微笑をたたえたグリエフが、穏やかな口調で言った。
「やあ。君たちとの約束を果たすために、やってきた」
「約束?」
「ふふ……。覚えてないのかい? リマンスキー君が屈辱を受けたあの晩だよ」
 オレグがバリャコフの靴を舐めたあの日のことだろうか。言われてみれば、たしかにグリエフは「力になる」と口にしていた。
「しかしどうして今なんです? あなたはすでにここを卒業されたんじゃ……」
「一度交わした約束は、何があっても果たすのが私の矜持だ。それだけ彼には見込みがある。いつか、こんな日が来るんじゃないかと思っていた」
「こんな日、です?」
 グリエフは何も答えず、優雅な笑みを返した。それがユーリーには不審に映るのだが、今は詰め寄る場ではない。本題を口にする。
「あの……。オレグと面会したいんです。グリエフ様のお力を借りれば、もしかしたら彼と話せるんじゃないかって……」
 嫌な表情ひとつせず、グリエフはうなづいた。
「もちろん、そのつもりだ。ただその前に彼と話したい。その後なら学校側と取り合ってもいいよ」
「はい。お願いします」
 無論、快諾だ。が、グリエフがオレグに何を求めているのか、ユーリーは気になってたまらない。見込みがあるとは、いったいどのような意味なのだろう。
 グリエフはイリューシン子爵の名を口にしながら、一通の書状を警備兵に見せた。警備兵は敬礼するとすぐに、反省房のなかへと案内する。そんな彼を見送りながら、早くオレグと再会できるよう祈っていた。
 グリエフはなかなか出てこなかった。オレグが話そうとしないのか、それとも話し込んでいるのか、どちらにしても気が休まらない。ただ救うだけならば、男爵令息の力をもって解放すればすむはずである。それならば話し込む必要はない。
 やはりオレグは拒否しているのだろうか。おまえたちの力など借りたくない、それぐらいならばいっそ罰してくれ、と。
 アリサもいない今、オレグがここにいる意味はなくなってしまったのだ。卒業して自立し、彼女と家庭を築くという夢は永遠に叶うことはない。
 五日前に焼却炉で燃やしたあの手紙が、ユーリーの脳裏によみがえる。
 母親は「娘のことは思い出として、あなた様は新しい道をお進みください」と書いていたが、あの内容ではどう読んでも「娘を殺したのはあなただ」と言われているようなものだ。娘にとってあまりにも不相応すぎる婚約者だったのだと。
 言葉の端々に滲む恨みの感情が、背筋を寒くさせ、同封された首飾りが余計、肌をあわ立たせる。
 不思議なことに鎖に絡まった髪の毛はまったくほどけない。ゆるく巻きついているはずなのに、外そうとすればするほど鎖にからんでいく。アリサとはまったく面識がないというのに、夢に彼女らしき女性の悲痛な叫びが響き渡り、夜もまともに眠ることができない。
 まだ懐にしまっているものの、気持ちが良いものではないから、オレグに一日でも早く渡したいのもあった。彼ならアリサの気持ちを汲んでやれるはずだから。
 反省房のなかから警備兵が出てきた。ユーリーの名を呼ぶと、面会するよう指示される。
 やっとオレグと再会できる。
 きっと前のようにやつれ果てているだろう、友の姿を想像しながら、ユーリーは反省房のなかへ入っていった。
 狭い入口をくぐり、短い通路を歩く。そこに教務指導官の姿はなく、警備兵たちだけがいかめしい表情でユーリーをにらみつけた。
 狭い控え室に座っていたグリエフが、こちらに気づくなり立ち上がって手招きする。
「面会時間はこの砂時計が目安だ。これ以上は伸ばせないらしい」
 と、机に置かれた小さな砂時計を指し示した。
「警備兵だけなのにです?」
「子爵側の要望だ」
「グリエフ様は随分長い間、話されてたじゃないですか……」
「じゃあ、君も賄賂を渡すかい?」
 警備兵に渡すような金貨などユーリーにはなかった。ここでもつくづく、上級貴族は恵まれているのだと思わずにいられない。
 胸が苦々しさでいっぱいになるのを感じながら、牢屋の前へと移動する。前回とはちがって会話を見張る者の姿はなかったが、あの時間内ではとてもではないが込み入った内容は話せない。
 薄暗い牢屋の奥、人影があった。こちらに気づくなり、駆け足でやってくる。
「ユーリー……」
 オレグだった。しかし手錠も縄もなく、着替えまですませているのか軍服も綺麗なままである。前回は乱れていた髪の毛も、いつもと変わりなく整えられていた。
「元気そうだね。よかった」
 錆びた鉄格子を握り締め、彼はうなづいた。
「ああ。あれから薬を嗅がされて、ずっと眠っていたらしい。グリエフが来る少し前に、目が覚めた」
 あれだけ怒り狂っていたのに、いやに冷静なことが腑に落ちない。
――どれだけ僕が心配したと思ってるんだよ!
 そう叫びたかったが、時間がない。早くあれを渡しておかないと。
「……これ、君に返しておこうと」
 そう言いながら、懐に手を入れる。
 あれ?
 たしかにしまっておいたはずの首飾りが…………ない?
「どうした?」
「い、いや。首飾りを……」
 オレグの顔がたちまち曇る。
「おまえあの手紙読んだのか?」
 うなづくしかない。
「それでどうした?」
「燃やした。でも首飾りだけは処分できない」
「しろ」
「ええ? あれ、彼女が大切にしていたものだろ?」
「私には必要ない」
「必要ないって……。その言葉こそおかしいよ。君は彼女を愛していたんだろ?」
「それは過去の話にしておいてくれ」
「オレグ?」
 ユーリーは目の前の友の顔が別人に見えた。
 いつもなら感情に任せて叫ぶはずだ。あいつらは許せない、と。
「おかしいよ。君、おかしいよ? 僕の知っているオレグじゃない」
「そうか?」
「そうか、じゃないよ! どれだけ僕が……」
 心配したんだと口にする気になれなかった。何を言っても、相手の心に通じないような気がしてならない。今まで見せたことのないほどの、冷め切った視線が逆に恐ろしかった。
「ユーリー、もっとよく顔を見せてくれ」
 鉄格子の隙間から大きな右手が伸びて、頬に触れた。冷たい指先が耳たぶへと移り、軽く引っ張られる。小さな声で囁かれた。
「……いいか。これから私を見かけても、二度と口をきくな。目も合わせるんじゃない」
「え?」
「ここでお別れだ。私にはおまえしか友と呼べる者はいなかった。とても嬉しかった」
「な、何を言ってるんだよ?」
「ありがとう、ユーリー」
 鉄格子に触れていた自分の指先が握られ、なかへ引き寄せられた。固く握られたまま、手の甲に口づけをされる。
「よせよ。永遠の別れじゃあるましい……」
 血の気が引くのを感じながら、ユーリーはそう言うのだったが、オレグの唇が離れることはなかった。
 牢屋が明るくなる。警備兵が「時間だ」と言いながらランプ片手に入ってきた。
 何事もなかったかのように二人は手を離すのだったが、オレグの灰色の瞳が自分を見ることはなかった。視線を下にやったまま、彼は固く唇を結んでいた。


 ユーリーがオレグに別れを告げられた翌日、イリューシン子爵の使いがやってきて「オレグ・リマンスキーの罪は一切問わないように」との書状を校長に渡した。すぐに彼は解放され、校長が用意した退学届けに署名をすませたという。
 その話がユーリーに耳に入ったのは、その日の講義が終わった夕方だった。駆け足で寮にもどりオレグの自室をのぞくのだったが、すでに片付けられた後で、私物らしきものは何も残されていなかった。
 がらんとした個室の中央で、ユーリーは呆然とする。
「いったいどうしたんだよ、オレグ……?」
 取り残されたことにひどく戸惑い、言葉にできないほどの寂寥感に打ちのめされる。
 僕だって友と呼べるほど仲の良い男は、君しかいなかったというのに。
 忌まわしい過去の出来事で、ユーリー自身も周囲の学生たちを、あまり信用できなくなっていた。それでもオレグだけは対等に話せることができたし、素直な気持ちで本音をぶつけることができた。
 もう一緒に笑うこともできないなんて……。
 こんな別れかたってあるだろうか?
 過去をすべて捨てるつもりなのだろうか?
 しかしどうして?
 どうしてなんだよ?
 ユーリーに残されたのは疑問だけだ。それが余計、寂しさを募らせてしまい、その場にいることがいたたまれなくなってしまう。
 涙がこぼれそうなのをこらえながら、オレグの自室を出た。すると、吹き抜けである二階の廊下の向こうから話し声がたくさん聞こえてくる。どれも興奮した様子で、裏門に行けと口々に叫んでいた。
 寮の玄関から駆け足になった学生たちが出て行く。「リマンスキーが子爵令嬢と!」という言葉に、ユーリーも駆けださずにはいられない。
 オレグはまだ近くにいる!
 間に合うかもしれないと、全速力で裏門へ移動した。たくさんの学生たちでごったがえしてしまい、通用門として使われているはずの裏門は、祭りのごとき賑やかさにあふれていた。
 ユーリーは必死になって人々をかきわけ、なんとかオレグのいるであろう門前まで行こうとする。が、小柄なユーリーは自分より大きな学生たちを押しのけることができず、立ち往生するしかない。
「どけ、どけ、どけっ! バリャコフ様のお通りだぞっ!」
 大きな図体がユーリーの前を過ぎていく。バリャコフが取り巻き連中とともに、門前を目指していた。さすがに学生たちも彼には逆らえず、素直に道を開ける。
 今だ!
 ユーリーは取り巻きのひとりに接近し、何か言葉を返される前に勢い良く前へ飛び出した。背後から「邪魔だ、貴様!」というバリャコフの声がしたが、そんなものに構っている暇はない。
 門前に馬車が止まっていた。それは一目で高貴な身分の者が乗車するものだとわかるほど、贅を凝らしたものである。御者が扉を開け、今まさに中へ入ろうとしている男の背中に向かってユーリーは叫んだ。
「オレグ! どこに行くんだ!」
 しかし彼は振り返らない。昨日誓ったとおり、自分のことはないものとして扱う気らしい。
 次に叫んだのはバリャコフだ。
「おい、リマンスキー! 下賎の輩がなぜ子爵の馬車に乗れる!」
 ゆっくりとオレグが振り返った。その視線は冷たく相手をとらえている。
「まさか、レイラ嬢と! それだけは許せんっ! 貴様のような下賎の輩が、どうして帝都の百合姫を奪える! 私は納得できんぞぉぉぉ!」
 バリャコフの悲痛な叫びは、彼がレイラに惚れていたことを如実に物語っていた。
 オレグもそれを察知したらしく、いったん馬車の中に入ると、女性の手をとって出てきた。まさしく、あの夜会で踊った彼女が、ユーリーたちの目の前にいた。
 凛とした美しさに学生たちの目が釘付けになる。赤いドレス姿の子爵令嬢は、軽く笑みを浮かべ、裾を広げて礼をする。「ごきげんよう」と。
「こういうことだ、バリャコフ」
 オレグはそう言うと、レイラの肩を引き寄せ、唇を重ねた。
 どよめきが起こる。
 あまりにも突然の出来事だったようで、レイラも目を丸くして驚きの表情をあらわにしていた。
 それもわずかなこと。オレグは正面を向くと、バリャコフを指し示した。
「今後、私を下賎の輩だと口にしてみろ。貴様の舌をこの手で引っこ抜いてやるからな。覚悟しておけ」
「いくら子爵の名を継いでも、その血は変わらんからな! 下賎の輩が!」
 興奮するバリャコフだが、オレグはいつになく冷静だった。静かに相手の前にやってくると、拳を腹に入れる。
「うぎゃっ!」
 その場に崩れ落ちるバリャコフに、オレグは容赦なく蹴りを食らわせる。豚のような図体が地面に転がり、その上を彼の踵が踏みつけた。
 苦悶の声を上げるバリャコフだが、取り巻き連中は誰ひとりとして加勢しない。
「やはり貴様は豚野郎だな。お仲間がいないと何もできない」
「……くうう」
「血筋がどうした? 本当に卑しい者ならば、私はとうに取り押さえられているぞ」
 オレグは氷のようなまなざしで、学生たちをにらみつけていた。
 視線を合わせたくない、といわんばかりに学生たちは門から遠ざかっていく。もし彼に気に食わないと思われてしまえば、自分もバリャコフのようになりかねないからだ。
 たちまち寂しくなった裏門の前にユーリーは立ちつづけていた。しかしまったく眼中にないといった態度で、オレグはレイラとともに馬車に乗り込むと、士官学校を去っていく。
 その間、ユーリーが彼と視線を合わせることはなかった。
 いや、合わせようしてもたちまち拒絶されてしまったのである。
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